備忘録として

タイトルのまま

賢治生誕120年

2016-04-30 18:48:53 | 賢治

新聞のヘッドラインの「センスいいと市長」というタイトルが眼に入り、オリンピックのエンブレムを「あまりにダサい」と言った市長が、前言を翻して褒めちぎった記事が出たと思った。よく読むと「センスがいい」は、生誕記念事業を主催する花巻市長の賢治生誕120年のロゴに向けた言葉だった。賢治生誕は、1886年(明治29年)8月27日のことである。

ロゴには、賢治が被る山高帽に『銀河鉄道の夜』が描かれ、『よだかの星』のよだかが飛び、『雨にも負けず』の雨が降り、『風の又三郎』の風が舞い、『注文の多い料理店』の山猫が笑っている。”生”の中の星✦は、星になったよだか、川に落ちて死んだカムパネルラ、あるいは37歳で死んだ賢治自身を象徴しているのかもしれない。

記念イベント情報は、宮沢賢治生誕120年HPにあった。花巻に行きたくなる。


地獄変

2016-04-29 22:38:56 | 仏教

提婆達多は3つの罪を犯し無間地獄に落ちた。源信は『往生要集』において小乗仏教の説に従い八つの地獄を立て、そのうち苦痛が絶え間なくつづく地獄が無間地獄だという。芥川龍之介の『地獄変』に出てくる”横川の僧都”とは源信のことだとされている。物語の平安中期、源信が比叡山の横川に住していたからである。

『地獄変』

絵師・良秀は大殿から屏風に地獄絵を描くように命ぜられる。自分の目で見た物でしかいい絵が描けない良秀は、弟子を鎖で縛ったりミミズクに襲わせたりして、その様子を見て地獄絵を描いていくが、もっとも重要な部分で行き詰る。燃え盛る檳榔毛の車(高官の牛車)にあでやかな上臈(高級女官)が乗り空から落ちてくるというイメージはできているのに、それを目にしていないために絵にできないと大殿に訴える。大殿は、「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。」と、庭の車に火を放つ。その車には良秀の娘が乗せられ、良秀は目前で娘が焼かれるという地獄の責め苦を受ける。まさに炎熱地獄である。だが次の瞬間、良秀の顔つきは恍惚とした表情に変わる。この話を聞いた横川の僧都(源信)は、「如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常をわきまえなければ、地獄に落ちるしかない。」と良秀を非難する。しかし、出来上がった屏風の絵を一目見て膝を打ち「出かし居った」と感嘆の声をあげる。その良秀は屏風の絵を仕上げた翌晩に縊死した。

良秀は屏風の絵を仕上げた代わりに自分も奈落(地獄)に落ちたのである。「いわばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く地獄だつたのでございます。……」

中村元『往生要集を読む』で解説する源信の『往生要集』にある焦熱地獄が炎熱地獄(『倶舎論』玄奘訳)である。炎に身が焼かれ、その熱に耐えがたい地獄であると描写されている。源信の地獄は等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄(無間地獄)の八大地獄で、それぞれどこにありどのような責苦が行われているか細かく説明されている。『地獄変』で娘が炎に包まれ焼かれる場面の強烈な描写と同じで、ここで文字にしたくない内容である。中村元によると、飛鳥時代の聖徳太子の『三教義疏』や平安初期の最澄・空海は地獄について特に論じていないのに、平安中期以降には地獄の思想は民衆で一般化していたという。平安時代初めの景戒による『日本霊異記』や中期の『往生要集』の地獄や、地獄変、地獄図、地獄絵などと呼ばれる一連の図絵が民衆に広まっていたのである。中国には地獄の描写はあまりなかったようで、日本で地獄が一般化した理由を「人間のはかなさ、無常を感ずるとともに、人間のあさましさ、罪業に対する反省と呵責の念が人々の心をとらえたからではなかろうか。現代人は人間の罪業を現世のことがらとして表現する。ところが常に彼岸を思っていた上代・中世の人々はかなたに地獄の責苦が待っていると考えて、罪業の恐ろしさにおののいていたのであろう。地獄の恐ろしさの観念は無常観と一体となって発達した。」と中村元は説明する。

地獄の描写が続くので源信の『往生要集』は地獄の解説が中心だと思っていたが、以下の10章で、地獄の描写だけでなく、極楽浄土の描写、西方極楽信仰と弥勒信仰の優位性、念仏修行の心構えや作法、念仏の御利益、なぜ念仏が大切かの解説、念仏以外の他の修行の勧め、教義上の問題についての哲学的な議論を行っている。

  1. 厭離穢土
  2. 欣求浄土
  3. 極楽の鉦鼓
  4. 正修念仏
  5. 助念の方法
  6. 別時念仏
  7. 念仏の利益
  8. 念仏の証拠
  9. 往生の諸業
  10. 問答料簡

念仏の利益には、浄土教の教えを的確に表明した以下の最も有名な文章が示されている。

「光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。」

源信の『往生要集』は浄土教の教義の基礎となり、法然も親鸞もこの基礎の上に自分たちの思想を展開した。

中村元は、漢文で書かれた源信の『往生要集』のほとんどは中国の経文や仏典の引用であり、それら経文や仏典にはサンスクリット語やパーリ語で書かれた原文がある。その原文と源信の解釈を比べてみようというのである。これによって源信の漢文の読み方の修正、中国の翻訳者による原文のねじ曲げ、源信自身の原文にない解釈と独自思想などを読み取ることが可能になる。すなわち、インド人、中国人、日本人による解釈の相違を解明する手掛かりが得られるかもしれないというのである。 本書を読んで細部の相違はわかったが、残念ながら浅学の自分には、中村元の言う手掛かりを読み取ることはできなかった。


白鯨

2016-04-16 15:51:03 | 映画

19世紀前半、大西洋でクジラを獲りつくしたアメリカの捕鯨船はクジラを追いかけ太平洋の西の果て日本近海まで活動範囲を広げていた。当時は産業革命により、ランプの燃料や機械の潤滑油、洗浄油、マーガリンなどに鯨油が使われ高価で取引されていた。黒船で来航したペリーも、捕鯨船の補給と漂流民の保護を求めて日本に開国を迫ったのである。ペリー来航が1853年、漁に出て遭難した土佐の中浜万次郎がアメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡ったのが1841年のことである。Wiki「捕鯨」によると、

19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500~700隻に達し、アメリカ船だけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千~1万頭を1年に捕獲していた。(中略) 捕鯨船の母港となったナンタケットニュー・ベッドフォードは大いに繁栄した。メルヴィルの『白鯨』は、この時期の捕鯨を描いたものである。

なんと年間7000~1万頭ものマッコウクジラ(Sperm Whale)を捕獲していたのである。そして悪名高い日本の捕鯨は1964年に最盛期を迎え「2万4000頭以上を殺した。そのほとんどが巨大なナガスクジラやマッコウクジラだった。」(BBC News Japan「日本とくじら なぜ日本は捕鯨をするのか」より)。同じ記事によると商業捕鯨は戦後の食糧難を解消するためにマッカーサーの指示もあって進められたという。小学校(1960年代)の給食には鯨肉が出てきた。教科書には捕鯨用銛の弾頭を平坦にし、弾道の直線性が飛躍的に改善されたという日本の捕鯨技術の高さを誇る話がのっていた。

BBCの記事は、現在国際的な批判を浴びながら税金で調査捕鯨を続けることに賛成する日本人はほとんどおらず、「捕鯨関係者が多い選挙区から選出された数人の国会議員と、予算を失いたくない数百人の官僚たちのせいと言えるかもしれないのだ。」と結ぶ。一方的な反捕鯨運動には違和感を覚えるが、ほとんどの人が必要ないと思っている行為が止められない日本の政治の指導力の欠如が情けない。シンガポール政府の政治判断の早さにいつも驚かされるので落胆は大きい。

4月の機中映画『In the Heart of Sea』は、ハーマン・メルヴィルが小説『白鯨 (原題;Moby Dick)』を書く際に取材した実話を映画化したものである。捕鯨船エセックス号の遭難から30年後に、ハーマン・メルヴィルはエセックス号の生き残りの船員を訪問し、航海で起こった事実を聞き出す。1820年エセックス号は、マサチューセッツの港町ナンタケットを出港しクジラを追いかけ、太平洋の奥深くで巨大なマッコークジラに統率されたクジラの群れに遭遇する。全長30mもの巨大クジラを捕獲しようとして逆に船は襲われ沈没し、乗組員は小さなボートで大海原に放り出される。遭難者は長い漂流で水と食料が欠乏し命を落とす者が出て、追いつめられ終にCannibalismに手を出してしまう。3か月の漂流の後、救助された生き残りはわずかになっていた。小説『白鯨』は、エセックス号の航海を参考にするが、内容は大きく変えていたのである。 

ポスターはIMDb、挿絵はWiki英語版『Moby Dick』より。

『Moby Dick 邦題:白鯨』1956、監督:ジョン・ヒューストン、出演:グレゴリー・ペック、リチャード・ベースハート、白鯨を執拗に追う船長の戦いを描く。Youtubeで観ることができる。最後の白鯨との戦いは、模型を使っていて陳腐に見えるが、中学か高校のときに観たときにはその迫力に驚いたことを思い出す。船長のエイハブが白鯨に銛を打込み、そのまま白鯨の体に巻き取られ、手招きする場面ははっきりと覚えていて今観ても印象的だった。映画に触発されて大学時代には原作を読んだ。今はなくなったがシンガポールのブキティマ道路沿いにオーキッドというホテルがあり、そこのコーヒーショップの名前がMoby Dickで内装に錨や舵が飾られていた。ホテルのオーナーが『白鯨』のファンだったのだろうか。★★★★☆

『In the Heart of Sea』2015、監督:ロン・ハワード、出演:クリス・ヘムスワース、シリアン・マーフィー、ブレンダン・グリースン、名家出身の船長と、庶民出身の一等航海士の確執と信頼、船員たちと巨大クジラとの戦いを描く。クジラと人間の戦いを中心に据え退屈はしなかったが、主人公たちや船乗りの人間の描き方が表面的で漂流中の驚きの真実だけではドラマ性にも欠けた。同じ漂流を描いた『Life of Pi』の方が感動的だった。フィクションと比較したり実話に感動を求めるべきではないのだろうけど。★★★☆☆

『The Revenant 邦題:蘇りし者』2015、監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ、出演:レオナルド・ディカプリオ、トム・ハーディ、ディカプリオはこの映画で待望のオスカーを獲った。白鯨と同じ19世紀始めのアメリカ開拓時代を舞台とする。こっちも1823年の実話をもとにしている。漁師で案内人のヒュー・グラスは毛皮採取中にインディアンに襲われ仲間と逃げる途中、ヒグマに襲われ重傷を負う。仲間のフィッツジェラルドは足手まといのグラスを見捨てて行こうとするが、グラスの息子に止められ、グラスの目の前で息子を殺す。一命をとりとめたグラスは冬の荒野を生き抜き、復讐のためフィッツジェラルドを追う。白鯨のために片足を失ったエイハブ船長は白鯨を殺すことに執念を燃やし、グラスは息子の仇討に執念を燃やす。白鯨はクジラと太平洋の大海原が舞台で、こっちはヒグマとインディアンと西部の荒野や原生林を舞台にしている。冬の荒野を復讐のために生き抜くデカプリオは極限状態の人間を熱演し悪くはなかったが、ストーリーそのものは面白いとは思えなかった。★★★☆☆

『スペースボール』1987、監督:メル・ブルックス、出演:ジョン・キャンディー、リック・モラニス、ビル・プルマン、ダフネ・ズニガ、『Star Wars』のパロディーのどたばた喜劇。★★☆☆☆

『下町ロケット』2015、評判は聞いていたが3月~4月の機中ビデオで観た。阿部寛演じる下町工場の技術者・佃のプライドと品質に、同じような中小企業の技術者として共感し心から応援した。大企業や銀行とのやりとりや権威をかさにした物言いのシーンでは、自身の体験を思い出して”あるある!”、”むかつく!!”を心の中で連呼したが、最後は爽快だった。『半沢直樹』よりよかった。★★★★★


ネッシー発見

2016-04-14 23:24:18 | 映画

ネッシー発見! のはずが=ネス湖底から映画セット―英

時事通信 4月14日(木)5時40分配信

 【ロンドンAFP=時事】英北部スコットランドにあるネス湖に潜った無人探査機が、怪物のような物体を発見した。

 謎の生物「ネッシー」かと期待が高まったが、1970年に撮影された映画のセットと判明した。地元観光局が13日、明らかにした。

 探査はノルウェーの石油会社が、水深が最大230メートルのネス湖の詳しい湖底図を作成するために実施した。無人機は首の長い9.15メートルの物体を発見したが、観光局は声明で「ネッシーのような形だが、怪物の死骸ではない。沈んだ模型と思われる」と説明した。

 この模型は、ビリー・ワイルダー監督の映画「シャーロック・ホームズの冒険」で使われた。作品では、怪物のような形をした潜水艦として登場する。

 探査では長さ8.2メートルほどの船の残骸も発見され、調査が進められている。ネス湖からは過去の探査で、第2次大戦時に墜落した爆撃機、100年前の釣り船、競艇用ボートなどの残骸が見つかっている。

 
 なんと『The Private Life of Sherlock Homes』1970のネッシーが見つかったというのだ。上の写真は湖底探査の映像でネッシーの首がはっきりと写っている。下はシャーロックの乗った小舟にネッシーが体当たりする場面。となりのポスターにネッシーの頭をつけた潜水艦が描かれている。イギリス政府要人であるシャーロックの兄マイクロフトが密かに開発を進めていた潜水艦で、開発をカモフラージュするために潜水艦の上にネッシーの長い首と頭を載せたのだ。敵を不意打ちにする潜水艦はスポーツマンシップに反するとしてヴィクトリア女王の逆鱗に触れ、ドイツのスパイと共にネス湖に沈められる。映画で使われた潜水艦は実際にネス湖に沈められていたのだ。マイクロフト役は昨年亡くなった名優クリストファー・リーで、亡くなる前年2014には映画『ホビット:決戦の行方』で白い魔法使いサルマンとして92歳の戦闘アクションを見せた。