備忘録として

タイトルのまま

赤駒

2010-07-24 16:58:18 | 万葉
 水木茂が梅原猛と対談----なんていう宣伝文句が出ていたら飛びつかないわけにはいかない。ので、今まで見向きもしたことのない芸術新潮を買ってしまった。対談は実質4ページだけで、梅原得意の戦争と死と哲学と貧乏と執着と出雲周辺には霊魂のようなものが漂っているというようなたわいもない話だったが、水木しげるの古い貴重なマンガがいくつも掲載されていて中身は充実していた。ゲゲゲの鬼太郎はテレビで見ていたし、エロイムエッサイムと魔法陣の悪魔くんもリアルタイムで見た世代である。ただ、水木マンガが好きだったわけではないので、広島に住んでいたとき境港には何度も行く機会があり、妖怪オブジェの並ぶ水木しげるロードも水木しげる記念館の前も何度も通ったけれど見向きもせず、松葉カニを買うために魚市場に直行していた。「悪魔くん復活 千年王国」というマンガや「劇画ヒトラー」で焦土と化した街を見下ろし”これがヒトラーがドイツ国民に送った千年王国だったのである”と書いたように水木しげるが千年王国にこだわっていることも芸術新潮で知った。
梅原猛が最近、出雲王朝に関する本を出しているので買わなければならないのだが、2400円もするので躊躇している。

 NHKの「ゲゲゲの女房」は面白い。少なくとも、前回の「ウェルかめ」よりは断然面白い。「ちりとてちん」の次ぐらいにランクされるかもしれない。漫画家をあきらめた河合はるか(アッキーナ)が布美枝と深大寺へ行き、みやげ物のわら製の馬を手にすると、店のおばちゃんが、”この馬は万葉集に由来する”と話した。すぐに、犬養孝の「万葉の旅」の東国編で調べると次の歌が出てきた。

  赤駒を 山野にはがし 取りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
                       --防人椋椅部荒虫 妻宇遅部黒女--

 天平勝宝7年(755)2月、防人交替のときの、武蔵国豊島郡出身の防人の妻の黒女の歌である。防人は国府(府中)に集められ3年交替で太宰府に送られる。犬養によると、”赤駒を山に放して捕まえられず、(遠い旅路を)歩いていかせなければならない”という意で、夫への慕情を東国なまりで詠んでいるのだそうだ。
 


 山と川の特徴が明瞭に見える石川の時でさえ確信が持てなかったのだから、犬養孝の”府中市多摩川畔にて”という注釈だけでは、上の写真のどこにでもありそうな場所を特定するのは相当難しいような気がする。
 
 深大寺へ行って犬養の写真を撮り、そばを食べ、赤駒を買い、水木しげるの家を見る準備はとうの昔にできているのだけれど、連日の暑さと夏風邪の所為で家でぐったりしている。結局、深大寺へ行くのは秋風が吹くころになりそうな予感がする。そのころには”ゲゲゲの”ブームも去っていて混雑しなくていいかもしれない。

合従連衡

2010-07-24 09:22:10 | 中国
 史記列伝はやっと蘇秦の合従、張儀の連衡まで進んだところである。太史公曰く、蘇秦と張儀は弁舌にすぐれ、”相手に応じ変化たくみなことですぐれている。人なみすぐれた智力の持ち主であったであろう。”と一応評価しておきながら、結語は”要するに二人はほんとうに危険きわまる男であったのだ。”として、二人に実がなかったと書いている。蘇秦と張儀列伝までに登場する韓非、孫子、伍子胥、孔子らが自分自身の思想、技術(軍略)、信念に忠実であったため、二人の実のなさが際立っている。

 韓非は自分が著した説難篇で、君主に説くことのむずかしさは、”説く相手の心を見抜き、いかにして自身の説き方をそれに適合させるかにある。”といいながら、自分自身は秦王に説きに行って失敗し殺される。しかし、法律を体系化するという業績を残した。韓非も孫子も伍子胥も孔子も不器用な生き方や死に方をしたが、孫子は兵法、伍子胥は熱い熱い信念、孔子は儒学を後世に残した。これに比して、蘇秦と張儀は口先だけで世の中を動かしたが、後世には人々の嘲笑以外何も残していない。

 「ネットの未来はどうなっていくのか」という対談の中で、「グローバル化する社会での必要なスキル」として、チームラボの猪子寿之がこんなことを言っている。
”英語なんてまったく必要ないと思う。会計なんてやっても売り上げは上がらないし(笑)。専門性が大事。現在は専門分野がさらに細分化されていて、そういう専門性は獲得するのは大変。コミュニケーション能力もいらない。むしろないほうがいい。コミュニケーションってエンターテインメントだから、その能力が高いと楽しい。だから新しいコミュニケーションのほうに行かないんです。コミュケーション能力が低い人のほうが新しいコミュニケーションのほうに行く。たとえば、コミュニケーション能力が高いと、女子大生とも共通の興味がなくても話せるわけ。それは楽しいことです。でも、コミュニケーション能力が低い人は、女子大生と話すことができないから、自分のすごく詳しい分野をブログなんかに書く。そうすると、自分が本当に詳しい分野に対して本当に理解してくれる人が集まってくる。いい人材もいいユーザーも集まる。進化論と一緒で、"前のコミュ二ケーション能力"が高い人は進化できない。(前時代的な)コミュニケーション能力の低い人のほうが有利になってくる。コミュニケーション能力の低い人が勝つんですよ。専門性は持ったほうがいい。でも、技術は客観的なものなので、いずれ先進国の優位性はまったくなくなると思っている。”
 猪子の言いたいことは、「グローバル化する社会」で必要なのは、韓非や孫子のような”引きこもりの専門バカ”だということなのである。

 一方同じ対談で、マイクロソフトの楠正憲は、
”仕事の幅が広がってきたとき、全部を自分が勉強できるかというと、コモディティ化されていない能力ほど勉強する機会がないんです。資格制度になっていたり、教科書になっていたりするものは、お金さえ出せば人材を確保できる。(IT業界が)ドッグイヤー、マウスイヤーになっていく中で、「模索しながらやりとげる能力」や「できるかもしれない人を見つけてリスクヘッジする能力」は必要だと思う。”
と言っている。
 楠のことばを要約すると、専門家は金で買えるし”引きこもりの専門バカ”には変化に対応するリスクヘッジ能力はない(?)ので、コミュニケーション能力だけで生きた蘇秦と張儀も必要だということになる。ということは、猪子と楠は全然正反対のことを言っているのか?コミュニケーション能力をひとつの専門性と見れば同じともいえる。

 いずれにしても、世の中、専門バカもコミュニケーションバカもいて、いろんな人で成り立っている。世の中で一歩抜きんでるつもりなら、専門に抜きんでる、コミュニケーションに抜きんでることが重要で、中途半端は役立たずである。秦が韓非や張儀を利用して中国を統一したように、こんなバカたちを抱えておく度量のある企業が生き残れるのである。

ランゲルハンス島

2010-07-19 17:57:16 | 他本
 今日は海の日。イチローのシアトルマリナーズと松井秀喜のロスアンゼルスエンジェルスのMLBの試合を見ていたら、聞き覚えのある”ランガーハンス”という名前の選手が出ていた、ので、記憶の糸をたどり、体内に”ランゲルハンス島”という島があることを理科の時間に教わったことを思い出した。さっそくネットで確認すると、ランゲルハンス島はすい臓にある血糖値を下げるインスリンを分泌する細胞群で、ドイツのランゲルハンス博士が発見し、Inseln(ドイツ語の島=island)と名付けた。インスリン(insulin)という言葉自体がラテン語の島(insula)に由来するという。

 ネットで調べる中で、村上春樹が「ランゲルハンス島の午後」というエッセイを出していることに行き当たった。村上春樹は「遠い太鼓」と「村上朝日堂の逆襲」というエッセイ集を走り読みした程度で、有名な「1Q84」や「ノルウェーの森」などの小説は読んでない。村上はエッセイでマラソンにも出て極めて健康なように書いているが、もしかして隠れ糖尿病かもしれないと思ったりした。
 「遠い太鼓」は前にも書いたがギリシャやイタリアに長期滞在しながらその土地の歴史や文化にまったく興味を示さず自分のスタイルを貫く姿勢にあっけにとられた。「村上朝日~」は日常の出来事や思い付きを洒脱な文章と安西水丸のユニークな挿絵でつづったもので、こちらのほうは村上のユニークな視点が満載で面白かった。たとえば、「教訓的な話」では、堀辰雄の「風立ちぬ」を読んだ村上のつれあいの姉が、学生時代に”健康というものは大切なものだと思いました”という感想文を書いたところ先生に大笑いされたということを、村上自身も笑ったが、”これは笑うほうが間違っている”とし、続けて、”彼女が健康の重要性を痛感できたのだとしたら、これは間違いなく文学の力である。教訓というものは類型に堕してしまうこともあれば、ある場合には別の意味での類型を突き崩してしまう力を有することもあるのである。”と書く。
 以前書いたように、私は「風立ちぬ」を読んで、余命を知らされた「死ぬ瞬間」の人の心情や遺された者の喪失感を考えた。特に教訓を得たわけではなかったが、死を反芻するきっかけにはなった。 
 松岡正剛がWeb-siteの千夜千冊で「風立ちぬ」について書いている。(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0641.html) 松岡の千夜千冊には時々行くのだけれど解説が難解すぎて何を言っているのかわからないのが常で、希少にも「風立ちぬ」の巻だけは内容がすんなりと理解できた。”どのように他人の不幸にかかわれるのか”という教訓を書いているようなのだが、本題は市原悦子のラシーヌ観劇の途中でデート相手が帰ってしまうという松岡の若き日の切ない失恋の告白なのである。松岡は、太宰治の「女性徒」の巻でもラシーヌ事件を書いている。こちらは「女生徒」の女性観にとらわれ、ラシーヌ観劇をデートに選んだために失敗した、本の知識に頼ったらろくなことにならないという教訓のようだが、松岡がラシーヌ事件と相手の女性を相当引きずっていることがわかる。
 松岡の言いたいことは、そうじゃなくて全然違っているかもしれないけど、村上春樹に言わせると「教訓は硬直したものではない。」のだから、私が松岡の文章から何をどう受け取り解釈しようと勝手なのである。

 ところで、ラシーヌって何?

ホーチミン

2010-07-18 21:52:47 | 東南アジア
 連日のWC観戦の寝不足がたたって夏風邪をひき咳が止まらないところで、ホーチミンへ行くことになった。飛ぶ前の夜、だめでもともと会社の近くの救急病院へ行った。受付で恐る恐る診ていただけますか?と聞くと、大丈夫ですよということだった。1時間以上待つのを覚悟して待合室で咳をしながら待っていると案に相違してすぐ診てもらえた。若い女性の救急医の「ERでは薬は1日分しか出せない」というのへ、海外出張を持ち出し無理をお願いして三日分の薬を出してもらった。立ち去り際、「きちんと昼間の病院へ行くように」と言われた。

ホーチミンでは1925年創業開始の由緒あるHotel Majesticに泊まった。写真のはがきはホテルのWebSiteからコピーした。シンガポールのRaffles Hotel、先月行ったマニラのManila Hotel(1898年創業、下左の写真はその時撮ったマニラホテルのロビー)、コロンボのGall Face Hotelなどと並ぶ格式あるホテルで、部屋のベランダからサイゴン川が目の前に見える。フランスのミッテラン元大統領、カトリーヌ・ドヌーブ、秋篠宮、開高健、シンガポールのリー・シェンロン首相らが宿泊客に名を連ねている。
   

 ベトナムはハノイに3度、サイゴンは4年ぶり4度目なのだがいずれも観光ではないのでホテルと車からの眺めと食事程度しか経験していない。道路はあいかわらずHonda(バイクの総称)であふれ道路の横断は命がけだった。今回は風邪のせいでベトナム料理を堪能することができなかったのが残念だ。

 機中映画は、マット・デイモンのボーンシリーズを全部と、竹中直人の「僕らのワンダフルデイズ」を観たけど、どれも面白かった。

 ”The Bourne Identity”2002、”The Bourne Supremacy”2004、”The Bourne Ultimatum”2007 監督:ダグ・リーマン(第1作)、 ポール・グリングラス(第2,3作)、原作:ロバート・ラグラム「殺戮のオデッセイ」、出演:マット・デイモン、フランカ・ポテンテ どうせありふれたスパイ物という先入観があったので期待せずに見始めた。最初の30分は、主人公の超人的なアクションにどこか安物のカンフー映画のような気がしていつ他の映画に変えようかと思っていたのが気が付くと全3作を一気に観ていた。勧善懲悪ではあるのだが殺人マシーンに仕立てられた主人公が本当の自分を探し出すミステリーにどんどん引き込まれた。これまで観た007シリーズなどスパイ物やアクション物に出てくる女優は主人公の飾りにすぎなかったが、このボーンシリーズでは主人公が自分を取り戻すのに欠かすことのできないけなげなマリーをあわれみ、★★★★☆ 

 ”僕らのワンダフルデイズ”2009、監督:星野良子、原作:西村沙月、脚本:福田卓郎、出演:竹中直人、宅麻伸、斉藤暁、段田安則、稲垣潤一、浅田美代子、紺野美沙子、貫地谷しほり 再結成した高校のバンド仲間は、別の生き方それぞれの生活があるのだけれど、バンドのときだけ時間と空間と何よりも目標を共有することができる。50歳を超えてほんとうの自分を見直す、自分の半生を振り返るというこの手の話や映画が気になってしかたがない。公証人役場で竹中が”家族が楽しく仲良く暮らすように”(正確に何と言ったかは覚えてないが)という遺言を拒否される場面で、どうしてだめなんだろうと不思議な気がした。金銭的な遺言しか受け付けないということだろうが、これは本当のことだろうか。コンテストで出てくる稲垣潤一の4人目の妻の女優は竹中と宅麻と三角関係になった同級生の女の子だったようにも思うのだがネットでもわからなかった。奥田民生のバンドの演奏する歌も良かったし、竹中の娘・貫地谷の新郎も爆笑だったので、★★★★☆

 成田に着くと京成アクセスラインが開通していた。乗ろうと思ったら窓口で長蛇の列ができていたので先発の特急に乗って帰った。東京はベトナムより暑い。ホーチミンで治りかけた風邪がぶり返すような気がする。

2010参議院選挙

2010-07-11 14:57:54 | 話の種
 今朝、区役所の拡声器から、「きょうは参院選~~~~投票日です~~~~。みなさん投票にいきましょう~~~~。」(~はエコー)というアナウンスがあった。昔、仕事で行った瀬戸内海の小島の町役場から流れる町民便りのようなお知らせが東京足立区で行われていることに不思議な気がした。うちのまわりの商店街では広島ではまったくお目にかからなかった店頭でお惣菜を安売りしていたり、結構銭湯が多かったり、場末の飲み屋が多かったり、中心部の職場を除くと東京って思い切り田舎なのかもしれない。
 
 3月末に引っ越してきた住民には引越し先の選挙区で選挙ができないので、前の選挙区、私の場合は広島選挙区の選挙管理委員会から投票用紙を取り寄せ、広島の立候補者を対象に先週の日曜日に不在者投票した。選挙の公示日(6月27日)が基準となるので、3月末の引越しでは3か月に満たないからだ。選挙管理委員会へ投票用紙を送ってもらう要請書を出して、決められた投票所へ行かなければならないので結構面倒なのである。3月末から4月初めに異動した新入社員や転勤族は相当な数いるので投票率に影響しないかと思うし、選挙管理委員会の手間や経費を考えると、公示日をあと1週間ずらせば良かったのにと思ったりもする。

 シンガポールでは選挙の投票は国民の義務なので、平日を休みにして投票日としている。人口400万人のシンガポールは極端な小選挙区と得票数の多い政党が数人の候補者を総取りする集団選挙制で、いつも95%を与党が占める。この選挙区制度のため、議席の95%を占める与党の投票率は65%程度しかないのだ。すなわち、3分の1の票は死に票になるのである。外国人の目から見ると毎回ほとんど無風選挙なのだが、市民は選挙結果に関心が高く、うちのスタッフも夜中まで開票速報を興奮して見ていた。野党を選出した選挙区に地下鉄新路線の駅舎はできているのだが、電車は止めない。与党政府の大臣は選挙結果が変われば駅をオープンすると公言している。このような利益誘導は許されるのだろうかと思ったけど、日本もそこまであからさまではないけれど政治家による利益誘導は横行している。利益誘導にとどまらず、シンガポール政府は保守層の多い年寄りに2票を与えることを検討したことや、野党の党首を根拠のない政府批判をしたとして起訴したこともあった。訴えられた野党党首は政府寄りと言われる裁判所では勝訴できないと判断し屈辱的な謝罪をした。選挙に勝つためにはなりふり構わないのである。
 その昔、選挙のときマレーシアの田舎に出張していたことがあったが銃を持った兵士が街角に大勢立っていた。ローカルスタッフに尋ねると、対立候補グループ間でよく暴動が起こるからという説明だった。東南アジアの人たちは政治に関心が高く選挙に燃えるのである。

 今日は開票速報に続きワールドカップの決勝があるので長い夜になりそうだ。昼寝をしておかねば。

円仁

2010-07-10 12:25:16 | 古代
 円仁の名前が刻まれた石板が中国河南省の法王寺で見つかったというニュースが今日の朝日新聞に出ていた。(写真-朝日新聞Web版より、縦44cm、横62cm) 中国に残された遣唐使の遺物としては、西安で見つかった井真成の墓誌に次いで2例目という。
 
 円仁は、794年下野国に生まれ、15歳で開山まもない比叡山延暦寺へ行き最澄(778~822年)の弟子になる。最澄没後、遣唐使として2度の失敗にも関わらず3度目の838年に唐に渡り、天台山ではなく山西省の五台山で修行を始める。五台山での修行ののち長安へ行くが、仏教弾圧に遭遇し、847年に帰国する。円仁は唐での見聞を記した旅行記「入唐求法巡礼行記」を残し、洛陽から鄭州まで移動していることが記されているが、石板の見つかった法王寺は洛陽と鄭州の間に位置する。また、石板には円仁の文字とともに845年に相当する大唐会昌五年という年が刻まれ、「入唐求法巡礼行記」の記述と一致する。
 
 円仁の師匠である最澄は比叡山延暦寺で天台宗を始めたが、会津の徳一との論争や空海との絶交などで疲れ果て、最澄生前の天台宗は空海の真言宗に水をあけられるのだが、真言宗が空海一人で完結したのに比し、天台宗は円仁ら弟子によって広められ、その後の宗派の多くは天台宗を起源とするほどの発展をみるのである。

 円仁は松島の瑞巌寺と山形の立石寺(山寺)の開祖でもある。瑞巌寺は828年、立石寺は860年の開山なので、瑞巌寺は遣唐使の前、立石寺は遣唐使の後ということになる。実際に円仁が出向いて開山したかどうかは異論があるらしい。立石寺はずっと天台宗だが、瑞巌寺はその後臨済宗に宗派転換している。

2010-07-04 13:50:53 | 中国
 史記の楚世家第十によると荘王は周の都に兵を進め、応対した周の使者である王孫満に、鼎(かなえ)の軽重を問うた。王孫満は答えて曰く、”昔、虞の舜や夏の禹(う)の徳をしたう九州の国々が金を献上し九鼎を作った。夏の桀王(けつ)は不徳だったので殷に鼎は移った。殷の紂王(ちゅう)は暴虐だったため鼎は周王朝に移った。”徳のうるわしく明らかなるときは、鼎は小さく見えても必ず重く、徳が衰え、よこしまなるときは、鼎は大きく見えても必ず軽いのであります。”、周の徳は衰えたとはいえ、天命はまだ変わっていない。未だ鼎の軽重を問うときではない。これを聞いた荘王は兵を引き国へ帰った。
 <鼎の軽重を問う=面前の相手の価値を公然と聞くこと>

 鼎の軽重を問う以前、荘王は即位後3年間は政務をとらず遊興にふけった。3年目に伍挙(伍子胥の祖父)が「ある鳥が3年の間、飛ばず鳴かず、この鳥の名は何でしょう?」と問うのに対し、荘王は「三年間は飛ばなかったが、飛びあがれば天まで届く、三年間は鳴かなかったが、その鳴く声に人々は驚く。伍挙、さがっておれ、(お前の言いたい事は)わかっておる。」と答えた。荘王は、王におもねる者と諫言する忠臣を見極めたのち、佞臣を退け忠臣を採用して国政に専念し春秋の覇者にまでなった。
 <鳴かず飛ばず=じっと機会を待つこと、今では長い間ぱっとしないことに使われる。>
 
 荘王を諫言した伍挙の孫である伍子胥は、父と兄を荘王から5代あとの平王に殺されたため呉に亡命し楚に復讐することを誓った。呉が楚の都を落としたときには、すでに死亡していた平王の墓をあばき、<死者に鞭打つ=死んだ人の言行を非難する、むごいことをする>の故事で有名な、あの伍子胥である。伍子胥の話はいずれ、伍子胥列伝を読んでから書くつもり。

 写真の右の三脚の器は、十五年前、台北の故宮博物館で買った鼎の青銅製レプリカである。鼎は君主や大臣の権力の象徴として創られたもので、写真の鼎は荘王が軽重を問うた九鼎ではない。台北の故宮博物館は、蒋介石が中華民国を中国本土から台湾に移したときに宝物を運び開いた博物館であり、代表的な収録物としてキリギリスが止まったヒスイ製の白菜・翠玉白菜がある。広い博物館で、歩き疲れて館内のみやげ物店でにがい中国茶を飲みながら甘い饅頭を食べた。写真の青銅器レプリカは3点セットのうちの2点で、残りの1点の壺は仙台の妻の実家にある。左側の獣は麒麟ではないかと思う。
 台湾へは4度行っている。1回目は1991年で仕事で台北の郊外へ行った。道端に檳榔子(びんろう)を売っている露店がたくさん並んでいて、中国人の同僚が買った実を一粒口にしたが苦くてはきだした。口の中が血のように赤くなった。その同僚によるとたばこと同じように依存性があるということだった。2回目は1995年でシンガポールから日本への一時帰国の途中家族5人で寄った。テレサテンがバンコクで突然死したすぐ後だったので街中にテレサテンの歌が流れていた。故宮博物館で上の写真の鼎を買ったのはこの時である。3回目は1998年の台北での学会のときだがまじめに会議に出たので出歩いた記憶がない。このとき有名なペック先生(Ralph B. Peck1912年生まれなのでこのとき86歳)と記念写真を撮ったのだが写真をなくしてしまった。4回目は2000年の12月で息子の野球の台湾遠征に同行したときである。台湾の12月は肌寒いけどまだ野球ができる程度の気候だった。台湾の小学生野球大会に招待されたもので、シンガポールチームは年齢が規定以内だったので息子を始め中学1年生を中心にしたチームを送り込んだ。台湾の小学生チームは強く、シンガポールチームは予選を突破できなかったと記憶している。この時、遠征メンバー全員で故宮博物館へ行った。

史記列伝

2010-07-04 00:42:32 | 中国
 史記世家3巻をまもなく読み終わるので史記列伝5巻を買った。最寄りの本屋や神田の古本屋を探したが見つからなかったのでアマゾンで中古を注文した。列伝が届くと史記世家をかまわず放り投げ列伝二巻にある屈原・賈生(かせい)列伝第二十四と三巻目にある韓信の淮陰(わいいん)侯列伝第三十二を急いで紐解いた。

 屈原・賈生列伝は前半に紀元前300年ごろの屈原のこと、後半に屈原より100年余りのち漢代の賈生のことを書いたものである。二人とも政争により失脚し失脚先で失意悲憤の賦(歌)を残すという似たような境遇だったため司馬遷は二人を並べている。
 屈原が作った楚辞(楚の地方の賦)「離騒」の”離騒とは憂いにとりつかれるの意である。屈原は、道を正しくし、行ないをまっすぐにし、忠をつくし智力のありたけで、その君につかえたのに、讒言の人にへだてられた。信義あって疑われ、忠にしてそしられるものが、怨みをいだかぬことができるだろうか。屈原が離騒を作ったのは、たぶんかれの怨みから生じたのである。”と司馬遷は書いている。これはまさに司馬遷が、忠によって李陵を弁護したことで武帝に疑われ宮刑に処せられたのち、史記を作ったことと重なる。屈原列伝を読むと司馬遷が自分自身を屈原に重ねていることが感じられる。
 続けて、”人君は賢者を登用して補佐としたいと思うが、賢と考える者が賢者でない、忠と考える者が忠臣ではない。これこそ人を知る明がなかったための不幸である。”
 賈生が左遷先で作った賦を読んだ司馬遷は、賈生が死と生を同じく達観し、生死を気に留めなかったことを知り、自分が誤っていたと述べている。宮刑という死に匹敵する辱めを受けながら、史記を書くために生きねばならないと理由付けを必要とするような自分が、未熟だとでもいうのだろうか。司馬遷は屈原の残した楚辞を読み、屈原の決意を哀れと思うとともに、長沙を旅したとき、屈原が身を投げた汨羅(べきら)を前に、”おぼえず涙を落とし、彼の人がらを心にえがいた”という。司馬遷は生涯で7度各地を旅行している(藤川勝久著「司馬遷の旅」より)が、長沙を旅したのは、当初20歳のときと考えられていたが、司馬遷が屈原と賈生に深く共感していることから、旅行は李陵事件のあとと考える研究者が多いという。

 韓信の列伝には、喧嘩を吹っかけられ剣をとれないなら股の下をくぐれと言われ迷わず股の下をくぐり衆人に嘲笑された有名な股くぐりの話、飯をめぐんでくれた小母さんに将来恩返しをすると言い後日王となって実際に恩返しした話、楚との戦いで背水の陣を布くなど軍事の天才だったこと、韓信が斉王になることを要求してきたとき激怒した漢の高祖を張良が説得したことなどが語られ、将軍としての卓越した能力ゆえに高祖に恐れられていることを知りながら今までの功績が認められるはずだという疑心暗鬼のまま謀反することもできず結局粛清されてしまう。司馬遷は、韓信がもう少し道理を学び謙虚で自分の功績をほこらず自分の才能を鼻にかけなかったなら理想的な人になれたろうといい、一族が皆殺しになったのも当然だと冷たく突き放している。漢初三傑の他の二人である蕭何や張良が賢明に身を処し一生を全うしているので司馬遷の低評価も仕方がないように見えるが、私には脅威の韓信を失脚させたい高祖やその側近にうまく嵌められた無垢な軍事の天才韓信が可哀そうに思える。どこか源義経とかぶる。

 アマゾンで買った中古の史記列伝値段は1巻より1円、422円、199円、100円、100円だったが送料がそれぞれ340円だったので全部で2322円になった。一冊当たり464円で、新品の750円に比べると安くついた。中古の第5巻は初版本で当時(1975年)の定価は300円だった。本当なら列伝三昧のはずだけど、今はワールドカップ観戦優先で、慢性的な寝不足状態になっている。ワールドカップを見ているとサッカーはチームプレーだということがよくわかる。歯車がひとつ狂うとブラジルやアルゼンチン(今後半40分で0-3)のような強いチームもガタガタになる。カカやメッシ一人では組織的な防御はなかなか破れないし、オランダやドイツの攻撃はスピードがある。俊輔もスピードがなくなっていた。