契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは (清原元輔)
多賀城の末の松山を津波が越えたか気になっていて、機会があれば仙台に行って確認しようと思っていたが、結局行けなかった。今の世の中便利なもので、Youtubeにちゃんと現地へ行ってみてきた人のビデオ投稿があった。表題の通り津波は越えず末の松山は無傷で木の下の椿がきれいに咲いていた。わずか60mのところにある沖の石は池にタイヤなどの津波の残骸が散乱し無残な姿になっていた。下記の公表されたデータを見ても津波は末の松山をかろうじてかわしている。(赤が津波の範囲)
下は黄色の範囲の拡大図
末の松山のあるところは周辺が赤に染まっているのに、奇跡的に津波から免れている。国土地理院の地形図を見ると、沖の石など周辺が標高2mばかりであるのに比べ末の松山付近は数m程度小高くなっている。”末の松山を波が越すということがありえないように、二人の間の恋は永遠で心変わりしない”という清原元輔の歌の根拠は今回の震災でもくつがえらなかった。清原元輔(清少納言の父親)は908~990年生没で869年の貞観の大津波から100年ほどあとの人である。末の松山を詠んだ歌が初出する古今和歌集(905年奏上)は貞観津波からどれほども経っていないので、貞観津波が末の松山を越えなかったという伝承が都に伝わり多くの歌が生まれたというのが妥当な解釈だと思う。しかし、逆に津波が越えた伝承から歌が生まれたと解釈する人もいるらしい。清原元輔の元歌と言われる古今和歌集の東歌”きみをおきて あだしこころを わがもたば 末の松山 波も越えなむ”から、波が越えたと解釈する。しかし、これは、”うわきごころを起こすなど、末の松山を波が越えるほどありえない。”という意(古文の反語)で、越えないことを前提としているのは明らかだと思う。
仙台平野の地質調査で貞観津波をはじめ津波の痕跡を示す砂層が複数確認され、1000年ごとに大津波が発生しているという研究成果が東北大学の広報誌「まなびの杜」2001年夏16号の箕浦教授”津波被害は繰り返す”という特集(http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html)で報告されている。津波シミュレーションで有名な今村教授による貞観津波のシミュレーションから相馬を中心に福島沿岸を大きな津波が襲うことが推定されている。さらに貞観津波から1100年が経過しており、津波はいつきてもおかしくないと警告する。以下特集から抜粋。
”仙台平野の表層堆積物中に厚さ数㎝の砂層が3層確認され、1番上位は貞観の津波堆積物です。津波堆積物の周期性と堆積物年代測定結果から、津波による海水の溯上が800年から1100年に1度発生していると 推定されました。貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます。”
結果的に10年前の研究成果が活かされなかったということである。科学者の研究を活かすも無視するも為政者や当事者の問題意識次第ということである。おっと大事なことを忘れるところだった。末の松山を貞観津波が越えたか越えなかったかが文学史上、論争になっているのなら、箕浦教授に頼んで掘って砂層があるかどうか確認してもらえばいいのだ。