備忘録として

タイトルのまま

賢治生誕120年

2016-04-30 18:48:53 | 賢治

新聞のヘッドラインの「センスいいと市長」というタイトルが眼に入り、オリンピックのエンブレムを「あまりにダサい」と言った市長が、前言を翻して褒めちぎった記事が出たと思った。よく読むと「センスがいい」は、生誕記念事業を主催する花巻市長の賢治生誕120年のロゴに向けた言葉だった。賢治生誕は、1886年(明治29年)8月27日のことである。

ロゴには、賢治が被る山高帽に『銀河鉄道の夜』が描かれ、『よだかの星』のよだかが飛び、『雨にも負けず』の雨が降り、『風の又三郎』の風が舞い、『注文の多い料理店』の山猫が笑っている。”生”の中の星✦は、星になったよだか、川に落ちて死んだカムパネルラ、あるいは37歳で死んだ賢治自身を象徴しているのかもしれない。

記念イベント情報は、宮沢賢治生誕120年HPにあった。花巻に行きたくなる。


長い旅の途上

2012-12-01 12:51:12 | 賢治

上の写真は、成田空港の出発ロビーで買った星野道夫「長い旅の途上」の中の、”クマの母子”という随筆に添えられていた。写真をみてすぐに宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を思い浮かべた。

 星野道夫のことを知ったのは、当時家族で観ていた「どうぶつ奇想天外」のカムチャッカロケでクマに襲われて死んだというニュースが流れた時だった。その時は、なんて無謀なロケをするんだろうという印象を持ったように記憶している。それはこの写真家とテレビ局の双方に向けて持った印象だった。事故は1996年のことで、その顛末はwiki星野道夫に詳しく書かれている。

 星野道夫のことはそれっきり記憶の彼方に消えていたが、2~3年ほど前から、宮沢賢治に興味を持つようになって、いろいろなところで星野道夫の名前を見るようになった。山折哲雄も「デクノボウになりたい」で星野のことを取り上げていた。賢治の自然観と星野の自然観は同じだったのかということが知りたくて、テレビで取り上げられた彼の生き方を見たり、随筆「旅をする木」を読んだりした。NHKだったと思うがその番組では、星野は賢治と同じ自然観を持っていたと解説していたように記憶している。ただ、彼の随筆「旅をする木」、「長い旅の途上」には賢治に直接言及する部分はなかった。

 星野は、氷に閉じ込められたクジラを救出した話が美談として世界中に流れたときに、クジラが氷に閉じ込められることは昔からあったことで、クジラが周辺を徘徊するホッキョクグマなどの多くの野生動物の生命を支えるとともに、エスキモーにとっても自然の贈り物だとエスキモーの古老が嘆いたという話を伝えている。

 「長い旅の途上」の中の「狩人の墓」という章で、エスキモーといっしょに伝統的なクジラ猟に出かけた星野は、小さな舟でクジラを追い、氷上に引き上げたクジラを囲んで祈りをささげ、解体後に残されたあご骨を海へ返しながら、「来年もまた戻って来いよ!」と叫ぶエスキモーの姿を語る。自然保護や動物愛護という言葉に魅かれたことがなく、狩猟民のもつ自然観の中に大切ななにかがあると気づいていた星野自身の自然観は以下のことばに集約されているように思う。

  • 私たちが生きていくことは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。
  • 極北の風に吹かれていると、有機物と無機物、いや生と死の境さえぼんやりとしてきて、あらゆるものが生まれ変わりながら終わりのない旅をしているような気がしてくる。

「なめとこ山の熊」で猟師の小十郎は、生活のためにクマを殺し、クマに殺されることを泰然として受け入れる。賢治やエスキモーや星野にとっての自然との共生は、生だけでなく死をも共有することなのである。アラスカで多くの生と死をずっと見続け撮り続けていた星野は小十郎と同じ最後を辿るのである。


賢治の仏教

2012-07-14 12:53:27 | 賢治

 前回、賢治は法華経(日蓮宗)を最後まで信仰していたという田口昭典の説と、そうではなく特定の宗教にこだわっていなかったという山折哲雄の説を並べた。今回は、「宮沢賢治の仏教」から著者・須田浅一郎という人の説を紹介する。「宮沢賢治の仏教」は本人いわくエッセイ風で100ページ余りの論文様の著作で中身は濃く得るものが多かった。

 日蓮宗の檀家に生まれ日頃日蓮宗信者ともいうべき須田は、本の冒頭で、アンリアルボン著「仏教」の一節を引き、日蓮宗とは”ただ意味がわからなくても南無妙法蓮華経を繰返し”、”特に無学な人々の間に広がり”、”熱狂的信仰は日本の他の宗派の示す広い寛容さと調和しない。”などと述べ、日蓮宗の極めてネガティブな紹介から始め、徐々に賢治の仏教に迫ろうとするのである。端的に言えば、浄土真宗である実家を飛び出したときの不寛容な信仰から寛容の信仰へ変わっていく過程を論じた本である。

以下に、本の要約を示す。

  1. 賢治が浄土真宗の歎異抄礼賛から法華経崇拝に変わるのは18歳のころである。
  2. 筆者は賢治を日蓮宗という狭小なレッテルから解放する目的でこの本を書いた。
  3. 賢治は法華経を尊崇はするが、他の仏典も広く読み、法華経にない十善法語の不貪慾戒は「春と修羅」で、ジャータカ物語は書簡や童話「学者アラムハラドの見た着物」で確認できる。
  4. 大正10年、賢治は上野の帝国図書館で、パウル・ダールケの「仏教の世界観」を原書(独語)で読んでいる。
  5. ビヂテリアン大祭」にブッダの最後の食事は豚肉か蕈(きのこ)だったのかという論争が出てくるが、大パリニッパーナ経という仏典にこの話が出てくる。漢訳仏典にはないので賢治はパーリ語系仏典も渉猟した。
  6. 日蓮と国柱会を柱にした賢治の狂信的とも思える法華経敬信は、保阪嘉内宛ての書簡に見られるが、それは大正10年で終わり、賢治の創作活動は大正10年以降に活発化する。その変化の動因は「図書館幻想」に見られるハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことである。
  7. 「銀河鉄道の夜」では、”ほかの神様を信じる人たちのことでも涙がこぼれるだろう。”ととても寛容なのである。オッペルに虐待された白い像は、”南無妙法蓮華経”とは祈らず、”苦しいです。サンタマリア”と叫ぶのである。
  8. 文語詩「不軽菩薩」に賢治の仏教がある。「不軽菩薩」は鳩摩羅什訳の妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十が元である。賢治は「不軽菩薩」を何度も何度も推敲し、法華経の原文にはない仏教哲学的解釈を施し改変している。
  9. 「狐の生徒の歌」は原始仏教からの戒律である八正道の正見が語られている。これは戒律重視のパーリ語系仏教を主体とする西欧仏教学を元にしている。
    • ひるはカンカン日のひかり
    • よるはツンツン月あかり
    • たとへからだをさかれても
    • 狐の生徒はうそ云ふな

筆者の須田は結論として、賢治は法華経尊崇はするが、それにはとどまらない自由で柔軟な仏教観、宗教観を持っていたとする。基本的に山折哲雄と同じ結論である。

 賢治の宗教観が変わったという大正10年、それは賢治が家出し、父親と上方旅行をし、父と和解した年である。最愛の妹トシが病に倒れ亡くなった年である。賢治が詩や童話の創作に入っていく年である。須田はハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことを賢治の仏教観を変える動因であるとしているが、一冊の本よりも、父との諍い、家出、旅行、和解、妹の病と死など大正10年前後に賢治の身の回りでおこったすべてが変化のきっかけだったと思う。特に妹・トシの死が大きかったと思う。


賢治の上方旅行

2012-07-01 22:42:59 | 賢治

 田口昭典著「宮沢賢治と法華経について」を読むと、宮沢賢治は大正10年家出し上京しているところを訪れた父・政次郎と二人、上方旅行に出かける。以下の順路で旅行している。

  1. 伊勢神宮
  2. 二見ケ浦
  3. 比叡山
  4. 法隆寺
  5. 奈良(興福寺、東大寺)

 宮沢家は古くより浄土真宗の檀徒で、賢治は幼いころから浄土真宗に触れて育った。賢治が法華経に出会うのは18歳大正3年ごろのことで、家が信仰する浄土真宗の他力的な教えに満足できず、日蓮宗に傾倒し国柱会に入会する。日蓮宗は信仰により国土を浄土に変えていくというもので、そのうち国柱会の思想は、宗門の改革だけでなく法華経の理想によって日本を統一し、さらに日本を中心に世界統一国家を築こうという壮大なものである。その後この思想は軍部に利用され八紘一宇のスローガンのもと満州事変の思想的根拠にされたため戦後は奮わなくなった。若い賢治はこの思想に深く影響され、大正7年頃には真宗信徒である父を日蓮宗に改宗させようとして折伏を始め、連日父と激しい口論を展開する。盛岡農林高等学校卒業後の自分の進路の行き詰まり、父親への反発、折伏の失敗により進退窮まり25歳の大正10年1月に家出し上京する。上京するとすぐ賢治は国柱会を尋ねる。印刷所で働くが収入はわずかで所持金も少なく生活は困窮するが実家からの仕送りを送り返し、一家が日蓮宗に改宗するまでは家には戻らないといった手紙を書き送っている。

 その年の4月、賢治を訪ねてきた父と上方旅行に出かける。父の目的が賢治との和解であったことは想像に難くない。賢治は旅枕で40首ほどの短歌を詠んでいる。

  • 父とふたり いそぎて伊勢に 詣るなり、雨と呼ばれし その前のよる

1.伊勢神宮

  • かがやきの 雨をいただき 大神の 父とふたり ぬかずかん
  • 雲翔くる み杉のむらを うちめぐり 五十鈴川かも はに(埴=粘土)をながしぬ

静寂の中、天照大神の社の前で父と並んでぬかずく光景と、”かがやきの”という表現から、二人が和解したことが察せられる。前日の雨があがり杉林のうえを雲は流れ、増水した五十鈴川は土砂をながす。情景がうかぶようだ。詩才があったとしても、人ごみの中の参詣(今年6月の伊勢参り)ではこんな歌は詠めない。

2.二見ケ浦

  • ありあけの 月はのこれど 松むらの そよぎ爽かに 日は出でんとす

夫婦岩に昇る朝日を詠んだものである。ここでも心が爽やかである。今年6月の旅で二見ケ浦を訪れたのは午後遅く、寒くて賢治のようなさわやかさは感じられなかったのは、詩才も風雅も持ち合わせていないからだろうか。

3.比叡山

  • ねがわくは 妙法如来 正経徧知 大師のみ旨 成らしめたまえ
  • うち寂む 大講堂の 薄明に さらぬ方して われいのるなり

 「ねがわくは ---」の歌碑が、根本中堂近くに建っているらしいが、昨年9月の旅では見逃した。賢治の信仰する日蓮も父の親鸞も二人とも比叡山で法華経を修行したのち自分の宗派を始める。あたりまえだが根は同じなのである。比叡山の荘厳な雰囲気の中で、最澄、円仁、法然、親鸞、日蓮、道元ら比叡山に関わった先賢の成し遂げた仕事に触れれば、二人の諍いや信仰の違いなどは卑小だと気付いたと思う。比叡山の杉木立の中を歩き、根本中堂の本堂に座れば、歴史の重みと仏教の深淵を感じることができる。歴史や仏教の深い知識は必要ない。そんな空気が比叡山には流れている。

4.法隆寺

  • 摂政と現じたまへば 十七の のりいかめしく 国そだてます
  • 法隆寺 はやとほざかり 雨ぐもは ゆふべとともに せまりきたりぬ

 聖徳太子の業績に触れてはいるものの、法隆寺では比叡山ほどの感慨はわかなかったようで、歌もあっさりしている。聖徳太子は法華経を講じ太子自筆の「法華義疏」も残っているので、そこにも触れて欲しかったと思うのは、単に私が聖徳太子ファンだからだろうか。

5.奈良

東大寺興福寺も春日大社も歌には詠まず、若草山のふもとで売るおもちゃの鹿の歌二首などを詠んでいる。田口昭典は賢治に詩集「春と修羅」があることから、興福寺で阿修羅像を見たに違いないと推測している。

 この父子旅行で和解できたのだろう、同年8月に妹トシの病気の連絡に応じて賢治は素直に花巻に戻る。田口は、この旅以降、賢治はほとんど歌を詠まず詩作に向かうとして、旅が転機になったように記すが、私はすぐ後に続くトシの病気と死が転機だったと思う。父との和解により賢治は日蓮宗の信仰を捨てたわけではなく、その後も法華経を唱え、浄土真宗の安浄寺で行われたトシの葬儀には出席せず分骨し自分の日蓮宗の仏壇に供えたという。山折哲雄は自著「デクノボーになりたい」で賢治の日蓮宗信仰はそれほど深いものではなかったとしているが、最愛の妹の葬式も宗旨が違うことを理由に参列していないことを考えると、賢治の日蓮宗への帰依は深く、田口昭典は本書の巻頭で以下の賢治の辞世に、”賢治は妙法蓮華教の精神を伝えるために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。”という言葉を添えている。

私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように              昭和8年9月21日 臨終の日に於て 宮澤賢治

 賢治は昭和8年9月死去し宮沢家の菩提寺である真宗大谷派の安浄寺に葬られた。賢治の死後、政次郎は日蓮宗に改宗し、宮沢家の菩提寺は安浄寺から日蓮宗の身照寺に移される。賢治が死ぬ間際に”南無妙法蓮華経を唱えてくれれば自分はいつでもでてきます”と言い残したからだという。先に逝った息子に対する父親の深い愛情が伝わってくる。


無常

2011-06-18 16:54:14 | 賢治

息子が撮ってきた4月初旬の仙台。

 がれきは放置されたままだけど。それでも、もくれんは美しく咲く。3.11から100日が経過したが、復興の道は遠く、福島原発も先は見えない。

 今日、NHK番組「こころの時代」で山折哲雄”私にとっての3.11”を放送していた。山折は、4月半ばに被災地を訪れ圧倒的な惨状を目の当たりにし、物質的な復興とともに被災者の心の問題、精神的復興ができるのだろうかという思いを抱く。そのとき、遺体が埋まった”がれき”の向こうで、きらきら輝く海と緑萌える美しい山々の情景を見て自然の残酷さと無常を感じたという。(注:無常=常に変化流動する。たとえば”諸行無常”。仏教用語) 山折は自然が猛威を振るう地に住む日本人は、仏教渡来以前から無常観を持っていたという。万葉集に挽歌が多いように、古代人は自然の中に鎮魂を詠っている。自然は絶望的な猛威をふるい人間に襲い掛かるが、人間は自然とともに生きるしかない。死んだ人の魂は自然の中に存在する。人麻呂の妻は石川に雲が立ち渡るのを見て死んだ人麻呂を偲ぶのである。100年前の宮沢賢治は人間と自然の関係に気付いていた。賢治のいう”世界全体が幸福にならないうちは、個人は幸福になれない。”という世界とは、自然界を含む現在の水平の世界と、あの世や先祖のいる垂直の世界を合わせたものである。「よだかの星」のよだかは、自分が虫を食べないと生きていけないことを拒否して死を選び星になった。「グスコーブドリの伝記」のブドリは世界を救うために自分を犠牲にする。人間は誰か(何か)を犠牲にしなくては生きていけない自然の一部なのである。自然と共生するということは共死も受け入れるということである。それは”雨ニモマケズ”の”デクノボウトヨバレホメラレモセズ、クニモサレズ”、人と自然に寄り添った謙虚な生き方である。自然をコントロールできるという傲慢な西洋的自然観ではなく、賢治の謙虚な自然観を持ち、猛威と癒しの二面性を持つ自然の無常を受け入れて人間は生きるしかないのである。 


イチョウ

2009-07-05 12:03:03 | 賢治

宮沢賢治「真空溶媒」

おれは新しくてバリバリの
銀杏なみきをくぐってゆく
その一本の水平なえだに
りっぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはって
そらをすきとほしてぶらさがっている

「宮沢賢治の宝石箱」で板谷栄城は、”硝子のわかものが三角にかわってそらをすきとおしてぶらさがっている”が何を指しているかわからないと言う。結局、賢治の心象風景だと結論付けている。下から銀杏を見上げると、はっぱの隙間から空が見える。木漏れ日がきらきらして、それを硝子のわかものと表現している可能性があるけど、木漏れ日は円くて三角じゃない。三角はやはり日に透かしてきらめく銀杏の葉だと思う。この季節、銀杏の葉は若若しい緑色をしている。木漏れ日は、やさしいけど、時にきらきらしてまばゆい。

「いてふの実」

今年は千人の黄金色(きんいろ)の子供が生まれたのです。
そして今日こそ子供らがみんな一緒に旅に発つのです。お母さんはそれをあんまり悲しんで扇形の黄金(きん)の髪の毛を昨日までにみんな落してしまいました。

 板谷はまた、この詩の、銀杏の実が落ちる前に葉が落ちてしまうところがひっかかると述べている。10年ほど前、北海道大学に行ったちょうどその時、大学門に続く銀杏並木の葉がいっせいに風に飛ばされ、空が一瞬、黄金色の扇形の紙屑で覆われた。広島の冬木神社でぎんなんの実を拾ったときは地面に落ちた葉っぱに隠れた実を探したので、だいたい葉と実は同じころに落ちると思うけど、北大で風が葉を吹き飛ばす様子を思い出すと、そういうことがあってもいいと思う。

20年前、広島の自宅近くの冬木神社で、たまたま見つけたぎんなんを家族みんなで拾った。ぎんなんの実は柔らかくて臭いので、靴の裏でごしごし果肉をそぎ落とし、種だけにしたビニール袋はすぐにいっぱいになった。翌日神社の境内に、”ぎんなん取るな”という張り紙が出た。一心不乱にぎんなん拾いをする、若い夫婦とよちよち歩きの幼子を含む子供の5人をその場で咎めるに忍びなかったのだろう。ぎんなんは茶碗蒸しになり、残りはおやつとして炒って食べた。

PS:イーハトーブ・ガーデン(http://nenemu8921.exblog.jp/11416441/)というブログに、”硝子のわかものが三角にかわって、そらをすきとほしてぶらさがっている”の答えらしきものがあった。


注文の多い料理店

2009-06-28 21:34:24 | 賢治

今日、津和野の安野光雅美術館で「注文の多い料理店」の絵葉書を買った。

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RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
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 という看板の店に二人の紳士がやってくる。

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ことに肥った
方やお若い
方は大歓迎
いたします
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 自分たちは大歓迎を受けているのだと二人は大喜びで店に入ります。

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当行(軒)は
注文の
多い料理
店です
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 二人は言われるままに
 靴の泥を落とし、髪に櫛を入れ、鉄砲を預け、服を脱ぎ、貴金属をはずし、
 顔や手足にクリームを塗ったあと、
 ”体に塩をよくもみこんでください”という注文を聞いた二人は、
 ”どうもおかしいぜ”二人はぶるぶるふるえだし、あわてて店を逃げ出したのです。

人類は食物連鎖の大きな環の中にいることを賢治は言いたいのだ。

 絵葉書のビキニの女の人(ポスター?)は、「注文の多い料理店」には出てこないので安野光雅の創作である。安野光雅は津和野出身で、子供の頃のことを描いた絵本が面白かった。子供の目で見た大人の世界が”おとろしい”。「街道をゆく」の挿絵画家は司馬が変人ぶりを書いていた須田剋太の印象が際立っていたので、安野光雅が数編を担当していたとは気付かなかった。美術館のプラネタリウムはあまりに快適だったので最初から最後まで快眠してしまった。


楢ノ木大学士の野宿

2009-06-27 16:21:48 | 賢治

1985年ごろオーストラリア旅行の時、オパールの原石を買った。楢ノ木大学士に言わせると、オパールではなく”オーパル(蛋白石)”である。”その中でも上等なものは、流紋破璃、貴蛋白石の火の燃えるようなやつだ。でも蛋白石くらいたよりのない宝石はなくて、すっかり曇ったじゃないかと思うんだ。今日虹のように光っている石が、あしたは白いただの石になってしまう。今日は円くて美しい。あしたは砕けてこなごなだ。 ”オーストラリアで買った蛋白石(上の写真)は、24年経った今も、虹色に輝いている。コアラを抱いた写真は、1991年西オーストラリアのパースのWild Life Parkで撮ったもので、長女10歳、二女は7歳だった。この時、二女は小さすぎるということでコアラを抱っこさせてもらえず、ずっと悔しがっていたが、10年後長男の野球のパース遠征に同行し、執念で願いを叶えた。

楢ノ木大学士は、擬人化した造岩鉱物の夢を見る。

ホンブレンさん=Hornblende(角閃石)
バイオタさん=Biotite(黒雲母)
ジッコさん=磁鉄鉱
オーソクレさん=Orthoclase(正長石)
プラジョさん=Plagioclase(斜長石)
クォーツさん=Quartz(石英)

彼らが言い争いをするのだが、それはマグマからの晶出順序、自形・他形といった結晶形、風化に応じた争いなのである。専門家(地質屋)にはたまらない。「楢ノ木大学士の野宿」は賢治が地学者そのものであったことを再認識できる。


ビジタリアン大祭

2009-06-22 23:30:40 | 賢治

 カナダのニューファンドランド島の小さな村で開かれた菜食主義者の世界大会の話である。菜食主義者には二種類あって、ひとつは動物に対し同情的であるため肉食を避ける人々、もうひとつは病気予防のために肉食を避ける人々である。もしたくさんの命の為に、どうしても一つの命が入用な時は、仕方無いから食べてもよい。
 ”そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとこう言うのです。”
ベジタリアン反対派は、①植物性食糧が不足するようになり人類滅亡を招く、②動物が可哀そうだと言うが動物心理学的に豚は死というような高等観念など持っていない、③生物分類学的に動物と植物に境がないので植物に意識がないとは言えない、④比較解剖学上人類は雑食(混食)に適するようにできている、⑤海岸で死んだ魚から魚粕をつくりキャベツや麦の肥料にしている、などとベジタリアンを非難するのです。大会会場に招待された反対派の意見に対し、ベジタリアンたちは個々に反論します。反対者は全員ベジタリアンに改宗してしまうのです。

 シンガポールの知り合いにチベット仏教の信者で、できるだけ動物を食べないようにしているという同情派のベジテリアンがいた。でもチベット仏教には菜食主義的な教義はないらしい。
シンガポールの知り合いのヒンズー教徒は、教義の殺生戒のため、ベジテリアンだった。インド料理屋に招待して、カバブやチキンマサラやフィッシュカリーを注文してくれるのだが自分は決して食べなかった。いっしょに行ったコロンボのヒンズー寺院で祠の周りをいっしょに(たぶん)7回左回りした。お寺の宿坊では精進料理が出される。松島の精進料理屋の精進料理は高価で豪華だった。精進料理が僧侶の禁欲などの修行のために始まったとしたら、一種の冒涜だ。

賢治はもちろん菜食主義者で、共生・共死を受け入れている。

 「よだかの星」のよだかは、”かぶとむしや、たくさんの羽虫が毎晩僕に殺される。僕が今度は鷹に殺される。”ことがつらくて、我が身を焼き尽くし星になる。

 「注文の多い料理店」では、食事をしようとレストランに入った狩人が、実は自分たちが動物の餌になることに気づき逃げ出す話だ。

 「なめとこ山の熊」の小十郎は、熊を殺すことが職業の狩人だが、熊に殺されることを受け入れる。

人類が食物連鎖の環の中にいることは、山折哲雄の「デクノボウになりたい」で、詳しく論じられている。


農民の地学者 宮沢賢治

2009-06-20 15:05:41 | 賢治

 西荻の古本屋で630円で買った宮城一男著「農民の地学者 宮沢賢治」は拾いものだった。ずっと農業のかたわら童話や詩を作っている作家だと思っていた。賢治を語るとき、詩人・童話作家・農業指導家・教育者などと紹介されるが、この本の綴じ込み写真にある賢治が作った地質踏査のルートマップを見ると、賢治は地質屋と言って差し支えない。花巻農学校での賢治が、黒板に描いた地質断面図の写真からも地質学の教師であったことがわかる。板谷栄城の「宮沢賢治の宝石箱」は広島の古本屋で350円で買ったが、これも賢治作品の中の宝石(鉱物)や植物を拾い集めていて、拾い物だった。

両書によって、賢治の童話や詩、短歌に地質、鉱物、化石が無数に散りばめられていることに気づいた。これまで、まったく無頓着だった。

 「銀河鉄道の夜」の地質学者が仕事をしているプリオシン海岸は”Pleiocene”のことだった。カムパネルラが銀河ステーションでもらったという地図(星座盤)は黒曜石でできている。「ビジテリアン大祭」の”金剛石は硬く滑石は軟らかである。”とあるように賢治はモースの硬度計を知っている。「風の又三郎」のお父さんは、モリブデン鉱脈を扱う鉱山会社の社員である。「虔十公園林」の石碑は橄欖岩(かんらんがん)でできている。「グスコーブドリの伝記」のサンムトリ火山には”溶岩が二層と、あとは柔らかな火山灰と火山礫の層だ。” 「シグナルとシグナレス」には蛇紋岩(サーペンティン)が出てくる。両書が引用するように、「楢ノ木大学士の野宿」は鉱物、地質の専門用語のオンパレードだ。

 ところで、『農民の~』で宮沢賢治がおとうさんに宛てた手紙が紹介され、岩石、鉱物を扱う仕事は、”山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致しかね候”と書いている。実は、私は宮城一男の出た教室の後輩になるのだが、大学入学を控えた18歳のある日、健康診断に行った徳島のある病院の医師に、大学で何を勉強するのかと聞かれ、地質学と答えたところ、その医者から「山師になるのか」と言われ、たまらなくイヤな思いをしたことを思い出す。板谷は理学部の先輩になる。


グスコーブドリの伝記

2009-06-07 19:41:39 | 賢治

「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」

イーハトーブのきこりの息子ブドリは幼いころ寒い気候による飢饉で、両親を亡くし妹のネリとも離れ離れになってしまいます。火山局に勤めるようになってしばらくたった頃、その寒い気候が再びイーハトーブを襲ったのです。

「先生あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、それを私にやらせてください。」

イーハトーブの皆は、その冬を暖かい食べ物と、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。

 ブドリは、賢治がそのように生きたいと思った人そのものだったはずだ。
クーポー博士の個人用飛行船、火山の観測網、潮汐発電所、人工雨、肥料散布、それに冒頭の二酸化炭素による地球温暖化など、1900年代初頭としては先駆的な話であふれている。

 昔、子供たちが持っていたスーパーファミコンに、『イーハトーブ物語』というゲームがあった。賢治の童話を題材にし、ゲームとしては極めて地味な内容だったが、ほっとさせられるゲームで好きだった。『グスコーブドリの伝記』や『虔十公園林』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』などの話が、賢治の活躍した羅須地人協会や農学校を絡ませたゲームだったと記憶している。山のようにあったゲームは子供たちの成長とともに処分してしまった。


なめとこ山の熊

2009-06-06 07:43:03 | 賢治

 宮沢賢治の「なめとこ山の熊」のことは、梅原猛の『百人一語』や山折哲雄の『デクノボウになりたい』の星野道夫の話を読むまで知らなかった。評論ばかり読んでいて、原作(一次資料)を見もしないで他人の論に寄りかかった評論家に堕していることを反省し、賢治の童話集を読んでいる。

驚いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二匹、ちょうど人が額に手をあてて遠くをながめるといったふうに、淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのに会った。
 小十郎はまるでその二匹の熊のからだから後光が射すように思えて、釘づけになったように立ちどまって、そっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん。谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん。」すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの。」
 子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう。」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見にきのうあすこを通ったばかりです。」
 小十郎もじっとそっちを見た。
 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。
 しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ。」ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし、第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花。」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」
「いいえ、お前まだ見たことありません。」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう。」
「そうだろうか。」子熊はとぼけたように答えました。
 小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになって、もう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながら、小十郎はそろそろと後退(あとじさ)りした。
 くろもじの木の匂(におい)が月のあかりといっしょにすうっとさした。

 母子熊の情景が鮮やかに目に浮かぶ。文章が写真や絵画を凌ぐことを実感できるシーンだ。

胃(コキエ)とは、二十八宿による牡羊座の近くにある小さな三ツ星。和名「コキエ=穀家(こくいえ)」といって、天の五穀をつかさどる宿

ひきざくら、くろもじ、などの花は、以下のWebページ”イーハトーブ・ガーデン”に詳しい。
http://nenemu8921.exblog.jp/tags/%E3%81%B2%E3%81%8D%E3%81%96%E3%81%8F%E3%82%89/



デクノボーになりたい

2009-02-13 22:40:19 | 賢治

山折哲雄の宮沢賢治論である。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
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ミンナニ”デクノボー”トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモセズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

の”デクノボー”である。

1.賢治は日蓮宗だけを信じていたわけではない。

一般に宮沢賢治は18歳のときに法華経を読んで感動し日蓮宗に帰依するようになったと言われているが、賢治は父親が熱心な信者であった浄土真宗を学び、またキリスト経カソリックとプロテスタントの神父さんたちと同時に親交があり、これら複数の宗教が矛盾なく賢治の心の中に入っていた。日本の風土は多神教的、汎神論的でさまざまな宗教に心が開かれていたと考えられ、賢治の目も広い世界に開かれていたと考えるべきだという。

2.賢治は他界から聞こえてくる声を聞くことができた。

賢治の内面には宗派や宗教を超えた自然や宇宙に対する独特な鋭い感覚がはたらいていた。星や天体に霊気が宿り、とりわけ風の中に精霊が宿っているという感覚を持つ。”永訣の朝”では、あふれ出る言葉を形にすることで、とし子の魂を呼び下ろそうとしている。

3.賢治は捨身飼虎図を知っていた。

なめとこ山と熊の猟師である小十郎は、熊の前に我が身を投げ出して死んでゆく。人間も自然界の食物連鎖の環の中に入っている。上原和は捨身飼虎は仏教ではなく狩猟民族的な生活習慣が影響を与えたとする。賢治の童話”二十六夜”に捨身菩薩という名のフクロウが登場し、食うか食われるかの日常を生きている。

4.共に生きるものは共に死ぬしかない。

賢治は共生と共死を当然の前提として生きていた。今、人は環境を論じるとき「共生、共生」と言うが、なぜか共生の一方通行である。共に生きる者は、共に死ぬべきであり、人間論・環境論は共生共死を原点に考えるべきである。

5.賢治につながる狩猟民的な感覚を伝えるもの

柳田国男「遠野物語」「山の人生」、千葉徳爾「人獣交渉史」、折口信夫と千葉徳爾による食うか食われるかに生きる武士論、万葉集の「ほかいびと」の世界、こじきの生活、新渡戸稲造「武士道」、写真家星野道夫の死(カムチャッカで熊に襲われる)、藤井日達のインドで虎が人間を襲う話

6.風が吹いて物語が始まり、風が吹いて終息する

春と修羅、風の又三郎、銀河鉄道の夜、注文の多い料理店など、賢治の作品にはみんな風が吹いている。
どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ(風又三郎)
ジョバンニが草の上に寝転がっていると、丘の草がそよぎはじめ、そして汽車の音が聞こえてくる。(銀河鉄道の夜)
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。(注文の多い料理店)

7.中原中也の詩にも賢治と同じ風が吹く

中也は春と修羅を愛読していた。賢治がそうであったように、名辞以前の世界に注目し、知識以前の、いわば生の言葉を編んで詩を作ろうとした。中也の”永訣の秋”に賢治と同じ風が吹く。
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り酒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)っていた。
”永訣の朝”で賢治は、妹とし子の死にあって「此の世の果て」にいたのである。


修羅

2009-01-24 12:58:26 | 賢治

 「金のためなら、なんでもするズラ!」今、ジョージ秋山の”銭ゲバ”が脚色されテレビ化されている。中学生の時に見たジョージ秋山の”アシュラ”は衝撃だった。乱れた髪を垂らし着物を引きずりながら餓鬼の世界を歩く主人公の姿は今も脳裏に焼きついている。

 阿修羅(アシュラ)は帝釈天と戦う仏教の守護者である。梅原猛の”地獄の思想”によると、仏教の発展に伴い地獄は細分化され隋の天台智(ちぎ)は世界を10分割し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの迷いの世界と声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏の四つの悟りの世界を併せて十界とした。その十の世界にはそれぞれ十の世界があり、この百の世界にそれぞれ十の様相があるとする。十かける十かける十の千の世界にはさらに三世界があり、これで併せて三千世界という。一念三千とは一瞬で世界を観ずることである。
”往生要集”において源信は十界を詳述する。最下層の地獄は単純に苦の世界であり、餓鬼は欲張りで嫉妬深い人間すなわち餓鬼が落ちる世界である。次の畜生は獣の世界であり、ここは愚かで暗い。次の阿修羅は怒りの世界であり、戦いの世界であるという。娘を奪われた阿修羅は世界の王である帝釈天に絶望的な戦いを挑みつづける。人間の世界は不浄であるという。その次は天の世界で感覚的な喜びに満ちている。しかし喜びが大きいほど苦も大きいという。

 梅原は、”地獄の思想”の中で、「ダンテの神曲と往生要集の地獄の違いは、西洋文明と東洋文明の根本的違いに関わるため自信を持って答えられない」と言いながら、「ダンテは地獄に落ちた人間をザマーみやがれと見ているが、往生要集の地獄の苦は我々と無関係ではない」とし、この地獄を見る客観性と主体性の違いが両者の違いであるとする。思うに、梅原は、キリスト教を信じる人々(西洋人)は、信じない人々(他宗教の人々)が地獄へ落ちるのを冷ややかに見ていると言っているような気がする。

 宮沢賢治の詩集”春と修羅”の修羅は阿修羅と同じである。天台智は当時(600年ごろ)の仏教経典を整理し、華厳、阿含、方等、般若、法華の五つに分類し、最後の法華経こそが釈迦の正説だと考えた。その後、最澄も日蓮もこれを踏襲した。賢治は18歳のとき法華経、特にその中の”寿量品”を読んで感涙したという。仏は今もなお存在し、永遠の命はくりかえしくりかえしこの世に現われてくる。賢治にとって、動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命を持つ一体の宇宙であり、逆にそれぞれの個体の中に一体である宇宙(仏心)が存在するのである。これは、「山川草木悉皆成仏」と同じであり、天台智の言う「一念三千」に通じる。賢治の作品は、いかにして人間が動物をはじめとした自然の生命と親愛関係を持つかが語られている-----らしい。
賢治の童話や詩は、子供の頃から絶えず身近にあったが、結局何もわからずに読んでいたように思う。注文の多い料理店、なめとこ山の熊、よだかの星。
 「あめゆじゅ とてちてけんじゃ」賢治はきょう死んでゆく妹の頼みを聞き雪の中へ飛び出してゆく。天に旅立つ妹を見つめる賢治の目は悲しみでいっぱいなのである。賢治は悲しみに満ちた修羅を歩いている。修羅を歩く賢治は、捨身飼虎図の薩捶王子のように自己犠牲によって人々を修羅の世界から救い出し仏の世界に送り出そうとするのだが、その道は遠い。グスコーブドリは、凶作から人々を救うために火山を爆発させて死に、カムパネルラは溺れるザネリを助けるために死ぬ。賢治は、「雨ニモマケズ-----」のとおりに生きて37歳で早世した。