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吉備真備

2012-07-21 17:10:46 | 古代

 教科書に出てくる吉備真備は遣唐使から帰朝したあと、唐の新しい制度を紹介し天皇の信任を得、異例の出世をしたが、玄とならび政治をろう断したとして藤原広嗣の乱が起こったり、道鏡と対立した仲麻呂の乱を鎮圧したり、権力側に居座り続けた老獪な人物という印象を持っている。井上靖の「天平の甍」でも吉備真備を傲岸不遜な人物と描いていたので、歴史上の人物としてあまり好感をもっていなかった。そのため、彼の生涯にもほとんど無関心だった。

真備の略歴を以下にまとめる。

  • 695年 備中(倉敷)に生まれる
  • 716年 遣唐使留学生(1回目)
  • 735年 帰朝
  • 740年 藤原広嗣の乱(真備・玄を除こうとした)
  • 752年 遣唐副使(2回目)
  • 754年 帰朝 遣唐副使の大伴古麻呂に伴われ鑑真来朝
  • 757年 橘奈良麻呂の乱(奈良麻呂に組した大伴古麻呂は拷問の末殺される。)
  • 764年 藤原仲麻呂の乱(真備が乱を鎮圧)
  • 766年 右大臣
  • 770年 称徳天皇崩御、道鏡左遷
  • 775年 死去80歳

 5月の伊勢紀伊の旅の途上、クジラで有名な太地町の岬の突端で、たまたま吉備真備漂着の碑をみつけた。

 碑の由来には、”天平勝宝5年末(753年)当時遣唐使であった吉備真備が唐からの帰途、遭難して牟漏崎に漂着したと続日本紀に記されている。ここは昔から牟漏崎または、室崎と呼ばれており、その記の牟漏崎はこの岬であると考えられる。その後、真備は船体などの修理のためしばらく滞在し、帰京したものと思われる。---平成23年2月 太地町教育委員会”とある。

続日本紀をネットで探してきた。

(天平勝宝)六年春正月丁酉朔。------入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰。唐僧鑑真。法進等八人、随而帰朝。○癸丑。大宰府奏。入唐副使従四位上吉備朝臣真備船。以去年十二月七日。来着益久嶋。自是之後。自益久嶋進発。漂蕩着紀伊国牟漏埼。○丙寅。副使大伴宿禰古麻呂、自唐国至。古麻呂奏曰。大唐天宝十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官・諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我、次西畔第二吐蕃下。以新羅使、次東畔第一大食国上。古麻呂論曰。自古至今。新羅之朝貢大日本国久矣。而今、列東畔上。我反在其下。義不合得。時将軍呉懐実見知古麻呂不肯色。即引新羅使。次西畔第二吐蕃下。以日本使、次東畔第一大食国上。 

 ”入唐副使の吉備真備の船は、昨年12月7日に屋久島(益久嶋)に来着し、その後屋久島を発ち、紀伊国牟漏崎に漂着”。その前の一文に鑑真の名がみえる。もうひとりの”入唐副使である大伴古麻呂の船が、唐僧鑑真と法進ら八人を従え帰朝した”とある。真備の船は鑑真とは別の船だったようだ。副使の大伴古麻呂は、正使の藤原清河が唐の官憲に遠慮して鑑真の乗船を拒んだのに、独断で鑑真を自船に乗せている。また、上の記事の後半部では、古麻呂が唐での朝賀の際、日本の席次が新羅の次だったことに抗議し、席次を入れ替えさせている。古麻呂はその後、時の権力者の仲麻呂と対立する橘奈良麻呂に組し謀叛したとして捕えられ拷問の末、殺されている。

 道鏡が専横した時も右大臣として何もしなかった学者の吉備真備とは異なり、古麻呂は硬骨の武人だった。しかし古麻呂は現在ほとんど顧みられることはなく、逆に吉備真備は、唐から囲碁を持ちこんだ、誰もできなかった「野馬台の詩」を解読した、張良の兵略書「六韜三略」を初めて日本に持ち込んだので兵法の祖、陰陽道の祖、九尾の狐を連れ帰った、など多くの伝説が語られ、太地町にも漂着の碑が建てられ顕彰されるのはなぜだろう。

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