備忘録として

タイトルのまま

墨田川両岸一覧

2017-01-06 22:55:01 | 江戸

元日初詣に向島の白髭神社へ行った。白髭神社は創建1000年余り、御祭神は猿田彦命(サルタヒコ)である。天孫降臨のときに瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の道案内をした手塚治虫の『火の鳥』にも出てくるあの鼻の大きな国つ神である。日本書紀では、「其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。」とあり、鼻の長さは七咫(ななあた)、背の長さが七尺、まさに七尋(ななひろ)、口の端は明るく輝き、眼は八咫鏡のように赤酸醤(ほおずき)のように赤い異形の人である。アマテラスオオミカミが岩戸にお隠れになったときに活躍したアメノウズメは、猿田彦の前で岩戸のときと同じ所作をしたのちサルタヒコと結ばれる。

本社は琵琶湖の白髭神社で、全国に292の分社があるという。サルタヒコが天孫の道案内したという神話に基づき、人を正しく導いてくれることから御利益は「家内安全 身体健全 社運隆昌 商売繁昌等」とあった。そのため、様式にのっとり盛りだくさんにお祈りした。

神道信徒でも仏教徒でもない無信心の自分が正月だけ寺社で神仏頼みを続けてきたことに自己矛盾を感じていたのだが、『The Path』の礼を続けることが自己変革になるという言葉に勇気づけられ今年は迷いなくお参りした。そのあと、近くの長命寺で名物の桜餅を食べ浅草寺まで歩いた。浅草寺は参拝客が仲見世の参道を雷門から並ぶ予想通りの混雑だったので参拝はしなかった。とにかく外国人が多かった。

 

隅田川の東岸にある白髭神社は、北斎の隅田川両岸一覧に『白髭の翟松 今戸の夕烟』(しらひげのきじまつ、いまどのゆうけむり)として描かれている(下の絵、国立図書館web-siteより)。翟松(きじまつ)と名付けられた鎮守の森が対岸の右端に描かれている。現在の白髭神社に松は見当たらず写真の枯れ木は銀杏である。今戸は、下の写真を撮影した桜橋(通称X橋)西詰付近に地名を残し今戸神社がある。この写真は北斎の絵と同じように隅田川西岸から対岸の白髭神社方向を撮ったものだが、鎮守の森は建物の陰に隠れて見えず、予想通り約200年前の風景からは一変している。特に、川岸を走る首都高は無粋で景観を台無しにしているのは日本橋と同じである。

2017年の干支の酉に合わせるかのように北斎の肉筆画『鶏竹画』(下の絵)がヨーロッパで見つかったという記事が年末の朝日新聞一面に載った。明治期に来日した英国人建築家ジョサイア・コンドルの旧蔵品を東京の美術商がデンマークで落札したもので、北斎が40歳頃の作品だという。落款に”歩月老人 北斎”とある。”画狂老人 北斎”はよく見かけるが歩月老人ははじめてみた。北斎はマイケル・ジャクソンより200年も前にMoonwalkerを名乗っていたのだ。

北斎ついでに、新聞記事の数日前12月24日に新築のすみだ北斎美術館へ行き、特別展”北斎の帰還”を観てきた。隅田川両岸景色図巻という絵巻を展示する特別展である。北斎は、江戸末期の『浮世絵類考』で「隅田川両岸一覧の作者」と紹介されているように、浮世絵類考の作者は隅田川両岸一覧を北斎の代表作としている。両岸一覧は30ページほどの冊子で、図巻は長さ7mの絵巻である。ほとんどの日本の美術館同様、写真撮影は禁止だったので絵巻物の写真が撮れなかった。

美術館は下の素戔嗚を売り物にしている。原本が焼失し残った白黒写真から伝統的な着色技法と最新技術を駆使して元の色を再現したものである。こちらは待合ホールに掲げられていたので写真が撮れた。こんなマイナーな美術館にも中国人観光客がいたのに驚いた。相当の日本通かもしれない。

 下は美術館内にあった北斎と娘のお栄の蝋人形と美術館前の北斎通りと名付けられた通り。 

 

1年が経つのが早い。昨年を振り返ってみれば、ランニングライフに突入した年だった。

1月、同級生と同僚から2通フルマラソンを走ったという年賀状に刺激を受け、本格的にランニングを始めた。体重増と生活習慣病を自覚したことも走り始めた理由だった。ランニング効果はすぐには顕れず3月の定期健診では案の定、再検査通知がきた。

5月、手始めに10月のハーフマラソン大会に参加を申し込み、週2日から3日のランニングを続けた。炭水化物を減らす食事制限を続け、夏までに体重を6㎏落とした。順調にトレーニングを積んでいたのに、8月末のジョギング中に足首をねん挫し1か月近く練習を休んだ。

10月の大会は不安だらけだったが何とか完走した。

12月、高校の同級生がシンガポールハーフマラソン(SCMS)を完走した。一日の中で最も気温の低い早朝4時半とはいえスタート時点でさえ気温25度湿度95%で、陽が昇るにつれて気温のあがる過酷なレースである。高温、多湿により脚をつりながら、友人は予想タイムを30分ほど遅れて無事ゴールした。同じレースでトライアスロンをやっていたというイギリス人の若者がゴール直前で亡くなったほど過酷だった。

シンガポールでは早朝に何度か10㎞を走っているが、疲労が脚にきてそれ以上距離を伸ばせないでいる。10㎞で1㎏体重が減るので、体から1リットルの水分が失われているということだ。ハーフなら2リットル、フルなら4リットルだからこまめな水分補給なしでは脱水症状を起こさない方が不思議だ。今の自分のレベルでは到底シンガポールでハーフは走れない。シンガポールでは短い距離をロードで、涼しいジムで少し長めの距離を走り、日本帰国中はロードを10から15㎞走っている。ひとり練習はモチベーションを保つ苦心が必要だが、幸い同級生や同僚が練習に励んでいる様子やフルに挑戦するとか何時間で走ったとかいう知らせをくれるので、その都度刺激を受け練習に熱が入る。

今年のランニング目標はハーフを中心にレースと練習を重ね、来年にでもフルマラソンにデビューできればと思っている。今年はランニング以外の挑戦も増やしていきたい。


日光東照宮

2016-11-25 22:49:18 | 江戸

NHK『真田丸』で、豊臣を滅ぼそうとする老いた家康の執念は凄まじいばかりである。跡取りの秀忠が頼りないのだから仕方ない。武田信玄との戦いに敗れ糞まみれで城に逃げ帰り、信長の気まぐれに耐え、本能寺の変では命からがら京を脱出し、格下の真田に2度も敗れ、秀吉の機嫌をとりながら時期を待ち、苦労の末に天下人にまで昇りつめた男が人生の総仕上げにかかっている。そこに妥協や憐憫や慈悲の入る余地はない。

自宅が東武線沿線なのに今まで日光に足が向かなかったのは、そんな老獪な家康をあまり好きではないことと、派手な東照宮を毛嫌いしていたからだ。前日まで紅葉見物は見頃の高尾山と決めていたのに、相当混雑するというニュースを聞いて急遽行先を変更した。それと、ボロブドールボタニックガーデンから3連続で世界遺産巡りになるというのも行き先を変えた理由のひとつである。ボタニックガーデンの巻に出てきた侯爵・徳川義親は、尾張徳川家19代目当主になる。尾張家の家祖の義直は家康の九男で三男秀忠の腹違いの弟になる。東照宮は平成の大修理中で、有名な陽明門は覆いに隠され、三猿と眠り猫はレプリカだった。さらには自分にとって神様でもない家康を拝んでも仕方がないので、もっぱら終わりかけの紅葉と立派な杉木立を楽しんだ。記すこともあまりないので写真ばかりを載せておく。 

下の写真は順番に、東照宮の参道前に架かる神橋、家康の神柩を納めた宝塔、東照宮本殿前の唐門、それと家光廟入口の皇嘉門である。唐門奥の本殿内は見学可能だったが写真撮影は禁止だった。家康の神柩というのが何かよくわからない。駿河の久能山に埋葬された家康は、その後日光東照宮に改葬され神格化された。神柩に遺髪や分骨が入っているわけではなさそうである。家光廟である大猷院(たいゆういん)は東照宮の隣にある。初代家康と3代家光は日光に祀られるが、2代秀忠の墓は江戸の増上寺にある。

2013年8月に東京タワーに行ったとき撮った増上寺と秀忠とお江の墓

以下は、東照宮から二荒山(ふたらさん)神社へ向かう参道の杉木立、二荒山神社の杉に楢が寄生した縁結びの杉、職業柄撮った地震で緩みはらみだした石垣で、”近づくな”と貼り紙が吊ってある。東日本大震災で緩んだとしたら、5年半も放置していることになる。もうひとつ、昼に食べた日光名物のゆば御膳は、ゆば尽くしで美味であった。

 


北斎とシーボルト

2016-10-28 00:50:38 | 江戸

シーボルトが持ち帰った北斎の肉筆西洋画6枚がオランダのライデン国立民族博物館で見つかったというニュースが先週流れた。飯島虚心の『葛飾北斎伝』には、“北斎は司馬江漢に西洋画を学んだ”と書かれているが、これは否定されているらしい。“司馬江漢に“というのが否定されているのか、”西洋画“が否定されているのか、その否定の根拠も不明であるが、今回の発見で、北斎が少なくとも西洋画を描いていたことは事実だったということになる。北斎は天才なので、人に学ばなくても西洋画の技法を模倣あるいは独学することはそれほど難しくはなかったように思う。

6枚の西洋画のうち日本橋と両国橋については富嶽三十六景があるので、以下に比較してみた。 西洋画は毎日新聞のWeb-site、富嶽三十六景はWikiより拝借した。

下は日本橋を描いた肉筆西洋画と富嶽三十六景で、西洋画は日本橋の背景に江戸城と富士山を描き、富嶽は日本橋の上から江戸城と富士山を描いている。双方の絵ともに川と蔵を遠近法で描くが、西洋画は写実的な単なる風景画にすぎない。一方、富嶽では、手前の橋の上で混雑する人々と川を圧迫するように蔵を並べた先に、江戸城と、さらに遠く高くそびえる富士山を配置する。富嶽三十六景といいながら富士山は控えめで、主役は街の雑踏であり、江戸日本橋界隈の賑わいや商業の盛んな様が強調されて伝わってくるようだ。

下の両国橋では視点は少し違うが橋の向こうに富士山が見える同じ構図になっている。しかし、富嶽では手前にデフォルメした川面に浮かぶ渡し舟とそれに乗客を大きく配置し、遠景の両国橋と富士山を写実的に描く。背景の静と船と人々の動を対比させることで、生き生きとした人間生活が強調されて見えるのは日本橋と同じである。富嶽三十六景は、日本橋も両国橋も、手前が歌舞伎の舞台で演ずる人々であり、江戸城や富士山や両国橋が舞台の背景のようにもみえる。北斎は単なる風景画ではなく、風景の中に主役の人間を描こうとしたことが、この比較からもわかる。

1826年、シーボルトは長崎から江戸に来て、商館長とともに北斎に絵を依頼している。北斎が66歳のときである。北斎は、”73歳にしてやっと鳥獣虫魚の心に通じる絵が描けるようになった。80歳、90歳と進歩し、100歳で神品を、110歳にして一点一格が生けるが如き絵を描きたい”と言っている。66歳の絵は凡人から見ればすでに神域の絵だが、本人は不満足で修行中ということになる。富嶽三十六景は、1823年頃から製作が始まり、1831年から35年にかけて刊行されたということなので、シーボルトに売った西洋画は富嶽三十六景と同時期の製作ということになる。同じ題材をこうも描き分けられる北斎はやはり天才である。

『葛飾北斎伝』に、江戸に来た和蘭(オランダ)の加比丹(カピタン=船長または商館長)と付属の医師が北斎のところにやってきて、日本の男女町人の様々な生活の絵をそれぞれ2巻ずつ描くことを依頼したとある。この加比丹付属の医師がシーボルトである。完成した絵を持参した北斎に加比丹は約束の150金を支払うが、シーボルトは、「予は加比丹と異なり薄給の身なれば、同等の謝礼はなし難し」と、半額にしてくれと値切ったという。北斎は怒って、”なぜ最初にそれを言わなかったのか、知っていれば同じ絵でも彩色その他を略すれば、半額でも画けたのに、もう描いてしまったのでどうしようもない”、続けて、”それを75金で売ることは加比丹に対し高価をむさぼったことになり心苦しい”と拒絶する。売らずに絵を持ち帰ったことを聞いた北斎の妻は、うちは貧乏で、絵は珍しく国内では売れないだろうから半額でも売ればよかったのにと諫めたという。北斎は、貧乏はわかっているが、約束を違えた外国人に対し、日本人は人によって売値を変えると嘲笑われたくなかったと答える。後日、このことを知った加比丹は感心し、残りの2巻を150金で買い取り本国に持ち帰ったという。北斎の絵はオランダ人の間で評判になり、毎年数百葉の注文が来るようになったが、幕府は国内の秘事が国外に漏れることをおそれ、これを禁止した。シーボルト事件を受けてのことだったのだろう。

シーボルトは北斎に会った2年後、禁制の伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出そうとしたことが露見(シーボルト事件)したため国外追放となり1828年に離日する。

下は残りの4枚で、月の品川、富士山と永代橋、雪の赤羽橋と増上寺、それと場所不明である。 

 


江戸庶民の教養

2016-10-02 21:13:34 | 江戸

前回、「江戸時代の庶民の教養は高く、それは日本の隅々にまで行き渡っていたと想像できる。」と書いた。辻達也『江戸時代を考える』(中公新書)にその例が列挙されていた。江戸時代の史料『孝義録』、『続編孝義録料』、『御府内備考』、『忠孝誌』をもとに池上彰彦がまとめた論文を紹介したものである。

  • 寛政3年(1791) さよ 28歳 あんま春養養女 家が貧しく武家に奉公し手習い・琴を学ぶ。読書を好み給金の余りで四書五経を求めて読む。暇をとってのち近所の女子に読み書きを教える。
  • 寛政3年 忠七 28歳 春米屋養子 養父が事業に失敗し奉公に出て養父母を養う。母は家計のたしに近所の子に読み書きを教える。
  • 寛政3年 市郎左衛門 34歳 家主 母に貸本などを読んでやる。自分も読書を慰めとする。
  • 寛政3年 伝六 56歳 質屋 読書を好み昌平坂学問所に通う。
  • 寛政8年 いわ 42歳 離婚し豆腐屋を営む。父が好きなので読本などを借りて読んでやる。
  • 享和元年 岩次郎 34歳 彫物師 父に貸本などを読んでやる。
  • 享和2年 又右衛門 父は古い書物を読み、近所の者に教諭する。
  • 文化8年 さの 64歳 住み込み奉公 主人の子供に仮名の手本を書いて読み習わせ、本を読んで聞かせる。
  • 文化10年 善太郎 16歳 漁とむき身の商い 商いの合間に手習いし弟にも教える。
  • 文化11年(1814) 嘉兵衛 45歳 書役 給金だけでは不足なので、写本や写物をして稼ぐ。

ざっとこんな感じで、18世紀の江戸時代の町人、奉公人、職人、婦人など武士ではない広い階層の人々、貧しい庶民に強い知識欲があったことがわかる。これらの人々はそれにとどまらず、人に読み書きを教える能力さえ持っていたことがわかる。渋江宙斎のような医者なら納得できるが、28歳の奉公人”さよ”がおそらく漢文で書かれていたであろう四書五経を読んでいたのだから驚きである。自分は、さよの倍以上の年齢を重ねているのに、現代語に読み下した四書五経の半分さえ読めていないのだから情けない。

左:奥村政信画 遊女の読書 右:同 徒然草を子供に教える婦人 奥村政信は18世紀初めの浮世絵師 (国立国会図書館資料より)

北斎 手習い (手元にある北斎絵事典より)

庶民の読書熱を反映して18世紀中頃の江戸には本屋と貸本屋が林立し、「貸本戸800、書店老舗50、画草子店50」という数字が寺門静軒の『江戸繁盛記』に記録されている。本の売値は高く貸本屋が流行った。19世紀初頭、江戸に貸本屋が656軒、大坂に約300軒、名古屋に62軒あったという。上表の文化11年(1814)に嘉兵衛が写本をして稼ぐとあり、それは写本を貸本屋に売っていたということである。そういえば、池波正太郎『剣客商売』の佐々木三冬の実母の実家は下谷の和泉屋という書物問屋だった。剣客商売は田沼意次の時代だから18世紀中頃の話である。

本問屋が取り扱う本は、軍書、歌書、暦、噂事、人之善悪、好色本、儒書、仏書、神書、医書、往来物、俳諧書、小説、物語、名所記、役者や遊女の評判記などで、庶民生活における教養、実用、娯楽など多方面にわたる書籍が刊行された。さらに印刷技術の発展とともに浮世絵が流行り販売された。『江戸時代を考える』によると、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は1帙(=布を張った本)が銀20匁以上だった。米1石(150㎏)の値段が銀60匁なので、とうてい庶民が手を出せる値段ではなかった。『南総里見八犬伝』の出版部数は500程度でほとんどを貸本屋が買ったという。枚数の少ない草双紙類や浮世絵は庶民も買ったらしいが、庶民の読本は貸本が頼りだったのである。貸本代金は銀3~4分(1匁=10分)だったという。同じく18世紀末を舞台とした『殿、利息でござる!』では1000両=3億円としていたので、金1両=銀150匁=30万円、3匁=6000円だから、貸本代の3分から4分は600円から800円ということになる。大坂の米10kg=銀4匁=8000円ということになるので、魚沼産コシヒカリ並みの値段だったのである。

 

左:北斎 絵草紙店 右:斎藤長秋著 長谷川雪旦画 江戸名所図会より本問屋 (いずれも国立国会図書館資料)

北斎 貸本屋 (北斎絵事典より)

辻達也『江戸時代を考える』の”知的市民社会”という章に、蛮社の獄で有名な渡辺崋山が結成した蛮学社中に参加した人々、杉田玄白の解体新書に関わった人々が列記されている。いずれも洋学者、医者、儒学者らであり、旗本、諸藩の武士、藩医、町医、農民などの幅広い身分の人々が、同じ目的で”共有された知”を背景に交際していたことがわかる。

渡辺崋山と交際のあった滝沢馬琴は、交遊録に様々な職業と身分の人物100人ほどの名前を残していて、『江戸時代~~』はそのうちの主要人物を紹介している。その中に交流があったと思われる浮世絵師として、広重や歌川豊広の名前が見えるのだが、なぜか蔦屋重三郎版元の読本をコンビで出し、かつ自宅に居候していた北斎の名がない。辻達也が北斎をことさら取り上げなかったとは考えにくいので、馬琴は交遊録から北斎の名前をあえて外したのではないかと思う。馬琴はある時期、北斎と仲違いをし絶交した可能性があると言われている。北斎は相当変人だが、馬琴も負けていない。馬琴の変人ぶりについては、いずれ書くつもり。


泉岳寺

2016-07-03 13:30:56 | 江戸

6月26日(日)泉岳寺脇の紋屋で身内の会食があり、その後皆で境内を散策した。泉岳寺は禅宗の曹洞宗の寺で、忠臣蔵で有名な殿様浅野内匠頭と四十七士の墓がある。正確には泉岳寺に葬られているのは四十六士である。吉良邸討入時は四十七士だったが泉岳寺まで歩く間に寺坂吉右衛門が隊を離れたため墓ではなく供養塔が建てられている。

史実としての忠臣蔵を「Wiki赤穂事件」より簡単に解説すると以下のとおりである。

元禄14年(1701)3月14日に赤穂の殿様・浅野内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介に切りつける。江戸城での刃傷沙汰は禁止されていたため、浅野内匠頭は十分な吟味もなく切腹させられ藩は取り潰しになる。赤穂藩家老の大石内蔵助はお家再興が叶わないことが判明したのち主君の仇討ちを画策する。元禄15年12月14日、内蔵助ら四十七士は本所の吉良邸に討入り、上野介の首を討ち取る。一行は吉良邸から泉岳寺まで歩き首を内匠頭の墓前に供える。内蔵助らは仇討を報告したのち幕臣に預けられ幕府の指示により切腹する。なぜ内匠頭が吉良上野介に切りつけたか、なぜ寺坂吉右衛門が隊を離れたかはわかっていない。

討入の盟約をしながら脱落していった親族や家臣が多い中、父といっしょに討入をし本懐を遂げた後に切腹した内蔵助の長男・大石主税(ちから)は弱冠16歳だった。憐れである。この事件は100年近く続く太平の世に武士道を体現したため民衆の共感を生み歌舞伎や浄瑠璃の演目となる。有名な『仮名手本忠臣蔵』で大石主税は大星力弥として許嫁の小浪との一夜限りの悲恋が語られる。『仮名手本忠臣蔵』は舞台を室町時代に移し登場人物の名前を変えて赤穂事件を脚色したもので北斎や広重の挿絵が残っている。

下は北斎の別名である可侯と春朗の作品である。

左:可侯画:仮名手本忠臣蔵11段、右:春朗画:五代目市川團十郎の忠臣蔵

5代目市川團十郎(市川蝦蔵)は写楽も描いているので下に比較のために載せた。大きな鷲鼻と大きな口が特徴だ。田中英道は下左の團十郎が手に持った鬼の描き方も北斎の鬼とそっくりだという。浮世絵はいずれもUkiyo-e.org databaseよりダウンロードした。このサイトには223,000以上の作品が収められ検索が可能になっている。


寛政の北斎

2015-09-27 16:07:26 | 江戸

写楽北斎説で衝撃を受けてから、ネットで購入した飯島虚心著『葛飾北斎伝』や手元にあった中西瑛著『北斎七つのナゾ』で、写楽が活躍した寛政6年(1794年)5月から寛政7年3月前後の北斎について調べている。まずは、『北斎七つのナゾ』でまとめられた北斎の名前の変遷を以下に示す。

  • 春朗 安永8年 (20歳) - 寛政6年 (35歳)
  • 群馬亭 天明5年 (26歳) - 寛政6年 (35歳)
  • --------(写楽? 寛政6年5月 - 寛政7年3月 ブログ主記す)
  • 宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政10年 (39歳)
  • 百琳宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政9年 (38歳)
  • 俵屋宗理 寛政8年 (37歳)
  • 北斎宗理 寛政9年 (38歳) - 寛政10年 (39歳)
  • 北斎 寛政9年 (38歳) - 文政2年 (60歳)

次に『葛飾北斎伝』にある北斎作品目録から、寛政年間の作品を年代順に列挙する。東都勝景一覧と絵本狂歌山満多山の画手本2編以外は黄表紙である。

  • 福来留笑顔門松 2冊 寛政元年通笑作にして 春朗画なり
  • 臭気靡屁倉栄 2冊 寛政元年軒東作にして 春朗画なり
  • 六歌仙虚実添削 3冊 寛政元年の出板。 作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 竜宮洗濯噺 2冊 寛政3年 作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 鵺頼政名歌芝 2冊 寛政4年の出板。作者詳ならず。春朗画とあり
  • 昔々桃太郎発端話説 3冊 寛政4年の出板にして、作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 貧福両道中之記 3冊 寛政5年の出板。山東京伝作にして、春朗画とあり
  • 智恵次第箱根詰 寛政5年の出板。春道草樹の作にして、春朗画とあり
  • 東大仏楓名所 寛政5年の出板。白山人可候作とあり
  • 福寿海無量品玉 3冊 寛政6年の出板。曲亭馬琴の作にして、春朗画とあり
  • 覗見喩節穴 2冊 寛政6年の出板。坪平の作にして、春朗画とあり
  • --------(寛政7年に作品がない。ブログ主記す)
  • 朝比奈御髭之塵 寛政8年の出板。慈悲成の作にして、北斎画とあり
  • 化物和本草 2冊 寛政10年、京伝作にして、可候画とあり。可候は、戯作名なれど、時として画名にも用いたり
  • 東都勝景一覧 2冊 寛政12年板、北斎辰政画とあり。江戸の須原屋茂兵衛の所蔵なりしが、後に大坂の河内屋の蔵板となる。(画手本で、脚注に”「東都名所一覧」浅草庵人撰。寛政12年刊。蔦屋重三郎版”とある)
  • 竈将軍勘略之巻 3冊 寛政13年、時太郎可候画作とあり。『青年年表』に、「文軒翁云く、竈将軍は、北斎の画作なり。可候は、仮に設けたる名なり。これより、二三年続きて出る。---(以下略)」
  • 絵本狂歌山満多山 3冊 出板の年月今詳ならず。蓋し寛政の末か、享和の始なるべし。(画手本で、脚注に”原本巻末に享和4年蔦谷重三郎梓”とある)

『葛飾北斎伝』に記された北斎が勝川派から破門された理由は以下の通り。

後ひそかに狩野某に就き、画法を学びしが、春章これを聞き、他家の画法を学ぶを憤り、遂に春朗を破門せり。

一説に、春朗、春章の高弟春好とよからず。春朗かつて両国辺の絵草紙問屋某の招牌(看板)を画く。問屋の主人喜びて、これを店先に掲げんとす。時に春好来たりて、大いにその画のつたなきを笑い、これを掲ぐるは、すなわち師の恥を掲ぐるなりとて、春朗の面前におきて、引き裂き打ちすてたり。春朗憤怒堪えがたかりしが、おのれの後学(後輩)のことなれば、止むを得ず、頭をおさえて退きたり。---(中略)---北斎晩年人に語りて曰く、「我が画法の発達せしは、実に春好が我をはづかしめたるに基せり」と。

春朗の師匠勝川春章は、歌舞伎役者の似顔を画き、春朗は春章のもとで20歳のときから15年もの間、修行し多くの役者絵を残す。しかし、その春章は寛政4年12月11日に死亡したので、春章が春朗を破門したとすれば、寛政4年以前のことになる。一方、一説に従うなら、春章の死後、高弟の春好との不仲が表面化し勝川派を離れたことになり、春朗という名を使わなくなった寛政6年が破門の時期として妥当ということになる。春朗は蔦屋重三郎に見込まれ、上の作品目録にあるように寛政5,6年に曲亭馬琴や山東京伝の黄表紙のさし絵を描き、まだ春朗を名乗っている。このころ狩野派だけでなく雪舟の子孫と称する堤等琳や、中国画、西洋画(『葛飾北斎伝』は司馬江漢に学んだとするがこれは否定されているらしい)を学んだように春朗の向上心は高く、勝川派一門の画風に飽き足らなくなっていたことが破門に大きく関係しているように思える。

寛政5,6年の頃、日光神廟の再修があり、狩野融川と門人とともに宗理(北斎)も廟中の絵事に参加することになった。旅の途次、融川が旅亭の主人に請われて描いた絵を宗理が批判したことから、融川の怒りを買い追放されひとり江戸に戻っている。馬琴との仲違いと絶交も有名で、誰彼となく喧嘩している。改名、転居、金や身分や日常生活など絵以外のことにはまったく無頓着な変人だった。写楽が”あまりに真を描かんとし”、世間に不評であっても描き続け、極めたらきっぱりやめたところなども北斎の性格に合致しているように思うのである。


伝馬町牢獄

2015-05-30 13:45:57 | 江戸

5月中旬、仕事で小伝馬町へ行く用事があり、松陰が最期をむかえた伝馬町の牢屋跡地へ行った。牢屋跡は地下鉄小伝馬町駅からほど近い十思公園という公園になっていて、写真の案内板が立ち、公園内には吉田松陰の辞世を刻んだ句碑が立っていた。

 案内板に伝馬町牢の様子が記されている。牢屋敷の敷地は2618坪とあるので92mx92m程度の広さである。牢屋は囚人の身分に応じて、旗本の揚座敷、御家人の揚屋、浪人や町人の大牢、百姓牢、女牢に別けられていた。伝馬町牢獄は、江戸を題材にした時代劇や時代小説には必ず出てくる。藤沢周平の『獄医立花登手控え』は伝馬町牢獄が舞台だった。そこでは、積み上げた畳に座る牢名主というボスが出てくるが、牢内では牢役人の権限の及ばない囚人たちによる自治が行われ、身分制度が敷かれていたという。

安政の大獄では、吉田松陰に加え、高野長英、橋本佐内、頼三樹三郎らが収容された。大獄以前、平賀源内は殺傷事件を起こし伝馬町牢に収容され、破傷風にかかり牢内で死んだという。

2012年に牢屋敷遺構が発掘された(下の写真・2014年6月24日朝日新聞デジタル版より)。上水道の木で組んだ樋が縦横に走り、井戸があり、石垣の前には砂利が敷き詰められていた。また、発掘では古伊万里も出現し牢を管理していた石出帯刀の豪華な暮らしぶりがわかるという。


写楽北斎説

2015-04-12 17:54:16 | 江戸

田中英道の『写楽は北斎である』を読み、梅原猛の『水底の歌ー柿本人麻呂論』を読んだ時以来の衝撃を受けた。写楽は齋藤十郎兵衛で決まりと思いながらも「素人にあのようなリアルな絵が描けるだろうか」というささやかな疑問が自分の中でくすぶりつづけていた。この美術史家は、実はそこが最も重要なポイントだとして、美術の様式論より写楽の絵を分析し、写楽は北斎以外の何者でもないと断定する。写楽の絵は天才でないと描けない。そして写楽が活躍した寛政6,7年(1794、1795年)当時、天才と呼べる浮世絵師は北斎と歌麿の二人であり、様式論から歌麿ではなく北斎であったと断定する。

田中の写楽北斎説の根拠は以下のとおりである。

  • 写楽の浮世絵は、役者絵を長く描いてきたかなりの腕前の絵師によるもので、素人が手すさびで描けるものではない
  • 勝川春朗(北斎35歳までの名)は写楽が現れる寛政6年まで15年もの間役者絵を描いていた
  • 春朗は勝川派を寛政6年に離れ、あるいは破門され、写楽が活動中の寛政6年から7年は作品がなく空白期となっている
  • 春朗の作品の中に写楽に通じる画風が認められる。あるいは写楽の役者の構図が春朗と同じものが数多く存在する
  • 春朗であれだけ役者絵を描いていたのが後年の北斎でまったく見られなくなった。春朗と北斎の間に写楽が位置し、天才的な役者絵を世に出すが、その絵は「あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆえ、長く世に行ハれずして一両年にて止めたり」と世間的には不評であった。写楽後に北斎が名乗った俵屋宗理と可候では役者絵をやめ、写楽が描かなかった美人画を描き始める。写楽で役者絵はし尽したと考えたのか、あるいは世間の不評によるものか北斎は役者絵のジャンルを捨てる。
  • 写楽の役者絵に後年の北斎の絵に通ずる絵が認められる。特に、数少ない写楽の武者絵と北斎の武者絵は同一人物としか思えない
  • 写楽絵のなかに時に漫画的な人物が登場するが、後の北斎漫画に通ずる
  • 写楽の人物デフォルメは北斎の風景デフォルメに通ずる
  • 写楽の役者絵を出版した蔦谷重三郎と北斎には春朗時代から深いつながりがある
  • 写楽と北斎が同一人物であることを示す史料『風山浮世絵類考』1821年がある。ここでは、写楽を二代目北斎と書き、「歌舞伎役者の似顔絵を写せしが、あまりに真をーーー」に続き、「隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す」と書いている。別に、同じ1821年の史料『坂田文庫本浮世絵類考』でも写楽は、「俗名金次薬研堀不動前通り、隅田川両岸一覧の筆者である」と書かれている。隅田川両岸一覧は1806年ころに作成された北斎の傑作である
  • 写楽の『大童山土俵入り』の版木の裏に北斎の狂歌絵本『東遊』が彫られている。北斎が写楽を捨てたことがわかる

田中英道はこの本の中で写楽作品の1点1点を、北斎が勝川春朗と名乗っていた写楽以前の作品および、以降の宗理、可候や北斎時代の作品と細かく比較する。そのため、解説に合わせて絵を逐一確認しながら読まなければならなかったので時間がかかった。田中は写楽作品全145点について感想を書いているが、特に田中が類似点があるとする絵の中から代表的な作品を、まずは写楽前の春朗と写楽を以下に比較する。

 

写楽『三代目市川高麗蔵の弥陀次郎、実は相模次郎』(寛政6年、1794年11月)と春朗『市川蝦蔵の山賊、実は文覚上人』(寛政3年、1791年11月)、写楽と春朗の『恵比寿』 (当ページの絵はいずれも田中英道『写楽は北斎である』から転載した)

北斎の若いころ春朗時代の研究は少ないという。春朗は20歳から15年間勝川派に属しずっと役者絵を描いていたが、その絵は勝川派特有の類型的で単調な絵が多く、北斎としての才能はまだ開花していないとされてきた。上の絵は他の多くの単調な絵の中では、後の写楽画を彷彿とさせるものである。しかし、20歳から35歳という年齢は人生の中でもっとも才能が開花する時代のはずで、天才北斎がそんなに長い間ずっと凡庸であったはずはないのである。春朗は寛政6年36歳の時、勝川派を離れ(破門されたという説もある)、ぷっつりと役者絵をやめる。入れ替わるように写楽が現れ、蔦屋から役者絵を出版し始める。そしてわずか10か月間に145点の作品を発表し、忽然と姿を消す。春朗が勝川派の中でくすぶらせていた才能を写楽と言う名のもとで突如開花させたのである。春朗は写楽が終わった寛政7年から俵屋宗理(そうり)、可候(かこう)と名を変え、寛政11年には北斎と名乗っている。後の北斎漫画に見られるように北斎の人物描写は多彩なのだが、北斎の描く人物画は類型的である。北斎ほどの天才が人物画を極めなかったはずはないというのが田中英道が写楽北斎説を探究するきっかけだった。

以下に、写楽と写楽後の北斎を比較する。

写楽『紅葉狩』の平惟茂(これもち)と北斎の孔子、鼻、ひげ、太い眉の描き方と炯炯たる眼光が似ている。偶然か、着物の紋が丸に鶴と同じである。

写楽『曽我五郎と御所五郎丸』と北斎『水滸画伝』、脚や腕の筋肉やすね毛、横顔の描き方が極似している。

写楽『紅葉狩』と北斎『和漢、絵本魁』天保7年(1836年)、鬼の描き方が同じである。

歌舞伎の役者と舞台の場面を切り取った役者絵を後年の北斎の絵の中にみることはない。北斎は役者絵を残さず、人物画は絵本の挿絵などが中心になるからだ。ところが、上の武者絵や鬼など数少ない役者絵以外の人物画の中に、写楽が北斎とつながる表現が認められる。 北斎説は以前、由良哲次(1968)や横山隆一(1956)が提唱したが、春朗が写楽の活躍した時期に作品を出していたとして活動時期が一致しないことなどから反論されていた。それについては田中が春朗作品の年代比定が間違っていると再反論している。

基本的に写楽であるためには、(1)浮世絵師であり作品に類似性があること、(2)寛政6,7年に歌舞伎三座を見ることができること、(3)蔦屋重三郎と関係があることなどが必要である。特に(1)の残された作品と比較できることが写楽であることを証明する絶対条件であり、他の多くの条件は状況証拠にしかならないというのが田中英道の見解である。そういう意味で、北斎以外の説は、齋藤十郎兵衛説を含め絶対条件を満足していないとする。田中は他説を以下のように批判し排除する。

齋藤十郎兵衛説 

十郎兵衛が絵画に関わったという史料と作品がまったく存在しない。写楽絵のなかに能に関係する表現も見当たらない。故坂東三津五郎は、「写楽絵は歌舞伎の細部まで知っていなければ描けない」と述べたという。能役者のにわか作家では描けないというのだ。「写楽、天明寛政年中の人、俗称齋藤十郎兵衛、阿波侯の能役者也」と斎藤月岑が記した『増補浮世絵類考』は写楽から50年もあとの史料で、その信憑性を証明する他の史料が存在しない。写楽の名が最初に現れるのは大田南畝の『浮世絵考証』で、そこに「写楽、これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にて止ム」とある。大田南畝は写楽や北斎と同時代の人であり、蔦屋重三郎の顧問格で、当然写楽の正体を知っていたはずであるが、名前のあとに書かれるべき生没年、住所、俗称などがない。南畝の考証には、宗理や春朗の名もあるが、写楽と同じように、北斎との関係が述べられていない。これは知らなかったのではなく、正体を隠すことを了解していたことを示唆している。なぜなら当時は松平定信の寛政の改革真っ最中で文化面でも華美が禁止され、山東京伝は手鎖50日の刑を受け、蔦谷重三郎も財産を半分没収という刑を受けているように、万一の場合、写楽の正体がばれないようにしたのではないかというのだ。蔦屋重三郎と深い関係にあった山東京伝は『浮世絵考証』に追記し『浮世絵類考追考』を書いたが、写楽についても北斎についても追記や修正をしていない。

豊国説 

特に梅原の豊国説に対しては、写楽のあとにも関わらず豊国の画力が写楽に遠く及ばないことを指摘し批判する。形が似ていても質が全く違うのである。「北斎のデフォルメされた風景画の起源を考えてゆくとき、私は写楽絵に到着せざるをえなかった。なぜなら、北斎が風景をデフォルメして描いたように、写楽は人物をデフォルメして描いたからである。」という梅原のことばを取り上げ、「こういうなら、なぜ北斎が写楽ではないか、という説に梅原氏が行き着かなかったのだろうか」と田中は梅原の結論を不可解に感じている。

歌麿説

北斎と並ぶ天才の歌麿については、寛政6,7年に写楽と同じ役者を題材に役者絵を描いているが、その筆致はまったく異なっている。歌麿の役者図を描く線は、「おおらかでふくらみがあるが、決して強く緊張感のある写楽の線ではないのである。」と田中は言う。また、歌麿自身、自分の絵は、「わるくせをにせたる似つら絵にはあらず」、美しい舞台を「かはゆらし風情とを画きて、誠に江戸役者の美なるをとつうらうらまでしらせまほしく」と述べているのである。すなわち、写楽の絵のような「わるくせをにせたる似つら絵」(リアルな絵)ではなく、自分は「かはゆらしき風情」(美人画)を描くのだと、本質的に画風が違うことを強調し、写楽でないことを自ずから証明している。 

その他の説

基本的に推理小説の域をでない。 

ということで、臆面もなく齋藤十郎兵衛説から、北斎説に宗旨替えを宣言させていただく。他の絵師の浮世絵と見比べながら写楽と北斎の非凡さを再認識できた。


ニコライの見た幕末日本

2013-11-03 14:08:52 | 江戸

神田駿河台のニコライ堂のニコライは、幕末の1861年、函館のロシア総領事館付司祭として来日し、1869年までの間に函館にハリストス正教会を設立するなど布教に努めた。1869年に一時ロシアに戻りその時に著わしたのが「キリスト教宣教団の観点から見た日本」という論文で、その翻訳本が「ニコライの見た幕末日本」中村健之介訳である。

ニコライは論文で、当時の日本の統治体制、天皇制、神道、仏教、儒教を紹介したのち、キリスト教の伝来から幕末までの歴史を詳述し、さらに、明治政府の廃仏毀釈とキリスト教禁教令、内戦(討幕戦争)、明治政府、帝(ミカド)についても感想を述べている。

国内政治と国民

幕府は全国にスパイ網を張り巡らし300諸侯を制御する。商人は税が高い、農民は年貢が高いと文句を言い、誰も彼もが役人の悪口を言うが、彼らの生活は決して貧しくはない。また、日本の全階層の教育レベルは非常に高く、文字を習うに非常に熱心である。

ヨーロッパに対して門扉を開いてわずか15年、日本ではすさまじい勢いでイギリス式の議会制度を導入しようとしている。アメリカ式を導入したかったが時期尚早だという話も紹介するが、イギリスの制度導入が正しいかどうかわからないと疑問を呈する。日本は中国文明の影響をすみずみにまで受けていてすべてが模倣であると言える。しかし同時にこれは日本人が驚嘆すべきほどにしなやかな気質を備えていることの証明で、中国文明は今や不要になったとでもいうように西洋文明に飛びついている。

神道

イザナミ・イザナギに始まり、アマテラスとスサノオ、帝(ミカド)のはじまりであるジンムも神であり、今の帝(ミカド)を含めそれに続く子孫もすべて神である。応神や神功も出てくる。各家には神棚が祭られ、それぞれの家系に連なる神々がいるし、土着神がいる。秀吉も神になっている。また、崇徳院のように祟りをなす神も祭られる。これらの神々を信仰するのが神道で、文化程度の低い無知な民族が信仰する宗教である。

仏教

仏教が入ってきて神道は仏教に取り込まれた。シャカムニ(ブッダ)が説いた愛、平等、無欲などの単純な理念は中国を経て日本で大きく変容した。その変容は伝説、文献、戒律、礼拝、寺院、道場や、絵画、彫刻、建築などの芸術に見られる。日本人は仏教を自己流に発展させ多くの分派を生んだ。禅宗の座禅をニコライは形式主義だと一笑に付す。門徒宗(浄土真宗)の説教を聞くとまるでキリスト教の説教のような気がしてくるが、上からの佑助(ゆうじょ)すなわち他力による救済があるという高度な教えがあるのに、妻帯や物質的利益の追求など多くの悪を持ち込んだ。法華宗はばかばかしい話を書いた経典である法華経の名(南無妙法蓮華経)を唱えれば人間は救われるという。各派はそれぞれ膨大な仏典を持ちそれぞれが矛盾する教えを含みながら、すべてがブッダの教えを正統に受け継いでいるとする。各派が勝手にブッダ本来の教義を変更修正したと批判する。特に親鸞については妻帯、肉食に加え悪人正機説にも触れ手厳しい。

孔子

日本では儒学は宗教ではなく倫理的神学的な一学派のかたちをとる。孔子は世界と人間の初めについて、至高者について、人間の使命について何も教えてはくれない。孔子の鬼神を語らずという姿勢がニコライには理解できないようだ。絶対神がいないので孔子の学徒は、各人各様に思いのままに勝手に自分の原理を唱え、その批判精神によって仏教や神道を軽蔑していると、江戸時代の無神論・唯物論にも言及する。

ニコライは日本には多くの宗教が存在するが日本人の宗教心はあまり高くないとみていたようである。同じ時期に日本に来たシュリーマンも同様の感想を述べている。

キリスト教

16世紀のキリスト教伝来から始まり、ザビエル、信長の庇護、秀吉・家康の禁教、三浦按針やフェリペ号事件、島原の乱を詳しく記述する。秀吉の禁教令についてはイスパニアの世界戦略に問題があったとして秀吉を弁護している。1853年鎖国の日本にアメリカとロシアの艦船が来航したのち、カソリックやプロテスタントの宣教師が来日し布教を開始した。宣教師が長崎の浦上に教会を開いた時、住民が訪ねてきて迫害下でもずっとキリスト教を伝承し続けていたという告白をする。しかし、彼らは幕府の法律に従った長崎奉行によってすぐに逮捕される。禁教令を厳密に適用すれば本来死刑となるはずが、江戸からの指示で釈放される。これが明治元年1868年の1年前、1867年頃のキリスト教に対する江戸幕府の見て見ぬふりの対処法だった。

明治の廃仏毀釈

明治政府は神道復活を推進し、仏教を排すとともにキリスト教も禁教とする。これに抗議する諸外国の代表に対し、外務大臣の東久世は、”キリスト教を禁止するというのは誤解で、邪教(よこしまな宗教)を禁じたのだ”と言い訳をする。ニコライは西洋の科学や文化を必死で日本に持ち込もうとしている人々が、キリスト教に目をつぶることなどできるはずがないという。

明治維新

1868年佐幕派と討幕派の間で戦争(鳥羽伏見の戦い)が起きた。大方の予想に反して将軍はその敗北であっさり政権を投げ出したが、奥羽越列藩同盟は抵抗し内戦になる。列藩同盟は次々に敗れていき、さらに北海道に行った幕府の海軍大将の榎本武揚も敗れ大勢が決したように思える。しかし、ニコライは、できたての政府内で内輪もめが始まり前将軍(徳川慶喜)が再登場することが望まれているとともに、帝(ミカド)には国を率いる力はないとする。

ニコライの日本の各宗教に対する理解に大きな間違いはないように思うが、キリスト教信者の目を通して見ている所為で、キリスト教の教義や戒律に反するものや無神論への批判は辛辣である。帝(ミカド)の統治能力にも懐疑の目を向ける。

ニコライは1869年に2年間ロシアに帰国しこの論文を発表した後、1871年に再び函館に戻り、翌年東京へ行く。そこでニコライ堂を建設するなどロシア正教の布教につとめ、1912年東京で没する。ニコライは1904年の日露戦争中も日本にとどまり、日本人の正教徒には日本の勝利を祈り勝ったなら感謝の祈祷をしなさいと伝えたという。40年間日本に滞在したニコライが、初期の論文に書いた見解のいくつかに修正を加えたことは想像に難くない。

幕末から維新にかけての外国人の資料として外せないイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記「遠い崖」萩原延嘉と東北を巡ったイザベラ・バードの「日本奥地紀行」があるのだが、まだ手が出せない。


東京スカイツリー

2013-09-28 14:23:26 | 江戸

先週シンガポールからの客人と初めてスカイツリーに上った。霞の中にマッチ棒のような東京タワーが見え時代の流れを感じた。

展望台には、江戸文化6年(1809)に鍬形斎(くわがたけいさい)が描いた江戸一目図屏風のレプリカが展示されていた。富士山を背景に江戸の町を鳥瞰したものでスカイツリーから見たかのような構図になっている。広重の両国の花火も鳥瞰図で、北斎の「神奈川沖浪裏」の浪に飲み込まれそうな富士山など、江戸時代の浮世絵師の想像力の豊かさには感服する。この日の富士山は霞の所為で被写体にはならなかった。

下は、図屏風の中の浅草付近とその日にツリーから撮った浅草を並べたものである。図屏風には、左から雷門、仁王門、五重塔、浅草寺が並んで描かれている。

現在の浅草寺五重塔は仁王門の奥に見えるが、図屏風では手前に描かれている。広重の描いた浅草寺五重塔も仁王門よりも隅田川寄り(手前)だったので、明治以降に建て替えられたことになる。浅草大百科というWeb-siteによると、関東大震災では被害を免れ、第2次世界大戦で焼失し戦後再建されたという。下はシュリーマンが日本滞在中一回ならず通ったとされる吉原である。四角い区画の中に家屋が密集し、日本堤の上を三々五々歩く遊び人や駕籠が見える。見返り柳もきちんと描かれている。

スカイツリーのあと浅草、隅田川クルーズ、浜離宮、汐留からゆりかもめに乗ってお台場を一周すると、新旧の江戸が見られ、ほどよい1日江戸観光になった。 


東京タワー

2013-08-26 00:46:13 | 江戸

シンガポールの日系人向けテレビで「三丁目の夕日」3話が連続放映されたのを観たので帰国を機会に妻と東京タワーにのぼってきた。都営三田線の御成門駅からの途中、増上寺に立ち寄った。増上寺では将軍家墓所を特別公開していた。2代秀忠、14代家茂ら将軍6人に彼らの正妻のお江や皇女和宮らの墓所である。

左より増上寺本殿と東京タワー、東京タワーから本殿、秀忠とお江の墓、御霊屋内部 (先々週iphoneをハノイで紛失したので写真は古い携帯で撮った)

スカイツリーに客を取られて閑散としているのではないかと思っていたが案に相違し、地上のチケット売り場には行列ができ展望台は満員だった。東京タワーにのぼったのは、高校の修学旅行(1971年)、次女が学生の時(2004年ごろ)、そして今回が3度目である。40年前の修学旅行は東京観光がグループによる自由行動で、5人の仲間と東京タワーや銀座を回った。東京タワーでは仲間5人のうち3人が250mの特別展望台にのぼり何を思ったのかそのまま蝋人形館へ入ったため、残された二人は全然戻ってこない仲間を待ちきれず東京タワーを先に離れた。私たち3人はグループ行動が原則だったので仲間とはぐれたことに狼狽し、途方に暮れて旅館に戻った。しかし、先に戻っていた二人が旅館の前の喫茶店で私たちの帰りを待ち受けていてくれたので、合流した5人は何食わぬ顔でそろって旅館に入り引率の先生に帰着を報告した。今なら携帯があるので迷子になる心配はないのだが、1971年当時は駅の伝言板が頼りだった。同じクラスの女子グループは10分ほど帰着時間に遅れたため先生からこっぴどく叱られていたことを覚えている。以下、はるか昔の修学旅行のかすかな記憶である。

  • 富士山を初めて見て感嘆の声を上げたこと
  • 東京ではひもの両端についたおもりをはじいて遊ぶおもちゃが流行っていたこと
  • 船、バス、新幹線を乗り継いで行ったこと
  • 高校1年の春休みだったこと
  • 箱根のホテルの朝は凍えるほど寒かったこと
  • 東京タワーの特別展望台は揺れたこと

特に修め学んだことはなかったし東京にあこがれることもなかった。それよりも高校2年で淡路島に行った1泊研修旅行や文化祭の思い出がはるかに大きい。

展望台の窓枠は今は白だが、「続・三丁目の夕日」で鈴木オートの4人がのぼった昭和33年完成時は赤だった。東京タワーてっぺんのアンテナは、愛宕山(2011年5月)から見たときに3.11の地震でまがっていた。アンテナはまっすぐに修繕されていて、修繕の時にアンテナ基部の隙間から出てきた軟式野球のボールが展示されていた。誰が何の目的で入れたのかは不明と説明されていた。妻曰く、見つけてほしいというボールの願いを3.11の地震が叶えたに違いないという。自分にはそんな霊的な発想は出てこないが、3.11がなければほぼ永久に陽の目を見なかったはずのボールだと思うと、3.11とボールに何らかの因縁を思わざるを得ない。単にタワー建設の作業員が悪戯心に入れたような気もする。

東京タワーから神谷町へ歩く道すがら、日本橋まで5㎞という道標が立っていたので日本橋は今も道路の起点になっているということを実感した。「三丁目の夕日」の日本橋には無粋な高速道路はなく、空が広がり夕陽がきれいだった。公共事業は来年度から削減されるらしいが、首都高は老朽化が進んでいるのでこれを機会に日本橋周辺だけでも高架を撤去して地下化してほしいと思う。公共事業の妥当性を評価するB/C すなわちBenefitとCostの比(費用対効果)の考え方は合理的かもしれない。しかし、それは不採算路線の鉄道やバスは、たとえそれが沿線住民の唯一の交通手段だとしても利用者が少なければ廃止しろという考え方である。それではあまりに冷たい。国の借金が1000兆円を超えた今ではそんな余裕はないといわれるかもしれないが、公共事業は採算性だけで判断するのではなく、景観、文化、歴史、精神面など個別の配慮があってもいいと思うのである。


江戸時代の人口

2012-06-03 11:33:41 | 江戸

 井上宏生「神さまと神社」によると、江戸時代の伊勢参りの年間参詣者数は、1771年200万人、1830年は4か月で400万人で、当時の日本の人口は3000万人とある。先週”伊勢参り”で紹介した神崎宣武「江戸の旅文化」には、1718年の伊勢山田奉行が参宮者数を幕府に上伸した記録にあるその年の正月から4月15日までの間に42万7500人をもとに著者は農閑期に参宮が集中するだろうとして4~5割増しの60万人を年間参宮者数と推計している。また、江戸中期の日本の人口は1800万とし、いずれも「神さまと神社」とは異なる数字になっている。

 気になったので江戸時代の人口を調べてみると、Wiki(江戸時代の日本の人口統計)に複数の推計があった。下表は、江戸中期までの人口推計の抜き書きに、各研究者による数値の平均と1600年を1とした時の伸び率を追記したものである。調べるうちに歴史人口学という学問分野があることを知った。

 江戸中期(1721年)の人口は複数の研究者が、3050万~3130万の間とほぼ同数の人口を推計しているので、「神さまと神社」の3000万に軍配があがる。しかし、参宮者数については「江戸の旅文化」が出典を明らかにしているのに対し、「神さまと神社」は数字を示すにとどまっている。農閑期だから4,5割増しという推計には疑問が残るので、単純に正月から4月15日までの42万7500人を年間に換算すると約150万人という計算になる。ここで問題は”お陰参り”という集団参拝の流行である。60年に一度というおかげ年に爆発的に参宮者が増え、年間200万~400万以上が参宮したという。お陰参りは一種狂信的なもので、人口の1割を超える人々がお伊勢参りをしたことになる。下は広重のお陰参りを描いた「宮川の渡し」(wikiより)で、宮川を渡ればもうそこは神宮の外宮である。1771年に一日に宮川を渡った人数が19万9千人という記録が残っている。

上の浮世絵も混んでいるが、現在の参宮者数は年間約600万人というから、伊勢神宮が混雑するのも無理はない。

 上の表で気になるのが、1721年から1750年にかけて人口が減っていること(赤字)である。各研究者の個々の数字をみると、17~27万人減少している。すぐに思い当たるのが、天変地異、飢饉、疫病の流行なので、1721~1750年間の出来事を調べてみた。年号の、享保、元文、寛保、延享、寛延を頼りに江戸時代の災害や飢饉を検索すると、享保の大飢饉(1732)がひっかかった。享保大飢饉は冷夏と害虫のため瀬戸内海沿岸地帯が凶作となり、約97万人が餓死した(徳川実紀)ものであり、餓死者数は12000人という数字もある。実紀が正しければ享保の大飢饉が日本全体の人口に影響したと言える。実は下の表からわかるように、1750年以降、明治維新まで人口はほとんど増えてないので、飢饉だけが人口減の原因ではないのである。

内閣府HPから”有史以来の日本の人口の変化”(平成16年版少子化社会白書)

 上のグラフからわかるように、1500万人だった1600年から中期1700年までの100年間で3000万人と倍増したにも関わらず、1700年から江戸末期1850年までの150年間は3000万人でほとんど増加していないことがわかる。なぜ江戸初期に急速に人口が増え、中期以降に停滞したのだろうか。

古田隆彦(青森大学教授)の説 (http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/interview/16/index.html

ちょうど享保から化政期にいたる江戸中期の人口は1732年の3230万人をピークに、1790年頃まで60年に渡って減り続けています。きっかけは気候の変化です。気温が急激に下がったことによって宝暦、安永、天明期に大飢饉が発生します。しかし、問題の本質はこの時代を支えていた集約農業文明が限界に達したためなのです。

 実は米を中心とした経済により、寒さに弱い米作りを青森の果てまで広げたことが大きな問題だったのです。幕末を基準とすると、なんと1730年頃の江戸中期までに耕地面積で92%、米の生産量で70%にも達していました。この無理な米作拡大が気候変化の影響を極大化したのです。

 天明の大飢饉によって東北の人口はおよそ半分に減り、農民たちは自らの生活水準を維持するために堕胎や間引きによる出産抑制に走りました。姥捨てなどもこのときに始まります。江戸や大坂などの都市では、文化の成熟化によって晩婚化や単身化が拡大し、出生率が低下しました。人口密度が高く、衛生状態も悪いために災害や流行病による死亡率も高まりました。

大飢饉に連続して襲われた江戸中期ですが、人口減少の期間は文化が爛熟する華やかな時代でもあったんです。蘭学などの学問や文芸が栄え、歌舞伎、浮世絵、戯作などの町民文化が勃興し、限界に達した米作りに変わる手工業が各藩で発達します。商品経済が急速に浸透し、商人・町人が力を伸ばして、「十八大通」と呼ばれるような今でいえばベンチャー企業の成功者たちが登場。粋や通といった美意識を重んじて、独自の江戸の都市文化を築き上げていくのです。

 この美意識が優れた絹織物、陶磁器、漆器、美術品などを生み出し、近代日本の経済的基礎を固めていきます。いわば、この時代に産業転換が起き、次々と新しい産業や商品、サービスが生まれたわけです。

 一方で、農民の人口が減っても米の生産量は変わっていません。耕地面積の拡大、新しい農機具の開発などによって、生産性が上がったからです。農民一人当たりの収入は増え、貨幣を持った農民は干し魚、綿布、くしなどの選択材を買うようになります。この結果、経済における米の価値は減り、「米価安の諸色高」という現象が起きました。つまり、米価が下がる一方で、選択材の価格が高くなるのです。これによって武士階級は疲弊していき、幕府の守旧派は米経済を建て直そうと経済引き締めを繰り返すことになります。

 古田隆彦は、文明や技術の盛衰、文化や流行、経済活動の変化などが人口の増減と密接な関係があることを見出し、それを「人口波動説」と名付けた。古田は江戸中期以降の人口減少時代に学問、町民文化、商品経済の発展し産業転換が起こったことに注目し、今の人口減少時代も同じように生産性を上げることで国民生活が豊かになるチャンスだというのだ。創造的で付加価値の高いものを開発し消費すれば国民総生産量を減らすことなく、逆に少ない人口の国民が豊かさを享受できるというのである。

 もう一つ、彼の高齢化と少子化の解釈も面白かった。お年寄りは元気になっているので労働年齢を65歳から75歳に引き上げると高齢化は進んでいないことになるという話と、14歳以下の子供の定義を24歳までとすると少子化は進んでないことになるとする解釈は面白い。詭弁ではなく、まじめにこの定義に変更して政策化を進めれば年金問題も労働力不足も解消されるのだという。それでも江戸中期以降、町民は豊かになるが年貢に依存する武士階級は武士は食わねどの状態になったように、江戸時代を手本とするなら現在税金で食ってる人々の待遇も少し考える必要があると思うのだが、それについて古田は何も述べていない。

 話は変わり、前回、伊勢参りの巻で、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)と祭主について触れた。井上宏生「神さまと神社」に、以下のように説明されていた。

斎宮(本では斎王)

天照大神は天皇の祖先であり、天皇は天照大神の御心を奉じなければならないが、現実問題として天皇が伊勢神宮にいるわけにはいかないので代理として未婚の皇女を神宮に送り込み天照大神の御心を伝える役目をさせた。斎宮は神と交信する巫女のような存在である。斎宮は天皇1代にひとりの決まりなので未婚のまま天照大神に仕え任を解かれるのは天皇崩御のときであった。神話時代の斎宮の初代は崇神天皇の皇女・トヨスキイリヒメであり、歴史上の初代は天武天皇の皇女で大津皇子の姉である大伯皇女である。

祭主

伊勢神宮の最高位で象徴的存在であり、神宮の規則では、「皇族または皇族であった者を、勅旨を奉じて定める」とされ、女性とは書いてないが代々女性皇族が勤めている。祭主を支えるのが大宮司で、これも旧皇族か華族出身者が就任する。祭主は神宮における様々な祭りを主宰する。神嘗祭はその年の新穀を天照大神に献上し豊穣を祝う祭りで、祭主を始め宮司らすべての神官は斎館に籠り、俗事から隔離される。新嘗祭は新穀の収穫を神々に感謝する祭りで、そのうち天皇が即位した最初の年の新嘗祭はとくに大嘗祭という。


小塚原

2012-03-25 21:04:09 | 江戸

3月末だというのに気温10度、東京に春はまだ来ない。肌寒い中、南千住の回向院、かつての小塚原刑場跡へ行った。南千住の回向院は両国回向院の別院で、吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、桜田門外で井伊大老を襲撃した志士たち、鼠小僧次郎吉の墓や、前野良沢や杉田玄白がターヘルアナトミアを片手に受刑者の死体を腑分けした観臓記念碑がある。

左:南千住回向院    右:吉田松陰の墓

南千住回向院は日比谷線南千住駅の南口を出て右手に行ったすぐのところにある。吉田松陰らの墓はこの建物をくぐった向こう側のこじんまりとした一画にまとめて安置されている。下は小塚原刑場の説明で、お墓の配置図もある。この回向院近くにあった小塚原刑場は、江戸時代から明治初期まで、火罪、磔、獄門などの刑罰が行われ、刑死者や行き倒れ人の供養をここ回向院で行っていた。

 

 

左:左より鼠小僧、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎の墓     右:杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の観臓記念碑 

鼠小僧の墓は両国回向院にもあった。片岡直次郎は御家人くずれの悪党、高橋お伝は明治初頭の殺人者、腕が墓になっている腕の喜三郎は江戸時代寛文のころの侠客である。杉田玄白らが小塚原で刑死人の腑分け(解剖)を行ったところ、人体の内臓がオランダの書ターヘルアナトミアに記されたとおりであったことから、その翌日から、ターヘルアナトミアの翻訳を始めた。

 雲井龍雄の墓

松陰や橋本佐内はもちろんのこと、鼠小僧ら強盗や殺人者の墓でさえ案内板に記載され、数日前がお彼岸だった所為か墓には花まで添えられていたのだが、雲井龍雄の墓は何の案内もなく上の写真のように捨て置かれていた。藤沢周平の「雲奔る、小説雲井龍雄」を知らなかったなら、雲井の墓は見過ごしていたところだ。雲井は米沢藩出身の幕末・維新の志士だが、明治政府に不満を持つ武士たちと政府転覆を謀る首謀者として捕えられ、まともな詮議もなく斬首され小塚原に晒し首にされた。事実は、旧幕臣や脱藩者の救済を政府に嘆願したもので、実際に暴発した佐賀の乱や萩の乱とはまったく違ったものだったという。明治政府だけでなく郷里の米沢においてさえ長く雲井の名は禁句だったという。

首切地蔵は回向院を出て右手に少し歩き、高架線路をくぐったところにあったが、昨年3.11の地震で左手が落ちたため修理中だった。腕の喜三郎が切り落とした腕は右手なので、彼の怨念がさせたものではなさそうだ。

左:3.11で落下した左手と修理を待つ首切地蔵の上半身   右:首切地蔵の台座(階段上の円座)と修理の説明板

小塚原ではあの首切浅右衛門が代々刀の試し切りを行い、明治初頭の高橋お伝も八代目浅右衛門に首切られたという。 小塚原跡を見た後、素戔嗚神社(スサノオ)神社をみて、千住大橋を渡り、芭蕉が歩いた日光街道(旧道)を北千住まで歩いた。途中、芭蕉時代の千住宿の町並みが紹介されていて、歩かなければわからない掘り出し物があった。


本所深川

2012-02-19 18:08:55 | 江戸

 司馬遼太郎は「街道をゆく」で、江戸を本所深川から歩き始め、その後、神田、本郷、赤坂と続く。昨日は両国駅から清澄白河まで歩き、回向院の鼠小僧次郎吉の墓、吉良邸跡、芥川龍之介の文学碑、芭蕉記念館、霊巌寺の松平定信の墓を見て回った。

回向院は両国駅から歩いて数分のところにある。回向院は明暦の大火や安政地震の犠牲者など無縁仏を埋葬している。ペットのお墓もある。その中に鼠小僧次郎吉の墓(上右の写真)があった。鼠小僧は寛政から天保の江戸末期の実在の人物で、大名屋敷を荒らしまわった盗賊である。36歳で捕縛され小塚原刑場で斬首されたという。貧乏人に盗んだ金を恵んだという証拠はないらしい。手前の白い碑を小石で擦りとり持ち帰るとご利益があると書いてあった。

回向院の裏口を出て東に向かうと赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡があり、そこは白壁に囲われた小さな広場で赤穂浪士のことを説明する屋外展示場になっていた。松の廊下の場面の浮世絵、殉死した吉良側の家臣の碑、吉良の首を洗った井戸などが展示されていた。その中に討ち入り時の吉良邸の見取り図があった。屋敷は大きく部屋は相当数有って上野介を探すのは大変だったろうと思う。テレビの赤穂浪士で炭小屋で見つけたことを覚えていたので、見取り図の中の離れに炭小屋がないか探したが見つからなかった。あとで調べたら炭小屋は台所の隣ということだった。討ち入りの後、吉良邸を出た浪士たちは上野介の首を掲げて泉岳寺まで行進し亡き主君に仇を討ったことを報告する。

 今年芥川賞をとった田中某は、”都政が混乱するからーーーもらっといてやる。”と言って物議を醸した。映画「三丁目の夕日」で吉岡秀隆演ずる東大出の茶川龍之介はもちろん芥川をもじったものである。その芥川龍之介は幼少期の一時期この辺に住んでいて、旧居跡には案内板も建っていた。「杜子春」の最後の一節が書かれた上の文学碑は、吉良邸跡から数十m東に行った両国小学校の角に立っていた。芥川は回向院近くに住んでいた所為か「鼠小僧次郎吉」という短編を書いているので青空文庫で読んでみた。遊び人二人が船宿で酒を飲み鼠小僧を語った小盗人の話をするのだが、話をしている一人が”鼠小僧とは実は俺のことだ”と明かして終わる話である。あるいは鼠小僧だと明かした男も鼠小僧を騙っている可能性もあるのだが、この話からはわからない。

隅田川に架かる清州橋

隅田川沿いに芭蕉記念館がある。芭蕉は奥の細道に出かける前は深川のこの辺に住んでいたという。100円の入場料を払って記念館に入った。山寺の芭蕉記念館はがっかりだったがこっちも似たり寄ったりだった。芭蕉を記念館で顕彰するのは少し無理があるのではと思う。画家、彫刻家、書家、陶工などはその作品を展示する場所が必要だが、文学者は子規のように生き様が壮絶で遺品が珍重される人以外は作品がすべてだということだ。

 松平定信(1759-1829)の墓は、清澄白河の霊巌寺にあった。田沼意次の商業主義をやめて農業中心の寛政の改革を進めたが、倹約を奨励し町民文化を抑制しすぎて庶民から嫌われ、大田南畝に”白河の清きの魚のすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき”という川柳で揶揄されたことで有名である。清澄白河とは、定信の領地であった福島の白河藩からとった白河町と隣の清澄通りからその名がついているのだが、白河のとなりに皮肉たっぷりに清澄という地名があるのは、この川柳が流布されたあとだろうか。そうだとしたら江戸っ子の洒落(皮肉)の精神には感服する。 定信は幕政だけでなく白河藩でも仁政を敷いたらしいが、その頃白河藩に立ち寄った山伏の泉光院はまったく別の見方をしている。定信の朱子学にもとづく理想主義による商業の否定、倹約、蘭学の禁止は、定信後の商業、文化、外交の停滞を招いたという意見もある。 

大田南畝オオタナンポ(1749-1823)は、天明・寛政期の文人・狂歌師であり、寛政の改革を揶揄した句もいいが、”今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん”という辞世の句は味があってたまらん。

 とりとめのない本所深川の旅だった。「街道をゆく」で司馬遼太郎がこの辺を歩いていたので、”本所深川”という表題を付けたが、本所がどこで深川がどこかもよく理解していない。霊巌寺の近くに観光客向けにあさりの佃煮を売っている店が何軒かあり、池波正太郎の言う深川めしを思い出した。それで、”ここは深川だ。”と実感したような次第である。本所は墨田区(隅田川東岸の両国から錦糸町付近)のことらしい。


樋口一葉

2012-02-02 23:40:51 | 江戸

NHKぶらタモリの吉原の回を観たので先週の土曜日に吉原へ行ってきた。タモリとほぼ同様に浅草から待乳山聖天宮に寄り隅田川の支流だった公園を通り吉原大門まで行った。吉原大門ではスカイツリーを背景にしてちょっと貧相な見返り柳の写真を撮り、S字の道を抜けて吉原に入った。以前、鶯谷の子規庵に行ったときは「坂の上の雲」のあとで大勢見学客がいたが、ぶらタモリを見て吉原を見ようと思う人はいないのだろうか、吉原に私たち(妻と私)のような見物人は皆無だった。新吉原仲ノ町と呼ばれた吉原の中央通に見物人がいない理由とそこをテレビが映さなかった理由はすぐに判明したので、こちらも長居は無用と急ぎ足で町を抜け、予定外だったけど隣の竜泉町の一葉記念館に立ち寄った。

そもそも樋口一葉とは5000円札以外にまったく縁がなく、有名な「たけくらべ」も「にごりえ」も読んだことがない。才女だったが夭折した程度の知識である。

Wikiより

一葉記念館はりっぱな3階建ての洋館で、300円の入園料を払うと無料ボランティアガイドが一葉の生涯をかいつまんで説明してくれた。そこで初めて一葉の短い生涯を知った。優等生だったが女に学問は要らないという母親の意向で小学校4年までしか学校教育を受けていない。後日父親が事業に失敗し、さらにその父親が死去したことで困窮し、母親と妹の3人で雑貨・駄菓子屋を開くも商売はうまくいかず、苦しい生活の中で結核を患い、明治29年12月弱冠24歳で亡くなる。小学校しかでていないことで、教師などの明治の知識階級の婦人がつけるはずの職業につけず、悲惨な生涯につながるのである。最後の14か月は奇跡の14か月と言われ、その間に以下の代表作すべてが執筆されている。以下、一葉記念館Webページより http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html

明治27年12月「大つごもり」を『文學界』に発表 明治28年1月「たけくらべ」を『文學界』に連載開始 4月「軒もる月」を『毎日新聞』に発表 5月「ゆく雪」を雑誌『太陽』に発表 8月「うつせみ」を『読売新聞』に発表 9月随筆「雨の夜」「月の夜」を『読売新聞』に発表「にごりえ」を『文藝倶樂部』に発表10月随筆「雁がね」「虫の音」を『読売新聞』に発表12月「十三夜」を『文藝倶樂部』(「閨秀小説」)に発表、明治29年1月「この子」を雑誌『日本乃家庭』に発表「わかれ道」を雑誌『国民の友』に発表『文學界』に連載した「たけくらべ」完結

記念館前の公園に建つたけくらべ記念碑         記念館から少し吉原の方に戻った道沿いの雑貨・駄菓子屋の旧居跡を示す碑

一葉が記念館近くに住んだのは明治26年7月から明治27年4月のわずか10か月に過ぎない。下の池波正太郎の江戸古地図に今回の道順を書き入れた。江戸時代の遊び人もこの道順で吉原に通ったらしい。吉原の方形の一画が目立つ。方形の部分は周囲よりも少し高く盛ってあることも現地で確認した。