備忘録として

タイトルのまま

ジョギング

2016-05-29 23:09:15 | 東南アジア

シンガポールは暑くて湿度が高く、もっぱら明け方か夕方、あるいはジムで走る。ジムはクーラーが効いているので快適に汗をかくことができるが、戸外は朝夕でも”汗をかく”ではなく、”汗が噴出する”感じで、30分も走ると体重は1㎏減る。少なくとも1リッターは汗をかいた計算になる。明け方でも気温は25℃、湿度は95%もあるからだ。

自宅近くのEast Coast Parkでの朝ジョギングは、朝日の中チャンギ空港に降りる飛行機や太極拳体操の老人グループを見ながら走る。涼しい日本でのジョギングの爽快感までは味わえないが予め決めた距離や時間の達成感を得られる。

フィットネスに通い始めたのは広島時代2009年3月だからもう7年も前のことになる。荒川で10㎞を走ったのは2011年10月なので5年前のことだ。その後、シンガポールに駐在し、週末にジムで走ることさえさぼるようになり、2014年後半、ついに体重はコンスタントに70㎏を超えメタボになり、血糖値、コレステロール、尿酸値が標準値を超えた。そんなとき高校の同級生がフルマラソンを走ったという年賀状が舞い込んできた。高校時代、自分はクラブで毎日走り、持久走は学年でも速い方で2年のときは陸上部の助っ人として駅伝県大会にも出た。運動部所属でなかった同級生に負けるわけにはいかないと、今年1月から週3回のジョギングと体重管理を始めた。海外出張があるので週3回のジョギングはできないときがあるが、何とか体重を65kgまで落とした。そして先日、今年10月の荒川ハーフマラソンを申し込んだ。2年計画でフルマラソンを走る。と、ブログで宣言し、自分を追い込んだのでやるしかない。


パレンバン

2016-05-25 00:27:36 | 東南アジア

記憶が正しければ、30年ぶりの再訪である。先週、仕事で立ち寄った帰りの飛行機便を待つ合間に見覚えのある場所を巡った。街は変貌していたが、昔の面影もたくさん残っていた。

下はパレンバンの中心部を流れるムシ川にかかるアンペラ橋で、2つの橋脚で吊った中央桁が昇降する。スマトラの南部に位置するパレンバンは近くで石油を産出し、製油所からの積み荷などを運ぶ大型船がムシ川を行き来するために、このような昇降橋が必要だったのだろう。日本の戦後賠償で建設した橋だから30年前にももちろん存在していた。今、橋はパレンバンの陸上交通の大動脈で橋上は大渋滞だった。現在は下流にも大きな橋がかかっている。

30年前、車の数はまばらでバンコクのように水上交通が主流だった。昔も下の写真のように、あふれる乗客を屋根に乗せた水上バスが水しぶきをあげていた。当時、アンペラ橋の両岸は水上に張り出した民家が軒を連ね、人々はムシ川で、水浴、調理、洗濯、大小便など生活のすべてをまかなっていた。現在、その貧民街は一掃され、公園やレストランとしてきれいに整備されている。

右下、30年前に長期滞在したSanddjaja Hotelは当時のままに建っていた。そのころのパレンバンでは数少ない高層ビルで、街一番の高級ホテルだった。今回の再訪でホテルのコーヒーショップに入りアイスコーヒーを飲んだ。古い場末のホテルの趣で昔日の高級ホテルの面影はなくなっていた。フロントで宿泊代を尋ねたところ驚くほど高額だった。昔の格付けのままに営業しているのだろうか。

下の写真のように商店の建物は古く、30年前の街並みのままだと思う。しかし、決定的に昔と違うのは商店の看板から漢字が消えたことだ。インドネシアは1965年の共産事件とスカルノ失脚で華僑のインドネシア同化政策が進み、ジャカルタなどでは30年前でも漢字は見られなかった。ところが、パレンバンの街中には多くの漢字が残っていたので驚いたことを覚えている。今は漢字が街からきれいさっぱり消えている。それと、当時の街に車は少なく、アンペラ橋近くにあった船着き場からSandjaja Hotelまでの道を、右下の写真に写るベチャという自転車タクシーに乗ってのんびり行き来したものだ。今では、道路に車とバイクがあふれ、ベチャにゆったり乗ることなどできないだろう。

左下は、空港と街の中心をつなぐ新交通LRTの建設現場で、これも渋滞の原因になっている。右下はアンペラ橋近くに建つ大きな真新しいモスクで、30年前にはなかった。

アンペラ橋とモスクの間に博物館があり、シュリービジャヤ王国の遺物があるという案内だったがネットでの評価が低かったので入らなかった。30歳の頃に仕事で滞在した街の懐かしい場所を訪ねると、忘れていた記憶が呼び起され感慨深い旅になった。


幕末の外交

2016-05-15 22:41:01 | 近代史

昨日のNHKブラタモリは横浜だった。ハリスが神奈川の開港を要求したとき、幕府は東海道から離れた寒村の横浜を神奈川の一部だと強弁したという話だった。上は広重の神奈川宿と北斎の神奈川沖浪裏(いずれもwikiより)で番組の中で使われていた。

幕府役人の外交のしたたかさは、ちょうど読んでいる井上勝生『幕末・維新』シリーズ日本近現代史①にたっぷりと書かれている。従来の幕府外交は弱腰だったという通説を否定し、それを当時の幕府の交渉記録(『対話書』、『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』、『オランダ別段風説書』)や外国側の記録(『ペリー提督日本遠征記』、ハリス日記『日本滞在記』、ゴンチャローフ著『日本渡航記』)を参照しながら検証したものである。

左上絵は『幕末・維新』に掲載された『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』挿絵『米国使節久里浜上陸之絵図』 この場所は幕府のゲベール銃部隊の訓練場だったところで幔幕の陰に幕府のゲーベル銃部隊が並び、そこに米国使節を周到に誘い込んでいる。この図とペリーの記述は正確に照応している。右上図は同じく『ペリー提督日本遠征記』挿絵にある函館湾のペリー艦隊。

1853年ペリー来航

ペリー来航の目的は通商と貯炭所開設要求であった。ペリーは、1837年にモリソン号が日本の漂流民を返還し通商をしようと日本側に迫ったが砲撃を受け退去させられたことを累年の人道問題であるとし、人道的待遇も得られない場合は戦争も辞さないと恫喝した。それに対し、モリソン号事件以降、幕府は漂流民を長崎のオランダを経由して返還していると実例を挙げて反論し、人命保護不履行の名目で非人道的な戦争をするというのは無理だということを巧みに指摘した。また、交易は利益のことであり人道支援とは別の話で、強いて交渉する必要はないとした。ペリーは人道問題を取り上げ通商交渉を有利にしようとしたが、幕府側はそれを逆手に取ったのである。不平等条約を結んだことで、幕府側の軟弱、卑屈な外交という思い込みがあるが、武力を背景にしたペリーの方が柔軟性に欠け、幕府役人側は、軍事的に非力な状況のなか、率直で巧みな外交を行った。

幕府はオランダ政府が毎年世界の情勢を知らせて寄越す『別段風説書』によってアメリカ艦船の規模やペリーが来航することを前年には知っていたように、十分な情報量に裏付けられた外交を繰り広げたのである。

1854年日米和親条約

日米和親条約は、漂流民の保護、薪水の補給、下田・函館2港の開港、領事駐在、片務的最恵国待遇からなる。そのうち片務的最恵国待遇がアメリカだけに有利で不平等だった。当時の列強は双務的最恵国待遇を結ぶのが通例だったからだ。一方、領事駐在では、函館でのペリーの約束違反を指摘するなどしてしたたかに交渉し外交員の外出範囲の制限に成功した。ペリーの約束違反とは、直前の函館行は視察だけのはずがペリー一行が上陸し松前藩を恫喝し個別交渉をしていたことである。ペリーはその話が幕府に伝わるには50日はかかると思い、函館から江戸に戻ると松前藩とのことを隠して幕府との交渉に臨んだ。ところが、幕府には松前藩とのことはすでに伝わっていたのである。違反を指摘され、うろたえたペリーが中国人通訳の所為にしようとした様子が『対話書』や通訳ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』に記されている。(最恵国待遇=他国に与える待遇と同等の待遇をその国に与えることを約束する。片務的は一方的、双務的は双方向)

1856年には幕府も薩摩藩の島津斉彬らも貿易が富国強兵の基本だとして積極的・消極的という程度の差はあれ開国論に変わっていた。朝廷(天皇)は攘夷にこだわった。

1857年日米修好通商条約

1856年に来日したハリスは神奈川に領事館を置き強硬な外交を展開した。ハリスは、アメリカは日本の友人であり、戦争で領土を奪うことはなくアヘン貿易はしない。イギリスはアロー戦争が終われば、すぐに日本にやって来るので、すぐにアメリカと通商条約を結ぶべきであると説いた。これに対し『別段風説書』の報告により、アメリカが戦争に勝ったメキシコからカルフォルニアを奪い、中国にはアヘンを売っていることを知っていた勘定奉行の川路らは、ハリスの言の偽りを含んでおいて交渉に臨めばいいと上申する。合意された条約は、自由貿易、神奈川など5港の開港、江戸・大阪の開市、アメリカ人遊歩範囲の限定、協定関税、アヘン輸入禁止などだった。日本側に裁判権と関税自主権のない不平等条約だったが、日本にとっては外国商人による居留地以外での商行為禁止の方が重要だった。中国の天津条約が外国人の自由通商権を認めていたことや低率関税であったのと比べ、日本の条約内容は各段に有利な条件であった。高い関税は日本の在来産業の保護をある程度果たした。

ブラタモリでも東海道沿いの神奈川宿付近ではなく、寒村の横浜を開港場としてアメリカに認めさせ、その後貿易が発展し始めると、横浜の開発を急速に進めたことが紹介されていた。極めて柔軟な実利政策を展開したことがわかる。

 『幕末・維新』の筆者によると、かつて、江戸時代後期は欧米の文明に対し半未開と位置付けられていたが、その見方は変わってきているという。江戸の民衆活動は抑圧的だと考えられていたが、民衆が訴訟を願い出る活動ははるかに活発で、百姓一揆への一般百姓の参加は事実上公認され、藩や幕府は訴えを受容していた。欧米列強の到来に際し、このような成熟した伝統社会を背景にその力量を発揮し、開国を受容し、開国はゆっくりと定着し日本の自立が守られた。伝統社会の力は、幕府の外交力だけに限らず、商人たち自らが欧米列強の到来を利用し、貿易を内から定着させたというのである。

北斎や広重らが活躍した江戸後期の高度な文化、民衆の教養レベル、社会の成熟度を考えたとき、産業面や軍事力で欧米に劣る部分があったとしても、欧米から突然もたらされた変化に日本社会が柔軟に対応できるものであったろうと容易に想像できるのである。幕府が外国に対し弱腰で時代遅れだったとか、百姓が直訴し一揆を画策していたことがばれると打ち首になるという時代劇や時代小説で刷り込まれたイメージを払しょくしなければならない。


白山大権現

2016-05-08 17:40:45 | 仏教

NHK『真田丸』が面白い。上田合戦の戦闘場面はがっかりしたが、「豊臣の秀吉である」がいい。前回『花燃ゆ』は吉田松陰が死んでからいつのまにか見なくなったけど、今回の最後は大阪夏の陣のはずだから、年末まで見続けられるかも。

NHK『真田丸』Web-siteより

徳川家康の陣屋の旗印は、「厭離穢土欣求浄土」で、まさに源信の『往生要集』からとっている。死の向こうには極楽が待ってるから死ぬ気で戦えということか。ISが子供に自爆テロをさせる手口と同じだ。一方、真田昌幸の旗印は、「白山大権現」だった。

白山権現は、白山信仰の神である十一面観音を指す。白山信仰は白山を御神体とする山岳信仰で、奈良時代に泰澄が白山で修業しているとき、伊弉諾尊の化身として観音が現れたことに始まるとされる。神仏習合である。江戸時代に円空が信仰し、行基や泰澄と同じように木端仏などの仏像を多く造った。十一面観音の功徳は以下に示すようにすごい(Wiki)。

十種勝利

  • 離諸疾病(病気にかからない)
  • 一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
  • 任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
  • 一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
  • 國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
  • 不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
  • 一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
  • 水不能溺(溺死しない)
  • 火不能燒(焼死しない)
  • 不非命中夭(不慮の事故で死なない)

四種功

  • 臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
  • 不生於惡趣(地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
  • 不非命終(早死にしない)
  • 從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)

ほとんど不死身なので、これなら家康の「厭離穢土欣求浄土」に勝てる。