備忘録として

タイトルのまま

三十三間堂

2011-10-25 00:29:48 | 中世

 9月の奈良京都の旅の続き。9月22日は京都駅から歩いて鴨川を渡り三十三間堂、大谷祖廟、清水寺へまわり、その後バスで銀閣寺へ行き哲学の道を歩いた。

 三十三間堂は、後白河上皇が1155年に御所に造営した。その後焼失し、後嵯峨上皇が再建し、天台座主にもなった室町幕府六代将軍の足利義教が保護した。三十三間堂で有名な通し矢は、西側の120mの廊下を一昼夜で何本矢を射通せるかを競うもので、江戸時代には大変な人気競技だったそうだ。最高記録は、1686年紀州の和佐大八郎という18歳の若者が総矢13053を射て、8133本を通したとあった。休憩を考えずに矢数を24時間で割ると、1分間に9本射てそのうち6割を成功させたという超人的な記録である。子供のころ通し矢をする場面のある映画を見たという、かすかな記憶がある。ネットで調べると、この和佐大八郎を題材にした”三十三間堂・通し矢物語”1945という映画があるので、おそらくこれを観たのだと思う。

三十三間堂(左)  鴨川(右)

通し矢の発射場から的方向を写したもの

 三十三間堂内には千体の千手観音像が並び、さすがにその数には圧倒されるが、観音像はどれも似たようなもので面白味はなく、観音像を護持する二十八部衆が個性的で面白かった。興福寺の八部衆である阿修羅もいる。下の写真の三十三間堂の阿修羅像は興福寺の美少年とは違い猛々しい顔をしている。インドネシアの航空会社の名前になっているガルーダの迦楼羅王(かるらおう)は嘴と羽があるのですぐにわかった。阿修羅と迦楼羅王の写真はいずれも三十三間堂で買った写真集から転載した。タイのYaku(夜叉)も八部衆の一人なので二十八部衆の中にいるのではと探したが見当たらなかった。

 

 下の写真は9月22日お彼岸のお参り客で混雑する大谷祖廟。親鸞の750回遠忌(50年毎の回忌法要)ということだった。ここでお坊さんの説法を聞いた。当初は三十三間堂のあと比叡山の南麓にある天智天皇陵へ行くつもりだったが、道順の勉強不足で行けなかったので、まだ行ったことのない清水寺と銀閣寺の名所を回ることに当日変更した。この変更が失敗だった。人が多すぎたことと訪問の目的がなかったため、見どころもわからず写真撮影もそこそこに急ぎ足で通り過ぎただけになってしまった。天智陵を探しながらでも当初の計画通りにすれば良かったと後悔している。天智陵は次の旅までとっておく。そのときは欲張って大阪太子町の聖徳太子廟と和歌山海南市の有馬皇子のお墓をセットで訪問したいと思っている。

 

大谷祖廟清水の舞台銀閣寺

 


Stay hungry, stay foolish

2011-10-16 13:00:59 | 話の種

 先月の奈良京都の旅では、薬師寺で法相宗のお坊さんの説法を、大谷祖廟で浄土真宗のお坊さんの説法を聞いた。最近の話題を盛り込んだ道徳的な説教で面白くはあったが、浄土真宗や法相宗の教義に踏み込んだものではなかったので少し物足りなかった。それよりも、先日すい臓がんで亡くなったAppleのSteve Jobsが、2005年にスタンフォード大学で大学生に向けたスピーチが心に響く。Appleはごく最近、iPhone、iTuneを使い始めたばかりで、Steve Jobsのこともビル・ゲイツと似たような経歴の持ち主だという程度の認識しかなかった。

スタンフォード大学でのSteve Jobsのスピーチは、Youtubeで聞ける。

http://www.youtube.com/watch?v=UF8uR6Z6KLc&feature=relmfu

スピーチは3つの話からなる。

1つ目は”Connecting dots”  今やってることが将来何かの形でつながってくると信じることが大切で、自分の直感や人生やカルマ(運命、仏教の業)を信じなさいということ。

2つ目は”Love and Loss”  自分が設立した会社を追い出されるという挫折があったが、おかげで成功の重圧から解放され創造性豊かな時期を持つことができ、たまらなく好きなことをやり続けられた。だから、挫折しても信念を失わないで、自分の好きなことをし続けること、今それがないなら好きなことを探し続けること。妥協してはいけない、Don't settle。

3つ目は”Death”  自身がすい臓がんで死に向き合ったことを告白したあと、死を前にすると真に重要なことだけが残る。時間は限られている。人の意見にとらわれたり、ドグマ(世間で信じられていること)の罠に嵌ってはいけない。自分の心の声と直感に従い勇気を持って行動すること。

最後に、”Stay hungry, stay foolish”ということばでスピーチを締めくくる。

彼は曹洞宗を信じ運命や死について述べていることから宗教的な話を想像するが、話の内容はすべて彼の経験から導き出されたもので、どこにも座禅によって悟りをひらくような宗教話や禅問答はない。スピーチは、運命論的ではあるが、基本的に自力本願であり、ドグマを否定していることからJobsは無宗教だったのではとさえ思えてくる。Stay hungry, stay foolishとは、まさに今日を精いっぱい生きて灰になった、宗教を信じていたとは思えないあの”あしたのジョー”的な生き方なのである。

Steve Jobs、1955年生まれの享年56歳。私も同い年だが、彼のように”毎日鏡の前で今日が人生最後の日だと思って生きる”ことなど到底できそうもない。彼我の違いを嘆く必要などない。我が信じる道を行けとJobsは言っているのだから。


マレー半島

2011-10-08 22:16:30 | 東南アジア

 1泊2日でシンガポール・クアラルンプールを車で往復した。行きはマレーシア・シンガポール第2連絡橋を越え高速道路をひたすらクアラルンプールまで約340kmをひた走った。制限時速110kmを順守する私の車を長距離バスやローカル車が猛スピードで追い抜いて行く。帰りは時間があったので、昔何度か行ったポートディクソンとマラッカ(下の地図ではムラカMeraka)に寄った。シンガポールからクアラルンプールへ車で行ったのは家族旅行をした20年前以来になる。その時はマラッカとKLで1泊づつした。マラッカへはそれ以外にも休暇で何度も行った。高速道路を通った往路には何も見るべきものはないが、復路は、ポート・ディクソンからマラッカまで一般道を通ったので、懐かしい景色に出会えた。

 マレーシアの田舎はパームオイルとゴム林のプランテーションが延々と続き、シンガポールやクアラルンプールなどの都会では味わえない解放感に浸ることができる。パームオイルは、Oil Palm(アブラヤシ)の実から採る植物油で、食用油の他、マーガリンや石鹸の原料となる。日本ではあまり馴染がないが、シンガポールのスパーマーケットではよく見かける。マラッカ近くのプランテーションはSime Darbyという国営企業の所有で、20世紀初頭の英国植民地時代にSimeとDarbyという英国人が始めた会社を前身としている。今のSime Darbyは不動産、BMWやロールスロイスの輸入販売、電力、医療、重機販売リースなどを国際的に多角経営している。Sime Darbyが所有するパームオイルとゴム園は、主にマレーシアとインドネシアにあり、総面積は6,330km2というから、四国の3分の1である。他社を含めたマレーシアのパームオイルプランテーションの総面積は20,000km2で四国より少し大きい。環境保護団体はこれらプランテーションは重大(substantial)かつ不可逆的(irreversible)な環境破壊だと非難している。ゴムの採取は幹に傷をつけてLatexという乳液を吊るした缶で受け取るのだが、木に刻まれた傷が痛々しい。

遠方の山の上まで続くパームオイルプランテーション(左)    ゴム採取中(右)

 公道を我がもの顔で歩く牛

ポートディクソンの砂浜とリゾートホテル群(左)  30年前に泊まったままのマラッカのホテル(右)

 30年前には高速道路がなかったので一般道を通って1日がかりでクアラルンプールへ行った。今回も一般道では牛に出会えたし、パームオイルやゴムのプランテーションは昔のままだった。ただ、ゴム林が減り、パームオイル園が増えているように感じた。天然ゴムよりもパームオイルの経済的価値が高くなっている所為だと思う。マラッカは観光化・商業化が著しく町の様子がすっかり変わっていた。新しい道路やビルが林立していた上、夕方の渋滞に巻き込まれたため、ポルトガル時代の砦のある丘や博物館のある観光地区を見過ごしてしまった。

 クアラルンプールのホテルで、たまたま見たテレビのニュースで、マレー鉄道に日本のブルートレイン(中古)が導入され、試験走行する様子が報道されていた。マレー鉄道は、マレー半島を南北に縦断する。シンガポール日本人小学校の修学旅行はマレー鉄道でクアラルンプールへ行くのが常で、我が家の子供たちも利用した。クアラルンプールからシンガポールまでは7時間を要した。シンガポール国内のマレー鉄道は最近廃止されたため、マレー鉄道はマレー半島南端のジョホールバル(JB Sentral)が終着駅になった。料金が安く一度は乗りたいと思っているが、いつも車か飛行機を選んでしまう。

 30年前に何度か往復したシンガポールからクアンタンを通りトレンガヌまでの東海岸も車で行ってみたい。こちらはまだ高速道路がないので、西海岸よりもっと昔の景色に出会えるのではと期待している。

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Jonny Wilkinsonのワールドカップが終わった。

 イングランドの試合は欠かさず見たが、2003年優勝時の輝きを取り戻すことはなかった。応援していただけに残念だ。2003年の決勝は地元オーストラリアが優勢だったがWilkinsonのキックでイングランドが優勝した。彼の試合を決めたドロップゴールは1995年の南アフリカの決勝ドロップゴールと同じで忘れられない。今年の6か国対抗ではイングランドはフランスに勝ち優勝していたし、フランスは予選で格下のトンガに負けていたので、昨日のフランス戦はイングランドが優勢だと予想していた。フランスの気迫にイングランドは完全に受け身になっていて、フランスのプレーヤーがルーズボールに体を張って飛び込むのに対し、イングランドは集散で後手に回り、チャンスでもミスが目立った。フランス陣内での反則がほとんどなかったため、Wilkinsonがペナルティーを蹴る場面は訪れず、トライ後にほぼ正面でのゴールキック(Conversion)が1度あっただけだった。昨日のもうひとつの準々決勝アイルランド・ウェールズ戦もウェールズの気迫が完全にアイルランドを上回っていて戦前の予想が外れた。強いチームはぎりぎりの場面でのハンドリングがいい。その点で日本チームと世界との開きは大きい。今日は、南アフリカとオーストラリアの大一番がある。


仏足石

2011-10-04 23:12:21 | 古代

 南方熊楠のFootprints of Godsで知った仏足石を見ることが、薬師寺を訪問する目的のひとつだった。事前に読んだ犬養孝の”万葉の旅・上 勝間田の池"によると、仏足石は金堂の西南にある仏足堂内にあり、その脇に立つ仏足石歌碑には仏足賛歌などの歌21首が刻まれていると書かれていた。しかし、薬師寺案内には仏足石堂はなく、寺の案内所の人に聞いても仏足石の場所はわからなかった。寺内を見て回るうちに金堂内で、仏足石と仏足石歌碑が見つかった。写真撮影が禁止されていたので仕方なく薄っぺらな白黒の仏足石説明書を購入し、スキャンでもしてブログに載せようと思っていた。ところが、翌日行った比叡山で偶然にも仏足石に遭遇し、下の写真を撮ることができた。仏足跡は比叡山の西塔にあり、関心を持つ人が少ないのか、小さな立札があるだけで雨ざらしで手で触ることもできた。薬師寺の仏足石と仏足跡歌碑は出自由来がはっきりしているためかどちらも国宝に指定されている。国宝でさえ寺の案内に載せられていない程度の扱いだから、どこの誰がいつ置いたかもわからない比叡山の仏足跡が雨ざらしでも仕方のないところかもしれない。そういう私も南方熊楠に関心を持たなかったなら、きっと無視していたに違いない。足の大きさは双方とも50㎝ほどで、ほぼ同じ大きさのように見えた。足裏の文様は、比叡山も薬師寺も同じようで真ん中の法輪が目を引いた。薬師寺の仏足跡は彫が浅く目を凝らさないと刻まれた文様はわかりにくかったが、比叡山のは、はっきりと仏足と文様が刻み込まれていた。

 薬師寺の仏足石の側面には、石の由来や功徳が刻印されている。その銘文には、インドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足跡を、唐の王玄策が写し帰って長安の普光寺に置いたのを、遣唐使の一人が写し、平城京の禅院に伝えた。それを文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が、夫人の追善供養のためにこの石に写し取った。仏足石が完成したのは天平勝宝5年(753)である。と記されているらしい。(鹿野苑:釈迦が初めて説法を行った地サルナート。仏教の四大聖地のひとつ)

  仏足跡歌碑には21首の和歌が、すべて万葉仮名の5,7,5,7,7,7の仏足石歌体で刻まれている。仏足跡を讃嘆する歌と現世の生死に迷う心を責め成道を勧める歌から成る。(成道:悟りを開き仏になる) 要するに、仏の足跡をたどり浄土へ行きたいという願いが仏足石の信仰となっているのである。

 下の写真は、薬師寺の金堂と東塔である。薬師寺は、天武天皇が後の持統天皇の病気平癒のために680年に発願したが完成を見ずに崩御する。持統天皇がその意志を継ぎ、697年に本尊を開眼し、文武天皇が飛鳥に完成させたのを、710年の遷都と同時に今の場所に移されたという。本尊はもちろん薬師如来で、脇の日光菩薩、月光菩薩が有名である。教義は玄奘三蔵がインドから持ち帰ったという法相宗で、遣唐僧の道昭や玄が日本へ伝え、門徒には行基や徳一らがいる。徳一は最澄の論敵であったあの会津の徳一である。

 東塔は六重塔に見えるが法隆寺の五重塔と同じ裳階があるので、三重塔である。薬師寺の北側には玄奘三蔵院伽藍という新しい建物が建っていて平山郁夫が西域を描いた大きな壁画が飾られていた。この伽藍の前には、松江の月照寺の今にも這い出しそうな亀趺(きふ)とはまったく違うおとなしい太った亀の亀趺(下の写真)があった。


比叡山延暦寺

2011-10-03 00:57:26 | 古代

 最澄、円仁、源信、法然、親鸞、道元、日蓮らが関わった延暦寺は今回の旅から外せなかった。最澄、天台宗、比叡山延暦寺と空海、真言宗、高野山金剛峰寺は歴史の試験勉強の中でセットで覚えたが、もちろん天台宗や真言宗がどんな仏教で、最澄と空海のことも何も知らなかったし、知らないことに何の疑問も持たなかった。試験でいい点数を取るにはそんなことは蛇足で、ひたすら試験に出る事柄を頭に詰め込むのみだった。これが詰め込み教育の弊害だとは思うが、機械的に覚えたからこそ、今になって比叡山に行ってみようとか、空海の密教仏教展に行ってみようとか思えるのかもしれない。

延暦寺根本中堂

 比叡山へは京都駅からJRで上の地図の中央下の町・坂本へ行き、JR坂本駅からケーブル坂本駅までバスで行ってケーブルカーに乗って根本中堂のある東塔近くの延暦寺駅に着いた。根本中堂内は薄暗く厳かな空気で満たされていた。参拝できる場所を外陣というらしいが、本尊の薬師如来を安置する内陣は、外陣より3mも深くなっていて3つの厨子が置かれている。その中央の厨子の前でお坊さんが薄暗い灯火の下で何やら写経をしていた。この灯火は最澄の時代から続く”不滅の法灯”だというが、宮島にも空海の”消えず火”がある。信長の焼き討ちにも耐え抜いた灯ということになる。現在の根本中堂は信長の比叡山焼き討ちのために焼失したあと家光が再建したものということである。

 東塔からバスで円仁ゆかりの横川(よかわ)へ行った。

 円仁は入唐前、最澄後の天台座主の座を争うような世俗のことを嫌い、横川にこもったらしい。下左の写真は赤山宮である。円仁が唐に留学したときに山東省の赤山の新羅人らに大いに助けられたことや遣唐僧としての義務を果たし無事に帰国できたのは赤山の神のおかげだとして赤山の神を祀ったものである。比叡山の西麓には赤山明神を祀る寺(?)があるという。司馬遼太郎の”街道をゆく・叡山の諸道”に明神なら神社であるべきだが明治の神仏分離をごまかすために”赤山禅院”という寺にしたと推論している。祭神は道教の神である泰山府君であるという。右は円仁が法華経を納めた如法塔である。

 横川から西塔にまわる。

 西塔の見どころは最澄廟の浄土院である(下の写真)。延暦寺の中ではもっとも美しく整備されていた。浄土院へ行く参道を丁寧に掃き清めている若い僧と挨拶を交わしたが、奈良や京都の有名寺の掃除を清掃業者が行っていたのとは対照的で、また下の法華堂にも修行中のためお静かにという看板が出ていて、修行の道場でもある比叡山の本質に触れることができたようでうれしかった。最澄後1200年の間には、後白河上皇や信長の時代に山が堕落したこともあったが、最澄の”我が志を述べよ”という言葉が脈々と受け継がれているように感じられた。