井上宏生「神さまと神社」によると、江戸時代の伊勢参りの年間参詣者数は、1771年200万人、1830年は4か月で400万人で、当時の日本の人口は3000万人とある。先週”伊勢参り”で紹介した神崎宣武「江戸の旅文化」には、1718年の伊勢山田奉行が参宮者数を幕府に上伸した記録にあるその年の正月から4月15日までの間に42万7500人をもとに著者は農閑期に参宮が集中するだろうとして4~5割増しの60万人を年間参宮者数と推計している。また、江戸中期の日本の人口は1800万とし、いずれも「神さまと神社」とは異なる数字になっている。
気になったので江戸時代の人口を調べてみると、Wiki(江戸時代の日本の人口統計)に複数の推計があった。下表は、江戸中期までの人口推計の抜き書きに、各研究者による数値の平均と1600年を1とした時の伸び率を追記したものである。調べるうちに歴史人口学という学問分野があることを知った。
江戸中期(1721年)の人口は複数の研究者が、3050万~3130万の間とほぼ同数の人口を推計しているので、「神さまと神社」の3000万に軍配があがる。しかし、参宮者数については「江戸の旅文化」が出典を明らかにしているのに対し、「神さまと神社」は数字を示すにとどまっている。農閑期だから4,5割増しという推計には疑問が残るので、単純に正月から4月15日までの42万7500人を年間に換算すると約150万人という計算になる。ここで問題は”お陰参り”という集団参拝の流行である。60年に一度というおかげ年に爆発的に参宮者が増え、年間200万~400万以上が参宮したという。お陰参りは一種狂信的なもので、人口の1割を超える人々がお伊勢参りをしたことになる。下は広重のお陰参りを描いた「宮川の渡し」(wikiより)で、宮川を渡ればもうそこは神宮の外宮である。1771年に一日に宮川を渡った人数が19万9千人という記録が残っている。
上の浮世絵も混んでいるが、現在の参宮者数は年間約600万人というから、伊勢神宮が混雑するのも無理はない。
上の表で気になるのが、1721年から1750年にかけて人口が減っていること(赤字)である。各研究者の個々の数字をみると、17~27万人減少している。すぐに思い当たるのが、天変地異、飢饉、疫病の流行なので、1721~1750年間の出来事を調べてみた。年号の、享保、元文、寛保、延享、寛延を頼りに江戸時代の災害や飢饉を検索すると、享保の大飢饉(1732)がひっかかった。享保大飢饉は冷夏と害虫のため瀬戸内海沿岸地帯が凶作となり、約97万人が餓死した(徳川実紀)ものであり、餓死者数は12000人という数字もある。実紀が正しければ享保の大飢饉が日本全体の人口に影響したと言える。実は下の表からわかるように、1750年以降、明治維新まで人口はほとんど増えてないので、飢饉だけが人口減の原因ではないのである。
内閣府HPから”有史以来の日本の人口の変化”(平成16年版少子化社会白書)
上のグラフからわかるように、1500万人だった1600年から中期1700年までの100年間で3000万人と倍増したにも関わらず、1700年から江戸末期1850年までの150年間は3000万人でほとんど増加していないことがわかる。なぜ江戸初期に急速に人口が増え、中期以降に停滞したのだろうか。
古田隆彦(青森大学教授)の説 (http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/interview/16/index.html)
ちょうど享保から化政期にいたる江戸中期の人口は1732年の3230万人をピークに、1790年頃まで60年に渡って減り続けています。きっかけは気候の変化です。気温が急激に下がったことによって宝暦、安永、天明期に大飢饉が発生します。しかし、問題の本質はこの時代を支えていた集約農業文明が限界に達したためなのです。
実は米を中心とした経済により、寒さに弱い米作りを青森の果てまで広げたことが大きな問題だったのです。幕末を基準とすると、なんと1730年頃の江戸中期までに耕地面積で92%、米の生産量で70%にも達していました。この無理な米作拡大が気候変化の影響を極大化したのです。
天明の大飢饉によって東北の人口はおよそ半分に減り、農民たちは自らの生活水準を維持するために堕胎や間引きによる出産抑制に走りました。姥捨てなどもこのときに始まります。江戸や大坂などの都市では、文化の成熟化によって晩婚化や単身化が拡大し、出生率が低下しました。人口密度が高く、衛生状態も悪いために災害や流行病による死亡率も高まりました。
大飢饉に連続して襲われた江戸中期ですが、人口減少の期間は文化が爛熟する華やかな時代でもあったんです。蘭学などの学問や文芸が栄え、歌舞伎、浮世絵、戯作などの町民文化が勃興し、限界に達した米作りに変わる手工業が各藩で発達します。商品経済が急速に浸透し、商人・町人が力を伸ばして、「十八大通」と呼ばれるような今でいえばベンチャー企業の成功者たちが登場。粋や通といった美意識を重んじて、独自の江戸の都市文化を築き上げていくのです。
この美意識が優れた絹織物、陶磁器、漆器、美術品などを生み出し、近代日本の経済的基礎を固めていきます。いわば、この時代に産業転換が起き、次々と新しい産業や商品、サービスが生まれたわけです。
一方で、農民の人口が減っても米の生産量は変わっていません。耕地面積の拡大、新しい農機具の開発などによって、生産性が上がったからです。農民一人当たりの収入は増え、貨幣を持った農民は干し魚、綿布、くしなどの選択材を買うようになります。この結果、経済における米の価値は減り、「米価安の諸色高」という現象が起きました。つまり、米価が下がる一方で、選択材の価格が高くなるのです。これによって武士階級は疲弊していき、幕府の守旧派は米経済を建て直そうと経済引き締めを繰り返すことになります。
古田隆彦は、文明や技術の盛衰、文化や流行、経済活動の変化などが人口の増減と密接な関係があることを見出し、それを「人口波動説」と名付けた。古田は江戸中期以降の人口減少時代に学問、町民文化、商品経済の発展し産業転換が起こったことに注目し、今の人口減少時代も同じように生産性を上げることで国民生活が豊かになるチャンスだというのだ。創造的で付加価値の高いものを開発し消費すれば国民総生産量を減らすことなく、逆に少ない人口の国民が豊かさを享受できるというのである。
もう一つ、彼の高齢化と少子化の解釈も面白かった。お年寄りは元気になっているので労働年齢を65歳から75歳に引き上げると高齢化は進んでいないことになるという話と、14歳以下の子供の定義を24歳までとすると少子化は進んでないことになるとする解釈は面白い。詭弁ではなく、まじめにこの定義に変更して政策化を進めれば年金問題も労働力不足も解消されるのだという。それでも江戸中期以降、町民は豊かになるが年貢に依存する武士階級は武士は食わねどの状態になったように、江戸時代を手本とするなら現在税金で食ってる人々の待遇も少し考える必要があると思うのだが、それについて古田は何も述べていない。
話は変わり、前回、伊勢参りの巻で、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)と祭主について触れた。井上宏生「神さまと神社」に、以下のように説明されていた。
斎宮(本では斎王)
天照大神は天皇の祖先であり、天皇は天照大神の御心を奉じなければならないが、現実問題として天皇が伊勢神宮にいるわけにはいかないので代理として未婚の皇女を神宮に送り込み天照大神の御心を伝える役目をさせた。斎宮は神と交信する巫女のような存在である。斎宮は天皇1代にひとりの決まりなので未婚のまま天照大神に仕え任を解かれるのは天皇崩御のときであった。神話時代の斎宮の初代は崇神天皇の皇女・トヨスキイリヒメであり、歴史上の初代は天武天皇の皇女で大津皇子の姉である大伯皇女である。
祭主
伊勢神宮の最高位で象徴的存在であり、神宮の規則では、「皇族または皇族であった者を、勅旨を奉じて定める」とされ、女性とは書いてないが代々女性皇族が勤めている。祭主を支えるのが大宮司で、これも旧皇族か華族出身者が就任する。祭主は神宮における様々な祭りを主宰する。神嘗祭はその年の新穀を天照大神に献上し豊穣を祝う祭りで、祭主を始め宮司らすべての神官は斎館に籠り、俗事から隔離される。新嘗祭は新穀の収穫を神々に感謝する祭りで、そのうち天皇が即位した最初の年の新嘗祭はとくに大嘗祭という。