備忘録として

タイトルのまま

ロビン・フッド

2011-11-27 12:09:19 | 映画

先々週、帰国の合間にWOWWOWでロビンフッド最新作を観た。前回、演技派女優のエレナ・ボナム・カーターのことを書いたので、マリアン役のケイト・ブランシェットのことを書いておかなければ片手落ちになる。

ケイト・ブランシェットの前に、”ロビンフッド”のことを少々語る。ロビンフッドとの出会いについては以前書いたように、絵本以外で読んだ我が記憶に残る最古の本である。小学校の図書館でこの本を選んだのは、おそらく弓矢を手にしたロビンフッドの挿絵に魅かれてのことだと思う。家が客商売をしていた所為で両親ともに忙しく学校から帰るとすぐカバンを放り出して友達と遊びに出かけ、夕方暗くなって家に帰るのが常だった。だからその年齢まで本など読んだことがなかった。家が徳島随一の繁華街だった東新町の近くだったので、アーケードの下で夜遅くまで遊び呆け、両親が警察に捜査願いを出したとか出すつもりだったという事件もあった(これは自分に対する脅しだったと思うが確かめてないので真相はわからない)。そのときのロビンフッドとの出会いが強烈だった証拠に、すぐに竹で弓矢を作り悪ガキ仲間とロビンフッドごっこをして遊んでいるのである。遊び仲間にお前はリトルジョンだとかタック和尚だとか指名し、シャーウッドの森と称する眉山の一画で木登りや棲家を作って遊んだ。彼らは何のことか皆目わからないままロビンフッドの言うことを聞いていたはずだ。その後、アーサー王物語やニューベルンゲンの歌やローランの歌や十字軍などの騎士道話を好んで読み、中学に入るころには冒険ものとSFの虜になっていた。これらエンターテインメントから次の文学に触れるようになのは、さらに高校で文学好き、哲学好き、政治好きな様々な級友から影響を受けるまで待たなければならなかった。考えてみると、読書に縁がなかった自分にとって、ロビンフッドとの出会いは人生の転機だったような気がする。

映画の”ロビン・フッド”は、ショーン・コネリーとケビン・コスナーと今回のラッセル・クロウの3作を観ている。ショーンコネリー版はマリアンがオードリーヘップバーンだった。ケビン・コスナー版にはモーガン・フリーマンとノッチンガムの悪代官役にダイ・ハードの悪役で売出したアラン・リックマン(ハリーポッターのスネイプ先生)が出ていた。マリアン役は、マリア・エリザベス・マストラントニオという長い名前の女優だった。

”ロビン・フッド”2010、監督:リドリー・スコット、出演:ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット、マックス・フォン・シドー。Outlawとして活躍を描いた前作とは異なり、この映画では、なぜロビン・フッドはOutlawになったか、ジョン王とマグナカルタ大憲章のいきさつなどが語られる。内容の一部がケイト・ブランシェットの代表作である”エイザベス”に被る上、特筆すべきものはなく、ロビンフッドの逸話や史実がどのように脚色されたかの興味だけで見終った。人生の転機となった出会いだったことに気付かせてくれたことと、ケイト・ブランシェットに敬意を表して、★★★☆☆

さて、前回に続き、ケイト・ブランシェットの写真をIMDbから拝借する。下の作品以外では、”The Aviator"でのキャサリン・ヘップバーン役、”The Shipping News"の出てきたと思ったらすぐに交通事故死するめちゃくちゃな妻役、”Babel”の流れ弾に当たる妻を観ている。ケイト・ブランシェットは、威厳があって近付き難い。ハリウッド女優に近付けるはずもないのだが。

"Elizabeth the Golden Age"の孤高の女王

インディー・ジョーンズ4”の偏執なソ連の隊長

”ロードオブザリング”のImmortalな妖精の女王

”ハンナ”の冷酷な殺し屋CIA

”ロビンフッド”の貞淑なマリアン


猿の惑星

2011-11-26 14:19:03 | 映画

11月の機中映画は、”ハリーポッター死の秘宝Part1と2”、”猿の惑星・創世記”とティム・バートン監督の”Planet of the Apes"、”The Time Traveler's Wife”だった。

”ハリーポッター死の秘宝Part1と2”2010,2012、監督:デイビッド・イェーツ、出演:ダニエル・ランドルフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、アラン・リックマン、ヘレナ・ボナム・カーター。ハリー・ポッターシリーズがこれで完結した。賢者の石の第1作から完結編まで各編それなりに面白かったが、結局のところあまり印象に残っていない。賢者の石が上映されたのは10年前の2001年で、その時はまだ中高生だった子供にせがまれて分厚い翻訳本を出版と同時に4巻まで買い揃えたが、その後は関心が薄れ買わなくなった。1巻と2巻は子供たちといっしょに読んだ。スネイプ先生のハリーのお母さんに寄せる秘めた想いが全編を通じて重要な意味を持っていたことが最終章で明かされた。そこで、スネイプ先生の各編での行動が矛盾なく最終章に繋がっていたのか気になるのだが、もう一度全編を通して観る気力も、この映画に対してそこまでの思い入れもないのでスルーしておく。それでも10年間楽しませてくれたことを嘉して、全編まとめて、★★★★☆

”猿の惑星・創世記”2011、監督:ルバート・ワイアット、出演:ジェームズ・フランコ、アンディー・サーキス、フリーダ・ピント。前作のなぜ猿の惑星になったかを描いた4作目(?)の内容を忘れてしまったので比較のしようがないが、徐々に自立していくシーザーに感情移入して楽しめた。★★★★☆。

”Planet of the Apes"2001、監督:ティム・バートン、出演:マーク・ウォルバーグ、ティム・ロス、ヘレナ・ボナム・カーター。こっちはひどい出来で、1968年の名作を汚したので本来なら星なしのところ、”英国王のスピーチ”で国王を献身的に支える王妃や”ハリーポッター”で憎々しい魔女を演じたヘレナ・ボナム・カーターのチンパンジーと、老いた猿を演じたチャールトン・ヘストンに星ひとつずつおまけして、★★☆☆☆。

以下、Helena Bonham Carterの七変化 (写真はいずれもIMDbより) IMDbには素顔の写真もたくさんあったが、演技派女優には不要なので掲載しないことにした。

”ハリー・ポッター”の憎々しいベラトリックス

”英国王のスピーチ”の献身的な王妃

”アリスインワンダーランド”の王国を支配する赤の女王

Big Fish”の不気味な魔女

”Planet of the Apes"のちょっと可愛いチンパンジー

”The Time Traveler's Wife 邦題:きみがぼくを見つけた日"は、好きなテーマだということもあり面白かった。未来にも行ったと主人公が言ってたので早くから自分の運命を知っていたはずだが、それが観客にわかってしまうと映画のドラマ性が薄れてしまうことから、観衆はずっと後になって主人公の運命を知ることになる。また、娘は行く時代と場所をコントロールできると言っていたので、可能不可能は別にして父親の運命を変える行動に出ることもできた。というような疑問や細部の矛盾を気にしだすと映画がつまらなくなるので、虚心に主人公(Wife)に感情移入して映画に浸りきることが大切だ。映画の最後は、ジョディー・フォスターの”コンタクト”の最後の場面と重なり胸が熱くなった。監督:ロベルト・シュベンケ、出演:レイチェル・マクアダムス、エリック・バナ 幼いころからの一途な想いを貫いた主人公に、★★★★☆


荘子

2011-11-13 16:53:48 | 中国

 学生時代、友人のSが、”生まれてくる子供が五体満足であってほしいと親が願うような状況は、身障者に対する福祉の未整備や社会の偏見があるからだ。”と言うのに対し、”それは考え過ぎだろう。子供の幸せな人生を願うのは親の自然な心情で、仮に福祉が充実し偏見がなくなっても親は同じことを願うに違いない。”と、反論にならない反論をした記憶がある。その後、二人の間でこの議論がどう展開したか覚えていないのだが、荘子を読んで、なぜかSの言葉を思い出した。

明の万暦刊の三才図絵の荘子(金谷治「荘子」)

荘子の哲学なら、道において万物は斉一であり、道(真実在の世界)においては、人間の心知(分別知)に生じるあらゆる差別と対立はその根源において本来一つであり、一切存在はあるがままの姿において本来斉(ひと)しい。だから、貴賤も賢愚も禍福も有用無用の区別もないのである。<道は通じて一つ>   人間社会の価値体系そのものが絶対不変ではないのである。変化は無限に展開していく。<一切は変化する>   偏見を去り執着を捨て、さらには人間という立場をも捨て去り、世界の外からふりかえるとき、もはや生死の区別さえもが消え去るのである。

 世界は、一切の万物が無限の中で自生自化してゆく変化の流れそのものである。その世界の中に、おのれの卑小な存在を自覚するとき、人間が執着する価値や差別などは一切存立理由がなくなる。理由もなくこの世に投げ出された人間は、その存在だけを自覚し、生きることだけに責任を持てばいいのである。そこには、何物にもとらわれない自由な人生がある。何物にもとらわれない自由な自己の生き方を持つには、無心、虚心でなければならない。死が避けられないなら、”安らかに満ち足りた心の豊かさを、限られた人生の生きた証とすることこそ人生の最上のものであろう。満ち足りた心の豊かさは虚心で一切をあるがままに受け入れていくことによってのみ得られる。確固とした自己を持つもののみが生と死にとらわれない、人生に対する真の勇気を持つのである。”(福永光司著「荘子」)

荀子は、”荘子は天におおわれて人を知らず”と批判したらしいが、人間の道徳論を展開する儒家から見れば、荘子の思想は消極的で空論に感じられたのだろう。しかし、荘子は、人生の底辺のぎりぎりで踏みとどまり、たくましく生きる思想なのである。


USS

2011-11-07 17:00:34 | 東南アジア

 10月29日(土)は、仙台からギャンブル好きの友人夫妻が遊びに来たので、Casinoへ行くまでの時間つなぎにセントーサのUniversal Studios Singapore (USS)に行った。LAのUniversal Studiosに行ったのは、娘や息子が小中生のときだから、15年ほども前のことである。孫でもいなければ、もう遊園地など行くこともないと思っていた。LAでは2時間待ちも経験していたし、土曜日だったこともあり、長時間待ちを予想していたが、待ち時間はさほどでなく長くても40分ほどで、朝の10時過ぎから夕方4時過ぎまでたっぷりと、絶叫マシン以外ほとんどのアトラクションを体感した。

古代エジプトの”Revenge of Mummy”は、暗闇の中をジェットコースターで移動したので吐きそうになった。

LAのUSでもお馴染みのWater Worldでは、Splash Zoneに傘を持って座ったが、水鉄砲でびしょ濡れにされてしまった。シュレックの4Dは楽しかった。通常の3D映像に、椅子が動くという4Dに加え、”おまけ”の仕掛けがあって楽しかった。

セントーサのCasinoでは、めったに賭け事をしないので、サイコロ3つを振って数を当てるチンチロリンのような”大小”という賭け事を小さくかけた。カードやルーレットの緑のテーブル群やスロットマシンできらびやかな広い博打場は、ギャンブル客であふれていた。当地のことわざに、”インド人が3人寄れば議論し、中国人が3人寄ればギャンブルをする”というのがあるように、客の大半は中国人の観光客(台湾か中国本土かマレーシアから?)だった。外国人は入場無料だが、シンガポール人は入場料100ドル(約6000円)を払わなければならないことになっている。だから、カジノはベンツで乗り付けるような金持ちの娯楽である。最近の話題は、5000万円ほどを当てた客に胴元が現金ではなく車などによる物品払いを申し出て評判を落としたというものである。100億円つぎ込むような客を抱えるカジノとしては、しみったれた話である。

こちらは前日行ったSkyparkからの眺め。

友人夫妻のシンガポール訪問は、うちの長女が生まれる前からで、友人曰く13回目になるという。この間、行くべきところは行きつくした。近くのインドネシアのビンタン島やマレーシアのジョホール・バルとマラッカへはもちろん行った。新旧の競馬場にも2度行っている。かつて中国正月に来た時には、どこも店が開いておらず、ホテルのコーヒーハウスで残り物の食事をするしかなかったこともあった。絶品のChili Crab(カニをチリソースで炒めた料理)は欠かしたことがなく、いつもはRed Houseに行くところ、今回はNational Stadium近くのLong Beachに行った。