備忘録として

タイトルのまま

聖断

2009-12-27 23:24:38 | 近代史
半藤一利の「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」を読んだ。
 鈴木貫太郎の生涯を簡単にまとめると以下のとおり。
慶応3年(1968年)生まれの鈴木貫太郎は、海軍軍人として日清戦争や日露戦争で武勲を上げ、海軍大将、連合艦隊司令長官、軍令部部長を経て、昭和4年に宮内省の侍従長となる。昭和11年の2・26事件のときには”君側の奸”として襲撃され、頭や胸に弾丸を受けたが一命を取り留める。戦況が悪化した昭和20年4月に内閣総理大臣となり、天皇から聖断を引き出し終戦を成し遂げる。
「聖断」では、鈴木貫太郎の生涯を通して、明治から大正にかけての近代史、政治史、大東亜戦争、昭和天皇の人柄が語られる。

1.大正10年皇太子(後の昭和天皇)がヨーロッパを訪問し、第1次大戦の跡を視察して、”眼のあたりに戦跡をみるに及んで、予想以上にひどいものであることがわかった。戦争は決してやっては、いけないものだ。”と言った。
2.天皇は、天皇の名において行政・司法・立法を統治し、大元帥の名において陸海軍を統帥する。軍にとって天皇が同時に大元帥であることは都合良かった。それを巧みに使い分けることで、戦略(統帥)が政略(国政)の上位に立ち、まして戦争ともなれば作戦を絶対的なものとして押しつけることができた。
3.昭和5年のロンドン軍縮会議で海軍の同意なしに会議での軍縮案に批准したのは”統帥権の干犯”だと、当時の政府は犬養毅や鳩山一郎(鳩山首相や邦夫の祖父)に非難される。(政治が文民統制を放棄する論である。この後、政治は軍に物が言えなくなる。)
4.天皇の君側の奸を除くとした2・26事件の反乱軍を軍は支持しようしたが、その行為を激しく怒った天皇が大元帥としての大権により軍を従わせた。これは一種の”聖断”であるが、その後、天皇は憲法を遵守し政治や軍事に関与しなくなり沈黙を守った。
5.昭和16年の対米英戦争が避けられないということを議する御前会議で、天皇は”四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ちさわぐらむ”という反戦意思を表明した歌を二度読み上げたが当時の政府はその心を汲むことはなかった。
6.鈴木貫太郎を知るアメリカの親日派の人々は天皇の地位を保障すれば日本が降伏を受け入れると考えたが、米大統領に取り上げられることはなかった。
7.軍の圧力を受けた鈴木貫太郎は、1945年7月26日のポツダム宣言(無条件降伏を迫るもの)を黙殺した。その後、広島・長崎への原爆投下やソ連参戦で追い詰められた政府首脳は天皇の地位保全(国体護持)を条件に終戦を決意する。連合国側に天皇の処遇に対する質問を送ったところ、”the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers”という回答(バーンズ回答)があり、”subject to”の翻訳が問題となった。軍は”subject to”を”隷属する”と訳し、外務省は”制限下に置かれる”と訳し、降伏を受け入れるかは再び紛糾した。
8.無条件降伏受諾は天皇が聖断した。
9.最後まで御前会議で降伏の条件で対立した阿南陸軍大臣は、”大王の 深き恵に 欲みし身は 言い遺こすべき 片言もなし”という辞世の句を遺し8月15日自決した。
10.戦後、無官となった鈴木貫太郎は関宿で閑雲野鶴を友とした隠居生活を送り、昭和23年82歳で波乱の生涯を終えた。

 学校で習った日本史は、古代から始まり中世から江戸時代、明治と来て、第1次世界大戦あたりで時間不足になり、昭和史をきちんと勉強したことがなかった。最近、読書テレビ番組を通して太平洋戦争に触れることが多いが、昭和をきちんと通史していないので知識が断片的で理解できない部分も多かったが、「聖断」で明治から昭和20年まで歴史を初めて概観できたように思う。

 今日の「坂の上の雲」第五話で、真之はアメリカ留学と米西戦争観戦、好古は騎馬大学校長として騎兵の訓練、子規は脊髄カリエスが悪化し根岸の子規庵で寝たきりになる。漱石は松山中学の教師になって赴任し道後温泉に浸かり変人ぶりを発揮していた。それと広瀬武夫のロシア駐在でロシア海軍の少将の娘アリアズナと仲良くなっている。彼女が広瀬に宛てた手紙を石原伸太郎が所有し、二男の良純がテレビの「何でも鑑定団」に持ち込み、本物と判定されたということがWikiに書いてあった。
 今日で第1部終了で第2部は来年12月放映予定だという。そんなに待ちきれない。それまでに死んでしまったら見られないじゃないか。

戦国武将

2009-12-20 22:28:41 | 中世
 最近、歴史好きの女性のことを指す歴女という言葉をよく聞く。9月に神田で偶然飛び込んだ時代屋という古本屋に戦国武将のグッズが置いてあったのに驚いたが、その時代屋がテレビで紹介されていた。店が集計した歴女の戦国武将人気ランキングが以下である。
1.伊達政宗
2.真田幸村
3.石田三成
4.長曾我部元親
5.直江兼継

私の好きな武将ランキングは下の通りで、男性が好きな織田信長や上杉謙信、武田信玄などとは異なり、歴女ランキングに似ている。
1.大谷刑部吉継
2.島左近
3.黒田如水
4.伊達政宗
5.長曾可部元親

滅びの美学を持った武将か、野心が成就しなかった武将たちである。特に1,2位の二人は時代を見通す力がありながら石田三成に殉じた。大谷刑部はボードワン4世と同じくハンセン病(梅毒説もある)で覆面をし戦場では輿に乗っていたという。私の知識のほとんど、おそらく9割以上は司馬遼太郎の戦国物によるもので残りは当時を扱った新書などで補ったものであり、司馬遼太郎の彼らに対する思い入れが伝染したので好みも相当偏っている。「関ヶ原」、「播磨灘物語」、「馬上少年過ぐ」、「夏草の賦」が上のランキング根拠のすべてといってもいい。そして「新史太閤記」、「功名ケ辻」、「国盗り物語」、「戦雲の夢」などを傍証とする。これら司馬作品はすべて学生時代に読んだ。戦国ものとしては、海音寺潮五郎の「武将列伝」、吉川栄治の「宮本武蔵」、池波正太郎の「真田太平記」、井上靖の「風林火山」などを当時読んだが、10年ほど前から時代小説はあまり読まなくなった。フィクションの多い時代小説より、歴史そのもののほうがずっと面白くなったからだ。
 ゲーム「信長の野望」では、伊達政宗がまだ生まれていないので親父の伊達輝宗、長曾可部元親、島津義久らで全国制覇を目指した。

 さて、今日の「坂の上の雲」は第4回 日清戦争だった。真之が部下の死に悩み、子規に会った森林太郎が”戦争の真実を写生してくれ”と言ったように、脚本に戦争賛美を避ける配慮が感じ取れた。今、半藤一利の「聖断」を読んでいるのでチョイ役でも鈴木貫太郎が登場し旅順港攻撃に参加する場面を期待したが出てこなかった。配役にも名前がないので、坂の上の雲には登場しないかもしれない。「聖断」には鈴木貫太郎と秋山真之が日露戦争後の同時期に海軍大学校の教官になり、”海軍の知恵袋と呼ばれた秋山が戦略と戦術をわけて考え、これに戦務という概念をとりいれ、体系づけた理論家”だったことが書かれている。

Kingdom of Heaven

2009-12-14 22:35:07 | 映画
 3年ほど前、映画「Kingdom of Heaven」を観た後、史実と比較する目的で、「知の再発見」双書の「テンプル騎士団の謎」と「十字軍」を買って読んだ。映画の中のボードワン4世(写真)に惹かれたからだ。本によるとボードワン4世は実在し、実際にハンセン病(leper)を患い、サラディンに勝利し休戦もしていた。主人公のバリアン(オーランド・ブルーム)が実在かどうかの確認はできなかったが、ボードワン4世の妹のシビル(エヴァ・グリーン)、その夫になるギー・ド・リュジニャン、イスラムを憎悪するルノー・ド・シャティヨン、イスラム側のサラディンなど主要な登場人物は実在だった。
 時代は、第2回十字軍が失敗に終わったあとの1180年頃で、十字軍が建設したエルサレム王国を舞台としている。年代は次のとおり。
1183年 ギー・ド・リュジニャンとシビルの結婚
1185年 ボードワン4世死去
1187年 ハッティンの戦い(水がなくてギー・ド・リュジニャン軍がサラディンに敗れた戦い)、エルサレム攻防戦
映画の最後でフランスに戻ったバリアンとシビルが会うイングランドの獅子王リチャードが行く第3回十字軍は1190年のことで、1192年にサラディンと休戦しキリスト教徒がエルサレムに巡礼できるようになった。逆にイスラム教徒のメッカへの巡礼の自由も保証されるようになった。

 映画では、イタリアの出航地でキリスト教司祭が「異教徒を殺すことは殺人ではない」と叫んでいる。キリスト教の前身であるユダヤ教の十戒に”殺してはならない”とあるように、本来キリスト教でも殺人は許されない。ボードワン4世やエルサレム王国の領主たちはイスラムとの共存を望むが、ギーやルノーら十字軍はイスラムを憎悪し無謀な戦争をしかける。一方、イスラム側のサラディンはルノーや騎士団は処刑したが、エルサレムの降伏を受け入れ捕虜には寛容だった。エルサレムに入城したサラディンが倒れていた十字架を立て直す場面がある。

 9・11以降のアメリカのテロとの戦いや孤立主義を背景に、映画のメッセージは、
① ギーやルノーが仕掛けた戦争が不毛であったように、(宗教)戦争は憎悪が憎悪を生むこと
② サラディンが寛容であったように異教徒も人間であることを思い出せ
③ バリアンの父親(リーアム・ニースン)が死ぬ間際に”Kingdom of Heaven(天国)、Kingdom of Conscience(良心の王国)”と言った言葉から、安住の地は宗教が作るものではなく自分自身の良心によって作りだすもの
こんなところだろうか。

”Kingdom of Heaven”2005 監督:リドリー・スコット、出演:オーランド・ブルーム、リーアム・ニースン、エヴァ・グリーン エルサレム攻防戦のカタパルトは迫力があったけど、ロード・オブ・ザ・リングを観た後だったので想定内だった。シビルがエキゾチックだったので ★★★★☆

ロゼッタストーン

2009-12-13 17:58:52 | 西洋史
 エジプトがイギリスにロゼッタストーンを返還するよう要求したというニュースが流れていた。
 ロゼッタストーンは、ナポレオンのフランス軍がエジプト遠征をした1799年、ナイル川沿岸の町ロゼッタで見つけ、すぐイギリスに引き渡され、今は大英博物館が所蔵している。ロゼッタストーンは、高さ114cm、幅72cm、厚さ28cmで総重量が762kgもある巨大な花崗閃緑岩である。ロゼッタストーンにはプトレマイオス5世の布告がヒエログリフ(古代エジプト語)14行、デモティック(ヒエログリフの崩し文字)32行、古代ギリシャ語54行で書かれていたため、ヒエログリフの解読が一気に進んだ。解読したのは、フランス人のシャンポリオンと言われているが、シャンポリオンより早く、英国人のトーマス・ヤングが解読の一歩手前まで迫っていて、シャンポリオンはヤングの発見をさらに進めたものだったらしい。トーマス・ヤングは言語学者であるだけでなく、多彩な分野の天才で、材料工学や地盤工学で馴染みの”Young's Modulus”(変形係数)もヤングの定義したものである。

 シャンポリオンやトーマスヤングのことは以前、近藤二郎著「ヒエログリフを愉しむ」や創元社の「知の再発見」双書である「ヒエログリフの謎をとく」で読んだ。この双書は、挿絵をフンダンに使っているので視覚的な情報が欲しいテーマである「マヤ文明」、「インカ帝国」、「アーサー王伝説」、「テンプル騎士団」、「ポンペイ」、「イエズス会」などを持っている。
 本によると、当初ヒエログリフはその形から表意文字と考えられていて、ロゼッタストーンの発見によって、やっとヤングがヒエログリフが表音文字であることに気づき、ヒエログリフとアルファベットの不完全な対比表を作った。しかし、ヒエログリフが完全な表音文字とすると、ロゼッタストーンのヒエログリフとギリシャ語の文字数が合わないことが難点だった。シャンポリオンは、ヒエログリフの中に発音しない文字(限定符または決定詞)があることに気づき、さらにヤングの対比表の間違いを発見し修正した。シャンポリオンは、ヒエログリフに表意文字と表音文字があることを明らかにすると同時にヒエログリフの体系化を成し遂げた。

 中学か高校の社会科の教科書に下のヒエログリフが載っていた記憶がある。

 楕円で囲まれたヒエログリフはカルトゥーシュと呼ばれ王の名が記される。ヤングは、クレオパトラと思われるこのカルトゥーシュとロゼッタストーンにあったプトレマイオスのカルトゥーシュを比べることで表音文字のいくつかを解読した。カルトゥーシュの三角(Κ)、ライオン(Λ)、刀(Ε)、なまず(Ο)、四角(Π)、鷲(Α)、手(Τ)、目(Ρ)で、すなわち”ΚΛΕΟΠΑΤΡΑ”(クレオパトラ)である。ヒエログリフは上からも左右どちらからも書かれているが、左右の読む方向は鷲やライオンなどの動物の頭から尻尾の方向に読む。ただし、”死者の書”や”冥界の書”などの宗教的文書は逆に尻尾から顔に向かって読むという。
 
 中国も海外に流出した文化財の返還を求めている。幕末のシーボルトや明治期の外国人によって海外に流出した日本の文化財は多いので返還要求を出したらどうかと思うが、逆に戦前西域に行った大谷探検隊や中国侵攻中の軍部などが海外から持ち込んだ文化財も多いと思われる。ロゼッタストーンを所有する大英博物館は、エジプトの返還要求に対し、”ロゼッタストーンはエジプトだけの遺産ではなく世界の遺産だ”として返還を拒否しているという。一度返還に応じるとすべて返さなければならなくなり収拾がつかなくなるので、ごく最近不法に海外に持ち出されたなど余程の理由がある場合を除き、昔持ち出された文化財の返還が進むことはないだろう。

シンガポールの小話

2009-12-12 11:36:47 | 東南アジア
昨日、昭南島のことを書いたので忘れないうちにシンガポールのトリビアをいくつか書いておく。

【水】 シンガポールは水の半分をマレーシアから買っている。買った水を浄化して、その半分をまたマレーシアへ売っている。水は国の安全保障に関わるので、シンガポールとマレーシアの間でもめごとが起きると必ず水問題が絡む。シンガポールは水を弱みだと思っており交渉で譲歩したくないので、マレーシアに頼らない水の確保に必死である。海水の淡水化、貯水池の増加、深井戸の開発、下水処理とニューウォーターの開発、インドネシアからの購入などの増水対策と、国民に呼びかける節水キャンペーンが水問題解決の手段である。海水の淡水化技術は、外国から導入しているが、短期間で自国のものとし、中東で淡水化技術を転売するまでになっている。ある年のNational Dayで政府要人が下水を処理して作ったニューウォーターを一斉に飲むパフォーマンスを見せた。私は絶対に飲みたくない。

【土地】 シンガポールの国土は淡路島または東京23区の面積しかなく、そこに400万人の国民が住んでいる。そのため埋立てによって国土を増やしたり、地下空洞や海上を有効利用してスペース確保を推進している。国土が狭いことに対処するためHDBという高層の公共住宅を建て廉価で分譲し、今や国民の85%がそこに暮らす。埋立ては国土の総面積の15%に達する。埋立て用の砂はインドネシアやマレーシアからの輸入で賄っていたが環境問題によって輸入できなくなり、今は自国内の土砂や粘土を利用している。国民の大半がHDBに住んでいて私有地は少ない。土地を持ったとしても国の開発が優先され、否応なしに廉価で徴用されるので土地に執着する人は少ない。住む家(HDB)はCPFという年金を利用して若くても購入できるので国民のStatusは住宅よりもベンツかローレックスである。

【教育】 極端なエリート教育を推進し、全国一斉試験を小学校低学年から数年毎に実施しエリートを選別する。国内の主要3大学への進学率はわずか4%であり、超難関である。富裕層は海外留学を目指し奨学金制度も充実している。有名大学出身者は卒業後は要職につき優遇されている。私の仕事のパートナーはシンガポール大学出身者だが給与は東京本社にいる社長より高い。

【政府】 言論を封じる。モラルを押しつける。極端な選挙制度を布く。など、強権的であると言われる。しかし、警察制度はしっかりとしていて、周辺国に比べると段違いに治安が良い。シンガポール人の同僚に聞くと、「安全で快適に生活するためには若干の(言論の)不自由は我慢すべきだ。」という答えが返ってきた。自由を我慢できる許容範囲が西洋人と異なるような気もするが、22年暮らしていて不自由はほとんどなかった。

【車】 カローラが日本で買うベンツより高い。

昭南島

2009-12-11 22:59:40 | 東南アジア
 日本軍がシンガポールを占拠し昭南市としたのは1942年のことである。マレーシアの東海岸に上陸した日本軍は自転車でマレー半島を南下し、ジョホール海峡を渡り北側からシンガポールに入った。南の海からの攻撃に備えていたイギリス軍は不意をつかれ、ブキティマ高地の激戦を経て降伏する。占領後、シンガポールは昭南島と呼ばれ軍政下におかれたが、反日運動が起こり、これを取り締まるため華人を多数虐殺したとされる。1961年にイーストコーストで多数の人骨が見つかり、その供養のためシンガポールのダウンタウンに戦争記念碑(The Civirian War Memorial写真)が建てられた。 毎年、ここWar Memorialで開かれる慰霊祭には駐シンガポール日本大使が招かれる。大使館の知り合いに聞いた話では、当然のように、この慰霊祭に列席する日本大使は肩身が狭いと言っていたそうだ。シンガポール駐在中は、激戦地だったブキティマ山の登山口近くのコンドミニアムに長く住んでいた。近くには日本の山下奉文がイギリスに降伏を勧告した古い建物が遺跡として残っていた。
 シンガポールでは日本統治時代(Japanese Occupation)を忘れない教育が徹底していた。息子は地元の幼稚園に通ったが、参観日(Parent Day)には必ずシンガポールの歴史を辿る劇があり、シンガポール人が鉄砲を持った日本兵に連行される場面を幼稚園児が演じた。8月9日の建国記念日(National Day)には日本軍の残虐さをアピールするマスゲームがあるし、観光地であるセントーサ島のSurrender Chambers(降伏館)にはブキティマ高地の戦闘後に山下奉文がイギリス軍に降伏を求める場面や、逆に1945年にイギリス軍に日本軍人が降伏する様子が蝋人形で表現されている。テレビでは毎週のように占領時代に肉親が日本兵に連行され拷問を受けたことなど戦時中の出来事を証言する番組が放映されていた。このように日本統治時代を暗黒時代として、シンガポールが被った被害や苦悩を忘れないための国民教育は徹底したものだった。しかし、それは反日感情には向かわず、愛国心を忘れると他国に国を蹂躙されるという愛国教育に使われていたように思う。私の周りにいたシンガポール人は過去と現在や未来を割り切って考えていたようで、基本的に親日派だった。そのため、シンガポール生活において、日本が過去にしたことで非難されるようなことはなかった。ただし、日本統治時代に対する現地の人々の思いを忘れず理解し尊重することが重要で、彼らを刺激するような不用意な発言をしないように注意していた。
 シンガポールでインター校に通った娘は、級友の韓国人の家に遊びに行ったとき、その母親が戦争中のことに触れ、日本人を好きになれないと言われたことがあった。韓国人とシンガポール人では日本人に対する感情がかなり異なるように思う。これは単に韓国の反日教育がシンガポールよりも苛烈という理由だけでなく、統治期間の長さの違いにも関係があるように思う。日本のシンガポール統治が3年であったのに対し、韓国支配は35年の長きに亘り、長く抑圧されていた被支配者が、支配者を許す気持になるには、それ相応の時間が必要ではないかと思うのである。妻は、シンガポールで知り合ったオランダ人女性に「ドイツ人が嫌いだ」と囁かれたことがあり、ドイツに第二次世界大戦中に占領されたオランダ人のドイツ人に対する感情と、韓国人の日本人に対する感情が似ていることを知った。
 加害者の子孫としての日本人であることを忘れては、シンガポールをはじめ大戦中に侵略した国々の人とほんとうの友人にはなれないと思う。

太平洋戦争

2009-12-08 21:17:38 | 近代史
 今日12月8日は太平洋戦争が始まった真珠湾攻撃の日である。真珠湾攻撃は68年前、昭和16年(1941年)のことで、開戦日に合わせてNHKでは太平洋戦争関係の番組をいくつか放映した。
 昨夜の番組は、NHKが8月に放映した日本海軍の軍令部の反省会についての半藤一利と澤地久枝と戸高某の座談会だった。澤地と半藤は、実戦経験がまったくない人たちが参謀として作戦を立てていたことに驚いていた。8月に反省会の番組を見た時、私も同じような感想を抱き「他人事のようだ」と評した。番組で澤地が”人の命は一銭五厘”(召集令状のはがきの値段)と言っていたが、軍令部の参謀たちには、自分たちの判断ひとつに多くの人の命が懸かっているという切実な認識がなかったように思う。
 一昨日の番組では、魚雷を抱いた二人乗りの5隻の潜水艦が真珠湾攻撃に際し、海底から真珠湾に侵入した作戦を取り上げていた。真珠湾侵入には成功したが、結局戦果をあげることなく5隻は帰ってこなかったという。特攻隊は戦争末期に玉砕覚悟で考え出されたものと思っていたが、戦争開始時点でもう兵士の命を軽視する作戦があったということは、日本軍部あるいは軍令部は体質的に人命軽視だったとしか言いようがない。
 日曜日放映の「坂の上の雲」の秋山真之が所属した明治時代の軍令部は、太平洋戦争の頃には組織防衛に汲々とする官僚的参謀たちの集まりに変貌したように見えた。司馬遼太郎は生前、戦争賛歌につながることを嫌って「坂の上の雲」の映像化には同意しなかったという。司馬遼太郎は、明確に明治と昭和を区別しているのだが、国家建設に燃えてキラキラと輝いている「坂の上の雲」の好古や真之ら明治の若い軍人たちだけを見ると、危うく戦争賛美に陥りそうになる。
 戦争の真実を知れば知るほど、学徒出陣した田英夫や上原和や梅原猛や、徴兵されて満州に行った司馬遼太郎や親父や、戦時を体験した半藤一利や澤地久枝や母親や、その他大勢の戦争に反対する人々と同じように、戦争は絶対にしてはいけないと思う。

歴史3題

2009-12-05 21:52:38 | 話の種
 事業仕分けは面白かったが、スパコンの開発予算が凍結されたことをノーベル賞学者たちが厳しく批判した。その中で、ノーベル化学賞の野依教授が、「歴史の法廷に立つ覚悟があるのか」という表現を使い、”スパコンの開発の後退は日本の将来に禍根を残す可能性があるのだぞ。それを決定した人の見識は将来歴史に裁かれることになるのがわかっているのか?”と問うたのである。
 また数日前には、沖縄密約開示を求める裁判で、原告側証人として法廷に立った元外務省アメリカ局長の吉野氏は、これまで否定してきた沖縄返還のときにアメリカと日本の間に密約があったことを一転して認める証言をした。吉野氏は会見で、「過去の歴史を歪曲するのは、国民のためにならない」と述べた。

 野依教授に言われなくても本来政治家の決定や行動は絶えず国民の目と歴史にさらされているわけで、歴史に裁かれる覚悟のある人が政治家になっているはずである。公開で行われた事業仕分けは国民と歴史に裁かれることになるのである。ところが、政治決定や密約などが公開されない場合は、歴史の法廷でも裁かれないことになり、政治家や官僚が極めて無責任になる可能性がある。これを避けるためにも、吉田氏が言うように、アメリカと同様ある期間が経てば情報公開をする制度にすべきだと思う。

 奈良の纒向(まきむく)遺跡の発掘がすすみ、近くの箸墓(はしはか)古墳と併せて考えると邪馬台国の可能性が高いという報道が最近頻繁になされており、新聞に登場する研究者(近畿説の学者だとは思うが)のコメントも邪馬台国の蓋然性が高いとしている。北九州説の方がより説得力があると思っていたので、最近の報道に動揺している。こちらは歴史ミステリーである。

病床六尺 後半

2009-12-02 23:04:09 | 近代史
六十二
泥棒が阿弥陀様を念ずれば阿弥陀様は摂取不捨の誓によって往生させて下さる事疑いなしといふ。これ真宗の論なり。---彼らが精神の状態は果して安心の地にあるか、あるいは不安を免れざるか、心理学者の研究を要す。(子規は浄土真宗の悪人正機説に疑義を抱いている。)

六十七
家庭教育について論じる。女子の教育の必要性、一家団欒と高尚な人(親)の雑談の大切さを説明し、家庭教育は学校教育よりも重要だという。(I agree.)

七十三
炊飯会社があれば、飯を炊く時間を他のことに向けることができるという合理的な考えを述べる。(I agree.)

七十五
死生の問題などはあきらめてしまえばそれでよい。病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない。(激痛の中で病気を楽しむとはあまりに壮絶で見る者にとっては痛々しいとしか言いようがない。)

八十九
工夫して絵の具と絵の具を合わせて色々な色を出すのが写生の楽しみのひとつである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんでいるのであろうか。

九十一
日本酒が西洋人に好まれるか疑問である。(”Sake!”と嬉しそうに日本酒を楽しむ西洋人を何人も見たことがあるので、子規の予想ははずれだったと思う。)

九十二
銀杏は、夏の青葉の清潔にして涼しき、晩秋から初冬にかけて葉が黄ばんできた時は得も言われぬ趣であり、冬枯に落葉して後もまた一種のさびた趣がある。(私もイチョウが好きだ。近所のイチョウの黄葉は今が盛りだ。)

九十三
硯の脇に溝があり水があふれないようになっているので、洪水も同じような方法で防ぐことができるだろう。(大きな川には硯の溝と同じ役割をする遊水地というものがある。遊水地は場所を取るので、遊水地に頼るより堤防を高く強くするほうが好まれるのは時代の所為か。)

九十五
簡単に、無駄なく順序立ちて書いてある文は世間には少ない方ではなはだ心持ちが善い。(文章は簡潔に!を心がけているけど時に冗漫になってしまう。)

九十六
何でも子供の時に親しく見聞きした事は自ら習慣となるようである。家庭教育の大事なる所以(ゆえん)である。(家庭教育論は度々出てくる。)

百四
品のいいお嬢さんが訪ねてきたことで、子規は半ば夢中のようになって動悸が打ち脈が高くなるなど我を忘れる。思い余ってお嬢さんに泊まっていくように頼む。(おいおい子規よ!どうしちゃったの?----南岳艸花画巻。子規にしてやられた!)

百十二
フランクリン自叙伝に感動する。この本を読んだ人は多いだろうが自分ほど深く感じた人は恐らくほかにあるまいと思う。(それは言い過ぎだろう。)

百二十二~百二十五
足が腫れ上がり苦痛が極限にまで達している。女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。(古(いにしえ)の時、天を支える四極の柱が傾いたので、女媧は、五色の石で天を補修した。女媧は中国神話に出てくる女神で蛇身人首。)

百二十七
最終章。この二日後、子規は鬼籍に入る。明治三十五年九月十八日

今日、平山郁夫が亡くなった。本や雑誌で見ていた時は洋画か日本画かわからないようなぼやっとした画風になじめず好きではなかったが、昨年、平山郁夫美術館で本物に触れてから彼の絵が好きになった。井上靖と司馬遼太郎が対談した「西域をゆく」(井上靖著「遺跡の旅・シルクロード」よりも相当前に読んだ。)の表紙絵と解説を平山郁夫が書いている。表紙絵は、黄色い太陽の下を駱駝を降りた隊商が歩く幻想的なもので素晴らしい。平山郁夫の解説は二人と西域に行った時のエピソードを交えて西域の素晴らしさを伝えようとするのだが紋切型で感動が伝わらず面白くなかった。井上靖と司馬遼太郎という文章の達人の本に文章を使ったのがまずかった。自分の土俵でスケッチなどを使った解説にすべきだったと思う。