備忘録として

タイトルのまま

イザベラ・バードの日本紀行

2017-05-27 22:36:48 | 近代史

 イギリス人女性イザベラ・バードは、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京、日光、新潟、山形、秋田を巡り、青森から津軽海峡をわたり、函館から室蘭、白老、苫小牧、幌別、長万部など蝦夷地南部を旅した。これはその旅行記である。文明国から来た彼女の立場から見れば、封建制を捨て近代国家を歩み始めたばかりの日本で、それも外国人未踏の地をめぐっているので、旅行記というよりは探検記に近いかもしれない。原題は『Unbeaten Tracks in Japan(日本の未踏の地)』であることからも、探検記としたほうがいいように思う。別の出版社の邦題は『日本奥地紀行』としていた。

左上:日光から山形まで 右上:山形から青森まで(google mapに立ち寄った場所を示した)

 イザベラは18日間の船旅ののち1871年5月20日横浜に上陸する。横浜・東京に20日ほど滞在したのち、通訳兼従者の伊藤鶴吉を雇い日光に向かい、村長の金谷邸に10日間滞在し、周辺の東照宮などを訪れるかたわら旅の準備をすすめる。当時の日光は日本在住外国人の保養地になっていたが、金谷ホテルはまだ開業前で、金谷はイザベラに外国人向けのホテルを始めるつもりだと語っている。金谷邸での滞在はかなり快適だったようだ。準備の整った6月24日、イザベラは伊藤を伴い馬に乗って東北奥地へ旅立つ。

 本は妹に送る書簡として、訪れた場所の自然地理、地方に生きる日本の人々の生活、アイヌ人の風俗や風習を詳細に描写する。明治初期の山村の人々の暮らしは貧しく栄養状態や衛生状態は極めて悪かった。外国人に対して好奇心が旺盛で決して排他的ではなく、また外国人女性がひとりで旅ができたように治安の問題はなかった。観察は女性らしく丁寧で細部にわたり、通訳の伊藤から聞き取った部分も含め正確に記載されている。しかし、見聞の正確な描写と比べ、その評価は西洋的、キリスト教的な倫理観に基づいているため、公平性に欠けると思われる部分もあった。通訳の伊藤に対する評価も同様で、伊藤の能力や献身を絶賛するかと思えば、あるときはまるで悪人であるかのようにこき下ろし、日によって評価が180度変わるときなど精神分裂症ではないかと疑ってしまった。しかし、よく考えてみると、山中の悪路、調教不十分の馬、劣悪な宿、貧しい食事、蚊、悪天候、異国人の中に外国人がひとりだけなど旅は過酷で、体力的にも精神的にもぎりぎりの状態が連日続き、時に感情的になり冷静さを欠いた評論になるのは仕方がなかったと想像できる。旅の大半は乗馬だったが、津川から新潟までは阿賀野川を、秋田の神宮寺からは雄物川を舟航している。雄物川の河口にある久保田とは秋田市のことで、1871年(明治4年)に久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称し、同年すぐに廃藩置県をしている。7年後イザベラ・バードが訪れたときは、まだ久保田と呼んでいたようだ。イザベラが会った明治初年のアイヌは身体的特徴だけでなく、言語、文化、風俗、宗教など完全な異人種であり、日本語を話すものも少数だった。現状を考えると、その後、日本への同化が急速に進んだと想像される。

 イザベラが日本を訪れた1878年(明治11年)は、本のまえがきを引用すると「封建制が廃止されてからわずか9年しかたっていないのである」。続けて当時の日本を以下のように評している。

多くのヨーロッパ人が日本の発展は「模倣」だとあざ笑い、清国人と朝鮮人は日本の発展を怒りもあらわに、また嫉妬混じりに眺めているが、それでも日本はみずからの進路を保持している。日本の将来をあえて予言するようなことはしないが、わたしには他の東洋諸国から日本を孤立させた永続性を怪しむ理由がなにも見当たらない。また実にさまざまな行きすぎや愚行がありながらも、この動きは日々成長し増大しているのである。(中略)一時は約500人の外国人が政府に雇われていたこともあり、---部門の運営がつぎからつぎへと、外国人の手から日本人の手へ移っていくことを忘れてはならない。お雇い外国人を引きとめておくことは発展の計画にはない。

 明治初期の日本は、初めて足を踏み入れた40年前のシンガポールが、隣国マレーシアやインドネシアと経済的に同レベルだったものが、東南アジア諸国の中から突出して発展したことと酷似している。明治の日本とシンガポールが、周辺国と差別的に発展した理由は、明確な理念にもとづき国づくりを進めた優秀なリーダーとそれを支えた政府や官僚組織の存在に起因することはあきらかだと思う。

 イザベラ・バードの本を読んでいたとき、以前から気になっていたアーネスト・サトウの日記をもとにした萩原延壽の『遠い崖』1,2巻が古本屋で売られていたのを見つけ衝動買いをした。そのままそちらを読み始めたら面白くて中断できず、結局2巻を読み終えてしまった。それでも『遠い崖』は14巻あるので、3巻以降の購入をぐっと我慢し『日本紀行』を読みにもどった。そのため読み始めてから読了するまでずいぶん時間がかかってしまった。イザベラが日本に来たとき、アーネスト・サトウは東京のイギリス公使館書記官で、彼の名はイザベラの本に何度も登場する。『遠い崖』14巻を読み通すのは気力が必要で、いつ読後感想ができるかわからない。そちらは気になる出来事を折々に取り上げて記事にしようと考えている。


La La Land

2017-05-06 18:45:30 | 映画

2017年アカデミー賞にノミネートされ話題になった『La La Land』と『Arrival』よりも、評価のあまり高くない『Collateral Beauty』と『Passengers』の方が面白かった。アメリカ人(ハリウッド?)とは違う感性を持っているということだ。エマ・ストーン、アイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンスと、旬の女優が演技を競う。ポスターはいつものIMDbより。

*****以下、ネタバレだらけなので要注意*****

『La La Land』2016、監督:ダミアン・チェイゼル、出演:エマ・ストーン、ライアン・ゴスリン、今年のアカデミー賞の話題作。女優を目指すミアと自分の店をもつ夢を持つジャズピアニストのセバスチャンが出会い恋に落ちる。お互いを愛し拘束することが夢の障害になることに気づき、ミアが女優になるチャンスをつかんだときセバスチャンは身を引きミアの背中を押す。数年が経ち有名女優になり結婚もしたミアは偶然彼の店を訪れるが、ミアはセバスチャンに声もかけず店をあとにする。それぞれの道が交わることはもうない。ロスのグリフィス天文台の場面など映像は美しいのだが、二人の感情の揺れに共感できなかった。★★★☆☆

『Arrival、邦題:メッセージ』2016、監督:デニス・ヴィレヌーブ、出演:エイミー・アダムス、ジェレミー・ルナー、こちらもアカデミー賞の話題作。異星人の宇宙船が地球にあらわれたとき言語学者のルイーズは異星人の言葉を解読するために呼ばれ、物理学者のイアンとともに異星人と交信し彼らが地球にきた目的を探る。異星人の言葉の解読に成功したルイーズは、彼らが友好的で、かつ未来を見る能力を有していることを知る。宇宙船は世界中に12隻出現し、それぞれの国が対応するが、中国は異星人に不信を抱き攻撃を開始しようとする。ルイーズは異星人の未来予知能力で中国軍総司令官個人しか知りえない妻の遺言を告げ彼の説得に成功する。ルイーズの見る夢が過去ではなく未来の出来事だということが伏線になる。イカかタコのような巨大な異星人の吐く墨の言語がユニークだった。異星人との交流とコミュニケーション過程が、アカデミックな根拠があるのか気になった。映画は淡々としすぎていて、ファーストコンタクトの盛り上がりに欠け、もうひとつ物足りなかった。★★★☆☆

『Collateral Beauty、邦題:素晴らしきかな、人生』2016、監督:デヴィッド・フランケル、出演:ウィル・スミス、ヘレン・ミレン、キーラ・ナイトレイ、ナオミ・ハリス、エドワード・ノートン、マイケル・ペナ、娘を失くしたハワード(ウィル・スミス)は喪失感から生きる意味をなくしていた。広告代理店の共同経営者たちは彼を会社から追い出すための証拠集めに探偵を雇う。ところがハワードはLove、Time、Deathに手紙を書いていること以外まったく何もしていなかったし自殺願望も持っていた。会社の同僚たちは3人の劇団員を雇い彼の異常な行動を引き出そうとする。3人はハワードに近づき、Love、Time、Deathを演じる。一方、ハワードは肉親を失くした人々が集い悩みを語り合うカウンセリンググループの会に立ち寄るが、そこでも心を開こうとはしなかった。後日、ハワードはカウンセリングリーダーのマデリンと夕食をし、彼女の娘が亡くなったときの話を聞く。娘がまさに亡くなろうとしていたとき、病院の待合室で隣に座った老女が、”Collateral Beautyが訪れる”と話したという。Collateral Beautyは字幕では”おまけのご褒美”と訳されていた。マデリンは最初それを信じなかったが今はそれに気づいたとハワードに話す。ハワードは娘の死にBeautyなど訪れるはずがないと反論する。劇団員の言動や共同経営者たちの悩みなど、映画の主題に無理やり関連づけようとするエピソードのすべてがわざとらしく説教くさい。それらをそぎ落とし我慢して映画を見続ければ、最後にCollateral Beautyが訪れ胸が熱くなる。それでも、娘を失くした親の心情を見せる映画に、邦題の”素晴らしきかな、人生”はいただけない。★★★★☆

『Passengers』2016、監督:モルテン・ティルダム、出演:クリス・プラット、ジェニファー・ローレンス、マイケル・シーン、地球型惑星への移住を目指す宇宙船は、5000人の移住者と280人のクルーを冷凍カプセルで冬眠させ、自動航行によって120年の恒星間飛行を続けていた。航行中に隕石が衝突し、宇宙船に不具合が生じ、移住者の一人ジム(クリス・パイン)だけが30年目に冬眠から目覚めてしまう。再冬眠を試みるも果たせず、慰めはロボットバーテンダーのアーサー(マイケル・シーン)の給仕で飲むことだけで、残りの90年をひとりぼっちで過ごすことに堪えられなくなり自殺を試みるも果たせなかった。ジムは悩んだ末、冬眠カプセルの中に見つけた美女オーロラ(ジェニファー・ローレンス)を冬眠から目覚めさせる。オーロラには自分と同じようにカプセルの不具合で目覚めたと思い込ませていたが、ある日オーロラは、アーサーとの会話の中でジムが自分をカプセルから出したという真実を知る。オーロラは裏切られたことから激しく動揺し怒りをジムにぶつけ、二人は絶交状態になる。そんなある日、再びカプセルの不具合が発生し、クルーの一人ガスが冬眠からさめ、宇宙船の動力源に深刻な問題が生じていることが判明する。ガスは重度の病気のため宇宙船の修理をジムに託し亡くなる。宇宙船を救うためジムは自分の命をかけて動力源の修理に向かう。ジムの孤独と無償の行為、オーロラの動揺と怒りと許し、極限状態の宇宙船の中で二人の揺れ動く感情に引き込まれる。★★★★☆

『Allied』2016、監督:ロバート・ゼメキス、出演:ブラッド・ピット、マリオン・コティヤール、1942年ドイツ軍占領下のモロッコで夫婦役を演じたカナダ情報局のスパイ(ブラピ)とフランスのスパイ(マリオン)が恋に落ち、ロンドンで結婚生活を始める。子供も生まれ幸せな生活を送る中、妻に二重スパイの嫌疑がかけられる。妻の無実を証明するために夫は妻を知る人間を必死で探す。夫に感情移入し、彼女が無実であって欲しい、彼女の愛が真実であって欲しいと願いながら観たが、最後衝撃の結末を迎える。★★★☆☆

『Assasin's Creed』2016、監督:ジャスティン・カーゼル、出演:マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤール、遺伝子レベルの記憶を再現できる機械で、アサシン教団の血筋の男が15世紀の教団の首領とリンクする。先祖の技能を身に着け現代で自分を捕えた組織と戦う。アサシン教団の存在をマルコ・ポーロが東方見聞録で記録していることと、マリオン・コティヤールが出ていなければ観なかったし、観たことを後悔している。★☆☆☆☆

『Fences』2016、監督:デンゼル・ワシントン、出演:デンゼル・ワシントン、ビオラ・デイビス、スティーブン・ヘンダーソン、父親の息子たちや妻に対するあまりの独善的な行動についていけなかった。そんな夫の言動に耐え家族に寄り添って生きていた妻が、夫の裏切りに感情を爆発させる。妻役のビオラ・デービスの演技はアカデミー賞助演女優賞に値すると思う。★★★☆☆

『百日紅 Miss HOKUSAI』2015、監督:原恵一、声の出演:お栄(杏)、北斎(松重豊)、北斎の娘お栄のことを描いた杉浦日向の原作を漫画映画化したもの。北斎も北斎と同じくらい変人のお栄も描き方が甘いように感じた。自分の中で北斎像が出来上がってしまっている所為だと思う。そういう意味では観ない方がよかった。★☆☆☆☆ 


ビザンティン帝国

2017-05-01 00:13:37 | 西洋史

1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルがオスマントルコによって陥落した話は、塩野七生の『コンスタンチノープルの陥落』などに詳しい。イスタンブールの考古学博物館でみた金角湾を封鎖する鎖、鎖を回避し軍船を陸送し金角湾に入れた話、21歳のメフメト2世の決断、コンスタンティヌス11世の最期などドラマチックだ。陥落までのコンスタンティノープル、東ローマ帝国、ビザンティン帝国の歴史を、井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』で辿った。

ローマ帝国の分裂

ローマ帝国は紀元395年に東西に分裂し、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を都とした。人種的にはギリシャ人であり、ギリシャ語を用いながら、ローマ人・ローマ帝国と自称しつづけた。

コンスタンティヌス帝

コンスタンティヌスは、まだローマが分裂する前、多くのライバルとの戦いに勝ち抜きローマ皇帝となった。最後の戦場となったボスポラス海峡に臨む町の戦略的重要性を認識したコンスタンティヌス帝は330年に遷都し、コンスタンティノープルと自分の名を冠した。帝はキリスト教に改宗し、キリスト教を国教とした。皇帝が神となったのである。井上浩一は、ここで戦前の天皇制を例えとして以下のように語る。

「天皇制イデオロギーに基づく第二次世界大戦・戦中の超国家主義、侵略戦争に対して、キリスト教徒は強く抵抗した。戦後における天皇制に対しても、靖国神社や「建国記念の日」の問題をめぐって、同様の立場を貫いている。そこに宗教者の良心をみることができるだろう。しかし、----もし天皇がキリスト教に改宗したならば、キリスト教者の反天皇制運動はどうなるのだろうか、と、コンスタンティヌスの時代に生じたのはまさにそれであった。ーーーー皇帝や天皇が神になったとしたら、神を相手に批判はできまい。ーーーーマルクスはビザンティン帝国を最悪の帝国と呼び、キリスト教を現実を肯定する宗教として批判したが、マルクス主義が体制を擁護するイデオロギーになったとき、同じ悲喜劇を繰り返すであろう。」

左下の写真は3月の旅で撮影した「コンスタンティヌス帝の柱」で、イスタンブールの丘の上に建っていた。かつて塔の上には帝の像があり、イスタンブールのどこからでも見えたという。右下の写真はブルーモスクとアヤソフィア聖堂近くにあったオベリスクで、競技場跡地に建つ。オベリスクはエジプトから運んで来たもので、塔の表面には象形文字ヒエログリフが刻まれていた。台座には競技場で観戦するコンスタンティヌス帝のレリーフがある。競技場では映画「ベンハー」の戦車競走などが行われ市民は熱狂したという。

文明批判としての宗教

井上浩一はさらに脱線し、行き過ぎた文明批判としての宗教の役割について懐疑を示し、以下の法学者ケルゼン(オーストリア生1881~1973)のことばを引用する。

「宗教の歴史を顧みるならば、ただ神とともにあることに満足した信者は一人もいない。自ら神に服従しようとする者は、常に他人をもこの神に服従させようとするものである。自らを卑下することのはなはだしく、我が宗教的献身の狂信的であればあるだけ、神はいよいよ高められ、この神のための闘争は情熱的となり、神の名において他人を支配しようとする衝動は限りないものとなり、この神の勝利は高らかに謳われる。(H・ケルゼン「神と国家」長尾龍一訳)」

このような行動は、ISやオウムやその他諸々の宗教に多かれ少なかれ見受けられるように思う。

ビザンティン帝国の繁栄

6世紀のユスティニアヌス1世のとき、486年に滅びた西ローマ帝国の領地も含め地中海沿岸をほぼ網羅する最大版図を回復する。聖ソフィア教会は彼の治世中の6世紀に建てられた。8世紀から10世紀にかけてビザンティン帝国は繁栄し11世紀に黄金時代を迎える。その後は縮小し続け、15世紀に滅亡したときにはコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を残すのみとなっていた。皇帝専制体制の帝国を支えたのが有能な少人数の官僚だった。教育レベルの高い官僚が税収などを担当した。これは、科挙を合格した優秀な官僚が国を支えた唐などの中国王朝と似ている。帝国末期、彼らが腐敗していったことも同じだ。帝国の教育レベルは高く、履修科目として古代ギリシャ語、算術、幾何、天文学、音楽、哲学、法学があり、ホメロスは教養人の常識だった。一方、宮廷内では妻や側近が皇帝を暗殺するなどの陰謀が繰り返された。それでも帝国は繁栄をつづけたのは呂后や則天武后時代の中国王朝に似ている。

イスラム教の勃興

622年はイスラム紀元元年で、マホメット(ムハンマド)がメッカからメジナへ移った年である。彼の死後2年目の634年からイスラムのビザンティン領土への侵攻が始まった。以降、1453年の滅亡まで、イスラムとの戦いが延々と続く。

キリスト教

キリスト教はモーゼの十戒にあるようにそもそも偶像崇拝を禁じていた。ところがギリシャ文明とそれを継承したローマ文明の神々は人間の姿をもち、人間と同じような感情をもち、不死を除けば人間と変わらない存在だった。キリストや神の偶像化はギリシャ型への傾斜によって肯定されていく。これは、ブッダの偶像化が、アレキサンダー大王の遠征後にガンダーラやマトゥーラで始まったことと符合する。ビザンティン帝国の国教はギリシャ正教である。10世紀に勃興したロシアは、コンスタンティノープルに送った使節が壮麗な聖ソフィア教会に感動し正教会を導入することを決めている。 

イタリア諸都市

11世紀の地中海の制海権はイタリア諸都市に握られていた。海軍を持たないビザンティン帝国はアドリア海から侵入してきたノルマン人との戦いにヴェネチアの援助を受けた。その対価として関税なしでの商業特権を与えた。その後も、有力都市であるジェノヴァ、ピサなどにも商業特権を与え、経済的にはこれらイタリア諸都市に従属した。

十字軍

トルコとの戦いでは西ヨーロッパに援助を求め、これに呼応してきたのが十字軍だった。1204年の第4回十字軍はビザンティン帝国の宮廷陰謀に加担しコンスタンティノープルを攻め落としラテン帝国(1204~1261年)を樹立する。ビザンティン側はトルコ各地に亡命政権が生まれ、そのうちニカイアの亡命政権が有力となり、1261年ヴェネチアやラテン帝国の軍隊が遠征に出ている隙をついてコンスタンティノープルを奪還する。

コンスタンチノープルの陥落

 オスマントルコは1299年に小アジアのアナトリアで建国する。徐々にビザンティン帝国の領土を蚕食し、14世紀末には周辺の小アジアとバルカン半島のほぼ全域を支配し、コンスタンティノープルの征服を残すのみとなった。1402年いざコンスタンティノープル攻略に取り掛かろうというとき、中央アジアから遠征してきたチムールに大敗し、スルタンのバヤズッドは捕えられ帝国は解体した。これでビザンティン帝国は一息つくことができた。オスマントルコは、チムールの死、ビザンチン帝国の弱体、西ヨーロッパ諸国の傍観などに救われ10年後に再興する。そして1453年、若きスルタンのメフメト2世(1432~1481)によりコンスタンチノープルは陥落する。彼のコンスタンティノープルでの業績は、下のイスタンブール考古学博物館のパネルに書いてあった。防衛設備の修復、ハギヤソフィア教会をアヤソフィアモスクに変え建物を保護したことを始め教会を少しづつモスクに変えていったこと、非モスリム信者の保護、水道施設の整備などである。

井上浩一は、まとめで、「ビザンティン帝国一千年の歴史のかなめは、状況に応じて生まれ変わっていったところにある。すなわち、強固な(政教一致の)イデオロギーや伝統だけで国家を一千年も存続させることはできず、建前を残しながら、現実と妥協し、危機に対応し、生まれ変わること、いいかえれば革新こそが帝国存続の真の条件だった。」と結ぶ。すべての組織運営に通じる示唆的な言葉だ。