備忘録として

タイトルのまま

孔子 その2

2010-11-27 21:18:22 | 中国

昨日、鑑真が仏教を学んだ中国揚州の大明寺に、唐招提寺の鑑真像(江戸時代の木造像)が送られ展示公開される式典の模様が、”鑑真和上像里帰り”としてテレビニュースで流れていた。送られた木造像は、上原和が一日中御前に坐して対面しまつ毛の1本1本が確認できたという7世紀の乾漆像を模したものということで、それも国宝になっている。

今日は鑑真の話ではなく、孔子の話を記す。史記列伝を読み終えた後、井上靖の『孔子』(上は表紙の井上靖による題字)を読んだ。

これまで、孔子といえば、高校の漢文の授業で出てきた”子曰く、”で始まる詞の一部、大学の教養部で受講した『論語』、白川静の『孔子伝』、中島敦の『弟子』の子路の目を通した孔子、史記世家にあった孔子世家、シンガポール航空の機内で観た孔子の中国映画である。論語と白川静の孔子伝までは興味はあったものの孔子に人間的な魅力は感じなかった。大学の論語の授業は単位が簡単にもらえると聞いて取ったもので受講者が多く大教室での講義だった。出席をとらなかったので1回授業に出ただけで最後はレポート提出で単位がもらえたと記憶している。その程度だったから、

”子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。”

といった有名な詞に”ほ~”と感心する程度で、論語の人生訓や道徳臭が好きになれなかったことにもよる。

井上靖の『孔子』は、孔子の弟子の一人が孔子の死後、孔子を研究する人々の前で孔子と行動をともにしたときの孔子や弟子の顔回、子路、子貢らの言葉や行動を解釈する態で話がすすむ。

孔子一行が陳から蔡へ向かうときに食料がなくなり皆が困窮したとき、子路が突然立ち上がり孔子に向かって、”君子も窮しますか?”と子に投げつけるようにまるで怒っているように言葉を発する。”君子も窮しますか?”子路は、また言いました。孔子は、子路のほうに顔を向け、”君子、もとより窮す。小人、窮すれば、斯(ここ)に乱る。”と、皆がはっとするほど大きな、力の入った声で答える。それを聞いた弟子たちは皆、居住まいを正し、この詞を聞いた以上、飢えようが死のうがもう構わない、そんな思いで感動した。という話が、まさに物語として語られているのである。

”五十にして天命を知る”についても、しつこいほどその意味が語られる。自分の生涯の仕事を見つけた。人間がなすことは正しいことであれ悪いことであれ天が定める。人は常に正しいことを行うことに努めなければならず、その場合に天は嘉してくれる。などいろいろな意見が人々によって語られる。

小説には弟子の品定めもある。顔回が一番だとか、子路だとか、いや子貢だという意見が戦わされる。最後には孔子は3人の弟子が互いに助け合って孔子の意思を継ぐことを願っていたという意見に落ち着く。

論語の人生訓が羅列された中にある同じ詞が、井上靖の小説の中で生きた言葉になっているのである。自分の中で知識としてしか感知されていなかった孔子の言葉が生き生きとしてくる。これが小説の力なのだろう。『孔子』は井上靖が80から82歳のときに書いた小説で、翌年83歳で亡くなっているので最後の長編になる。同じ話が何度も出てきてしつこいと感じる個所も多々あるが、井上靖の力を感じた小説である。

下の写真は白川静の『孔子伝』の表紙に使われた孔子像で、和刻『聖賢像賛』寛永20年刊よりとある。その下の写真は、大学の授業で使った金谷治訳注『論語』の巻頭写真にある明の時代の孔子像で、従っているのは顔回である。


唐大和上東征傳

2010-11-21 14:04:32 | 古代

昨日20日、成城大学で開かれた上原和による『唐大和上東征傳』講演会に妻と参加した。主催者による上原和の紹介から講演は始まった。東征傳原文を上原和が解説するもので、東征傳の解釈に1時間、上原和が和上(鑑真)の足跡を訪ねたスライドショウが1時間、合計2時間の講演である。1時間では、東征傳1ページ目導入部と9ページの鑑真の一番弟子である祥彦(しょうげん)が和上の前で死ぬ場面を解説するのが精いっぱいだった。上の資料の書き込みは上原和の解説を一言一語聞き逃さない覚悟でとった私のメモ。
昭和32年に九州の国立大学(九州大学)にいた上原和は誘われて成城大学に移り専門の西洋美術史とドイツ語を教えていた。前島信次の『玄奘三蔵』に出会い”仏教or東洋?”に興味を持つようになった(不覚にも忘れた)。
東征傳の安藤更生による現代語訳も資料として配られたが、上原和によると時代時代にはスタイルがあり、その時代の精神を知るためには原文を読む必要がある。現代語訳では鑑真の精神は伝わらないので原文をぜひ読んでもらいたい。また現代語版訳者の”安藤更生は海南島には行ってない。”と上原和は2度繰り返したが、訳者も鑑真と同じ道を歩かなければ原文の精神を伝えられないということである。平成8年まで教鞭を取っていた上原和は東征傳原文を1年かけて学生と読み解いたという。それを1時間でやるのだから無理がある。と本人。
上原和は昭和39年の6月5日(旧暦)開山忌に唐招提寺を初めて訪れ、講堂の西隅にあるお堂の中の鑑真像を拝観する。当時は3~4人しか訪れる人がなく一日中鑑真像の前にいて疲れたら講堂の屋根を見た。お堂の前にある芭蕉の句碑”若葉しておん目の雫拭はばや”のとおり若葉の季節に和上のまつ毛の1本1本をはっきりとみることができた。
東征傳は真人元開撰となっている。真人とは皇族の最高位で元開という僧侶名を持つ淡海三船による略伝で、元本は鑑真の弟子である思託(したく)撰『大唐伝戒師僧名記鑑真傳』おそらく3~6巻はあったであろうことが広傳されているが今は残っていない。思託は鑑真にずっと従い鑑真を荼毘にふしたのも思託だった。淡海三船は文章博士という役職にあり壬申の乱で天武天皇に敗れた弘文天皇(大友皇子)のひ孫にあたる。
”大和上諱(いみな)は鑑真”、諱とは死後与えられるおくり名。”揚州江陽県の人なり。俗姓淳于(じゅんう)。斉の弁士髠(こん)の後なり。”、淳于とは1000年以上続いていた大変な名門で、司馬遷の史記列伝第14の孟子・荀卿列伝に名前が載っている。淳于髠は斉の6人の弁士の筆頭であった。首都である臨淄(りんし)に稷門という門がありそこにいた学者を稷下の学士と呼んだ。淳于髠は魏(梁)の恵王に招かれたが2度とも一言も発しなかった。恵王がいぶかしく思い訪ねたところ髠は王様の心が他のことに奪われていたので黙っていたのだと答えた。(帰宅後すぐに史記列伝を紐解き淳于髠を確認した。)
”大和上十四にして父に従い寺に入る。---則天長安元年(702)---沙弥(出家)になり菩薩戒を受ける”。菩薩戒とは大乗仏教の菩薩のこと。”景龍元年(707)西京(長安)の實際寺で具足戒を受ける”。具足戒は250の完全な戒律。
鑑真は、”昔聖徳太子が有ってから200年後、---この運に鐘(あた)る。仏法興隆”のために自身が日本へ行くというが、一番弟子の祥彦(しょうげん)は”百無一至”百に一度も到達できないと反対する。これに対し鑑真は、”不惜身命(ふしゃくしんみょう)”何ぞ命を惜しまんと述べ、弟子21人と日本へ向けて出立する。
ここで主催者より時間なので休憩に入りたいという無粋なアナウンスがあった。上原和は、ちょっと待てと、どうしても話さなければならないという9ページに飛び講義(講演ではなく講義になっている)を続ける。
”次に吉州に至る。僧祥彦船上に端坐し思託師に問うて云うに、大和上お目覚めだろうかと。思託答えていわく、眠りよりいまだ起きず。彦いわく今死別せんとす。ーーー大和上香をたき、彦を椅子にすわらせ西方に向かい阿弥陀仏を念じる。彦は一声仏をとなえ端坐し寂然として言なし。大和上、彦(げん)よ彦(げん)よとさけび悲慟かぎりなし”。この部分の朗誦は上原和自身が鑑真になりきり慟哭のようにも感じられ、感動限りなしだった。
このあとスライドに移るが、2枚目の唐招提寺の鳥瞰写真で鑑真像の座すお堂が写真の左手になければならないのに右手にあったためスライドが左右逆転していることに気づく。いいかげんな主催者はこのままお願いしますと言うのを上原和が受け入れるはずもなく、80枚のスライドはたまたま映写機の隣に座っていた私が総入れ替えした。
スライドは上原和が鑑真の足跡をたどる旅で、海南島の市場で売られるウミヘビの写真を見せ、東征傳の”虵海・飛鳥の海”という記述そのままであり(これは上原和の『トロイア幻想』に記述されている。)、鑑真は海南島まで行ってない東征傳は作り話といった小説家がいたが現地は東征傳そのままの土地であった。この小説家のことは今回の講演では名前を伏せて2度話に出したが、『トロイア幻想』でははっきり松本清張と書かれている。スライドの終わりの方で和上が失明したという嶺南を越えて廬山に入る唐のころの山道と、祥彦がなくなり和上が”彦よ彦よ”と慟哭した河の船上で手を合わせる上原和が出てくる。80歳を超えた上原和は不惜身命の覚悟で中国の旅に出たのだと言う。講演は講義からいつの間にか講談に変わっていた。
講演会後、上原和と2~3言葉を交わし名刺をもらった。肩書は成城大学名誉教授、裏面は英語で、Dr.KAZU UEHARA Honorary Professor of Japanese Art History Seijo University
充実の2時間だった。参加者は成城短期大学の同窓会の催物として開催された講演会だったので卒業生とカルチャークラブの会員のような年配者ばかりだった。おそらく私たちが最年少だったと思う。鑑真でここまで面白いのだから、聖徳太子や法隆寺の講演だったらどれほどかと思う。

The Bucket List その3

2010-11-16 00:38:22 | 映画

昨晩はテレビ観賞で忙しかった。バレーボール世界大会日本対アメリカの3位決定戦、龍馬伝、広州アジア大会、その上日曜洋画劇場で”The Bucket List"をやっていた。この映画はOne of my most favorite moviesなのでまた観てしまった。前回はシンガポール行きの飛行機の中で英語と吹き替えを交互に観たため聞き逃しがあったようで、今回のテレビは字幕で通して観たため新しい発見があった。なんとキューブラー・ロスの死の瞬間の5段階についてエドワードとカーターの二人が語っているではないか。

第1段階Denial拒絶、第2段階Anger怒り、第3段階Bargaining取引、第4段階Depressionうつ、第5段階Acceptance受容

二人ともこの5段階を知っていて、”自殺を考えたか?”というエドワードの問いかけにカーターは”No”と答え、”自殺を考えないということはDenial(拒絶)だから第1段階だ”とエドワードが返す。”それじゃお前は何段階だ?”とカーターが問い直すと、エドワードは”Denial”と答える。それで自殺を考えるのはおかしいじゃないかと言うのに対し、エドワードは、”Yeah, okey, It's just a frame of .....”単に気分的なものだと言う。

ところが、この会話は、医者が余命を宣告する前なのである。すでに二人とも自分がガンであることは知っていたので、ある程度の覚悟はあっても一縷の望みは持っていたはずだから、まだ5段階をどうこう言う段階ではない。だから多分、just a frame of "kidding"ジョークを言いたい気分だったのかもしれない。

龍馬は土佐に帰り大政奉還を幕府に建白するよう大殿様容堂を説得する。藩も侍もなくなった日本はどうなるという大殿の問いに龍馬は日本人が残ると答える。ドラマはまもなく訪れる龍馬の死を前提に語られていく。今やっている大仕事が終わったら、お龍と土佐に帰り坂本家を継ぐこと、家族を蒸気船に乗せて世界を見せることを乙女に約束する。あと40日。


南方熊楠 その2

2010-11-14 18:52:57 | 近代史

南方熊楠は1867年に生まれ、1941年に74歳で没した。宮沢賢治は1896年生まれで熊楠より30歳ほど若いが、1933年に37歳で早逝したので熊楠の活躍した時期に重なる。二人の性格は相当異なっているが、熊楠は粘菌、賢治は化石の収集と研究、自然に対する敬意と仏教を信じたところなどは共通する。熊楠は真言密教、賢治は法華経に帰依(どこまで信心深かったかは不明)し、それぞれの生き方や作品に影響を与えている。

 水木しげるの漫画「猫楠」によると、熊楠は粘菌の研究を通して、”粘菌の一生は生死の現象を見せてくれる。生命現象の奥に潜んでいる大宇宙の根源は何かをつきとめたかったのである。”、”彼を支えたバックボーンは、真言密教の教えだった。”という。真言密教で大宇宙の根源は大日如来である。熊楠は高野山の住職と知り合いで高野山で粘菌採集もしている。熊楠は採集した粘菌を、かつて働いて(研究して)いた大英博物館のGulielma Listerに数多く送っていたが、そのうち彼の自宅の庭の柿の木から採取した変形菌は、新種であったため彼女によってMinakatella Longifila Listerと名付けられた。写真は南方熊楠記念館Web-siteより。

 下は国立科学博物館のWeb-siteのススホコリの写真である。子のうから胞子を出して繁殖する。風で運ばれた胞子は発芽し粘菌アメーバが這い出してくる。粘菌アメーバは水の中をべん毛を使って泳ぎ分裂を繰り返し増える。+と-の異性粘菌アメーバは接合し、さらにバクテリアやカビを食べて変形体に成長する。変形体は自在に移動する。変形体は生活環境が合わないと菌核をつくり休眠し、温かく水分があると活動し始める。変形体はその後、胞子を内包する子のうに変形する。

”動物? それとも、植物? 
変形菌は、 巨大なアメーバ状の体を変身させてキノコのように胞子をつくる 不思議な生き物です。
別名を粘菌(ねんきん)、ホコリカビとも いいます。”

国立科学博物館のWeb-siteの変形菌のサイトに書かれた説明だが、結局、不思議な生き物と言うだけで動物か植物か教えてくれなかった。乾燥や暑さで休眠し環境が整うと活動を再開する自然適合性、きのこと同じように胞子で繁殖するが胞子からアメーバとして這い出してきてべん毛を使って動き回る。雄雌が合体し成長し、変形体は迷路を解くこともできる。からくりテレビの子供、熊楠や昭和天皇が熱中して不思議のない生き物だ。

      「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

昭和天皇が昭和37年(1962)に白浜町に行脚したときに、33年前に会った熊楠を偲んで詠んだ歌である。


南方熊楠

2010-11-13 21:41:06 | 近代史

何週間か前、さんまのスーパーからくりテレビに変形菌の天才キッズが出ていた。同時に変形菌が迷路を解いた話をしていた。変形菌(真性粘菌)がいっぱいに広がった迷路(a)の入り口と出口に変形菌のエサAGを置くと、変形菌が最短距離(c)で並ぶ。

北海道大学の中垣先生らは、これで2008年にイグ・ノーベル賞(ノーベル賞のパロディーで、first make people laugh, and then make them thinkな研究に送られる)を受賞し、2010年の今年、粘菌のその能力を活かして最適な鉄道網モデルを作ることを見つけたとして再受賞した。日本人では、ドクター中松が35年間自分の食事と行動パターンを記録し続け何が体調や頭の働きに影響するか突き止めたことで受賞している。他に、たまごっちやカラオケの発明者、足のにおい成分発見者や牛やパンダの排泄物から役に立つ物質を発見した人も受賞している。

さて、粘菌に話を戻す。粘菌といえば和歌山県の田辺に住む南方熊楠である。南方熊楠は政府が明治39年に出した神社合祀令に反対し原生林を伐採から守った。神社合祀は、一部の例外を除き、”<span >一町村に一社”を標準とするもので、小さな神社は大きな神社に併合し、神社を取り壊し、まわりの鎮守の森を伐採するものであった。熊楠の神社合祀に関する反対意見は青空文庫で読むことができる。

森林の重要性は、”これがため山地は土崩れ、岩墜ち、風水の難おびただしく、県庁も気がつき、今月たちまち樹林を開墾するを禁ずるに及べり。千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民なしとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言わるるを聞くなり。”と述べ、続けて8か条の反対理由を列挙する。神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。”とし、孔子、玉葉、続日本紀や西行の山家集などの古典を引用し、歴史、宗教、環境論を駆使し、外国の事例にも言及したものである。

8か条の反対意見の要旨(速読したうえ相当に意訳した)

第1 政府の言う神社合祀で神を敬う気持ちが高まるというのは嘘である。合祀で身近にあった神社にお参りすることができなくなり、和歌山のように山の多い地方で遠くまでお参りにいくことなど考えられない。

第2 合祀は人々の和を損なう。漁師たちは漁の無事を海辺の身近な神社で信心深く祈ってきたが内陸に神社が移されると、漁師から魚神を奪い、山人から山神を奪うようなものだ。

第3 合祀は地方を衰微させる。地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林や神田を持ち、周辺の住民が集い祭りや市で賑わい潤っている。

第4 国民の慰安を奪い人情を薄くし風俗を害する。森林は神そのものであり、神社に張られたしめ縄ひとつで公序が守られる。

第5 合祀は愛国心を損なう。神社なければ故郷を慕うことがなくなる。合祀により木を売ったりわいろを要求したりする神職が出てきたが、このような神職に愛国心を説かれても誰が従うというのだ。

第6 土地の治安と利益に大害あり。地震、火難等の避難の地となる。森林を切ることで生態系が破壊され田畑に被害が出る。

第7 合祀は史跡と古伝を消滅させる。

第8 合祀は天然記念物を消滅させる。

田辺に、熊楠が自然を守り昭和天皇も訪れた神島という島がある。粘菌の研究者だった昭和天皇は1929年(昭和5年)田辺の神島を訪れ熊楠に会っている。瀬戸内海の神島で読まれた万葉歌をこの島とする説もあるという。

南方熊楠の伝記を漫画にした水木しげるの「猫熊、南方熊楠の生涯」も買って読んだ。熊楠の変人ぶりはこの漫画にいやというほど描かれている。


陽剣・陰剣

2010-11-06 17:07:09 | 古代
東大寺の大仏の須弥壇の地中で見つかった剣2ふりのエックス線写真を撮ったところ、”陽劔”、”陰劔”の文字が浮かび上がった。というニュースが流れていた。この剣は、正倉院の古文書に記録された陽宝剣と陰宝剣に”除物”と付された2剣であると断定され、光明子(光明皇后)が759年12月26日に正倉院から持ち出したことがわかっている。大仏開眼は752年、聖武天皇の崩御は756年のことである。
光明皇后は、東大寺や国分寺建立を聖武天皇に進言したり、貧しい人を救う悲田院や医療施設の施薬院を建て、藤原氏の氏寺の興福寺の五重塔や聖武天皇の病気平癒を願って新薬師寺を建てた。このように、光明皇后は仏教に深く帰依し、夫を愛し、慈悲にあふれた人という印象があったが、梅原猛によると、怪僧の道鏡を寵愛したとして有名な娘の孝謙天皇と似たようなところがあったらしい。


左:正倉院の古文書(朝日新聞)         右:興福寺の東金堂と五重塔(Wiki)

光明皇后は、当時の最高権力者である藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘で皇族以外で初めて皇后になった。犬養三千代は軽皇子(のちの文武天皇)の乳母であったが、夫の美努王が筑紫に単身赴任している間に不比等の後妻になる。夫のいない間に、乳母として後宮で力を持つ三千代に目をつけた不比等が言い寄ったのか、不比等の力に目をつけた三千代が言い寄ったのか、美努王を左遷したのは不比等という説もある。このような二人を父母に持っているのだから、彼女だけが純真無垢であるはずはないともいえる。

梅原猛の「塔」の中で語られる光明皇后は、当時の政権の中心にいた同じく不比等の子供である藤原4兄弟が次々に亡くなった後、僧侶の玄とただならぬ仲になる。藤原4兄弟のいない政界において、光明皇后の寵愛を背景に玄は同じ遣唐使だった吉備真備とともにコンビで権力をふるった。このとき聖武天皇は健在だったが、妻の不義にうろたえた天皇は家庭的な不安から都を転々と移し、心のよりどころとして大仏建立を思い立つ。光明皇后の甥である藤原広嗣(ひろつぐ)は、この状況を憂え、”玄と吉備真備を除く”として反乱を起こすが逆に討伐されてしまう。天平17年(745)から19年(747)の間に、聖武天皇の病気、玄の左遷と死、新薬師寺の建立があった。新薬師寺は、聖武天皇の眼病治癒を願って建てられたとされるが、自分の不倫を懺悔する意味もあった。だからこそ、新薬師寺の薬師如来とそれを守護する十二神将は、あのようにいかついものでなければならないのだ。と梅原は言う。
玄の相棒だった吉備真備は唐から陰陽道を持ち帰り、日本の陰陽道の始祖とされている。ここにおいて、光明皇后の陽剣・陰剣が陰陽道に結びつくのである。

吉備真備が持ち帰った陰陽道は当時の日本で相当流行っていた。陰陽道は古代中国で始まった思想で、儒教の経典の易経の基本思想である。史記列伝第5巻の儒林列伝に、商瞿(しょうく)が易経を師の孔子から教授されたと書かれている。漢の時代になり董仲舒(とうちゅうじょ)は「春秋」にあらわれている天上と地上の異変によって陰と陽の二つの気がいかにいりまじって作用をおこすかを研究した。司馬遷は董仲舒から春秋を学んだ。
太史公自序で、”陰陽家の術は、ものの前兆を最も重んじ、タブーがたくさんある。人々を拘束し、恐怖を多くする。しかし、四季の大いなる順列を秩序だてていることは、見のがされてはならない。”、”陰陽家によれば、四季、八卦、黄道十二宮、二十四節、それぞれの教令がある。それにしたがうものは栄え、さからう者は死ななければならず国を滅ぼすというが、必ずそうとも限るまい。だから、人々を拘束し恐怖心を多くするというのだ。いったい春は万物を生じ、夏はそれをのばし、秋は収穫し、冬は貯蔵する。これに従わなければ天下の綱紀のたてようがない。”
司馬遷は、陰陽説の四季に従う点は認めつつ(四季に従うのはあたりまえのこと)、従わないものは滅びるというような人を拘束し恐怖を与えるような教えは否定する。司馬遷の合理主義とバランス感覚はここでも素晴らしい。