備忘録として

タイトルのまま

スナフキン

2012-06-30 10:51:04 | 徳島

 このブログ開設初期のころからプロフィール写真(左)はスナフキンを使っている。人形は娘の部屋にある。

 教科書以外に持った最初の英語の本が、Tove Janssonの”Moomin"だった。中学生には難しく数ページで読むのを断念した。当時、テレビアニメが放映されていて、登場人物の中ではスナフキンが最高だった。たぶん、テレビを見ていたほとんどの人は彼が好きだったと思う。彼は放浪者で、孤独を愛し、群れることを嫌い、権威を嫌う。その点で木枯らし紋次郎や寅さんもスナフキンと同類で、帽子をかぶり、身ひとつで旅をする。しかし、スナフキンはその上に理知的で、基本的に無口なんだけど、時に「うっ!」とうならせるような名言を発する。

http://matome.naver.jp/odai/2127000228523916001

  • 明日も昨日も遠く離れてる
  • そのうちなんてあてにならない。今がその時さ
  • 人間はものに執着せぬようにしなきゃな
  • おだやかな人生なんてあるわけがない
  • 人の涙をもてあそんだり、人の悲しみをかえりみない者が、涙を流すなんておかしいじゃないか
  • 何かを試してみようって時には、どうしたって危険がともなうんだ

哲学的なことを言うのである。

 実は寅さんも時に、「うっ!」と思う名言を言うのである。満男が予備校生か大学生のときだったと思うが、

満男;「おじさん、人間はなんのために生きてるのかな」 寅さん:「あー、生まれてきて良かった。そう思うことが何べんかあるだろ。そのために生きてんじゃねえか。」

満男:「大学に行くのは何のためかな」 寅さん:「人間長い間生きてりゃ、いろいろな面倒なことにあうだろ。そんとき、俺みたいに勉強していない人間はいい加減にサイコロ振ったり、気分で決めたりするしかないんだ。それが勉強した奴はな、自分の頭できちんと筋道立ててどうすればいいかって考えるんだ。そのために大学に入るんじゃないか。」

スナフキンにあこがれても、スナフキン的生き方は簡単じゃない。自分自身が見たものしか信用しないAgnosticな思想を持っていて、現実主義者で、自由で、人や物に拘束されることを嫌う。冨や栄華や名誉には執着しないので、すでに覚者(仏陀)かもしれない。


クオリア

2012-06-28 09:07:22 | 話の種

 24日、ガラパゴスのゾウガメLonesome Georgeが死んだ。100歳は越えているのでダーウィンに会ったかもしれない。ゾウガメのうちこの種はこれで絶滅したが、長い間ひとりぼっちでさぞ寂しかったと思う。Lonesome Georgeは死ぬ間際にご先祖様のお迎えがあったのだろうか、クオリアがあったのだろうか。

 ある調査によると、死ぬ間際にご先祖様が迎えに来たと故人から聞いたという遺族は40%だったという。ゾウガメにクオリアがあるなら、悲しみや痛みを感じるはずだから、彼にも仲間やご先祖様がお迎えに来たかもしれない。

 クオリアとは、例えばある波長の光が目に入ってきて網膜に映り、その情報が神経細胞を通して電気的に伝えられ脳を刺激する。ここまでは現在の自然科学で説明できる。その後、その特定の刺激を”赤”と認識する感覚がクオリアである。中学生の時、多胡輝(たごあきら)の「頭の体操」という本がベストセラーになり何冊か買った。その中に、”自分が見ている赤という感覚は、人が見ている赤の感覚とは違って、実は人が緑と感じている色を自分は赤だと認識しているのではないか。このようなことはありうるか?”というような問題があった。答えははっきりと覚えていないのだが、”感覚は主観的でありその証明はできない”というものだったように記憶している。間違った記憶かもしれない。今思えば、多胡輝はクオリアあるいは他我問題(Problem of Other Mind)を扱っていたのだと思う。他我問題とは他者の自我すなわち他我を他者である自分が認識あるいは経験できるのかという問題である。多胡輝の答えに対する私の記憶が正しいなら多胡輝は他我(他者のクオリア)は認識できないという立場である。

wikiより逆転クオリア 

 Lonesome Georgeに寂しいとか痛みという感覚はあったのだろうか。これには議論があるらしい。クオリアそのものが存在しないという意見がある一方で、何にでもクオリアがあるという汎心論が存在する。汎心論では人間だけでなく生物あるいは石などの無機物までもクオリアを持つというのである。例えば人工知能が発達すれば赤の光の情報を取り込んだコンピューターが人間と同じように”赤”の感覚を認識することも可能となる。という。痛みさえ感じるAIができる可能性も出てくる。”I Robot”や”AI”はそんな映画だった。これは山川草木悉皆成仏の考えにも通じる。ここまでくると空想的、哲学的、宗教的なので、クオリアは哲学的に扱うのでなく純粋科学的に取り扱わなければならないというのが、多くの科学者の意見である。らしい。

 1か月前までクオリアという言葉や概念さえ知らなかったのに偉そうにブログで知ったかぶりをしてしまった。息子が難しい議論を仕掛けてきたので、にわか勉強をしたおかげである。お陰参りにいかなければ。


ブッダは、なぜ子を捨てたか

2012-06-24 04:37:57 | 仏教

 ガンジーは非暴力による独立運動に入るころ妻子を捨てブラフマチャリヤ(禁欲)の誓いを立てる。ゴータマ・シッダールタ(ブッダ)は29歳で妻子を捨て悟りを得るための苦行に出る。ガンジーの非暴力はブッダの不殺生に通じる。悟りを得るため、あるいは信念をつらぬくためには、世俗のあらゆる欲も愛欲も血縁・家族も自己さえも捨てなければならないのか。

 山折哲雄は”ブッダは、なぜ子を捨てたか”の中で、ブッダとガンジーの生き方を重ねあわせて、ブッダの教えを解説する。山折は本で、誕生し29歳で家を出るまではゴータマ・シッダールタ、家を出て35歳でブッダガヤの菩提樹の下で瞑想に入り悟りを開くまでをシャカ、そのあとはブッダと呼ぶとしているので、ここでもそれに従う。

 シッダールタは結婚して13年目にして初めて長男を授かる。本来なら待望の子を授かったはずが、自分の子に悪魔「ラーフラ」という名をつける。子供の誕生は愛欲の結果と直観した所為ではないかと山折は想像している。シッダールタは我が子の誕生と同時に妻子を捨て家を出る。我が子に悪魔と名付けたことで一度子を捨て、家を出ることで二度子を捨てた。山折がそのように想像する理由は、ブッダの悟りが愛欲を含めすべての欲望(苦のもと)を捨てることで開かれたとするからである。同じように長男が再婚を望んだとき、ガンジーは”子を産むことは原罪的な呪いの行為であり慎むべきである”とブラフマチャリヤ禁欲を理由に反対した。欲望は高次元での生き方の妨げになるのである。以前、我が子に「悪魔」と名付けようとした人がいたが、もしかしてブッダに倣おうとしたのかもしれない。

 6年の遍歴の後、シャカがたどり着いた悟りとは、「四諦八聖道(八正道)」と「縁起」の2つの原理だと山折はいう。手塚治虫のブッダを読んで自分なりにブッダの悟りは”自己犠牲”と”宇宙はひとつの生命でつながっている”と解釈したが、前者は「八聖道」の究極の姿であり、後者は「縁起」のことなので手塚治虫はほぼ山折と同じ理解だったと言える。

 四諦(したい)とは、苦、集、滅、道の4つの真理(原理)で、ブッダは、「さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、4つの尊い真理を見る。---すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終わりにおもむく8つの尊い道(八聖道)とを見る。」と言う。すなわち、人生は(苦)であり、苦しむのは、ものにこだわる(集)からであり、執着愛着を含めて欲望がつきないからである。したがって欲望をすべて消(滅)させることが悟りの境地に入ることで、苦の消滅には正しい修行、8つの(道)を実践しなければならない。ここで特筆すべきことは、滅のあとに道が説かれていることである。道の実践により苦を消滅させること(道→滅)が最終目標ではなく、苦を消滅するための道の実践(滅→道)が重要だという。欲望からの解放に向かって限りなく努力せよ(滅→道)が人間にとって不可欠の生き方なのだという。八聖道は八つの道の実践方法である。

 縁起とは、現実にあるものすべては、単に相対的な存在にすぎないという認識のことである。絶対的なものはなくすべては相互依存的に存在している。

 さて、父であるブッダに捨てられたラーフラはその後、ブッダの弟子になり学習第一の羅睺羅(らごら)として十大弟子のひとりに数えられる。一方、ガンジーの長男ハリラールは再婚を反対されたあと自制心を失い酒と女に溺れ立ち直ることはなかった。また、ブッダは静かに涅槃に入るがガンジーは暗殺される。

 西行は23歳のとき家を出るとき衣の裾にとりついて泣く4歳の我が子を縁から蹴落としたという逸話があるが、その後歌の道に入り、苦行や信仰に入った様子はない。西行の家出は失恋(待賢門院が相手という説)が原因だという説もある。だから、山折は西行の家出には言及しない。

 山折は京都に住んでいるがどこにもブッダの姿が見えないという。言われてみれば仏教寺院に行っても、ブッダ自身を意識することはなく如来や観音などの仏像を拝んでいる。そもそも如来や観音ら仏とブッダとの関係や仏教内の位置付けさえ自分がよく理解していないことに気づいた。


江戸時代の人口

2012-06-03 11:33:41 | 江戸

 井上宏生「神さまと神社」によると、江戸時代の伊勢参りの年間参詣者数は、1771年200万人、1830年は4か月で400万人で、当時の日本の人口は3000万人とある。先週”伊勢参り”で紹介した神崎宣武「江戸の旅文化」には、1718年の伊勢山田奉行が参宮者数を幕府に上伸した記録にあるその年の正月から4月15日までの間に42万7500人をもとに著者は農閑期に参宮が集中するだろうとして4~5割増しの60万人を年間参宮者数と推計している。また、江戸中期の日本の人口は1800万とし、いずれも「神さまと神社」とは異なる数字になっている。

 気になったので江戸時代の人口を調べてみると、Wiki(江戸時代の日本の人口統計)に複数の推計があった。下表は、江戸中期までの人口推計の抜き書きに、各研究者による数値の平均と1600年を1とした時の伸び率を追記したものである。調べるうちに歴史人口学という学問分野があることを知った。

 江戸中期(1721年)の人口は複数の研究者が、3050万~3130万の間とほぼ同数の人口を推計しているので、「神さまと神社」の3000万に軍配があがる。しかし、参宮者数については「江戸の旅文化」が出典を明らかにしているのに対し、「神さまと神社」は数字を示すにとどまっている。農閑期だから4,5割増しという推計には疑問が残るので、単純に正月から4月15日までの42万7500人を年間に換算すると約150万人という計算になる。ここで問題は”お陰参り”という集団参拝の流行である。60年に一度というおかげ年に爆発的に参宮者が増え、年間200万~400万以上が参宮したという。お陰参りは一種狂信的なもので、人口の1割を超える人々がお伊勢参りをしたことになる。下は広重のお陰参りを描いた「宮川の渡し」(wikiより)で、宮川を渡ればもうそこは神宮の外宮である。1771年に一日に宮川を渡った人数が19万9千人という記録が残っている。

上の浮世絵も混んでいるが、現在の参宮者数は年間約600万人というから、伊勢神宮が混雑するのも無理はない。

 上の表で気になるのが、1721年から1750年にかけて人口が減っていること(赤字)である。各研究者の個々の数字をみると、17~27万人減少している。すぐに思い当たるのが、天変地異、飢饉、疫病の流行なので、1721~1750年間の出来事を調べてみた。年号の、享保、元文、寛保、延享、寛延を頼りに江戸時代の災害や飢饉を検索すると、享保の大飢饉(1732)がひっかかった。享保大飢饉は冷夏と害虫のため瀬戸内海沿岸地帯が凶作となり、約97万人が餓死した(徳川実紀)ものであり、餓死者数は12000人という数字もある。実紀が正しければ享保の大飢饉が日本全体の人口に影響したと言える。実は下の表からわかるように、1750年以降、明治維新まで人口はほとんど増えてないので、飢饉だけが人口減の原因ではないのである。

内閣府HPから”有史以来の日本の人口の変化”(平成16年版少子化社会白書)

 上のグラフからわかるように、1500万人だった1600年から中期1700年までの100年間で3000万人と倍増したにも関わらず、1700年から江戸末期1850年までの150年間は3000万人でほとんど増加していないことがわかる。なぜ江戸初期に急速に人口が増え、中期以降に停滞したのだろうか。

古田隆彦(青森大学教授)の説 (http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/interview/16/index.html

ちょうど享保から化政期にいたる江戸中期の人口は1732年の3230万人をピークに、1790年頃まで60年に渡って減り続けています。きっかけは気候の変化です。気温が急激に下がったことによって宝暦、安永、天明期に大飢饉が発生します。しかし、問題の本質はこの時代を支えていた集約農業文明が限界に達したためなのです。

 実は米を中心とした経済により、寒さに弱い米作りを青森の果てまで広げたことが大きな問題だったのです。幕末を基準とすると、なんと1730年頃の江戸中期までに耕地面積で92%、米の生産量で70%にも達していました。この無理な米作拡大が気候変化の影響を極大化したのです。

 天明の大飢饉によって東北の人口はおよそ半分に減り、農民たちは自らの生活水準を維持するために堕胎や間引きによる出産抑制に走りました。姥捨てなどもこのときに始まります。江戸や大坂などの都市では、文化の成熟化によって晩婚化や単身化が拡大し、出生率が低下しました。人口密度が高く、衛生状態も悪いために災害や流行病による死亡率も高まりました。

大飢饉に連続して襲われた江戸中期ですが、人口減少の期間は文化が爛熟する華やかな時代でもあったんです。蘭学などの学問や文芸が栄え、歌舞伎、浮世絵、戯作などの町民文化が勃興し、限界に達した米作りに変わる手工業が各藩で発達します。商品経済が急速に浸透し、商人・町人が力を伸ばして、「十八大通」と呼ばれるような今でいえばベンチャー企業の成功者たちが登場。粋や通といった美意識を重んじて、独自の江戸の都市文化を築き上げていくのです。

 この美意識が優れた絹織物、陶磁器、漆器、美術品などを生み出し、近代日本の経済的基礎を固めていきます。いわば、この時代に産業転換が起き、次々と新しい産業や商品、サービスが生まれたわけです。

 一方で、農民の人口が減っても米の生産量は変わっていません。耕地面積の拡大、新しい農機具の開発などによって、生産性が上がったからです。農民一人当たりの収入は増え、貨幣を持った農民は干し魚、綿布、くしなどの選択材を買うようになります。この結果、経済における米の価値は減り、「米価安の諸色高」という現象が起きました。つまり、米価が下がる一方で、選択材の価格が高くなるのです。これによって武士階級は疲弊していき、幕府の守旧派は米経済を建て直そうと経済引き締めを繰り返すことになります。

 古田隆彦は、文明や技術の盛衰、文化や流行、経済活動の変化などが人口の増減と密接な関係があることを見出し、それを「人口波動説」と名付けた。古田は江戸中期以降の人口減少時代に学問、町民文化、商品経済の発展し産業転換が起こったことに注目し、今の人口減少時代も同じように生産性を上げることで国民生活が豊かになるチャンスだというのだ。創造的で付加価値の高いものを開発し消費すれば国民総生産量を減らすことなく、逆に少ない人口の国民が豊かさを享受できるというのである。

 もう一つ、彼の高齢化と少子化の解釈も面白かった。お年寄りは元気になっているので労働年齢を65歳から75歳に引き上げると高齢化は進んでいないことになるという話と、14歳以下の子供の定義を24歳までとすると少子化は進んでないことになるとする解釈は面白い。詭弁ではなく、まじめにこの定義に変更して政策化を進めれば年金問題も労働力不足も解消されるのだという。それでも江戸中期以降、町民は豊かになるが年貢に依存する武士階級は武士は食わねどの状態になったように、江戸時代を手本とするなら現在税金で食ってる人々の待遇も少し考える必要があると思うのだが、それについて古田は何も述べていない。

 話は変わり、前回、伊勢参りの巻で、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)と祭主について触れた。井上宏生「神さまと神社」に、以下のように説明されていた。

斎宮(本では斎王)

天照大神は天皇の祖先であり、天皇は天照大神の御心を奉じなければならないが、現実問題として天皇が伊勢神宮にいるわけにはいかないので代理として未婚の皇女を神宮に送り込み天照大神の御心を伝える役目をさせた。斎宮は神と交信する巫女のような存在である。斎宮は天皇1代にひとりの決まりなので未婚のまま天照大神に仕え任を解かれるのは天皇崩御のときであった。神話時代の斎宮の初代は崇神天皇の皇女・トヨスキイリヒメであり、歴史上の初代は天武天皇の皇女で大津皇子の姉である大伯皇女である。

祭主

伊勢神宮の最高位で象徴的存在であり、神宮の規則では、「皇族または皇族であった者を、勅旨を奉じて定める」とされ、女性とは書いてないが代々女性皇族が勤めている。祭主を支えるのが大宮司で、これも旧皇族か華族出身者が就任する。祭主は神宮における様々な祭りを主宰する。神嘗祭はその年の新穀を天照大神に献上し豊穣を祝う祭りで、祭主を始め宮司らすべての神官は斎館に籠り、俗事から隔離される。新嘗祭は新穀の収穫を神々に感謝する祭りで、そのうち天皇が即位した最初の年の新嘗祭はとくに大嘗祭という。


Midnight in Paris

2012-06-02 18:23:25 | 映画

 機中で観たウッディ・アレンの”Midnight in Paris”は、20世紀初頭の著名人が大勢出てくるので薀蓄が試される映画だった。上のポスターはいつものIMDbから拝借した。ポスターの背景はゴッホの「星月夜」で、ゴッホにはもうひとつ「ローヌ川の星月夜」があり、そちらはシンガポールにパリのオルセ美術館展がきたときに観た。「老人と海」や「キリマンジャロの雪」のヘミングウェイや「華麗なるギャツビィ」のフィッツジェラルドら作家、ピカソ、ダリ、ロートレック、ゴーギャン、ドガ、マティスたち画家が登場するのだが名前と作品しか知らないし、他にも私の知らない作家が1920年代のパリにはいて映画に出てきた。Gilが自分の小説の批評を依頼するスタインも実在で、ヘミングウェイのメンターだったらしい。彼らの関係や性格がわかっていればもっと話の内容を理解できただろうし、主人公のGilにも共感できたと思う。もっと映画を楽しめたと思うともどかしい。実在の人物を登場させて史実をストーリーに絡ませるこの手の映画は好きである。

 登場人物の中でもピカソの愛人でマリオン・コティヤール演ずるAdrianaが実在かどうかが気になったので調べたが、ピカソの大勢の愛人の中には見当たらなかった。かわりにヘミングウェイがplatonicな恋に落ちる19歳の女性の名がAdrianaだった。ヘミングウェイはそのとき49歳で4人目の妻メアリとベネチア旅行中に出会ったもので、そのplatonic Loveにインスピレーションを受けて、「Across the River and Into the Tree」を書く。1950年に出版された「Across ---」は評価が低く、それに怒ったヘミングウェイは次に傑作「老人と海」を書くことになる。ところで「老人と海」には続編があるのだ。(Platonic Loveというちょっとこそばゆい言葉を目にしたのは何年ぶりだろうか。40年は経っているに違いない。)

「Midnight in Paris」2011、監督・脚本:ウッディ・アレン、出演:オーウェン・ウィルソン、レイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、エイドリアン・ブロディ 婚約者レイチェル・マクアダムスよりもピカソの愛人マリオン・コティヤールが魅力的だったように、1920年代のパリの物語にばかり目が行って、現在のお話には興味がわかなかった。1920年代にいた人々の背景を知った上でもういちど観て評価したいところだが、知りすぎて評価が下がることもありうるのでとりあえず、★★★★☆

「めぐり逢い」1957、監督:レオ・マッケリー、出演:ケーリー・グラント、デボラ・カー ニューヨーク行きの客船で出会った二人が婚約者がありながら恋に落ち、半年後に身辺整理が終わったらエンパイアステートビルで会おうと約束するが―――― 、ケーリー・グラントとデボラ・カーが会えなかった不吉なエンパイアステートビルで、「めぐり逢えたら」のトム・ハンクスとメグ・ライアンは会う約束をする展開に若干ハテなと思ったのは蛇足。話が古臭く、「王様と私」のデボラ・カーの気品を考慮しても、★★★☆☆

「めぐり逢い」のデボラ・カー(wikiより)