備忘録として

タイトルのまま

崇徳院

2007-12-23 01:30:04 | 中世
”瀬をはやみ~~~”と
NHKの連ドラ「ちりとてちん」でくり返しくり返し叫んでいたとき、この古典落語”すとくいん”が、鳥羽上皇と待賢門院の子で、保元の乱に敗れて讃岐に流された、西行の友達のあの”崇徳院”であることに全く気がつかなかった。崇徳院は以前このブログの”殺生石””西行””とわずがたり”の段で断片的に登場しているのだけれど、Wikipedia風にもうすこし詳しく説明すると次のようになる。

略歴:第75代天皇。74代鳥羽天皇と待賢門院璋子の子。72代白河天皇(鳥羽天皇の祖父)に7歳のときから育てられ成人を待って寵愛を受けた待賢門院は鳥羽天皇に与えられた後すぐ崇徳院を生んだため、鳥羽天皇は崇徳院のことを”叔父子”(自分の祖父の子=叔父でありながら自分の子供である)と呼んだ。5歳で天皇となった崇徳院だが、鳥羽上皇に疎んじられ、まもなく異母弟の近衛天皇に譲位させられる。近衛天皇の死去後復権を願うが、実弟の後白河天皇が即位したため保元の乱を起こす。保元の乱に敗れた崇徳院は讃岐の国に流され、配流8年後の46歳のとき崩御した。

怨霊伝説:崇徳院は最初の3年ほどは菩提のために写したお経を都へ送ったが、後白河天皇は呪詛が込められているのではと疑い、これを送り返した。怒った崇徳院は都を呪詛しながら死んだとされる。鎮魂のため御陵近くに白峯寺が建立された。崇徳の「徳」には怨霊封じの意味があり、不遇の死を遂げた場合につけられる字と言われている。源平の壇ノ浦で入水した安徳天皇、佐渡に流された順徳天皇や聖徳太子の「徳」も同じで法隆寺を鎮魂の寺とするのが梅原猛である。天皇家が怨霊を恐れることは近世まで続いており、明治天皇は白峰神宮を京都に建て崇徳院を祀った。また、淡路島に流された淳仁天皇も合祀した。

西行との関係:西行は配流中の崇徳院に歌を贈っている他、死後3年ほどして讃岐の御陵を訪れている。西行が出家したのは待賢門院に恋慕したことが原因という説がある。

歌:瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

落語”崇徳院”のあらすじ:ゆきずりに出会った娘から崇徳院の歌の上の句をもらった若旦那が下の句の意味を知り、恋煩いにかかってしまう。娘探しを引き受けた熊五郎は唯一の手がかりである歌の上の句を大声で叫びながら大阪中を探す。娘の方も恋煩いをし代理の男に若旦那探しを頼んでいたのに出会った熊五郎は大興奮しもみあいとなり、はずみで床屋の鏡が割れてしまう。床屋の主人に「鏡をどないしてくれる」と言われた熊五郎は「割れてもすえに買わんとぞ思う」

今週の「ちりとてちん」は、破門された”草々”の生い立ちと師匠・兄弟弟子との関係に泣かされた。

熟田津に

2007-12-22 15:24:45 | 万葉
”熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな”
661年、斉明天皇、中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)らが新羅遠征に出向く途上、伊予の石湯行宮(いわゆのかりみや)に立ち寄ったときに詠まれた万葉歌である。石湯行宮は今の道後温泉で、12代景行天皇、14代仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子、34代舒明天皇とこの歌の時の37代斉明天皇の五度の行幸(みゆき)が「伊予国風土記逸文」に記されている。
この歌に関する通説は額田王が詠んだ勇壮な船出の歌というものであるが、万葉集の左註に斉明天皇が詠んだという説があったり、犬養孝によると歌の意も、”進発祭礼の応詔歌、船遊びの歌、禊の行事説などがあり、種々問題の多い歌である。”ということである。
種々の問題については、梅原猛が”赤人の諦観”の中で詳しく考証し、得意の怨霊鎮魂説を唱えている。すなわち、19代允恭天皇の御代に伊予に流され死んだ木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)に加え、子孫一族が断絶した悲劇の聖徳太子の鎮魂も意識した歌であるというのだ。新羅遠征前に怨霊を鎮め戦勝を祈願したものであるという。
新羅遠征は、660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の遺臣の要請を受けて実行されたものである。斉明天皇ら一行は、難波を出て瀬戸内海を西行し、本来ならまっすぐ北九州に行くべきところ、わざわざ瀬戸内海を横断し伊予に立寄ったのが1月14日で、どのくらい伊予に滞在したのかは定かでないが、博多に着いたのは3月25日であった。この急ぎの遠征軍がわざわざ寄り道し時間を費やしたかについて、梅原猛は軍団を整えるという軍事的理由と航路の平安と戦勝祈願の神事的理由の2つをあげ、前者は前年660年に駿河の国に命じて船をつくらせるなどの記事が日本書紀に見えることから可能性はなく、後者以外には考えられないとしている。
ところが、古田武彦の九州王朝説を採るとまったく違った見方になるのである。すなわち百済から援軍要請を受けたのは朝鮮・日本地域の盟主である九州王朝で、その同盟国の大和王朝はその要請で援軍を出すのだが、新羅や唐と内応していたのかわざと戦場への到着を遅らせたというのである。
古田の九州王朝説については別の機会にその論拠をまとめたいと思う。法隆寺や聖徳太子、邪馬台国、広開土王碑の古田説も面白い。

梅原猛の”赤人の諦観”で、赤人が何に諦観(あきらめ、悟って超然としている)しているのか、本を読んでよく理解できなかった。柿本人麻呂が比較として語られ、人麻呂の歌が熱く情感豊かであるのに対し赤人の特に長歌にはほとんど感情がないというのだ。人麻呂がその情熱故に流罪になったのを見た赤人は感情を押し殺し宮廷歌人を坦々と生きていたということか。これを理解するには”水底の歌”を読むしかなさそうだ。


出雲大社

2007-12-16 13:04:00 | 

12月初めに妻と二人で出雲大社へ行った。
出雲大社は大国主命を祀り縁結びの御利益があることで有名である。梅原猛によると出雲大社は大国主命の怨霊を封じ込めていて、出雲の地は大和の神々を流し幽閉する流竄(るざん)の地なのだそうである。毎年10月は八百万の神々が出雲に参集するので全国的に神無月となるが、出雲では逆に神在月と呼ばれる。

出雲大社には大学1年の夏の一人旅と1989年11月末に家族で訪れていて今回が三度目である。学生の時は徳島から岡山・山口を通り萩に出て鳥取に向かう途中で立ち寄った。国鉄の周遊券を使い、1990年に廃線になった国鉄大社線を通り同じく廃駅になった大社駅(下写真:今の大社廃駅)で降り大きな松並木が続く参道を歩いて出雲大社へ行った。

1989年の時は2,5,8歳の子供3人と妻をカローラに乗せて広島から大社を訪れ、日御碕の国民宿舎に泊まり帰りは三瓶山に立ち寄った。日御碕の国民宿舎も今はもうない。

古文書に、古代出雲大社の高さは大昔32丈(96m)、鎌倉時代は16丈(48m、15階建てのビルに相当)あったという記録が残っているそうだが、現在は24mである。2002年に境内で直径1.3mの柱を3本束ねた柱遺構が発見され、平安から鎌倉時代は16丈の高さであったことは確実となった。さらに高い96mは木造建築技術からは不可能という試算もあるということだが、アメリカにあるジャイアントセコイアの樹高は80mを超えているので建設不可能ということはないはずだ。史書にある鄭和の長さ125m幅50mの船が、100年後のコロンブスのサンタマリア号の長さ18mと比べあまりに大きいので白髪三千丈のような中国流の誇大記載という意見が歴史家の間で支配的であったのが、近年11mの舵軸が発見されて史書の記述が正確であったことが確認(船のサイズを矮小化する意見もまだある)されたように、出雲大社でも今後もっと古い遺構が発見されるかもしれないので、現在の常識で過去を判断するのは辞めたほうがいい---と、梅原猛も言っている。

梅原猛の”赤人の諦観”を読んだばかりだが、内容の理解が今一つだったのは別著”水底の歌”を読んでいないからだと思う。その柿本人麻呂が死んだ石見の海は出雲の西である。柿本神社は最西端の益田にある。明石の柿本神社には1987年神戸で明石海峡大橋の仕事をしていた時に行った。

天離る 夷の長通ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ

梅原によると、これは人麻呂が流罪を解かれ都に帰ってくるときに詠んだ歌としたほうがより理解が深まるそうだ。ついでに人麻呂の歌3首。

御津の崎波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船寄せかねつ野島の崎に
玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ
淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す

ここに出てくる”野島”は淡路島北端近くの地名だが、万葉集よりも1995年の阪神・淡路大震災のときに地表が大きく横ずれし、その断層の名前として有名になった。野島断層はこの地から北東に延び、明石海峡大橋の真ん中を通って神戸に達している。断層は地震時に1~2m横ずれを起こし、そのとき建設中だった明石海峡大橋は主塔間が1m程拡がってしまった。構造物に損傷は発生しなかったので図らずもこの地震によって橋の耐震性能は万全であることが証明された。また、世界最長の主塔間隔1990mに対し1mのずれは、わずかで問題にはならない。

1987年、明石海峡大橋建設前の最後の地質調査のため約半年神戸垂水にいた。神戸側の主塔(2P)は明石層という厚い砂礫層に、淡路側主塔(3P)は神戸層という軟らかい泥岩に基礎を置く。同年、7月19日に調査報告書を書きあげ、翌20日駆け付けた仙台で長男が生まれた。明石にちなんだ名前をつけようかとも考えたが結局中国故事からの名前とした。


飛鳥とは何か~隠された十字架-法隆寺論

2007-12-09 23:38:41 | 古代
梅原猛の表題本2冊を読んだ。
梅原は、”飛鳥とは何か”の中で、自説に対して「法隆寺の謎を私は解き明かした」、「私の説が間違っているというなら、ひとつひとつ反論すればいい」と挑発するのだが、巻末で解説する上原和は、「はたして法隆寺が太子の怨霊を封じる鎮魂の寺であったかどうかは、しばらくおく」と極めて抑制的である。上原和の言う「歴史学者が理にかなう事実を追うことにのみきびしく、人間の真実を見る目を曇らせてきた」とあるように、梅原猛の法隆寺怨霊説は歴史学者の学問の外にあるため「私の周囲には反論の声を上げる人はいない」(梅原)のは当然なのである。
梅原の方法は例えば日本書記の中で法隆寺の建立や再建が書かれていないのには意味があるはずだという疑問から発するのである。歴史学者は書いてあることが真実かどうかを考古学や他の文献で解き明かすことが学問の中心であり、書かれていないことは研究対象にはならないのである。津田左右吉流の文献批判では文献に記されていることでも、それが不合理であれば信用できないとして、史実ではないと捨て去ってしまう。ましてや書かれていないことを理由に何かを推論していくことなど歴史学者には到底できないことなのだろう。
梅原猛は哲学者で上原和は美術史家でありながら、魅せられて法隆寺と聖徳太子の研究を続けており、個人的に上原和の身内から聞いた話では、お互い変人どおし気が合うのだそうだ。

ところで、法隆寺の再建年を、上原和は680年、梅原猛は710年頃(和銅年間708~715年あるいは和銅に近い時期)としているのだが、法隆寺五重塔の心柱が年輪年代法で594年伐採と出たことに対してどのような説明を用意しているのだろうか。他の寺からの移築説が妥当と思うのだが、仮に二人が移築説に同意するなら、どの寺を移したものだろうか。
聖徳太子の顔を模したといわれる救世観音は白布に捲かれ再建当時から長く秘仏として逗子の中に納められていた。明治17年のフェノロサの強要で公開されるまで1100年余り眠っていたらしい。梅原猛の言う中門の真ん中に立つ柱の謎などは単なる思い込みとしか思えないのだが、救世観音の解釈には納得させられる。彼の解説を読む前と読んだ後に見た救世観音の印象がまったく変わってしまった。
本の題である”隠された十字架”の十字架に対する説明がどこにも書かれていないのだが、今読んでいる”赤人の諦観”にそれが説明されている。聖徳太子の一族の悲劇、厩戸、復活伝説など法隆寺と聖徳太子伝にはキリスト教の影響があるかもしれないという暗示なのだそうだ。
今日、”聖徳太子”4巻を買った上、”水底の歌”も購入リストに入っているので、しばらくは梅原漬けだ。