半藤一利の「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」を読んだ。
鈴木貫太郎の生涯を簡単にまとめると以下のとおり。
慶応3年(1968年)生まれの鈴木貫太郎は、海軍軍人として日清戦争や日露戦争で武勲を上げ、海軍大将、連合艦隊司令長官、軍令部部長を経て、昭和4年に宮内省の侍従長となる。昭和11年の2・26事件のときには”君側の奸”として襲撃され、頭や胸に弾丸を受けたが一命を取り留める。戦況が悪化した昭和20年4月に内閣総理大臣となり、天皇から聖断を引き出し終戦を成し遂げる。
「聖断」では、鈴木貫太郎の生涯を通して、明治から大正にかけての近代史、政治史、大東亜戦争、昭和天皇の人柄が語られる。
1.大正10年皇太子(後の昭和天皇)がヨーロッパを訪問し、第1次大戦の跡を視察して、”眼のあたりに戦跡をみるに及んで、予想以上にひどいものであることがわかった。戦争は決してやっては、いけないものだ。”と言った。
2.天皇は、天皇の名において行政・司法・立法を統治し、大元帥の名において陸海軍を統帥する。軍にとって天皇が同時に大元帥であることは都合良かった。それを巧みに使い分けることで、戦略(統帥)が政略(国政)の上位に立ち、まして戦争ともなれば作戦を絶対的なものとして押しつけることができた。
3.昭和5年のロンドン軍縮会議で海軍の同意なしに会議での軍縮案に批准したのは”統帥権の干犯”だと、当時の政府は犬養毅や鳩山一郎(鳩山首相や邦夫の祖父)に非難される。(政治が文民統制を放棄する論である。この後、政治は軍に物が言えなくなる。)
4.天皇の君側の奸を除くとした2・26事件の反乱軍を軍は支持しようしたが、その行為を激しく怒った天皇が大元帥としての大権により軍を従わせた。これは一種の”聖断”であるが、その後、天皇は憲法を遵守し政治や軍事に関与しなくなり沈黙を守った。
5.昭和16年の対米英戦争が避けられないということを議する御前会議で、天皇は”四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ちさわぐらむ”という反戦意思を表明した歌を二度読み上げたが当時の政府はその心を汲むことはなかった。
6.鈴木貫太郎を知るアメリカの親日派の人々は天皇の地位を保障すれば日本が降伏を受け入れると考えたが、米大統領に取り上げられることはなかった。
7.軍の圧力を受けた鈴木貫太郎は、1945年7月26日のポツダム宣言(無条件降伏を迫るもの)を黙殺した。その後、広島・長崎への原爆投下やソ連参戦で追い詰められた政府首脳は天皇の地位保全(国体護持)を条件に終戦を決意する。連合国側に天皇の処遇に対する質問を送ったところ、”the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers”という回答(バーンズ回答)があり、”subject to”の翻訳が問題となった。軍は”subject to”を”隷属する”と訳し、外務省は”制限下に置かれる”と訳し、降伏を受け入れるかは再び紛糾した。
8.無条件降伏受諾は天皇が聖断した。
9.最後まで御前会議で降伏の条件で対立した阿南陸軍大臣は、”大王の 深き恵に 欲みし身は 言い遺こすべき 片言もなし”という辞世の句を遺し8月15日自決した。
10.戦後、無官となった鈴木貫太郎は関宿で閑雲野鶴を友とした隠居生活を送り、昭和23年82歳で波乱の生涯を終えた。
学校で習った日本史は、古代から始まり中世から江戸時代、明治と来て、第1次世界大戦あたりで時間不足になり、昭和史をきちんと勉強したことがなかった。最近、読書やテレビ番組を通して太平洋戦争に触れることが多いが、昭和をきちんと通史していないので知識が断片的で理解できない部分も多かったが、「聖断」で明治から昭和20年まで歴史を初めて概観できたように思う。
今日の「坂の上の雲」第五話で、真之はアメリカ留学と米西戦争観戦、好古は騎馬大学校長として騎兵の訓練、子規は脊髄カリエスが悪化し根岸の子規庵で寝たきりになる。漱石は松山中学の教師になって赴任し道後温泉に浸かり変人ぶりを発揮していた。それと広瀬武夫のロシア駐在でロシア海軍の少将の娘アリアズナと仲良くなっている。彼女が広瀬に宛てた手紙を石原伸太郎が所有し、二男の良純がテレビの「何でも鑑定団」に持ち込み、本物と判定されたということがWikiに書いてあった。
今日で第1部終了で第2部は来年12月放映予定だという。そんなに待ちきれない。それまでに死んでしまったら見られないじゃないか。
鈴木貫太郎の生涯を簡単にまとめると以下のとおり。
慶応3年(1968年)生まれの鈴木貫太郎は、海軍軍人として日清戦争や日露戦争で武勲を上げ、海軍大将、連合艦隊司令長官、軍令部部長を経て、昭和4年に宮内省の侍従長となる。昭和11年の2・26事件のときには”君側の奸”として襲撃され、頭や胸に弾丸を受けたが一命を取り留める。戦況が悪化した昭和20年4月に内閣総理大臣となり、天皇から聖断を引き出し終戦を成し遂げる。
「聖断」では、鈴木貫太郎の生涯を通して、明治から大正にかけての近代史、政治史、大東亜戦争、昭和天皇の人柄が語られる。
1.大正10年皇太子(後の昭和天皇)がヨーロッパを訪問し、第1次大戦の跡を視察して、”眼のあたりに戦跡をみるに及んで、予想以上にひどいものであることがわかった。戦争は決してやっては、いけないものだ。”と言った。
2.天皇は、天皇の名において行政・司法・立法を統治し、大元帥の名において陸海軍を統帥する。軍にとって天皇が同時に大元帥であることは都合良かった。それを巧みに使い分けることで、戦略(統帥)が政略(国政)の上位に立ち、まして戦争ともなれば作戦を絶対的なものとして押しつけることができた。
3.昭和5年のロンドン軍縮会議で海軍の同意なしに会議での軍縮案に批准したのは”統帥権の干犯”だと、当時の政府は犬養毅や鳩山一郎(鳩山首相や邦夫の祖父)に非難される。(政治が文民統制を放棄する論である。この後、政治は軍に物が言えなくなる。)
4.天皇の君側の奸を除くとした2・26事件の反乱軍を軍は支持しようしたが、その行為を激しく怒った天皇が大元帥としての大権により軍を従わせた。これは一種の”聖断”であるが、その後、天皇は憲法を遵守し政治や軍事に関与しなくなり沈黙を守った。
5.昭和16年の対米英戦争が避けられないということを議する御前会議で、天皇は”四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ちさわぐらむ”という反戦意思を表明した歌を二度読み上げたが当時の政府はその心を汲むことはなかった。
6.鈴木貫太郎を知るアメリカの親日派の人々は天皇の地位を保障すれば日本が降伏を受け入れると考えたが、米大統領に取り上げられることはなかった。
7.軍の圧力を受けた鈴木貫太郎は、1945年7月26日のポツダム宣言(無条件降伏を迫るもの)を黙殺した。その後、広島・長崎への原爆投下やソ連参戦で追い詰められた政府首脳は天皇の地位保全(国体護持)を条件に終戦を決意する。連合国側に天皇の処遇に対する質問を送ったところ、”the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers”という回答(バーンズ回答)があり、”subject to”の翻訳が問題となった。軍は”subject to”を”隷属する”と訳し、外務省は”制限下に置かれる”と訳し、降伏を受け入れるかは再び紛糾した。
8.無条件降伏受諾は天皇が聖断した。
9.最後まで御前会議で降伏の条件で対立した阿南陸軍大臣は、”大王の 深き恵に 欲みし身は 言い遺こすべき 片言もなし”という辞世の句を遺し8月15日自決した。
10.戦後、無官となった鈴木貫太郎は関宿で閑雲野鶴を友とした隠居生活を送り、昭和23年82歳で波乱の生涯を終えた。
学校で習った日本史は、古代から始まり中世から江戸時代、明治と来て、第1次世界大戦あたりで時間不足になり、昭和史をきちんと勉強したことがなかった。最近、読書やテレビ番組を通して太平洋戦争に触れることが多いが、昭和をきちんと通史していないので知識が断片的で理解できない部分も多かったが、「聖断」で明治から昭和20年まで歴史を初めて概観できたように思う。
今日の「坂の上の雲」第五話で、真之はアメリカ留学と米西戦争観戦、好古は騎馬大学校長として騎兵の訓練、子規は脊髄カリエスが悪化し根岸の子規庵で寝たきりになる。漱石は松山中学の教師になって赴任し道後温泉に浸かり変人ぶりを発揮していた。それと広瀬武夫のロシア駐在でロシア海軍の少将の娘アリアズナと仲良くなっている。彼女が広瀬に宛てた手紙を石原伸太郎が所有し、二男の良純がテレビの「何でも鑑定団」に持ち込み、本物と判定されたということがWikiに書いてあった。
今日で第1部終了で第2部は来年12月放映予定だという。そんなに待ちきれない。それまでに死んでしまったら見られないじゃないか。