シンガポールの日系人向けテレビで「三丁目の夕日」3話が連続放映されたのを観たので帰国を機会に妻と東京タワーにのぼってきた。都営三田線の御成門駅からの途中、増上寺に立ち寄った。増上寺では将軍家墓所を特別公開していた。2代秀忠、14代家茂ら将軍6人に彼らの正妻のお江や皇女和宮らの墓所である。
左より増上寺本殿と東京タワー、東京タワーから本殿、秀忠とお江の墓、御霊屋内部 (先々週iphoneをハノイで紛失したので写真は古い携帯で撮った)
スカイツリーに客を取られて閑散としているのではないかと思っていたが案に相違し、地上のチケット売り場には行列ができ展望台は満員だった。東京タワーにのぼったのは、高校の修学旅行(1971年)、次女が学生の時(2004年ごろ)、そして今回が3度目である。40年前の修学旅行は東京観光がグループによる自由行動で、5人の仲間と東京タワーや銀座を回った。東京タワーでは仲間5人のうち3人が250mの特別展望台にのぼり何を思ったのかそのまま蝋人形館へ入ったため、残された二人は全然戻ってこない仲間を待ちきれず東京タワーを先に離れた。私たち3人はグループ行動が原則だったので仲間とはぐれたことに狼狽し、途方に暮れて旅館に戻った。しかし、先に戻っていた二人が旅館の前の喫茶店で私たちの帰りを待ち受けていてくれたので、合流した5人は何食わぬ顔でそろって旅館に入り引率の先生に帰着を報告した。今なら携帯があるので迷子になる心配はないのだが、1971年当時は駅の伝言板が頼りだった。同じクラスの女子グループは10分ほど帰着時間に遅れたため先生からこっぴどく叱られていたことを覚えている。以下、はるか昔の修学旅行のかすかな記憶である。
- 富士山を初めて見て感嘆の声を上げたこと
- 東京ではひもの両端についたおもりをはじいて遊ぶおもちゃが流行っていたこと
- 船、バス、新幹線を乗り継いで行ったこと
- 高校1年の春休みだったこと
- 箱根のホテルの朝は凍えるほど寒かったこと
- 東京タワーの特別展望台は揺れたこと
特に修め学んだことはなかったし東京にあこがれることもなかった。それよりも高校2年で淡路島に行った1泊研修旅行や文化祭の思い出がはるかに大きい。
展望台の窓枠は今は白だが、「続・三丁目の夕日」で鈴木オートの4人がのぼった昭和33年完成時は赤だった。東京タワーてっぺんのアンテナは、愛宕山(2011年5月)から見たときに3.11の地震でまがっていた。アンテナはまっすぐに修繕されていて、修繕の時にアンテナ基部の隙間から出てきた軟式野球のボールが展示されていた。誰が何の目的で入れたのかは不明と説明されていた。妻曰く、見つけてほしいというボールの願いを3.11の地震が叶えたに違いないという。自分にはそんな霊的な発想は出てこないが、3.11がなければほぼ永久に陽の目を見なかったはずのボールだと思うと、3.11とボールに何らかの因縁を思わざるを得ない。単にタワー建設の作業員が悪戯心に入れたような気もする。
東京タワーから神谷町へ歩く道すがら、日本橋まで5㎞という道標が立っていたので日本橋は今も道路の起点になっているということを実感した。「三丁目の夕日」の日本橋には無粋な高速道路はなく、空が広がり夕陽がきれいだった。公共事業は来年度から削減されるらしいが、首都高は老朽化が進んでいるのでこれを機会に日本橋周辺だけでも高架を撤去して地下化してほしいと思う。公共事業の妥当性を評価するB/C すなわちBenefitとCostの比(費用対効果)の考え方は合理的かもしれない。しかし、それは不採算路線の鉄道やバスは、たとえそれが沿線住民の唯一の交通手段だとしても利用者が少なければ廃止しろという考え方である。それではあまりに冷たい。国の借金が1000兆円を超えた今ではそんな余裕はないといわれるかもしれないが、公共事業は採算性だけで判断するのではなく、景観、文化、歴史、精神面など個別の配慮があってもいいと思うのである。