備忘録として

タイトルのまま

Humble to the end

2015-11-28 23:29:44 | 映画

昨日27日のThe Strait Timesネット版に、上の写真とともに「Setsuko humbled to the end」という短い記事が載った。原節子の死亡記事である。シンガポールの新聞だけでなく、アメリカのNew York Times、Washinton Post、Wall Street Journalや、イギリスのDaily MailやBBC、フランスやドイツや中国やインドネシアなどでも報道されていた。50年以上前に日本映画で活躍し銀幕から消えた女優の死が、これほど海外のメディアで取り上げられたことに驚く。記事のすべてが小津安二郎監督の「東京物語」や「晩春」での彼女の気高く控えめな演技に触れているように、小津監督作品とそれを支え演じた女優が今も世界的に高く評価されているからだろう。以前触れたように「Tokyo Story(東京物語)」は英国映画協会の評論家が選ぶ映画トップ250で3位、監督が選ぶ映画トップ100で1位になっている。先月のプサン国際映画祭でもアジアの監督や評論家が選ぶアジア映画トップ100の1位に選ばれている。(2位は黒澤明監督の「羅生門」)

英国映画協会のランキング

The Critics’ Top 10 Greatest Films of All Time (評論家によるランキング)

1. Vertigo (Hitchcock, 1958)
2. Citizen Kane (Welles, 1941)
3. Tokyo Story (Ozu, 1953)
4. La Règle du jeu (Renoir, 1939)
5. Sunrise: a Song for Two Humans (Murnau, 1927)
6. 2001: A Space Odyssey (Kubrick, 1968)
7. The Searchers (Ford, 1956)
8. Man with a Movie Camera (Dziga Vertov, 1929)
9. The Passion of Joan of Arc (Dreyer, 1927)
10. 8 ½ (Fellini, 1963)

Note: Check out more details and the top 50 on BFI’s official site.

The Directors’ Top 10 Greatest Films of All Time (監督によるランキング)

1. Tokyo Story (Ozu, 1953)
2. 2001: A Space Odyssey (Kubrick, 1968) and Citizen Kane (Welles, 1941) (tie)
4. 8 ½ (Fellini, 1963)
5. Taxi Driver (Scorsese, 1980)
6. Apocalypse Now (Coppola, 1979)
7. The Godfather (Coppola, 1972) and Vertigo (Hitchcock, 1958) (tie)
9. Mirror (Tarkovsky, 1974)
10. Bicycle Thieves (De Sica, 1948)

1963年12月に小津安二郎がガンで亡くなり、その通夜に出席したのを最後に原節子は世間から姿を消す。前年の「忠臣蔵」で大石りくを演じたのが最期の作品となり、これが原節子の事実上の映画界からの引退となった。42歳だった原節子はそれからずっと独り身で鎌倉の家で暮らし世間との接触はほとんどなかったという。 生涯独身だった小津の墓は鎌倉の円覚寺にあり、墓標は”無”とあるらしい。先週、鎌倉円覚寺に行ったのに小津の墓を見逃した。

英文記事で目についたことばを以下に並べる。

  • Those pictures will continue to enchant and move future generations largely because of her presence in (Wall Street Journal)
  • Hara came to represent an ideal of womanliness, nobility and generosity. (New York Times)
  • Donald Ricchie hailed her performance as “marvelously detailed and delicate." (Washinton Post)
  • Ozu once said "However, it is rare to find an actress who can play the role of a daughter from a good family." (Washinton Post)

いずれの記事も映画の中の原節子の気品、やさしさ、女性らしさ、繊細、存在感を絶賛する。

原節子の引退は1962年で、自分はまだ小学校に入ったばかりだから当時の彼女の活躍や人気を知る由もない。はるか後年に観た「東京物語」、「青い山脈」、「わが青春に悔いなし」で知るばかりである。小津の映画も「東京物語」しか知らない。確かに「東京物語」はいい映画だと思った(★4つ)し、老夫婦を気遣い健気で控えめに生きる原節子に共感したが、はるか50年も前に引退し静かに死んでいった女優を世界中がニュースで取り上げ絶賛するほどの理由を知りたいものである。The Strait Times記事のタイトル「Setsuko humbled to the end」は、”節子は最後まで控えめだった”とでも訳すのだろうか。


鉢木

2015-11-23 11:20:10 | 中世

一昨日21日、円覚寺の人出が想像以上だったので、混むのを嫌い早めの昼食をとろうとネットで調べていた東慶寺近くの”鉢の木”という精進料理店に急いだ。11時過ぎだというのに店の前にはもう行列ができていて、席に着けたのは12時ちょうどだった。私は入れ子膳(下写真)、妻は半月点心を注文した。普段口にしない上品なものだった。

店名の”鉢の木”は、元寇のときの執権だった北条時宗の父である北条時頼を主人公にした謡曲の題である。

ある大雪の夜、一人の旅僧が下野国佐野の庄のあばらやを訪ね一夜の宿を借りる。主人である武士は貧しい中、粟飯を出し身の上話などをして僧をもてなす。夜が更けて次第に寒くなるが焚火の薪がなく、武士はおもてなしに大事な鉢の木を切って焚火にしようとする。僧は止めようとするが、

シテ(武士) それがしもと世にありし時は、鉢の木に好きあまた持ちて侯へども、かやうに散々の体と罷り成り、いやいや木好きも無用と存じ、皆人に参らせて候ふさりながら、いまだ三本持ちて侯、あの雪持ちたる木にて侯、これは梅桜松にて、それがしが秘蔵にて候へども、今夜のおもてなしに、この木を切り火に焚いてあて申さう
ワキ(旅僧) 以前も申すごとく、おん志しは有難う候へども、自然またおこと世に出で給はん時のおん慰みにて侯ふ間、なかなか思ひも寄らぬことにて侯
シテ(武士) いや、とてもこの身は埋れ木の、花咲く世に逢はんことは、今この身にては逢ひ難し、
ツレ ただ徒らなる鉢の木を、お僧のために焚くならば、
シテ(武士) これぞまことに難行の、法の薪と思しめせ、
ツレ しかもこの程雪降りて、
シテ(武士) 仙人に仕へし雪山の薪、
ツレ かくこそあらめ
シテ(武士) われも身を

旅僧が名を尋ねたところ、武士は佐野の源左衛門という名で、一族の横領によって落ちぶれたことを明かす。しかし、落ちぶれたとはいえ

シテ(武士) かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き、さて合戦始まらば、敵大勢ありとても、敵大勢ありとても、一番に破つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢えに疲れて死なん命、なんぼう無念のことざうぞ。

と、鎌倉のために死をかけて闘う決意を語る。年が明けて春になり、突然鎌倉から招集の触れがあり、佐野源左衛門も千切れた具足を身にまとい錆びた薙刀を持ち痩せ馬に乗って鎌倉に駆け付ける。

ワキ(旅僧じつは時頼) やあいかにあれなるは佐野の源左衛門常世か、これこそいつぞやの大雪に宿借りし修行者よ見忘れてあるか。今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともその具足取つて投げ掛け、錆びたりともその薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参ずべきよし申しつる、言葉の末を違へずして、参りたるこそ神妙なれ、まづまづ今度の勢使ひ、まつたく余の儀にあらず、常世が言葉の末、まことか偽りか知らんためなり。

佐野源左衛門の「いざ鎌倉」がうそではなかったことを確認した時頼は、自分があの夜の旅僧であることを明かし、そのときの返報として、鉢の木の梅、桜、松にちなんだ領地を与える。

「鉢の木」は観阿弥・世阿弥の作と言われ、その後、歌舞伎の演目に取り入れられ誰でも知る有名な話となる。戦前は小学校の教科書にも採用されたという。ネットの日本語俗語辞書の「いざ鎌倉」の項を紐解くと、”現在では一部の中高年を除き、ほとんど使われなくなっている”とあり、死語あつかいである。一部の中高年に該当する自分は、この説明に悪意を感じた。

実際の北条時頼は、1227年に生まれ36歳で死去し、息子の時宗同様、早死である。1246年19歳で第五代執権となり、1256年29歳のとき執権を退き出家する。「鉢の木」は時頼が晩年諸国を遊行したという伝説から生まれた話で正史にはないらしい。


いざ鎌倉

2015-11-22 19:38:00 | 中世

中国の正史『元史・巻二百八・外夷一・日本』によると、元の世祖(フビライ)は至元3年(1266年)以降、高麗を通じて何度も日本に使者を送り、国交を結び朝貢するように促すが、その都度無視されるか使者が大宰府に留め置かれ進展がなかった。至元11年(1274年)、世祖は船900艙を仕立て1万5000の兵士を乗せ言うことを聞かない日本を攻撃させた。

「冬10月、其の国に入り之を敗る。而れども官軍整わず、又矢尽きて、唯だ四境を虜掠して帰る。」 

これが『元史・日本』に記録された文永の役の記録である。文永の役もその後の弘安の役も神風が吹いて元軍は敗れたと思っていたが、この記録から文永の役は日本側が矢が尽きた元軍を追い返したように読める。

翌、至元12年に再び国書を送ったが返事がなかった。至元17年に日本は元の国使を殺した。至元18年(1281年弘安の役)、元は十万人の遠征軍を日本に送るが、全軍を失った将軍たちが還ってきて、「日本に至り、大宰府を攻めんと欲せしに、暴風、舟を破る。猶も戦いを議せんと欲せしが、(配下の将たちが)節制を聴かず、すなわち逃げ去る。」ので、自分たちは、残った兵を連れ帰ったと報告した。ところが、その後まもなく敗軍の兵卒が戻り、将軍たちの報告がうそだったことが暴露される。五竜山(平戸の東の鷹島とされる)で暴風雨に会ったあと将軍たちは10万の部下を捨て、自分たちだけが逃げたというのだ。

「官軍、六月海に入り、七月平壺島(平戸)に至り、五竜山(鷹島)に移る。八月一日、風、舟を破る。五日、(范)文虎等の諸将各自ら堅好の船を択びて之に乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師と為し、之を号して張総管と曰い、其の約束を聞く。まさに木を伐りて舟を作り還らんと欲せしに、七日、日本人来たりて戦い、尽く死す。余の二、三万、其の虜となりて去る。九日、(日本人は)八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍を謂いて唐人と為し、殺さずして之を奴とす。閶輩是也(私たちがその例です)。」

八角島は博多のことだとされている。10万以上の兵からなる元軍は、平戸の近くの島で暴風雨にみまわれ船を失くした。戦意を喪失した上層部だけが逃げ帰り、残された兵卒たちはそこに来た日本軍に惨敗し多くが捕虜になったというのが弘安の役の真相であった。

この1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の元寇のときの第八代執権が北条時宗で、元の国書を無視し、使者を追い返したり殺したりしているように、元に対して強硬姿勢を貫いている。国難を説く日蓮を佐渡に流したのも時宗である。下写真の円覚寺は時宗が1282年に元寇の戦没者を追悼するため創建した臨済宗の寺である。円覚寺の開山(寺院を創始すること)である中国僧の無学祖元は時宗の招きに応じ1279年に来日する。

昨日11月21日(土)は、JR北鎌倉で電車を降り、まず近くの円覚寺に行った。円覚寺はもみじの紅葉で有名だということだったが、見頃はまだ少し先だった。右の三門の扁額は”圓覚興聖禅寺”とあり伏見上皇の直筆によるという。伏見上皇は第92代天皇で、あの『とはずかたり』の後深草天皇の第2皇子である。時宗は満32歳で死去しここ円覚寺に埋葬されている。

円覚寺から駆け込み寺の東慶寺に行き、そこから鶴岡八幡宮へ行く途中、下の写真の建長寺に寄った。建長寺は、時宗の父である第五代執権・北条時頼に招かれた中国僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)により1259年に創建された。円覚寺の開山である無学祖元は1279年に没した蘭溪道隆の後継として招かれ建長寺の住職も兼ね、1289年にここで没した。894年遣隋使は廃止されたが、鑑真以来、仏教界の交流は続いていたのである。写真の三門の下でお坊さんから有り難い法話を聞いた。昭和の初めに臨済宗に山本老師という盲目の僧がいた。山本老師が僧になる前、四国八十八か所を回り何順目かの冬、とある臨済宗の禅寺の前で行き倒れになる。山本老師はそこの住職に助けられ寺男となり、その後偉い僧になった。大東亜戦争終戦の時、山本老師は、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」ということばを首相の鈴木貫太郎に進言し、その言葉が天皇の終戦の玉音放送に採用されたという。この山本老師の話と臨済宗の開祖の語録を記した臨済録に書かれた「だまされるな」という言葉とのつながりがよくわからなかった。右下写真は、柏槇(びゃくしん)というヒノキ科の大木で、木の前には開山の蘭溪道隆が中国より種を持ってきて蒔いたという案内板が立っていた。樹齢760年、樹高13m、周囲6.5mである。

 建長寺から鶴岡八幡宮へ行き、参道を逆に由比ガ浜まで歩いた。鎌倉大仏へは行かず由比ガ浜を西に向かい、由比ガ浜駅から江の島まで江ノ電に乗った。江の島の片瀬海岸の沖合には無数のウインドサーフィンの帆が浮かんでいた。11月でもサーファーは熱いのだ。帰路は江の島から小田急に乗った。歩き疲れて乗ったロマンスカーでは新宿まで爆睡だった。

 


ソウル

2015-11-08 11:12:29 | 

USAバトンルージュから帰国してすぐソウルへ行った。ソウルは一昨年6月にウラジウォストクへの途中、トランジットで金浦空港近くのホテルに一泊し翌日すぐに仁川空港から発ったので、街には出なかった。初めてのソウルはバトンルージュと異なり感覚的に親近感を持てた。

上の写真はハングルの祖、世宗大王像、右奥の豪華な2層の建物は光化門、その左奥山麓にかすかに見える建物が大統領府である。写真の中の黄色いベストを着た人は警察官である。日中韓首脳会議が開催されていたので街には多くの警察官がいたが特に不便はなかった。大統領府が見たくて門前をタクシーで通った(下の写真)が意外にも検問をあっさり通してくれた。壁際の植え込みを地雷検知器のようなもので探査している係官を見る程度だった。

光化門は李氏朝鮮(1392~1910)の太祖李成桂が1394年に遷都して建てた王宮を守る正門である。秀吉の文禄の役(1592年)の時に焼失したことを含め何度も火災に会い、2010年に今の位置に移動復元公開されたという。写真銅像の世宗(1397-1450)は李氏朝鮮5代目でハングルを制定した。この銅像の前方に秀吉の文禄慶長の役で活躍し戦死した李舜臣の剣を手にした立像(下の写真)がある。この二人は韓国の国民的英雄だという。有名な南大門や漢江は車の中から走り観光した。

左:大統領府、右:南大門

左:李舜臣 中:南大門市場 右:初日夜の肉

ソウルでは3泊し写真のような焼肉を連日食べたが、さすがに最終日は食傷し、昼食はベトナムのフォー夕食はイタリアンとした。下の写真は左から牛肉たっぷりのプルコギ、骨付きカルビー、冷麺である。このプルコギは煮汁の豊富なすき焼きのような調理で牛肉がたっぷり入っていた。骨付きカルビーはレタスに巻いて玉ねぎスライスが入った薄味のたれで食べた。冷麺は日本でみる冷麺よりも細いが味が浸みて美味しかった。冷麺の左の小椀に入ったのは辛いチゲ、右は白いキムチである。いずれも美味であった。キムチはフォーに合うのでベトナム料理屋でも出てきたが、さすがにイタリアンにはなかった。

中:初日昼の肉 中:二日目夜の肉 右:二日目夜の冷麺

ソウルの街は銀杏の紅葉がきれいで清々しかった。嫌韓とか反日とか憎悪は何も生まない。高校時代の友人は大学に入ってから自分が在日であることを名乗った。高校時代、自分にパスポートが出ず日本人でないことがわかり何も手につかず夜あてもなく彷徨ったこともあったという。クラスも部活もいっしょで最も親しかったはずの自分は、愚かにも彼の悩みにまったく気づかなかった。彼の弟はその後ソウル留学中にスパイの嫌疑を受け刑務所に入り出所後帰国し、うつになり自殺している。庶民はいつも政治や歴史に翻弄されるだけなのだろうか。数年前40年ぶりに会った彼が元気に前向きに生きていたことが救いだった。

11月4日ソウルから東京に戻り、5日にはシンガポールに戻った。ソウルの夜は摂氏4℃と寒かったが、シンガポールでは相変わらずT-シャツ短パンで汗をかきながら、このブログを書いている。


Dying Girl

2015-11-07 13:03:35 | 映画

「Me and Earl and The Dying Girl」2015、監督:アルフォンソ・ゴメツールジョ、出演:トーマス・マン(Me=グレッグ)、RJ サイラー(Earl)、オリビア・クーケ(The Dying Girl=レイチェル)、直訳すると「死にかけの女の子」あるいは「末期の女の子」あるいは「瀕死の女の子」などという直接的なタイトルをつけた映画を半ばうさんくさい思いで観始めた。中学の時「drowning」という単語を”おぼれかけている”と教わったことを思い出した。映画はタイトルのとおり、主人公のグレッグと、彼の唯一の友達のアールと、末期の白血病を患ったレイチェルとの交流を描く。若年ガンの二人を描いた「The Fault in Our Stars」は主人公のヘイゼルの最期を見せなかったが、この映画はレイチェルを最期まで見届ける。「Fault」は死にゆく若者の心情が成熟した大人の目線で哲学的に描かれ思惟に富んでいたが、「Dying」は17歳の若者たちを等身大で描き未熟だが純粋な心の葛藤がリアルで心に迫った。★★★★☆

「Self/less」2015、監督:ターセム・シン、出演:ライアン・レイノルズ(「Green Lantern」、「Safe House」)、ナタリー・マーティンズ、ベン・キングスレイ、末期がんで死を目前にした大富豪の老人(キングスレイ)が最新医療技術で新しい肉体を手に入れる。しかし、覚えのない記憶が度々フラッシュバックすることから、借り物の肉体が人造ではなく誰かの肉体(ライアン)だったことに気付く。自分がいることで、その肉体の持ち主の妻(ナタリー)と一人娘が危険にさらされることを知り、非合法な医療集団と戦いを始める。妻と娘の為、老人は肉体をもとの持ち主に戻す決心をする。死は避けられない、受容するしかない、受容すべきなのである。舞台がルイジアナのニューオーリンズで、主人公が車で走る高速道路に「左Baton Rouge、右New Orleans」という標識が出てきてうれしくなった。★★★★☆

「Max」2015、監督:ボアズ・ヤーキン、出演:ジョシュ・ウィギンス、トーマス・ヘイデン・チャーチ、昨年9月に愛犬を亡くし、その喪失感から回復できず犬を描く映画を観ることなど想像もできなかった。先週のバトンルージュ行アメリカンエアラインの機内映画が貧弱で時間を持て余し仕方なくこの映画を観た。軍用犬Maxは主人を目の前の戦闘で失くし故郷に戻ったものの精神的に不安定になり殺処分されそうになる。危ういところを主人の弟に引き取られ、いっしょに生活するうちに二人は徐々に心を通わせていく。犬も人間と同じように喪失感を克服し、新しい生き方を見いだせるのだ。Maxが主人の遺体の前で泣き声をあげる場面では目頭が熱くなってしまった。★★★☆☆

「She's Funny that Way、邦題:マイ・ファニー・レディ」2014、監督:ピーター・ボグダノビッチ、出演:オーソン・ウィルソン、イモージェン・プーツ、ジェニファー・アニストン、キャスリン・ハーン、演出家(オーソン)、その妻で女優(キャスリン)、コールガール(イモージェン)、主演男優、脚本家、カウンセラー(ジェニファー)、私立探偵、判事らが入り乱れてのどたばた喜劇で、ウッディー・アレンの映画をみるようだった。守秘義務を唱えながら自分の都合で顧客の秘密を次々とばらしていくジェニファー・アニストンのようなカウンセラーがいたらたまったものじゃない。あまり笑えない喜劇だった。夢をつかむコールガール(イモーゲン・プーツ)は「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーンに憧れ純真で、彼女の魅力でこの映画はかろうじて成立していると思う。★★☆☆☆

「Mission Impossible:Rogue Nation」2015、監督:クリストファー・マッカリー、出演:トム・クルーズ、レベッカ・ファーガソン、ジェレミー・ルナー、ミッションインポッシブルの5作目。シリーズ物の定説どおり1996年の1作目が一番面白かったが、2作目、3作目と中だるみはあったものの持ち直している。トム・クルーズは20年経った今も若い。レベッカ・ファーガソンのアクションも心地よい。★★★☆☆

「Antman」2015、監督:ペイトン・リード、出演:ポール・ラッド、エバゲリン・リリー(「ホビット・竜に奪われた王国」)、マイケル・ダグラス、体を小さくする技術で蟻人間が蟻達とともに悪と戦う。スパイダーマンやX-manやアヴェンジャーやアイアンマンなどと同じMarvel Studioの作品。時間つぶしにはなった。★★☆☆☆

「予告犯」2015、監督:中村義洋、出演:生田斗真、鈴木亮平、荒川良々、濱田岳、戸田恵梨香、正社員を望んでいたが職場のいじめで派遣の仕事を失い日雇い労働で生きざるを得なくなった若者が社会に復讐を始める。日本へ行く旅費のために腎臓を売り、その所為で死んでいく日比ハーフのヒョロが哀れだった。個人の努力ではどうしようもない格差社会のひずみを描く問題作で、登場人物たちも個性的で出色の映画だと思う。★★★★☆


バトンルージュ

2015-11-01 23:38:34 | 

昨日はハロウィーンだった。23年前のハロウィーンに留学生の服部君が射殺された街がルイジアナ州のバトンルージュである。先週そのバトンルージュへ行った。家々の玄関には直径1mもあろうかという大きなかぼちゃが並べられていた。車でさっと通りすぎたので写真を撮り損なった。

下の写真は、ミシシッピー川に架かる橋から走行中に撮った。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンが冒険をしたミシシッピー川の川幅は思ったほどではなかった。川の狭隘部に橋を架けたのだと思う。写真中央で遠くにそびえる尖塔が州庁舎(Louisiana State Capital)で、バトンルージュはルイジアナ州の州都である。ここからミシシッピー川を120㎞ほど下ったところにあるニューオーリンズの方が有名で人口も多い。バトンルージュ23万人で、ニューオーリンズ36万人である。バトンルージュ(Baton Rouge)は「赤い杖」を意味するフランス語で、有名なムーランルージュ(Moulin Rouge)は「赤い風車」である。1699年からフランスの植民地として発展し、1803年にアメリカ合衆国がフランスより買いとった。

下の写真は10月28日(火)の明け方5時半に宿舎のテレビでみた天気予報である。赤線を引いたところがバトンルージュで、火曜日朝5時半の気温は69℉(21℃)である。右下の湖畔にある71がニューオーリンズである。画面の「DRIZZLE COULD CAUSE A FEW EARLY DRIVING」の意味がよくわからない。”霧雨が所々で早めに降るだろう”的な意味なのだろうか。バトンルージュに着いた10月25日(日)から3日間はDizzleだった。滞在最終日29日にやっと晴れた。こんなに早い時間にテレビを見ていたのは時差ボケの所為ではなく、仕事開始が6時半だったからである。この早い始業時間は自分たちだけではなく、街全体がそうで、仕事場への道路はライトをつけた車で混雑していた。そのかわり終業時間は16時ごろと早い。当方は暗いうちから仕事場に入り、暗くなってから宿舎に帰ったので、ここに載せられる街の写真は上の1枚だけである。

テレビではロイヤルズとメッツのMLBワールドシリーズを連日放映していた。アメリカンフットボールも連日放映され、人気の高さがうかがえた。バトンルージュへはダラス経由で入った。成田ダラス間は約14時間の飛行で、ダラスから南東に約600㎞のバトンルージュへは国内線でさらに2時間の飛行が必要だった。隣のテキサス州ヒューストンは西に約400㎞のところに位置する。車で5時間ほどだという。

ダラス経由の帰路、アメリカン航空はベーリング海上空を飛んだ。以前、日本軍がアリューシャン列島の何もないアッツ島やキスカ島になぜ執着したか疑問だと書いたが、これらの島はアメリカを攻める経由地だったのだ。

このブログはソウルのホテルからupした。バトンルージュから一昨日帰国し、時差ボケが残る中、夜半1時から始まったRWCニュージーランド対オーストラリアの決勝戦を観戦したのち、2時間ほど仮眠し羽田からソウルへ飛んだ。攻撃のスピードで圧倒したニュージーランドが34-17で優勝した。センターNonuの高速ステップとトライは圧巻だった。