備忘録として

タイトルのまま

Alien

2017-12-10 22:31:19 | 映画

11月に観た機中映画のうちSF4作はすべてが駄作で、選んだ自分が悪い。あとは司馬遼太郎原作の邦画『関ケ原』を観た。ポスターはいつものIMDbより。

『Alien:Convenant』2017、監督:リドリー・スコット、出演:マイケル・パスベンダー、キャサリーン・ウォーターソン、ビリー・クラダップ、ヒューマン型ロボット(アンドロイド)が自分の意志で創造主(神)になろうとする。それに比べ人類はひ弱で甘い。過去のエイリアンシリーズでは、恐ろしいほど凶暴で生命力と強烈な個性を持つエイリアンに対し、人間、特に主人公のリプリーが生存権をかけて戦いを挑む姿をサスペンスいっぱいに扱っていた。ところが本作は、変な創造主を登場させたばかりにエイリアンのおどろおどろしい魅力が削がれてしまった。最後の人口冬眠(Cold Sleep)に入る場面も、おそらくほとんどの観客が想定できるだろう。エイリアン3作目でリプリーがエイリアンを宿す衝撃に遠く及ばない。前作『Prometheus』2012同様に駄作と言わざるを得ない。監督リドリー・スコットはエイリアン映画で何を目指しているのだろうか。★☆☆☆☆

『Life』2017、監督:ダニエル・エスピノーザ、出演:ジェイク・ギレンホール、レベッカ・ファーガソン、ライアン・レイノルズ、真田広之、宇宙ステーションで、火星で見つけた単細胞の生命体を顕微鏡観察するうちに、生命体は細胞分裂をはじめ多細胞の知的生命体に変貌する。そして宇宙ステーションのクルーを攻撃し始める。成長を続ける生命体と人間とが戦い、クルーの一人が犠牲となって生命体を宇宙の彼方に葬り去ることに成功したかに見えたがーーーー。『Alien:Convenant』のエイリアンは凄みがなくなり、こちらのエイリアンの方が凶暴で知的でその成長は予想がつかなかった。★★★☆☆

『猿の惑星:聖戦記』2017、出演:アンディー・サーキス(シーザー)、ウッディー・ハレルソン、スティーブ・ザーン、シーザーが主人公の猿の惑星シリーズ3作目。身内が残忍な大佐に率いられた人間に殺されたシーザーは、数人の仲間と人間の基地に向かう。シーザーは基地に捕らえられ重労働を課せられた猿たちを救おうとするがシーザー自身も囚われの身となってしまう。第1作の『Rise of the Planet of Apes』2011は面白かったが、第2,3作は駄作。次が出てももう見ない。★☆☆☆☆

『The Dark Tower』2017、監督:ニコライ・アーセル、出演:イドリス・エルバ、マシュー・マコノフィー、トム・テイラー、予知能力のある少年は、世界を征服しようとする異次元世界のボスから狙われるが、世界を救うために戦っているガスリンガーとボスに戦いを挑む。多次元世界を行ったり来たりする。荒唐無稽のSFに必然性を求めてはいけないのはよくわかっているのだが映画の世界観がよくわからなかった。★☆☆☆☆

幸い11月洋画は『Sherlock Ep4.2』2017に救われた。Ep4は残りが公開されてから評価する。

 公式Twitterサイトより

『関ケ原』2017、監督:原田眞人、出演:岡田准一(光成)、役所広司(家康)、有村架純(伊賀忍者)、平岳大(島左近)、東出昌大(小早川)、司馬遼太郎の『関ケ原』を読んだのは学生時代だから、もう40年も前のことだ。当時、戦国時代と幕末明治維新の知識は、ほぼ司馬の作品から仕入れていたので、確実に司馬史観のフィルターがかかっていた。大谷刑部や島左近が好きになったのも『関ケ原』の影響だった。その後しばらく司馬作品から遠ざかり、『街道をゆく』を手にしたのは30歳代半ばだった。未完の『街道をゆくー濃尾参州記』までを読破するのに10数年を要した。今、『街道をゆく』43冊は本棚に並び、旅や読書の際、折々に参照している。

 さて、映画は小説のダイジェストとして観るにはよかった。映画には珍しく、司馬遼太郎が小説で述べる人物評を語りとして取り入れていた。有村たち忍者は蛇足で映画の飾りにもなっていなかった。それと光成が処刑される直前に柿を勧められ、柿は体に悪いとして断ったエピソードがなかった。この有名なエピソードが原作『関ケ原』にあったかどうか定かではない。CGが中途半端で天下分け目の関ケ原の戦いにしては迫力が足りなかった。司馬が描いた島津の敵中突破は活字ながらもっと迫力があったように思う。LORのような迫力ある戦闘場面を期待したからかもしれない。★★☆☆☆


Kazuo Ishiguro: Nobel Lecture

2017-12-09 21:02:17 | 話の種

ノーベル文学賞の授賞式でのカズオ・イシグロの講演録を読んだ。

 以前、疑問に思った、5歳でイギリスに両親と行った少年がまったく日本語が話せなくなることがあるのだろうか、イギリスの最も伝統的な執事の小説を書く力をどのように培ったのか、日本人としてのアイデンティティーをまだ持っているのだろうか、が知りたかった。

 イギリスに渡り、現地の教育を受けながら家では日本へ帰ることを前提とした生活を送ったこと、日本への思いとフェードアウトする記憶と最初の小説、小説を書くに際して受けたインスピレーションなど、講演は時系列で進む。中でも以下の話に引き付けられた。

Tom Waits『Ruby's Arm』

33歳のとき、ちょうど3番目の小説『日の名残り』を書き終えたころ、Tom Waitsの『Ruby's Arms』を聴いていた。早朝、男が女の部屋を出ていく状況を淡々と歌うTom Waitsのしゃがれた歌声から、男の底知れない悲しみが伝わってきた。言葉での説明はいらない。歌声は計り知れない複雑な感情を表現できる(A human voice in song is capable of expressing an unfathomably complex blend of feelings.)活字に頼らず小説にそのような複雑な感情を表現したいと思っている。

アウシュビッツを訪れたときのこと

1999年、ガス室の廃墟の前で、施設管理者は、廃墟が自然に朽ちていくに任せるか、ドームで保護し後世に残すべきか、大きな葛藤があると説明した。(What should we choose to remember? When is it better to forget and move on?) 第2次世界大戦は父親たちの世代の出来事だが、作品を世に出す戦争を知らない時代の作家としてどうすべきだろうかと自問する。その経験は、『日の名残り』の中で主人がナチスの協力者でありながら執事として何もしなかったことを恥じる箇所に表現されている。大きな歴史の中に生きる個人が、人生を振り返り、暗く恥ずべき記憶と妥協したかを苦悶させる。忘れたい(forgetting)と記憶したい(remembering)のはざまで苦悶する個人の問題を、今度は、社会や国家の問題として書きたいと思っている。

東日本大震災で身内を失くした人の中に、災害遺構を残したいと考える人と壊して早く忘れたい人がいることを思い出す。

Howard Hawks『Twenties Century』

この映画を見て、自分の小説で描く人間の関係性について考える。小説の中の登場人物たちを取り出し、彼らの関係がステレオタイプになっていないか、他の小説の登場人物たちと同じでないか、ダイナミックで感情が共鳴し発展性があるか、説得力のある驚きがあるか、三次元的なキャラクターになっているかを調べ修正を加えたが、自分の作品はそれに失敗している。しかし、映画を見続けるうちに、いい物語は、革新的だろうが伝統的であろうが、結局、重要なのは読者の心を動かし、楽しませ、怒らせ、驚かせるような人間関係を付与できればいいのだということに思い至った。(had to contain relationships that are important to us; that move us, amuse us, anger us, surprise us. )

作家としてのターニングポイントは、『Never Let Me Go』で描いたように、まず中心的な人間関係からスタートし、他の関係を扇のように広げていくというものだった。

分断の時代における文学の役割

 物語とは、結局のところ一人の人間が別の人間に語りかける一対一のものだ。最近の世界は自分を憂鬱にさせる。テロや富と機会の極端な不平等は、国家間に、あるいは国家内にも存在する。極右勢力やナショナリズム、人種差別が幅をきかせる。一方、遺伝子科学、AI、ロボットなど科学技術の発展は有益であると同時に、激しい実力主義と失業の増加をもたらしている。このような変わりゆく時代に対し、疲れた作家である自分は作品を通して全力で議論し戦いを挑むだろう。文学は重要で不確実な世界の将来に重要な役割を果たすだろう。よい作品とよい読者は分断の壁を壊してくれる。Good writing and good reading will break down barriers.

 さて、以前抱いた疑問への答えとして、日本人としてのアイデンティーは、自分のルーツと初期の作品と記憶の話から明瞭だった。日本語能力については、小さいころ日本の祖父から送られた漫画や雑誌を家で読みふけったこと、両親はかなりの年月いつか日本に帰ると考えていたことから、相当の年齢まで日本語を保持したはずであり、ある程度の日本語はできると想像できる。伝統的な執事についての知識については、家の外でイギリス人として育ったとしても、それでイギリスの伝統に精通するとは考えられないので、『日の名残り』を執筆するに際し相当勉強したのだと思う。


マラソン

2017-12-03 10:00:05 | 話の種

 今日、日曜朝、いつものようにECPにジョギングに行くと、シンガポールマラソンSCSM2017のランナーで溢れかえっていた。ちょうど25km付近だろうか、軽快に通り過ぎていくランナー、疲れ切った表情で歩く人、上半身裸のランナー、中国人もインド人もマレー人も西洋人もいる。応援の人の中から女の子の日本語が聞こえてきたのでお父さんでも走っているのだろう。ランナーを見ているうちに、自分も次のレースをがんばろうという気になった。

 https://youtu.be/W6X1pFZdTbs

 先週、つくばマラソンで初フルを完走した。マラソン完走を目指し、昨年からジョギングを始め、ハーフのレースを4度走りトレーニングを積み、万を辞しての挑戦だった。それなのに、30km以降は何度も心が折れそうになり、給水所ではその都度立ち止まって給水給食ストレッチをしながら、何とか走りとおすというギリギリのレースだった。一応、1km7分ペースで5時間未満の目標をクリアはしたが、約1万人が参加した中、後ろには1000人しかいなかった。

 ゴール後は疲労困憊、足はパンパンでもう2度と走りたくないと思った。ところが、翌日、1月のハーフと3月にフルを申し込み、大会に向けて練習計画まで作っていた。すでにランニング中毒かもしれない。