田口昭典著「宮沢賢治と法華経について」を読むと、宮沢賢治は大正10年家出し上京しているところを訪れた父・政次郎と二人、上方旅行に出かける。以下の順路で旅行している。
- 伊勢神宮
- 二見ケ浦
- 比叡山
- 法隆寺
- 奈良(興福寺、東大寺)
宮沢家は古くより浄土真宗の檀徒で、賢治は幼いころから浄土真宗に触れて育った。賢治が法華経に出会うのは18歳大正3年ごろのことで、家が信仰する浄土真宗の他力的な教えに満足できず、日蓮宗に傾倒し国柱会に入会する。日蓮宗は信仰により国土を浄土に変えていくというもので、そのうち国柱会の思想は、宗門の改革だけでなく法華経の理想によって日本を統一し、さらに日本を中心に世界統一国家を築こうという壮大なものである。その後この思想は軍部に利用され八紘一宇のスローガンのもと満州事変の思想的根拠にされたため戦後は奮わなくなった。若い賢治はこの思想に深く影響され、大正7年頃には真宗信徒である父を日蓮宗に改宗させようとして折伏を始め、連日父と激しい口論を展開する。盛岡農林高等学校卒業後の自分の進路の行き詰まり、父親への反発、折伏の失敗により進退窮まり25歳の大正10年1月に家出し上京する。上京するとすぐ賢治は国柱会を尋ねる。印刷所で働くが収入はわずかで所持金も少なく生活は困窮するが実家からの仕送りを送り返し、一家が日蓮宗に改宗するまでは家には戻らないといった手紙を書き送っている。
その年の4月、賢治を訪ねてきた父と上方旅行に出かける。父の目的が賢治との和解であったことは想像に難くない。賢治は旅枕で40首ほどの短歌を詠んでいる。
- 父とふたり いそぎて伊勢に 詣るなり、雨と呼ばれし その前のよる
1.伊勢神宮
- かがやきの 雨をいただき 大神の 父とふたり ぬかずかん
- 雲翔くる み杉のむらを うちめぐり 五十鈴川かも はに(埴=粘土)をながしぬ
静寂の中、天照大神の社の前で父と並んでぬかずく光景と、”かがやきの”という表現から、二人が和解したことが察せられる。前日の雨があがり杉林のうえを雲は流れ、増水した五十鈴川は土砂をながす。情景がうかぶようだ。詩才があったとしても、人ごみの中の参詣(今年6月の伊勢参り)ではこんな歌は詠めない。
2.二見ケ浦
- ありあけの 月はのこれど 松むらの そよぎ爽かに 日は出でんとす
夫婦岩に昇る朝日を詠んだものである。ここでも心が爽やかである。今年6月の旅で二見ケ浦を訪れたのは午後遅く、寒くて賢治のようなさわやかさは感じられなかったのは、詩才も風雅も持ち合わせていないからだろうか。
3.比叡山
- ねがわくは 妙法如来 正経徧知 大師のみ旨 成らしめたまえ
- うち寂む 大講堂の 薄明に さらぬ方して われいのるなり
「ねがわくは ---」の歌碑が、根本中堂近くに建っているらしいが、昨年9月の旅では見逃した。賢治の信仰する日蓮も父の親鸞も二人とも比叡山で法華経を修行したのち自分の宗派を始める。あたりまえだが根は同じなのである。比叡山の荘厳な雰囲気の中で、最澄、円仁、法然、親鸞、日蓮、道元ら比叡山に関わった先賢の成し遂げた仕事に触れれば、二人の諍いや信仰の違いなどは卑小だと気付いたと思う。比叡山の杉木立の中を歩き、根本中堂の本堂に座れば、歴史の重みと仏教の深淵を感じることができる。歴史や仏教の深い知識は必要ない。そんな空気が比叡山には流れている。
4.法隆寺
- 摂政と現じたまへば 十七の のりいかめしく 国そだてます
- 法隆寺 はやとほざかり 雨ぐもは ゆふべとともに せまりきたりぬ
聖徳太子の業績に触れてはいるものの、法隆寺では比叡山ほどの感慨はわかなかったようで、歌もあっさりしている。聖徳太子は法華経を講じ太子自筆の「法華義疏」も残っているので、そこにも触れて欲しかったと思うのは、単に私が聖徳太子ファンだからだろうか。
5.奈良
東大寺も興福寺も春日大社も歌には詠まず、若草山のふもとで売るおもちゃの鹿の歌二首などを詠んでいる。田口昭典は賢治に詩集「春と修羅」があることから、興福寺で阿修羅像を見たに違いないと推測している。
この父子旅行で和解できたのだろう、同年8月に妹トシの病気の連絡に応じて賢治は素直に花巻に戻る。田口は、この旅以降、賢治はほとんど歌を詠まず詩作に向かうとして、旅が転機になったように記すが、私はすぐ後に続くトシの病気と死が転機だったと思う。父との和解により賢治は日蓮宗の信仰を捨てたわけではなく、その後も法華経を唱え、浄土真宗の安浄寺で行われたトシの葬儀には出席せず分骨し自分の日蓮宗の仏壇に供えたという。山折哲雄は自著「デクノボーになりたい」で賢治の日蓮宗信仰はそれほど深いものではなかったとしているが、最愛の妹の葬式も宗旨が違うことを理由に参列していないことを考えると、賢治の日蓮宗への帰依は深く、田口昭典は本書の巻頭で以下の賢治の辞世に、”賢治は妙法蓮華教の精神を伝えるために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。”という言葉を添えている。
私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように 昭和8年9月21日 臨終の日に於て 宮澤賢治
賢治は昭和8年9月死去し宮沢家の菩提寺である真宗大谷派の安浄寺に葬られた。賢治の死後、政次郎は日蓮宗に改宗し、宮沢家の菩提寺は安浄寺から日蓮宗の身照寺に移される。賢治が死ぬ間際に”南無妙法蓮華経を唱えてくれれば自分はいつでもでてきます”と言い残したからだという。先に逝った息子に対する父親の深い愛情が伝わってくる。