備忘録として

タイトルのまま

シャーロック・ホームズ

2012-04-28 12:51:26 | 映画

 シャーロック・ホームズに熱中したのは30年以上も前になるだろうか。1970年代後半、プチ・シャーロッキアンを自称し、原作に加え、日本シャーロック・ホームズ・クラブ会長の東山あかね・小林司らのホームズ解説本を読み、ホームズ物の映画やテレビ番組は欠かさず見ていた。今と違いネットのない時代だったので、本屋で見つけるホームズ物が頼りだった。元来推理小説はあまり好きではなく、当時本屋の推理小説棚を占領していたアガサ・クリスティーやエラリー・クイーンには見向きもしなかったのに、なぜかホームズだけは読んだ。実は、ホームズとの出会いはもっと古く、月刊少年誌の付録にあった「踊る人形」と「白銀号事件」を読んだことに遡る。「踊る人形」は手帳に残された一群の奇妙な人形の絵の暗号をホームズが解読するという話で、それはそれで面白かったのだが、当時はホームズの地味さよりも華やかな怪盗ルパンが好きだった。子供向けルパン全集の中でホームズはルパンと対決しているのだが、ルパンの作者が書いた所為かホームズに魅力を感じなかった。その後も興味は推理小説には向かわずSF熱中少年のままで、アーサー・コナン・ドイルの小説は、ホームズよりもSFの”失われた世界”を好んだ。

 プチ・シャーロッキアン時代に読んだ原作の中では、「緋色の研究」や「四人の署名」などの長編が好きだった。過去の深い因縁により殺人事件が起こり、ホームズがその因縁を解き明かし事件を解決するのである。この手法は、当時流行った市川昆監督の金田一耕助シリーズで使われていた。読んでないので横溝正史の原作が同じだったかはわからないが、映画では、金田一がその因縁を探り当てた時には、すべての殺人が完了したあとで、金田一はいつも殺人を予防できず自分の力なさを嘆きながらも登場人物を一堂に集め、その因縁を解き明かし、”犯人はあなただ!”という結末になるのだった。市川昆と石坂浩二のコンビでは「犬神家の一族」「獄門島」「女王蜂」「悪魔の手毬唄」を観たが、いずれもおどろおどろしいが市川昆特有のカットを連写する映像はきれいで女優が魅力的だった。

 さて、本題は、機中で観た「シャーロック・ホームズ A Game of Shadows」である。この映画は、ホームズ役ロバート・ダウニー・Jrとワトソン役ジュード・ロー主演の2作目だが、1作目は最初の数分で鑑賞を断念した。映画の冒頭、ロンドン橋でホームズが派手なアクションを見せたため、自分のホームズのイメージが壊されると思いパスしたのである。本来ホームズは知的で沈着冷静で寡黙でめったに派手なアクションはしない。ロバート・ダウニー・Jrもそれに近い役作りをしているのだが、自分のイメージには合わない。テレビ番組のホームズ役ジェレミー・ブレットの印象が強すぎる所為かもしれない。それなのに2作目を観たのは、4月の機中映画に「We bought a zoo」以外面白いものがなかったのと、ホームズ最大の敵モリアーティ教授が出てくることがわかったからである。また、今回鑑賞を途中で投げ出さなかったのは、冒頭でいきなり「ボヘミアの醜聞」のアイリーン・アドラー(Rachel McAdams)がモリアーティ教授に殺され衝撃を受けた所為かもしれない。いずれにしても最後まで観て、予想通り、ホームズはモリアーティ教授ともみあいながらスイスのライヘンバッハの滝壺へ落ちていく。そして、これも予想通り数年後、ホームズはワトソンのもとに姿を現す。映画は派手な爆破シーンや銃撃戦やアクションで色どられ1900年ころの時代の雰囲気、ロンドンの霧のなかにともるガス灯のかおりはまったく感じられなかった。それでも、ほとんど忘れかけていたホームズと自分の関わりを思い出させてくれたことをおまけして、★★★☆☆

 過去に観たホームズの映画では、ビリー・ワイルダー監督の「シャーロック・ホームズの冒険」(原題:The Private Life of Sherlock Holmes)1970が良かった。依頼人の夫をさがすうちに国家的な陰謀に巻き込まれていくというストーリーで、ネス湖の怪獣やビクトリア女王が出てくる。ビリー・ワイルダーは、はるか昔に観たシャーリー・マクレーンの「アパートの鍵貸します」やマリリン・モンローの「お熱いのがお好き」やオードリー・ヘップバーンの「昼下がりの情事」の名監督である。「シャーロック・ホームズの冒険」と同じころ高校時代に観た「お熱い夜をあなたに」(原題:Avanti)1972は、ジャック・レモンとジュリエット・ミルズのラブロマンスである。ジュリエット・ミルズは当時NHKのテレビドラマ「ぼくらのナニー」で明るい家政婦役をしており、「お熱い夜---」では一転チャーミングなヒロインを演じたため、家政婦のイメージを払しょくするのに苦労したことを思い出す。

「シャーロック・ホームズの冒険」の最後、依頼人、実は敵国の女スパイ(ジュヌヴィエーブ・パージ)が馬車の上から日傘を開いたり閉じたりしてモールス信号をホームズに送る切ない場面を思い出し、これを書いているうちに映画を観たくなった。

「シャーロック・ホームズの冒険」のポスター(IMDbより)

 

 

 


淮南子

2012-04-22 22:51:47 | 中国

漢の武帝の時代、淮南王・劉安は高祖・劉邦の孫でありながら、いや孫であるからこそ武帝の政策に従わず謀反の罪を受け自害し、一族は皆処刑された。「淮南子(えなんじ)」21編は劉安が集めた食客たちに作らせた書で、淮南王の書とも呼ばれる。金谷治「淮南子の思想」は劉安の生涯と時代背景を概説し、淮南子の思想を解説したものである。

多様と統一

老荘思想を中心に諸子百家を網羅し、”思想的に統一してとらえることの困難な雑然たる書”なのだが、要略編で、”作者は巧妙極まる理由づけを行い”、雑多な淮南子20編を統一へ導くのである。中国哲学は道徳や政治の問題が中心で、形而上学の問題だけをとりあげたものは少なく、形而下の現実問題に絶えず関心を持ち続けてきた。荘子は、”道はいずくに往くとして存せざらん”と述べ、道が現実(事)の中のどこにでも存在すると言う。淮南子は、道(=統一=哲学=形而上)と事(=多様=現実=形而下)を合わせた思想である。

道家の道

多様な現象を生み出す唯一の根源的存在としての老子の道と、現象に即して多様な現象をつらぬく理法的あるいは原理的な荘子の道がある。淮南子はこの老荘二つの道を統一する。

無為自然の政治

淮南子は無為自然の立場を中心としながら、人間による作為も兼ね合わせて重視する。自然と作為の合一、または天人の合一を特色とする。政治的には、作為を捨て私心を捨てて法度に従う。私的な行動や国家的な事業をはぶいて経費を節約する。民衆のためになる政治をめざす。老荘の因循無為の立場を中心としながら、儒家や法家の思想を折衷して具体的な政治論を展開する。様々な人材を採用し政治に役立てる積力衆智の政治思想である。それは、万人万物にとりえがあるとする斉物思想を根拠に民衆の声・世論に耳を傾け、道に従い大勢に順おうとする因循主義である。これは儒家を中心に中央主権国家を進める武帝の政治とは大きく異なる民主的な政治を目指すものである。

真人と聖人

淮南子の理想とする最高人格である真人と聖人のうち真人は道を体得した仙人のような理想人であるが、聖人は道を守りながら現実の人事を忘れない。

松岡正剛は「千夜千冊」で、金谷治の「淮南子の思想」を取り上げている。http://1000ya.isis.ne.jp/1440.html  松岡の解説は相変わらず難解で、金谷の本を読んでいた方がよっぽど淮南子の思想が理解できるのだから可笑しい。松岡は、淮南が位置するかつての楚にいた屈原の生涯や楚辞にみられる楚の風土が淮南子の根底にあるという。この楚辞と淮南子がつながるという彼の結論を是認するには、彼がその根拠をきちんと説明してないので、楚辞を読むしか確かめようがない。


救世観音

2012-04-15 21:19:22 | 古代

法隆寺夢殿の救世観音像の公開が4月11日より始まった。

聖徳太子の姿ほうふつ 救世観音菩薩立像の特別開扉 (2012年4月12日  読売新聞)

奈良県斑鳩町の法隆寺で11日、夢殿(国宝)本尊の秘仏・救世観音菩薩くせかんのんぼさつ立像(同)の特別開扉が始まった。5月18日まで。像は飛鳥時代の作で、同寺を創建した聖徳太子の姿を写したとされる。明治時代までは白布に包まれていたが、現在は毎年春と秋に期間限定で公開している。 この日朝から僧侶約10人が法要を営み、安置されている厨子ずしの扉を開くと、全身に金箔きんぱくが施された高さ約1・8メートルの像が姿を現した。訪れた北九州市小倉南区、無職山本秀之さん(77)は「ありがたい気持ちになり、思わず手を合わせました」と話していた。

神秘のお顔に会える - 救世観音立像の特別開扉/法隆寺 (2012年4月12日 奈良新聞)

斑鳩町の法隆寺で11日、夢殿(国宝)の特別開扉が始まり、聖徳太子の等身といわれる秘仏・救世観音立像(同)の厨子(ずし)が開かれた。5月18日まで。救世観音立像は高さ約178センチの木像で、宝珠を手にして立つ姿。絶対秘仏だったが、明治17年、岡倉天心とフェノロサによって厨子が開かれた。以来、春と秋の年2回公開され、神秘的な顔立ちが多くのファンを引き付けている。この日は、大野玄妙管長らが午前8時から法要を営んだ後、厨子の扉が静かに開かれた。横浜市から初めて訪れた寺沢慎さん(61)は「法隆寺の象徴ともいえるお像が拝めてよかった。夢殿の洗練された雰囲気にも感動しました」と話していた。

聖徳太子の等身像と言われる救世観音像は、明治時代フェノロサが強引に開扉させるまで、1100年間誰も見たことのなかった秘仏である。梅原猛は自著「隠された十字架」の中で、救世観音が白い布にミイラのように包まれて開帳を禁じていたこと、光背を支える棒が像の後頭部に釘のように突き刺されていること、木造の救世観音の後ろ半分がなく空洞(うつろ)であること、八角形の夢殿は墓であること、などから聖徳太子の怨霊を封じ込めたものであるとしている。

フェノロサは、救世観音を”モナリザの微笑に似なくもない、鋭い鼻、まっすぐの曇りなき顔、幾分大きいーほとんど黒人めいたー唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている”と表現している。

「古寺巡礼」で和辻哲郎は、フェノロサがモナリザの微笑にたとえたことに反対し、”暗い背景は感じられない、人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない、ただ素朴で、しかも言い難く神秘的”と言っている。

ところが、「大和古寺風物誌」で亀井勝一郎は、救世観音と太子一族の悲劇を重ねあわせ、”神々しい野人、どこか凶暴な、何かを懸命に耐えている、復讐の息吹のごとく、荒々しい捨身への示唆のごとく、永遠の慈心のごとく、無念の情を告ぐる怨霊のごとく”などと形容し、和辻とはまったく異なる印象を救世観音に持った。梅原猛が後日感じたと同じものを亀井は救世観音に感じ取っていたのである。

写真(Wiki)の救世観音の顔は、亀井が感じ取ったように”慈悲の微笑み”にも”不気味な笑み”にも、見る人間の心情を反映して見えるのかもしれない。救世観音に一種の不気味さを感じるのは聖徳太子一族の悲劇を知っているものの先入観によるものだけとは言えないように思う。

 


天福宮

2012-04-14 14:07:00 | 東南アジア

「媽祖」を祀っているシンガポールの道教寺院「天福宮」へ行った。

手元にある窪徳忠著「道教の神々」によると、媽祖は、10世紀後半に中国福建省の予知能力にすぐれた巫女を死後、廟に祀り、船乗りが航海の守護神とするようになったことに始まるという。福建省からの華僑が媽祖信仰を東南アジアに広め、明時代の鄭和も媽祖の神像を船に乗せていた。媽祖の誕生日は旧暦3月23日(西洋暦4月13日の昨日)で、天福宮では下の写真のように法会を予定していた。媽祖は天上聖母とも尊称される。下右の写真は道教の神のひとつで家のガードマン役の門神。その他、閻魔のような神や千手観音のような神も祀られていた。かまどの神、土地の神、火の神などに加え、張良、三国志の関羽や華佗など歴史上の人物もいて、道教の神々は300種類以上だという。

 私が道教と道家を混同していたことは以前述べた。それは道教が老子を開祖とし最高神(太上老君)の扱いをしていることによる。フランスの中国学者アンリ・マスペロなどは、道家と道教を同一視する説を唱えているが、「老子・荘子」の著者・森三樹三郎や前述「道教の神々」の著者・窪徳忠はアンリ・マスペロの説を否定する。

 窪徳忠は、”道教は中国で生まれた唯一の宗教で、シャーマニズムや人々の生活の中から生まれ生活に密着したものである。中国古代のアニミスティックなさまざまな民間の信仰を基盤とし、神仙思想を中心として、それに道家、易、陰陽、五行、緯書、医学、占星などの説や巫の信仰を加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた、不老長寿を主な目的とする呪術宗教的傾向のつよい、現世利益的な自然宗教”と定義している。道教は宗教だが、道家は哲学・思想ということである。

 森三樹三郎は、老子はそもそも無為自然であり作為による道教の長生術を否定している。荘子と道教の相違はもっと顕著で、生と死に区別をつけず生に執着しない万物斉同の荘子思想は、死を回避し生に執着する長生不死の道教とはまったく異質のものである。とする。

シンガポールの天福宮に祀られる派手な道教の神々に老荘の深い哲学を重ねることは、直感的にも不可能だと思った。


ブッダ

2012-04-06 12:48:03 | 仏教

 明後日4月8日は釈迦の誕生日である。東南アジアでは旧暦4月8日に釈迦の誕生日(Vesak Day)をお祝いする。釈迦の誕生日に合わせたわけではないけれど、たまたま家にあった手塚治虫の「ブッダ」が滅法面白く、全12巻を一気に読んだ。

 王国の後継者として生まれたシッダルタが親、妻子、国を棄てて悟りの旅に出る物語である。シッダルタの住む人間世界はなんと苦悩に満ちたものだろうか。様々な悪行を背負った人間に救いはあるのだろうか。

 ウサギが火に飛び込み聖者にわが身を捧げる話が最初に語られる。手塚治虫の描くシッダルタの悟り、ブッダの教えは、”自己犠牲”と”宇宙はひとつの生命ですべてのものがつながっている”に要約される。すなわち、飢えた虎にわが身を捧げる薩埵王子(ブッダの前世、玉虫厨子の捨身飼虎図)と山川草木悉皆成仏の2点である。手塚のブッダはこの2点において周囲のすべて(人間も動物も)を救うのである。宮沢賢治のグスコーブドリの世界も、我々の棲む世界もシッダルタの時代と世界と何も変わらないのである。 (滅法=涅槃=死=悟り)

  

左:火に飛び込み我が身を捧げるウサギ       右:飢えた虎に我が身を捧げる薩埵王子

シッダルタが見たあらゆるものがつながっている宇宙

宇宙の根源では、生も死もあらゆる生き物もすべてがつながり渾然一体であり、この考え方は道家の道と同じである。今日シンガポールは、Good Fridayというキリスト教の休日である。