備忘録として

タイトルのまま

末の松山 波越さず

2011-05-29 22:59:54 | 仙台

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは    (清原元輔)

 多賀城の末の松山を津波が越えたか気になっていて、機会があれば仙台に行って確認しようと思っていたが、結局行けなかった。今の世の中便利なもので、Youtubeにちゃんと現地へ行ってみてきた人のビデオ投稿があった。表題の通り津波は越えず末の松山は無傷で木の下の椿がきれいに咲いていた。わずか60mのところにある沖の石は池にタイヤなどの津波の残骸が散乱し無残な姿になっていた。下記の公表されたデータを見ても津波は末の松山をかろうじてかわしている。(赤が津波の範囲)

下は黄色の範囲の拡大図

 末の松山のあるところは周辺が赤に染まっているのに、奇跡的に津波から免れている。国土地理院の地形図を見ると、沖の石など周辺が標高2mばかりであるのに比べ末の松山付近は数m程度小高くなっている。”末の松山を波が越すということがありえないように、二人の間の恋は永遠で心変わりしない”という清原元輔の歌の根拠は今回の震災でもくつがえらなかった。清原元輔(清少納言の父親)は908~990年生没で869年の貞観の大津波から100年ほどあとの人である。末の松山を詠んだ歌が初出する古今和歌集(905年奏上)は貞観津波からどれほども経っていないので、貞観津波が末の松山を越えなかったという伝承が都に伝わり多くの歌が生まれたというのが妥当な解釈だと思う。しかし、逆に津波が越えた伝承から歌が生まれたと解釈する人もいるらしい。清原元輔の元歌と言われる古今和歌集の東歌”きみをおきて あだしこころを わがもたば 末の松山 波も越えなむ”から、波が越えたと解釈する。しかし、これは、”うわきごころを起こすなど、末の松山を波が越えるほどありえない。”という意(古文の反語)で、越えないことを前提としているのは明らかだと思う。

 仙台平野の地質調査で貞観津波をはじめ津波の痕跡を示す砂層が複数確認され、1000年ごとに大津波が発生しているという研究成果が東北大学の広報誌「まなびの杜」2001年夏16号の箕浦教授”津波被害は繰り返す”という特集(http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html)で報告されている。津波シミュレーションで有名な今村教授による貞観津波のシミュレーションから相馬を中心に福島沿岸を大きな津波が襲うことが推定されている。さらに貞観津波から1100年が経過しており、津波はいつきてもおかしくないと警告する。以下特集から抜粋。

”仙台平野の表層堆積物中に厚さ数㎝の砂層が3層確認され、1番上位は貞観の津波堆積物です。津波堆積物の周期性と堆積物年代測定結果から、津波による海水の溯上が800年から1100年に1度発生していると 推定されました。貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます。”

結果的に10年前の研究成果が活かされなかったということである。科学者の研究を活かすも無視するも為政者や当事者の問題意識次第ということである。おっと大事なことを忘れるところだった。末の松山を貞観津波が越えたか越えなかったかが文学史上、論争になっているのなら、箕浦教授に頼んで掘って砂層があるかどうか確認してもらえばいいのだ。


The Fighter

2011-05-28 16:47:47 | 映画

 AFI's10TopTenスポーツ編の1位は、ロバート・デニーロのボクシング映画「レイジングブル」だが、なぜこの映画が1位なのかわからない。全作品で人気ベスト3に入る「市民ケーン」も「ゴッドファーザー」のマイケル・コルレオーネもそうだったように、栄光をつかみながら家族は崩壊し最後は孤独の中誰にも看取られずに死んでいく。ところが、機中で観た「The Fighter」は逆に主人公の家族を思う気持ちが崩壊寸前の家族を救う。レイジングブルよりも数倍面白かった。それにしても、元ボクサーで麻薬中毒の兄(写真左)を演じたクリスチャン・ベイルという役者はすごい。同じ日に観た「3時10分決断の時」や以前観た「バットマンビギンズ」からは想像もできない役だったので、役者としての幅の広さに驚かされた。アカデミー賞助演男優賞受賞は妥当だと思う。弟の主人公(写真右マーク・ウォルバーグ)の気の強い恋人役を演じる美人女優は誰だろうと思いながら映画を観ていたが、後で出演者を確認するまで彼女がエイミー・アダムス(下の写真)だとは気が付かなかった。こちらも「魔法に魅せられて」の王女様や「ナイトミュージアム2」のアメリア・イアハートでは美貌と若さと溌剌さだけで役を演じていたが、今回は気の強い恋人役をしっかりと演じていたのでアカデミー助演女優賞にノミネートされたのは妥当だと思う。そして、オスカーがエイミーでなく母親役のメリッサ・レオ(上の写真)に渡ったのも妥当だと思う。エイミー・アダムスはこれからますます人気が出ると密かに注目している。

”The Fighter"2010、監督:デイヴィッド・ラッセル、出演:マーク・ウォルバーグ、クリスチャン・ベイル、メリッサ・レオ、エイミー・アダムス ボクシングシーンにもう少し迫力があればもっとよかった。マーク・ウォルバーグはどこかマット・デイモンと被る。★★★★☆

ボクシング特集のうち”シンデレラマン”は以前観た。”あしたのジョー”と”アリ”は、着陸準備が迫ったので次回。

AFI's10TopTen スポーツ編 

  1. レイジング・ブル(はっきり言って退屈だった。★★★☆☆)
  2. ロッキー(学生のとき観た。あの音楽に乗せられてレイジングブルよりは熱くなった。★★★☆☆) 
  3. 打撃王(ゲーリー・クーパーがヤンキースのルー・ゲーリック役。はるか昔に観たのであまり覚えてない。★★★☆☆) 
  4. 勝利への旅立ち(昨年ホーチミンへの機中で観た。弱小チームが名コーチのもと快進撃する今ではありふれた話★★★☆☆) 
  5. さよならゲーム(相当昔に観たケビン・コスナーの野球もので全然面白くない。★★☆☆☆)
  6. ハスラー(大好きなポール・ニューマンの有名な映画だがいつ観たのかどんな内容だったかほとんど覚えていないので評価せず。) 
  7. CaddyShack 
  8. Breaking Away 
  9. 緑園の天使 
  10. ザ・エージェント(トム・クルーズがアメフト選手のエージェント役。これといって特徴のない映画★★★☆☆) 

このようにスポーツ編にはこれといった映画がなく、今回の「The Fighter」を1位に押したい。クリント・イーストウッド「ミリオンダラー・ベイビー」も1位に匹敵する。「インビクタス」はその次ぐらい。

”シンデレラ・マン”(原題Cinderella Man)ロン・ハワード監督、ラッセル・クロウ、レニー・ゼルウィガー主演、2005年作品
ケーブルテレビで観た。大恐慌の中、一度引退したボクサーが家族のために復帰し、チャンピオンになるアメリカ人好み(偏見かも?)のヒューマン、ヒーロー物語。嫌いじゃない。ラッセル・クロウは”ビューティフル・マインド”と同じくらい良かった。妻役はレニー・ゼルウィガーだが、彼女の演技力が必要なほどの作品ではない。★★★☆☆ (2008年5月7日ブログより抜粋)


西部劇

2011-05-26 00:27:39 | 映画

 5月の機中映画は西部劇とボクシング特集である。西部劇は子供のころのテレビの「ライフルマン」やもう少し大きなって見た同じくテレビの「西部二人組」や映画の「駅馬車」など大好きなジャンルなので真っ先に見た。

”トゥルー・グリット”2010、監督:コーエン兄弟、出演:ジェフ・ブリッジズ、マット・デイモン、ヘイリー・スタインフェルド(新人)、前作ジョン・ウェインの”勇気ある追跡”1969を見ているが、あまりにも昔(たぶん高校時代)のことなので比較のしようがない。ただ、おかげで”勇気ある追跡”の雇い主のキム・ダービーのことを思い出した。キム・ダービーは同じころに観た”いちご白書”にも出ていたので、この2作でファンになるには十分だった。次作を期待していたのだが、その後ほとんど見かけなくなり、大学のときに再放送されたテレビの”逃亡者”にゲストで出ているのを久々に見て喜悦したのが最後だったように思う。今回のリメイクがなければ彼女の名前は完全に記憶のかなたに葬り去られたままだったろう。

左:2010年版、右:1969年版 (下の写真も含めどちらもThe Internet Movie Database(IMDb)からコピーした)

2010年版ヘイリー・スタインフェルドは、キム・ダービーに勝るとも劣らないから、高校時代に出会っていれば間違いなくファンになっていた。だから映画の出来は別にして、★★★★☆ ジョン・ウェインは1969年のこの映画でオスカーを手にした。ジョン・ウェインの映画は、「駅馬車」を皮切りに数えきれないほど見ているが、他の作品に比べこの映画のジョン・ウェインが特別よかったとは言えないので、当時は彼の功績に対して主演男優賞が授与されたと評されていたように記憶している。

”3時10分決断の時”2007、監督:ジェームズ・マンゴールド、出演:ラッセル・クロウ、クリスチャン・ベール ジョン・ウェインの西部劇も同じようなもので西部劇はすべからく荒唐無稽なのだが、この映画も相当ありえないシチュエイションで話が進む。クリスチャン・ベール扮する親父のプライドは命よりも大切なのだ。ラッセル・クロウの悪党振りもよかった。★★★★☆

”ワイルド・ワイルド・ウエスト”1999、監督:バリー・ソネンフェルド、出演:ウィル・スミス、ケビン・スペイシー、これは観るに値しなかった。荒唐無稽は荒唐無稽でもこれは西部劇ではない。単なる西部劇の名を借りた悪乗り映画。魅力的な女優でも出ていれば星ひとつぐらいつけるが、それさえ見なかった。☆☆☆☆☆


愛宕山

2011-05-22 22:21:32 | 江戸

 上の写真は幕末の江戸・愛宕山の石段である。下は昨日行って撮ってきた港区愛宕神社である。逆光で石段が鮮明じゃなかったので色と明るさを加工した。神社の正面が男坂で右に登る石段が女坂といい湯島天神にもあった。

 

 愛宕山は標高26mと低いが、江戸時代には360°江戸市中が見渡せた。上はスフィンクスの侍の記念写真で有名なベアトが1864年ごろ愛宕山から東方を撮ったものである。上の写真の左下は真福寺で山門がある。そこから右手に伸びる大名屋敷の文字通りの長屋をはじめ家屋が所狭しと建っていて、江戸は相当な都会だったことがわかる。下の写真の左奥には本では築地本願寺の大屋根も見えているのだが、写真を縮小しすぎたのでこの写真では見えない。今回、愛宕山から東京湾や皇居などベアトの写真までとはいかなくとも何がしか遠くの景色が見られると期待して行ったのだが、今の愛宕山周辺には愛宕山より高いマンションやビルが林立していて何も見えなかった。ビルの合間から先日の地震でアンテナの先が曲がった東京タワーが見えただけだった。当時を偲ばせるのは石段だけである。Google Earthで、立体視して遊ぶと愛宕山から北には皇居、西には武蔵野台地、東には東京湾が見える。ところが、”建物の3D表示”をONにした途端、目線より高いビルで視界が覆い尽くされ何も見えなくなる。Google Earthの衛星写真がもっと精密だったら、バーチャルで江戸時代の愛宕山からの眺望と比較できる。と喜んだ自分に腹が立つ。日本橋の上の首都高を消したり、亀戸天神の背景のマンションを消すという空虚な遊びにすぎない。汚染ということばは、海洋、地下水、土壌、大気だけに付けられるものではなく、景観汚染という言葉もあるのだと思った。

 幕末の写真は、神田の古本屋で買った「甦る幕末-ライデン大学写真コレクションより」という写真集からスキャンした。ライデン大学にはシーボルトが持ち帰った資料があり、植物園にはシーボルトの日本人妻の名を付けたアジサイの”オタクサ”が植えられている。

 石段の上は愛宕神社で、鯉の泳ぐ池があり三角点もあった。86段の石段は急傾斜で降りるのが怖いくらいだった。江戸時代にはこの階段を馬で駆け上った武士がいたらしい。

 上の浮世絵は広重の名所江戸百景「芝愛宕山」で、柱の札に”正月三日毘沙の使”と書いてある。、右手に大きな柄杓と左手に棍棒のようなものを持ち兜をかぶり裃で正装した使いらしき男が石段を登っている。ネットサーフィンすると、江戸名所図絵「愛宕山円福寺毘沙門の使ひ」(http://shangshang-typhoon.blog.ocn.ne.jp/photos/edo_1/0070rg.html)という図絵に次の文句が書かれていた。浮世絵は記載(赤字)の装束そのままで、影に2名の随員もみえる。”男坂を下る”とあり、男坂を上るとは書いてないので、女坂を上って男坂を下ったのかもしれない。

愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう)たるもの答へて曰く、「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、
「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう)たるもの答へて曰く、
「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。
「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。

 地図を見ると愛宕山周辺には真福寺をはじめいくつも寺があるが、この円福寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったという。円福寺廃寺によって寺と神社が関わる毘沙門の正月行事までも消えてしまったのだろう。これは、南方熊楠が神社合祀反対の根拠とした伝統文化の破壊であり、明治の初め廃仏毀釈に対し熊楠のような反対運動は起きなかったのだろうか。


Vesak Day

2011-05-17 19:05:36 | 東南アジア

 今日、シンガポールはVesak Dayという休日である。お釈迦様(Buddah)の誕生日を祝う日で、日本では4月8日の花祭(灌仏会)である。幼いころの記憶に、町を引き回す張り子の白い象の上に乗った小さなお釈迦様に柄杓で水をかけるというのがあり、それが花祭だと思うのだが、もしかしたら白い象と小さなお釈迦様と柄杓の水は別々の記憶で、後日の体験でそれらが合体されたものかもしれない。今となっては徳島の両親にそのような祭りが昔あったかどうか聞いてみるしかない。

 たまたま行ったシンガポールのチャイナタウンにある派手な佛牙寺では、大勢の参拝客が行列をつくり、お釈迦様にお水をかけていた。参拝客の人種は雑多で、地元の中国人がもっとも多いがベトナム人やミャンマー人、インド人(おそらくスリランカ人)、観光客の白人もいた。なぜか中国正月でお見かけする竜が玉を追い回すDragon Dance(長崎の蛇踊り)が鳴り物入りで繰り出していた。これって仏教と関係があったっけ?

 東南アジアでは、お釈迦様の誕生日として5月の満月の日を採用する国が多く、シンガポールも例外ではなく毎年休日が変わる。アジアの国々は、太陽暦(グレゴリー暦)が西洋から入ってきたときも、祝日の読み替えはせず昔からの太陰暦(旧暦)に従った。隣の韓国、台湾や中国も表向きは太陽暦を採用したが古くからの祭りや記念日は旧暦を守った。不思議なことに、日本だけは1873年に旧暦からグレゴリー暦に完全移行したのである。だから、花祭も日本だけ太陽暦の4月8日で他のアジア諸国はすべて5月なのである。日本人の特性なのか、明治という時代がそうだったのかよくわからないが、明治の近代化は古くからの習俗を津波のように押し流したように見える。イスラムも中国人もLunar Calender(太陰暦)を使うので、イスラム教の断食や中国正月も毎年日付が動く。動かない休日は、1月1日、MayDay(5月1日)、クリスマス(12月25日)、建国記念日(8月9日)なのである。だから、中国系シンガポール人の店に行くと、壁にかかった太陰暦(旧暦)のカレンダーをよく見かける。仙台の七夕は7月7日ではなく8月7日で、旧暦を採用しているとされるが、旧暦は太陽暦ときちんと1か月ずれるわけではないから厳密にはシンガポールのVesak Dayと同じように毎年日付が変わるはずだから、仙台の七夕は中途半端に昔に固執したということだ。

 お釈迦様(ゴータマ・シッダルータ)は、2500年ほど前ネパールのルンビニーというところで生まれた、らしい。シャカ族の王子で何不自由なく暮らしていたが、29歳のときに人生の無常を感じて出家した。ガヤ村(のちブッダガヤと呼ばれる)の菩提樹の下で悟りを開き、サルナート(鹿野苑ロクヤオン)で初めて説教をした。その後伝道を続け、クシナガラで入滅した。荼毘に付された釈迦の骨が仏舎利で、日本では法隆寺の五重塔などの仏塔の芯柱の基礎におさめられている。ネパールからインド北部に位置する仏陀ゆかりの土地であるルンビニー、ブッダガヤ、サルナート、クシナガラを仏教の4大聖地という。上原和は自著「世界史上の聖徳太子」でこれらゆかりの地を訪問したことを書いている。いつかブッダガヤの菩提樹の下で瞑想したいと思う。

 釈迦の入滅後、インドではしばらくは仏教が栄えたが、その後ヒンズー教に取り込まれ釈迦はクシュナ神のAvatarにまで落とされてしまっている。ヒンズー教の聖典(ヴェーダ聖典)を悪人から遠ざけるために、クシャナ神が釈迦に化身し偽の宗教である仏教を広め、敢えて人々を混乱させたというのである。さらにインドではイスラム教が入ってきて仏教はかろうじてスリランカで生き延びるのである。釈迦誕生の地ネパールもヒンズー教が主流で、仏教徒はわずかに10%程度だという。それに比べ日本では仏教は大いに栄えたのは周知のとおりである。

 佛牙寺は写真のように5層の真新しい大きなお寺である。寺の由来をWeb-siteで読むと、1980年、ミャンマー西部、バングラデッシュとの国境に近いMrauk-U(ミャウウ)で修道僧たちが古代遺跡の中の壊れた卒塔婆や仏像を修理しようとしたところ純金の仏舎利の中に仏陀の歯(Tooth of the Buddah)を見つけた。修道僧は発見した仏陀の歯をミャンマーで保存しようとしたが寄付が集まらず云々ーーーー、ここで何とかいう奇特な僧が登場し、それなら私がお助けしましょうということで、仏のご加護もあり無事シンガポールに仏陀の歯が寄贈され2007年に壮大な博物館も兼ねた佛牙寺が建立されたとさ。チャイナタウンは観光寺としては最高の立地なのである。仏陀の骨(仏舎利)は言うに及ばず、仏陀の足跡や仏陀の髪の毛が世の中には相当ありそうだ。これが2500年の重みというものか。


ヒンズー寺院

2011-05-14 19:01:13 | 東南アジア

 シンガポールのCeylon Roadをたまたま通りかかったところ、渋いヒンズー寺院があった。何が気になったかというと、セイロンロードにヒンズー教という取り合わせが奇妙だったということと、シンガポールで普段見慣れているヒンズー寺院と違い色使いが地味であることである。セイロン今のスリランカは基本的に仏教国で、会社にもスリランカ出身のシンハリ人がいるが仏教徒である。しかも、スリランカ国内ではヒンズー教徒のタミール人と最近まで内戦状態だったように、仏教徒とヒンズー教徒とは仲があまりいいとは言えない。もう一方の寺院の色だが、私の知っているヒンズー寺院は例外なく極彩色なのである。

 気になったので、車を降りて入り口まで行ってみた。寺院名を見ると、Sri Senpaga Vinayagar Temple と書いてある。由来も書いてあって、1850年代セイロン・タミールの移民が、池のほとりのSenpaga(Champaca)の木の下でVinayagarの石像を見つけ小さな寺院を建立したことに始まる。なるほどセイロン・タミールだから、セイロンロードにタミール人のヒンズー寺院があったのだ。

 Champacaの木とは、Wikiによると学名Michelia champacaと言って、樹高20~30mの大きな常緑樹で香りの強い黄色の花をつける。日本語ではキンコウボク(金香木)といいモクレンの一種である。インドの人は花を髪飾りにしたり、寺院でのお祈りに使ったり、香水にもなっている。カンボジア(Cambodia)の国名は、このChampacaから取ったらしい。そういえばカンボジアのアンコールワットはヒンズー寺院だった。2003年に立て替えられたこの寺院の色が渋いのは、信徒の美意識の変化かもしれない。旧寺院は地盤沈下で使い物にならなくなったらしい。建物の基礎はしっかりしないと。シンガポールでは、地震も津波もないけど基礎の問題で建物が傾いたり、訴訟になったりすることが結構あるのだ。

 寺院壁面には、Siva、Ambal、Brahma、Vishnu、寺院名になったVinayagar、Muruganなどの神様の彫像が飾られていると書いてあるのだが、ヒンズー教に疎いので誰が誰なのかわからない。シバ(破壊)、ブラフマ(創造)、ビシュヌ(維持)の3神がヒンズーの最高神だということぐらいで、他のAmbal、VinayagarやMuruganは何者かさえわからない。VinayagarがVinayakaと同じなら、それは下の壁に大勢いる象さんの顔をしたGaneshaである。

 シンガポールではインドのボリウッド映画がしょっちゅうテレビ放映されていて、肉感豊かな男優女優たちが画面狭しと踊りまくり歌いまくるのだが、上の写真のようにここのヒンズー教の神々も下に楽団をはべらせて踊りまくっている。この日も寺院内は大勢の礼拝信徒であふれ、陽気な音楽(お祈りの曲?)が流れていた。

 ところで、ヒンズー教やその神々のサイトをサーフィンしていたら、ジェームズ・キャメロン監督の3D映画で使われたAvatarという言葉が出てきた。ヒンズー教でAvatarというと、ビシュヌ神の10の化身を指し、ビシュヌ神が天から地上に降りてきて何かに化身し善を守り悪を滅ぼすという。化身は、魚や亀や猪や獣人や黒い人や英雄や仏陀だったりする。ヒンズー教の起源は仏教よりあとだったということか。ヒンズー教は何か面白そうだ。

 ところで、熊野の世界遺産の神社の森を森林組合が勝手に切ったというニュースが流れていた。100年前に熊楠が必死で守った森を簡単に切るとは---、あの世で熊楠が激怒しているに違いない。


Footprints of Gods

2011-05-07 14:07:16 | 近代史

 南方熊楠 (その2)、は、英国の「Notes and Queries」という雑誌に、Footprints of Godsというテーマで何度も寄稿していたということが、今読んでいる鶴見和子の「南方熊楠」に書いてある。その後、熊楠は中身を少し変えて「神跡考」と題する日本語の論文も出している。Footprints of Godsとは、神様の足跡で世界各地にある。13世紀のマルコポーロの東方見聞録や14世紀のイブンバトゥータの旅行記二人の旅程地図)にも記されているスリランカのAdam’s Peakにも巨大なFootprintがあるが、仏教徒は仏陀、イスラム教徒はアダム、ヒンズー教徒はシバの足跡だと主張している。

http://sacredsites.com/asia/sri_lanka/adams_peak.htmlより拝借

 誰のでもいいのだけれど(不謹慎か?)、世界中にあるそんな足跡や足跡信仰の起源などを「Notes and Queries」に不特定の読者が寄稿し論争する。「Notes and Queries」は、あるテーマに対し専門家もアマチュアも関係なく寄稿し議論する場を提供する雑誌で、今のネット上の掲示板のようなものである。熊楠は自分が日本人・アジア人であることを利点として日本、中国、インドにある足跡を紹介し、足跡信仰がなぜ同時並行的に世界中に存在するかについての自説も披露している。後年、神跡考を読んだ柳田国男が”外国人の東洋研究者が一人多くなった”だけだと熊楠に忠告するのに対し、熊楠は”東洋人の世界研究者がひとり出た”と自己評価した手紙を返している。柳田国男との交流は1911年から1926年まで続くが、熊楠のあっせんで知り合いの娘が柳田家で働くようになったころに”何か面白くないこと”があり、その娘が柳田家を去ってから絶交する。しかし、柳田は熊楠死後も彼の才能と業績を高く評価していたらしい。逆に、有名な植物学の泰斗・牧野富太郎は邦文での論文発表がないことと、外国での発表は熊楠が英国在住中のことで、帰国後はこれといった業績はないという憶測により、植物学者として熊楠をまったく評価しなかったらしい。鶴見和子は、熊楠が帰国後も長くNatureやNotes and Queriesの雑誌に投稿していたことをあげ、牧野が熊楠の死後憶測でこのような文章を残したことをFairじゃないと言っている。鶴見はそれに続けて、死んだ牧野を、自分がこうして批判するのも公平じゃない。と、きわめて抑制的な文章で結んでいる。梅原だったらボロクソに書いただろうに。

 柳田国男は日本人の枠から抜けられず、日本人とは何かを問い続けたが、熊楠は人間とは何かという問いへの解決にまで踏み込もうとした。という谷川健一の評価を鶴見和子は載せている。熊楠の英文の一部をネットで探して読んだが、格調高く日本語よりわかりやすい。

 ところで南方熊楠は東大予備門を中退しているが、同期生に正岡子規や夏目漱石がいる。後年、夏目漱石はロンドンに留学(1900~1902年)しほとんどノイローゼになりわずか2年ほどで帰国する。これに対し熊楠は、1886年二十歳でアメリカに単身渡り、15年後に帰国するまで、キューバ、ハイチやドミニカなどの西インド諸島を曲芸団の一員として放浪したのち、1892年にロンドンに渡り、主に大英博物館で勤務する。その間、孫文と知己になったり、大英博物館でけんかしたり罷免されたりがある中、前出のNatureやNotes and Queriesに投稿を続け、1900年夏目漱石とは入れ違いで34歳で帰国する。柳田や夏目漱石とは視点が違ってあたり前なのである。

 さて、足跡にもどって、身近にFootprintはないものかと考えたがない。似たものは、娘が幼稚園の時に粘土に押し付けて作った手形のついた彫塑の板ぐらいのものだ。ところがネットで調べると、あるわあるわ、特に釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象とした仏足石は日本だけでなくインド、中国、タイなど山ほどある。タイでは、涅槃の仏陀像の足が体に比べやけに大きいことに驚いたが、足が信仰の対象になっていたとは知らなかった。日本では奈良の薬師寺の仏足石が有名らしい。また薬師寺では仏足石の脇に仏足跡歌碑が立ち、5,7,5,7,7,7の仏を礼賛する和歌が刻まれている。同じ形式の歌は古事記、万葉集、播磨風土記にも1首づつあるという。万葉辞典が今手元にないので確認できないのが残念だ。薬師寺の仏足跡は唐からわたってきたものだと紹介(Wiki)されているが、熊楠の論文にも日本の足跡はインド・中国からわたってきたと書いてあるということだ。福井県にも神の足跡があった。大きな岩盤が足跡に似ていることで観光地にしているようだが、こちらは信仰とはあまり関係なさそうである。


”親鸞を読む”を読む

2011-05-01 23:28:54 | 仏教

親鸞は聖徳太子の生まれ変わりだと自称していた。だから、親鸞が気になる。

 親鸞は建仁元年(1201年)29歳の時、京都吉永の六角堂にこもって百日の祈念をしていた95日目に、太子の化身である救世観音があらわれ、その導きによって専修念仏の道に入った(法然の弟子になった)というのである。妻・恵信(えしん)は娘との書簡のなかで、聖徳太子の示現(夢うつつの中に見たビジョン)にあずかって夢のお告げ(夢告むこく)をうけたという思い出話を語っている。

 歎異抄に関する本は何冊か読んだが、親鸞自身の「教行信証」の中身については、山折哲雄のこの本「親鸞を読む」を読むまで全く知らなかった。そして山折の説によると驚くべきことに教行信証と歎異抄では、阿弥陀如来の救済が無条件になされるのかなされないのかという根本において異なっているというのである。歎異抄とは唯円が、”異端を嘆く”として自著につけた表題なのだが、彼自身が親鸞とは異なる説を唱える異端だったことになるではないか。

 教行信証の根本テーマは、”父殺しの罪を犯した悪人は救われるのか。あるいは救われるために条件が必要なのか。”であり、親鸞の結論は、”父殺しが救われるには、善知識(善き教師)と懺悔が絶対的に必要だ。”というものである。これが親鸞の悪人正機の核心であり、悪人が無条件に救われるとする唯円の歎異抄とは根本的に異なるのである。善知識と懺悔は歎異抄には出てこない。

 歎異抄の悪人正機論は、①悪人こそ阿弥陀如来によって救われる第一走者、②どんな小さな罪も前世からの宿業にによる、③海川で生き物を殺して生きている者も救われる。の3つに集約される。極楽往生に条件はないのである。

大無量寿経に法蔵菩薩が48の願をかけて阿弥陀如来になる話があり、そのうち第18願が、”心から極楽浄土に往生しようと思って十念すれば、五逆と誹謗正法を除いて往生できる。”というものである。これをうけて法然は10回念仏すれば極楽往生できるとしたが、親鸞は念仏をしようとする心が起こった瞬間に往生できるというものである。しかし、”五逆と誹謗正法は除く”ままなのである。五逆とは父殺し、母殺し、聖者殺し、仏の体を傷つける者、教団を破壊する者である。親鸞はこの除外規定について考え抜いた上で前記の結論に至ったのである。

 もうひとつ親鸞と唯円の歎異抄が決定的に違うことは、歎異抄の中にある親鸞が弟子たちに向けた言葉からもわかるのである。親鸞は弟子と実の息子(善鸞)が信心論争を繰り広げることに”自身の力及ばず”と自戒した上で、”念仏を信じるのも、それを捨てるのも、おのおの方の考え次第である。”と突き放したようにも思える言葉を伝える。これは、親鸞自身が言ったという”親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。”にも通じ、異端を嘆く唯円の姿勢とはまったく異なる。

次に、教行信証に論語陶淵明の帰去来が出てくるのには驚いた。孔子は鬼神を語らず。親鸞は阿弥陀如来至上主義は取らず鬼神の世界も別途存在することを認めつつも、神を拝みはしない。否定はしないが不拝である点で論語の孔子の言葉と通ずる。教行信証に、”帰去来、他郷にはとどまるべからず。仏にしたがひて本家に帰せよ。”とあり、陶淵明の帰去来辞を愛読していたらしい。

 教行信証の最後、親鸞は最晩年の念仏生活を迎えて、”自然法爾(じねんほうに)”の境地に達するのである。その身そのままの姿で無上の仏になっていることだという。阿弥陀如来に身をまかせきったときにあらわれる姿である。孔子も、人生の最後に、”七十にして心の欲するところに従って矩をこえず”という境地に達するのである。人生の最後は自然体でいたいものだ。それにしても、スーちゃんの最後の言葉には泣いた。”私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でも、そのときは必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。”写真のスーちゃんが観音菩薩に見えた。

 今日の記事を書くにあたって山折哲雄の「親鸞を読む」に加え梅原猛の「歎異抄入門」を参照したが、梅原はその著作に以下のように書いている。

”人間は農耕牧畜文明を創造して以来、人間という自分に自信を持ちすぎ、自分たちが神によって特権を与えられたと思い間違い、自分たちの生命とつながっている動植物を無残に殺し、一方的な自然支配の文明をつくってきた。私はその文明の誤謬のつけが、今、回ってきたように思われてならない。

しかし、一向に人間は未来に待っている恐ろしい運命に気がつかず、依然として、今の文明が永続するように思っている。原子力発電所の事故やエイズが、この文明に警鐘を鳴らすが、人類はそれにまだ気づいていないように思われる。(中略)日本が最も早く終末を経験しなければならないようなことが起こらないとは限らない。

私は、私の言うこの予言が当たらないことを冀(こいねが)うが、このようなことを願わねばならない時代こそが、末法なのである。まさに、法然、親鸞の時代と違った意味の末法の世が今、やってきているように思われる。末法では、やはり強い信仰がなくては生きていけない。(中略)何らかの意味で彼らから教えられ、揺らぎもしない信念を持つべき時代がきているようだ。”

梅原がこの予言を書いたのは、初出のプレジデント社から刊行された1993年か、加筆・訂正後のPHP新書第一版の出た2004年のいずれかと思われる。予言は当たった。梅原はどのような気持ちで、震災復興構想会議に臨んでいるのだろうか。