備忘録として

タイトルのまま

遠雷

2014-04-27 15:15:53 | 徳島

今朝、激しい雷鳴に起こされた。時計を見ると6時だった。光と雷鳴が同時で、アパートに落ちたかと思うほど雷は激しく近かった。今は雨も上がり穏やかな青空が広がっている。子供の頃、光って3秒以内に鳴る雷は近いから建物の中に逃げろと教わった。映画「三丁目の夕日」の原作、西岸良平の「三丁目の夕日」に”遠雷”という1編があったことを思い出した。結婚を約束していた彼が破傷風で突然死んでしまい生きる希望をなくし自殺未遂をした女性が、後日結婚し子供を設け平凡で幸せな生活を送る中、ふと昔のことを思い出す。彼女の視線の向うで遠雷が鳴っているという、ちょっとほろ苦い人生を描いた作品だった。30年も昔に読んだので話の内容は違っているかもしれない。はるかな過去の記憶が、ちょっとしたきっかけでふっとよみがえることがある。シンガポールの青い空に重なる真っ白な積乱雲を見ながら、徳島の暑い夏を遠雷のように思い出した。

昭和47年高校3年の夏休みは、クーラーのない暑い家を避け、毎日高校の書道室に通い受験勉強をした。5月か6月の進路指導で希望校への合格確率は2割程度と言われたものだから必死だったのかもしれないし、級友たちが同じように受験勉強まっしぐらだったから刺激を受けてのものだったかもしれない。昼休みには、同じように気ままな場所で勉強していた友人たちが体育館に集まりバスケットやバレーボールでひととき汗を流し、午後からはまた机に向かった。夕方に帰宅し深夜までまた勉強である。飯食って勉強して寝るの繰り返しだった。世界史と化学はわら半紙にポイントを書いて覚える。数学と物理はとにかく問題を解く。不得手な英語は「試験に出る英単語」、「試験に出る英熟語」だけを参考書にしてこれもわら半紙に書いて丸暗記する。わら半紙は机の脇に山積みになった。その頃はプラチナの万年筆を使っていたのでペン先が開き字は極太になっていった。わら半紙の枚数だけ暗記量が増えていくのを実感したように若い脳に限界はなかった。そんな中、気晴らしに山口まで一人旅をし映画も観、ボーリングにも行った。睡眠時間は少なかったが何かを犠牲にしているという感覚はなかった。

ところが、夏が終わり2学期に入っても、力がついてる実感はあるのに模試の順位がなかなか上がらない。周りもみんな勉強しているのだから当たりまえなのである。年末が近づいてくると焦りや受験の重圧がのしかかってくる。それに失恋が重なって精神的には相当追い込まれた。途中、勉強が身に入らないこともあったが、3月初めの受験日は確実にやってきた。当時の国立大学の受験日は3月初旬で、私立は受験してなかったので一発必中しなければ浪人だった。1日がかりで船と電車を乗り継いだ受験場には雪が舞っていた。経験したことのない寒さに震えた。2日間の試験を終え、とにかくやるだけはやったと自分に言い聞かせ汽車を乗り継いで帰路についた。途中、米原周辺は雪のため新幹線の中で一晩明かすことになり、卒業式前日の登校には間に合わなかった。浪人はせずに済んだが、あの高校3年の夏から卒業までの時期は重圧はあったがもっとも充実し全身全霊で生きていた。そのあとしばらくは、大学生活を謳歌するよりもむしろ虚脱感に襲われ、柴田翔の「されど我らが日々」の主人公状態だった。

3月末に帰郷した際、母校の卒業式が地元ケーブルテレビで生中継され、PTA会長になった同級生が壇上で来賓挨拶するのを不思議な思いで見た。昭和47年は、こんな時代だった。

  • 高松塚古墳発見
  • 川端康成自殺
  • 田中角栄の日本列島改造論
  • ニクソン大統領のウォーターゲート事件
  • ミュンヘンオリンピック
  • 日中国交正常化
  • パンダのランラン・カンカン
  • ちあきなおみ「喝采」
  • 山本リンダ「どうにもとまらない」
  • 木枯し紋次郎
  • ゴッドファーザー

遠雷から想起する「遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄」という萩原延壽(のぶとし)の本がずっと気になっているのだが14巻という大著に躊躇して手が出せないでいる。本屋で1巻をぱらぱらめくり、1862年19歳のアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow 1843生)が上海を出帆し硫黄島を横にみて横浜に通訳として着任する場面だけは確認している。着任してすぐに生麦事件が起き外国人にとって危険な攘夷一色の日本だったが、その後、この若いイギリス人青年は幕末から明治の日英外交に重要な役割を果たしていく。萩原の「遠い崖」が、外国人が日本と接する上での障壁を暗示しているのか、遥かなドーバーの白い崖に望郷を暗示しているのかは不明である。本を読まないとわからない。


事実は真実の敵なり

2014-04-19 16:40:45 | 映画

「事実は真実の敵なり」という理研の野依理事長の本の題は、ミュージカル「ラマンチャの男」のドン・キホーテのセリフから取ったと日経記事にあった。高校時代に観た映画「ラマンチャの男」は大好きな映画で、最近もYoutubeで何度も「The Impossible Dream、見果てぬ夢」を聞いている。中でも、ソフィア・ローレン(アルドンザ、ダルシネア)が危篤状態のピータ・オトゥール(アロンソ・キジャナ、ドン・キホーテ)を病床に見舞い、涙ながらに話しかける場面、そのあとサンチョと3人でこの歌を歌う場面が好きだ。ところが、映画のどこでこのセリフが使われたのかまったく記憶にない。それ以上に、野依さんがどういう意味でこの言葉を本の題にしたのかがよくわからない。気になったのでネットサーフィンした。

この言葉はドン・キホーテを書いたセルバンテスが言った言葉ではなく、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の脚本を書いたDale Wassermanが、劇中のドン・キホーテに言わせたもので、原文は「Facts are the enemy of truth.」だった。

ミュージカルは、セルバンテスが牢獄の中で劇中劇を演じるものである。セルバンテス(ピーター・オトゥール)は自分が騎士ドン・キホーテだと信じているアロンソ・キジャナという老人を演じる。アロンソの姪のフィアンセであるDr. Carrascoは、身内に狂人がいることを嫌いアロンソを正気に戻そうとする。そして、

Dr.Carrasco:”These are facts that there are no giants. No kings under enchantment. No chivalry. No knights. There have been no knights for three hundred years.”

Don Quixote:”Facts are the enemy of truth.”

ドン・キホーテが戦ったという”巨人も魔法の王もいない。騎士道もない。騎士もいない。騎士は300年の間ずっといなかった。それが事実だ。”とDr. Carrascoが諭すのに対し、ドン・キホーテは、”事実は真実の敵だ”と反論するのである。

”事実は真実の敵だ”の意味を類推すると、目の前にある事実(Facts)は、風車があり老人がいるだけで、巨人も騎士もいない。巨人を退治しようとするドン・キホーテの騎士道(Truth、真実)は幻の中あるいはドン・キホーテの心の中にだけあるのであって、目の前の事実(風車)は真実(騎士道精神)を否定する。事実は真実を曇らせる敵だというのである。ドン・キホーテは続けて、

When life itself seems lunatic, who knows where madness lies? Perhaps to be too practical is madness. To surrender dreams - this may be madness. To seek treasure where there is only trash. Too much sanity may be madness — and maddest of all: to see life as it is, and not as it should be

人生が狂気じみて見えるとき、狂気のある場所を誰が知っているというのか。多分、現実的すぎることこそが狂気だ。おそらく夢をあきらめることも狂気だ。がらくたの中から宝物を捜すことは狂気かもしれないが、分別すぎることも狂気だ。最大の狂気は、現実の人生をみるだけで、あるべき人生をみないことだ。人生は”見果てぬ夢を見ること、To dream the impossible dream”であり、Questなのだ。

The Way」の”a difference between the life we live and the life we choose”で言えば、狂気は"the life we live"の方にあって、”the life we choose"の方にこそ真実があるということになる。「Life」なら、今の生活に埋没することは狂気であり、オフィスを飛び出し人生を能動的に生きることで真実が見えてくるということである。

Dale Wassermanは、舞台「カッコーの巣の上で」の脚本家でもある。同名映画は、1983年ごろ出張で泊まったジャカルタのマンダリンホテルの部屋で観た。精神病院に患者として入った主人公(ジャック・ニコルスン)が病院の規則や習慣を変えようと病院と戦うのだが、精神病患者の常識と病院の常識は違うために圧迫されていく。どっちが狂気で、なにが正義かわからなくなってくるところは、「ラマンチャの男」のドン・キホーテと同じである。遥か昔の記憶を頼りに、★★★★☆

野依さんの本を読んでないので野依さんがどういう理由でこの言葉を自分の本の題にしたのかはわからない。野依さんが科学の探求者であることを考えると、例えば実験データが事実で、その背後に真実(理論)が隠されているとすると、事実から真実を探求する心を持ち続けなければ真実は手に入らない。どんなに事実を積み上げても、それを読み解く力、真実を追求する心がなければ結果は得られないという意味になる。真実を追求する姿はあるときは滑稽に見え、世間には受け入れられないかもしれない。周囲は真実(STAP現象)を幻だというけれど、小保方さんは実験データ(事実)の中に200回以上真実を見たと断言している。小保方さんは世間から見ればドン・キホーテそのものかもしれない。事実を曲げてはいけないので、野依さんは小保方さんを未熟な研究者だとしているが、真実を追求する姿勢を否定はしていないような気がする。


三角縁神獣鏡

2014-04-12 21:53:13 | 古代

3Dプリンターで三角縁神獣鏡を再現したところ、魔鏡現象が確認できた(2014年1月29日毎日新聞記事 下の写真も)。鏡面に太陽の光を当てると裏面の文様が映し出されたという。鏡面を磨くときに裏の文様の硬軟が影響し鏡面にわずかな凹凸が生じ、それが魔境現象を起こすと解説されている。これが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚としたら、”卑弥呼事鬼道能惑衆”(卑弥呼は鬼道(呪術)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす)という魏志倭人伝の記述に得心がいく。

実際、三角縁神獣鏡の中には魏の年号である景初三年の記銘をもつ鏡があり、三角縁神獣鏡こそが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚であるという説がある。そしてこの鏡は3~4世紀の近畿地方の古墳からたくさん出土することから邪馬台国近畿説の根拠のひとつとなっている。

九州論者の植村清二は「神武天皇」で、鏡は持ち運びが容易で渡来年と埋葬年が制作年と一致するとは言えないから、魏の鏡が近畿に多くあることをもって魏と近畿の国の間で交渉があったとは結論できないとする。しかし、この部分の植村の説明ははぎれが悪い。同じ九州論者の古田武彦は、魏王が銅鏡百枚を贈ったのは景初二年のことで、卑弥呼に贈られた鏡に景初三年銘があるはずがないとする。だから、景初三年銘のある三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとする。

魏志倭人伝によると、景初二年6月卑弥呼は帯方郡に使節を送り天子に朝献を求め、帯方郡太守の劉夏は護衛をつけて使節を都・洛陽へ送る。同年12月に使節は天子に謁見し返礼として親魏倭王の金印や銅鏡百枚を含む方物を賜わる。植村は景初二年ではなく景初三年(239年)に使節は洛陽に送られ朝献したと書いている。魏志倭人伝には、景初二年とはっきりと書かれているのだが、その年は魏と公孫氏が戦闘中で、戦時下の帯方郡に使節を送るはずがないという考えから江戸時代以降改訂が加えられ、後代の研究者は改訂に疑問をもたず景初三年が定説となったものだと「邪馬台国はなかった」の著者である古田武彦はいう。

古田武彦は、景初二年だからこそ説明でき、三年では解釈不能の事実がいくつもあると指摘する。(1)帯方郡太守が倭国使節に護衛をつけて都へ送り届けたのは、魏と公孫氏が戦争中だったからである。このとき以外に使節に護衛をつけるなどという記録はない。(2)倭国の使節は人数が少なく貢物が貧弱だったのは戦時下だったことで説明できる。それ以降、これほど使節や貢物が少なかったことはない。(3)戦争中にも関わらず、東夷諸国の中でいち早く倭国が使節を送ったことを魏は喜び、親魏倭王という称号と豪華な下賜品を与えた。(4)景初二年12月に魏の明帝は病を発し急死する。だから同月に魏は親魏倭王と下賜品を装封(品物は準備したが封印して留め置いた)し詔書だけを出した。(5)1年の喪が明ける景初三年12月に諸公事を再開し、実際に使者を発したのは翌正始元年で下賜品は卑弥呼に直接届けられた。

卑弥呼への下賜品は景初二年12月に装封したのだから、そこに景初三年銘の銅鏡が入る可能性はなくなるというのが古田の説である。だから、景初三年銘の銅鏡は、卑弥呼に下賜された銅鏡百枚ではないというのだ。もちろんその後も魏と倭国の使節の交換は続いたので後の使者が持ち帰った可能性は残る。一方、同じ鏡が中国では1枚も発見されていないことから、中国で作られたものではなく日本で鋳造されたという説もある。いずれにしても三角縁神獣鏡が近畿周辺で数多く発見されていることで邪馬台国の所在地が確定したということにはならないと九州説派は述べている。しかし、魏の年代を記した銅鏡が東北から九州まで広く存在することは特筆されなければならない。

 ところで、3Dプリンターの威力はすごいが、グーグルがまもなく限定販売するGoogle glassも優れものである。アーノルド・シュワルツェネッガーの「トゥルーライズ」で小型カメラの映像がメガネに映写されるスパイキットが出てきた。「ロボコップ」や「ターミネーター」では自分や対象物のデータが眼前に映し出された。それがやっと現実になってきた。検索、道案内、写真・ビデオ撮影、翻訳が音声指示でできるという。道を歩いていると、昼時なら近くのレストランを嗜好に合わせて教えてくれるらしい。ネット上で個人の嗜好はすでに筒抜けになっているから個人情報を制限することはもはや無理のようである。津波のときの人間の行動を分析するために集められたビッグデータをみると、個人の行動パターンは携帯やNavi管理会社にすべて把握されている。これらデータの制限は防災を目的とする津波時の行動パターンの分析やネットの利便性を阻害してしまうので、それを使う側の倫理観や、利用方法が適法かを監視するしかないと思う。


Life

2014-04-10 22:18:04 | 映画

「The Secret Life of Walter Mitty」2013、監督:ベン・スティラー、出演:ベン・スティラー、クリステン・ウィイグ、ショーン・ペン、シャーリー・マクレーン、ポスターはいつものIMDbより。Lifeという雑誌を発行する会社が買収され、雑誌はネット配信に代わり紙ベースは廃刊されることになる。同時に従業員の多くはクビを言いわたされる。写真ネガの管理部署(アナログ)で働くWalter Mitty(ベン・スティラー)は、単調な仕事を反映してか夢想の性癖があり、有力なクビ候補である。最終号の表紙を飾る予定の写真が見当たらないことから、写真家を捜す旅に出る。旅はグリーンランドから始まり、アイスランド、アフガニスタンへと移っていく。写真家を捜す旅はアドベンチャーそのもので、グリーンランドのNuukではサメに襲われ、アイスランドでは地底旅行の火山「Eyjafjallajokull、エイヤフィヤトラヨークトル」の噴火に遭遇する。映画はLifeの意味をMittyが歩く画面の背後に映し出していた。

To see the world, things dangerous to come to, to see behind walls, to draw closer, to find each other, and to feel, that is the purpose of life, dedicated to people who made it. (世界を見ること、危険に立ち向かうこと、裏側を見ること、引き寄せるもの(または落ち着くこと)、出会い、感じること、それが人生の目的だ。人生は人生を創る人にささげられる。)それと、Making of a brave man(上の写真のヘルメットをかぶった宇宙飛行士のポスターに書いてある)も人生の目的かもしれない。

ショーン・ペン演じる写真家は人生に誠実であれ!とさとす。要するに、”能動的に人生を生きろ!”ということか。「The Way」では、自分が主体的に選ぶ人生と実際に生きてる人生は違うということや人生を見つけるのに遅すぎることはないと言っていた。でも主人公の遭難死した息子はもう人生を見つけることはできない。★★★★☆

「ホビット・竜に奪われた王国」2013、ホビット思いがけない冒険の続きである。監督:ピーター・ジャクソン、出演:マーティン・フリーマン、イアン・マッケラン、リチャード・アーミテージ、オーランド・ブルーム、エヴァゲリン・リリー、Sherlockのベネディクト・カンバーバッチが竜Smaugの声をしている。Dr. Watson役のマーティン・フリーマンが主役ビルボー・バギンズで、カンバーバッチが出ると主役を食ってしまうから声だけにしたのかもしれない。タウリエル役のエヴァゲリン・リリーは、ソンドラ・ブロックの口と目をさらに大きくし、耳も尖っているのでユニークな顔をしているが、そのアクションは小気味がいい。3部作が完結しないと評価は難しいが十分楽しめた。★★★★☆

「Silver Linings Playbook 邦題:世界にひとつのプレイバック」2012、監督:デイヴィッド・ラッセル、出演:ブラッドリー・クーパー、ジェニファー・ローレンス、この映画は1年程前に見ていたのだが、映画評済と勘違いしていた。サイコの二人の会話はかみ合ってるように見えるのだが、実はまったくすれ違っている。そこが面白いのである。自分と人との関係も同じで、相手が理解してくれていると思っているのは自分だけかもしれない。ジェニファー・ローレンスはこの映画でアカデミー主演女優賞をとった。オスカーを受け取りに行くとき舞台へ上る階段で転んだが、今年のアカデミー賞でもレッドカーペットでもつまづいた(tripsとニュースでは言ってた)。★★★★☆

「Hunger Game Catching Fire」2013、監督:フランシス・ローレンス、出演:ジェニファー・ローレンス、ジョシュ・ハッチャーソン、リアム・ヘムスワース、2012ハンガーゲームの続編である。前作と同じシチュエーションでアクションに新鮮さがなく冗漫で退屈した。さらに続編2作があるのだが、もっと簡潔にして1作で済ませられなかったのだろうか。ジェニファー・ローレンスは話題作の「アメリカンハスラー」にも出ているように今急速に売り出し中である。今作では前作での初々しさが消えていて少しがっかりした。★★☆☆☆

一昨日4月8日長女に娘が生まれた。名前はまだない。遠くにいるので抱くことができないが写真を見てはひとりにやけて爺バカをしている。


神武天皇

2014-04-06 12:00:51 | 古代

「古事記」の序を書いた太安万侶の墓は、1979年に奈良市此瀬町の茶畑(新薬師寺から東に5㎞ほどの山中)で見つかり、火葬された骨と真珠の入った木棺と、41字からなる青銅製の墓誌が出てきた。41字には、居住地、位階、没年(癸亥年(養老7年=723年)7月6日没)が記されていた。生年は不明だが文献上も考古学上も存在がはっきりとしている貴重な古代人である。それに比して、太安万侶が稗田阿礼から聞き取り「古事記」で語られる最初の天皇である神武天皇の存在は模糊としている。神武天皇のことは「古事記」と「日本書紀」の短い記事がすべてであり、それも神話、伝説、物語の域を出ず史実とするには外国資料も考古学も役には立たないと植村清二は自著「神武天皇」で述べている。この本は、昭和32年に書かれた。戦前の皇国史観では神武天皇は皇室の祖として尊崇されたが、戦後は一転してその存在さえ否定され教科書から名前が消えた。その所為か子供のころ(昭和30年代後半)いつも遊んでいた眉山中腹の公園に立ってこちらを見下ろす大きな像が神武天皇ということさえ知らなかった。政治的な事情で”史的事象の評価にまで変化が生じるのは好ましいことではない。”と植村清二は前置きして本書を書き始める。

記紀にある神武天皇の事跡をまとめた植村を、さらにかいつまんだものが以下である。

神武天皇はウガヤフキアエズノミコトと玉依姫(タマヨリヒメ)の四男として生まれ、兄たちといっしょに日向の地を発し東征する。筑紫、安芸国から吉備国に至りそこで3年あるいは8年留まる。難波に着いた皇軍は中洲(なかつくに)に入ろうとするが長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれ長兄の五瀬命(イツセノミコト)は矢傷を受け紀伊で薨去する。皇軍は熊野へ行く途中暴風雨に会い次兄と三兄も海に入ってしまう。熊野から中洲までの山道は険阻だったが八咫烏が先導し、宇田に到着した。土着の八十梟師(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)を倒し、長髄彦と再度対決する。戦いは不利であったがそこに金の鵄(とび)が現れ、金の光に目がくらんだ長髄彦を滅ぼす。その後も神武天皇は土蜘蛛などを滅ぼし、ついに中洲を平定し帝位につく。記紀の神武記は、この事跡に地名説話と歌謡を散りばめて構成されている。

以上が文献にある神武天皇である。考古学的には神武天皇陵がある。日本書紀の天武記に、壬申の乱(672年)のとき馬と兵器を神武陵に奉ったという記事がありその位置は畝傍山東北と記されている。また古事記の神武陵は畝傍山の北方白橿尾上と記される。7世紀後半に皇室が認定した神武陵があったということである。今の神武天皇陵は、畝傍山北東の麓、橿原神宮に隣接した地区が明治時代に指定されたものである。そこが考古学的に神武陵だと確認されたわけではなく、他にも有力な比定地(畝傍山の東北隅の丸山など)がある。

神武天皇の事跡の中心は、東征と大和平定の2点である。大和平定が事実であることに間違いないが、日向を出て大和に来たという東征については確証がないという。植村清二は神武東征は邪馬台国の東遷を反映しているという説を支持している。理由は以下のとおり。

  1. 邪馬台国が北九州にあったことは魏志倭人伝の記述から疑いようがない。
  2. 中国の史書にある倭国は、3世紀から7世紀までずっと一つの連続した王朝である。
  3. 九州中心の銅鉾・銅剣文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏は古墳文化の成立とともに消滅する。8世紀の大和朝廷は銅鐸が何であるかの知識がない。鉾と剣は記紀神話の中に頻出するが、銅鐸の記述がない。すなわち畿内勢力は銅鉾・銅剣文化を有する北九州の王朝によって支配権を失ったとみなされる。
  4. 魏志倭人伝に記された三世紀半ばの邪馬台国は、4~5世紀の大和政権の前段階の状況を示す。
  5. 卑弥呼の墓は、”大いに冢を作す。径百余歩。”とあり、北九州では甕棺主体の弥生式文化から古墳前期に墳墓の上に盛土をしたものが認められる。
  6. 3世紀に邪馬台国と並立して畿内に強力な国家があったなら大陸と通じなかったとは考えられないが、倭人伝にはそのような形跡はない。
  7. 記紀神話は天下を三分する勢力として大和、出雲と熊襲があり、大和朝廷は出雲と熊襲を征服したことを語っているが、大和朝廷が北九州を征服した説話がなく、九州勢力(神武天皇)が大和を征服したことが記されている。
  8. 東遷の時期は早くても3世紀末であろう。
  9. 4世紀末に倭国が朝鮮半島で高句麗と戦った(広開土王碑文)ことを考えると畿内勢力は、その時点で北九州を含む西日本を支配していなければならない。
  10. 仁徳天皇や応神天皇陵の規模から、その頃(400年前後とする説が有力)の畿内勢力は強大だった。
  11. 北九州と大和に同じ地名が存在しそれは偶然ではなく必然的な関係があったと考えざるを得ない。
  12. 隋書「倭国伝」に阿蘇山に因って霊祭を行うとある。隋の使者である裴世清らが聞いた話であり、倭人にとって阿蘇山が神聖視されていることは明らかで、東遷の記憶である。(九州王朝説では裴世清は近畿までは行かず九州王朝を訪問しただけなので、阿蘇山の話を裴世清が聞いたのは当然だったとする。)
  13. 北九州は鉄器使用において近畿勢力に優先したので軍事的に優位だったため東遷と征服が成功した。魏志「韓伝」に弁辰で鉄を産し倭が輸入していたとあり、鉄の製鉄技術を表す(たたら)という地名は朝鮮半島だけでなく北九州にも存在する。
  14. 邪馬台国そのものが東遷したのではなく、邪馬台国の一部あるいは別部が東遷した。これは旧唐書「日本伝」に”日本国は倭国の別種なり。日本国は元小国なり。倭国の地を併す。”とあり、当時中国には遣唐使が多くいたため、この旧唐書の記録が彼らからの伝聞によるとも考えられる。

植村は邪馬台国が北九州にあったことは文献上疑いようがないと断定する九州説派である。理由は以下のとおり。

  1. 倭人伝は最初に、「旧倭人国百余国あり。漢の時朝見するものあり。今使訳通ずる所三十国あり。」とし、次に、狗邪韓国、対馬、一大(一支)、末蘆、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬壱(台)と9か国の名前を上げ、さらにその後に21か国の名をあげている。狗邪韓国は朝鮮半島南岸(倭人伝「倭の北岸狗邪韓国」)にあった倭国で、残りの8か国の位置は九州を出ない。邪馬台国が三十か国を統属していたということで邪馬台国が三十国の中心あるいは直近に位置していたことは明白であり、遠く離れた畿内とは到底考えられない。
  2. その頃の国の大きさは対馬が千余戸、最も大きな邪馬台国は七万余戸と記され、魏志の韓伝に記された朝鮮半島南部の諸国の大きさとほぼ同じ規模である。そのうち馬韓は五十余国からなると記載がありその領域を考えると、倭の三十国が近畿から九州までの広大な地域を支配していたとは到底考えられない。
  3. 「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国あり。皆倭種なり。」という倭人伝の記事は本州、特に畿内に国が存在することを示す。邪馬台国畿内説ではこの記事の解釈ができない。
  4. 大和の古墳から発見された魏の銅鏡(景初3年の三角縁神獣鏡)が卑弥呼に与えられた銅鏡百枚とは断定できない。大和の古墳の多くは4世紀以降とされているので考古学的に卑弥呼の冢を畿内の古墳と断定することはできない。

3世紀の北九州の倭国(邪馬台国)と7世紀の畿内の倭国は連続した王朝である以上、北九州の勢力が東遷して大和を中心としたことは疑いようがないとする。ところが植村は邪馬台国の主力が東遷したのではないという。では、九州にとどまった邪馬台国主力はその後どうなったのだろうか。それと九州説最大の弱点は、強力な政権の存在を示す巨大古墳が畿内や吉備にあって九州にないことである。

植村が本書を著わした昭和32年から十数年後の昭和46年に古田武彦は「邪馬台国はなかった」を発表した。邪馬台国の所在についての古田の結論は植村説とほぼ同じである。植村は邪馬台国主力は北九州に残ったとするので、古田の九州王朝説の萌芽はすでに植村説に見えている。古田は植村の説に、白村江の戦いで天皇が人質になったこと、倭の五王は大和朝廷の天皇ではないこと、アメノタリシヒコは聖徳太子ではないこと、磐井の反乱は大和朝廷側が反乱者だったことなどを加えて自分の九州王朝説を補強したようにみえる。

本書は神武東遷を扱ったにも関わらず江上波夫の騎馬民族説には触れていない。後藤均平による本のあとがきに、騎馬民族説について植村清二がどう思っていたかを示すエピソードが紹介されている。聴講生が聞いた植村清二のことばは、「江上君は尊ぶところあり、されど真実はさらにわが良き友なり」というものであった。先入観や剽窃とは程遠い研究者の矜持と心構えがひしひしと伝わってくる。今の神武陵に考古学的な確証はないと植村が言ってることは既に書いた。天皇陵は、由来がはっきりしている天武持統陵など極わずかを除き大半は確証がないか間違いであると言われている。斉明天皇陵は間違って指定された代表例である。宮内庁が天皇陵の発掘調査を許可しないので日本の古代史と考古学は大きく停滞している。最近の発掘により考古学的にほぼ確実とされる新しい斉明陵についても、宮内庁は間違いを認めようとせず、ここが斉明陵ですと書いたものでも出現しない限り訂正はしないと公言したときには暗然とした。宮内庁にとって真実は重要ではなく矜持も心構えも必要ないらしい。


発心

2014-04-05 11:47:25 | 徳島

 3月最後の週末、2番札所極楽寺を散策しているうちに春の陽気に誘われ、にわか発心した。高齢の両親のご機嫌伺いに郷里徳島の実家に戻り、妻と4人で訪れたものである。昨年の帰郷時に、1番霊山寺と5番地蔵寺に行ったので、今回は2番から4番を見てみようと軽い気持ちで出かけた。山門前に横付けされたツアーバスから巡礼の団体さんが降り立ち本堂や大師堂の前で般若心経を唱和していた。赤ちゃん連れの若夫婦が熱心に般若心経を唱えていたのには驚いた。名古屋ナンバーの車に老婆を乗せて札所をまわる母娘らしい二人連れにも会った。私たちのような車巡礼ではなく、笠をかぶり杖をついて巡礼路を歩くお遍路さんを道すがら何人も見かけた。八十八か所巡礼がこれほどまでに人気なのかと驚いた。ただ私の場合、発心といっても信心を発したわけではなく、八十八か所の寺を見てみたいという好奇心を発したのである。真言宗に帰依したのではないことを念のために明記しておく。

徳島市の眉山のふもとで育ったので町を歩くお遍路さんは子供のころから日常の風景だった。ところが、実家の宗旨は母が浄土真宗、父が日蓮宗で真言宗とはまったく無関係である上、両親が異なる宗旨であることからもわかるように両親ともに宗教には基本無関心、そのうえ父は次男坊で家には仏壇がなかったこともあり、宗教には無縁で育った。だから、今も宗教心はない。宗教心はないが宗教に関心はあるということである。

 今年が八十八か所開創1200年にあたることもお遍路人気に拍車をかけているのかもしれない。1200年前814年に八十八か所が開創されたというのだ。空海は774年讃岐に生まれ、793年に驚異的な記憶術である虚空蔵求聞持法を身に着け、797年「三教指帰」を著わし、804年~806年の2年間入唐し密教を持ち帰る。帰国後空海は、嵯峨天皇の庇護のもと異例の出世を遂げる。814年は仏教界で重みを増している頃で、816年には最澄と決別し朝廷より高野山を賜る。八十八か所巡礼がこの年に始まったわけではないようで、巡礼は室町時代から江戸時代にかけて徐々に盛んになっていったという。江戸時代は富士講、大山詣で、伊勢詣でなどの巡礼が盛んだったように、庶民は集団での旅が好きで神でも仏でも特にこだわらず何かにすがっていたかったようだ。今も同じようなものである。

 納経所に行くと奉納経帳に朱印が押され寺名と本尊を表す梵字を、弘法大師相伝かとも思えるような達筆で描いてくれる。極楽寺の本尊は阿弥陀如来である。左のページは1200年記念の特別印ということだった。サンティアゴの道でも宿泊所などでペタペタハンコを押していた。写真左側のお札は納経所で御影袋に入れて渡されたが、このお札をどうするかは聞き忘れた。

極楽寺境内には空海自身が植えたとされる長命杉という大樹が立っている。この老木とは対照的に真新しい仏足石もあった。1番霊山寺や81番白峯寺もそうだったように、巡礼客を喜ばせるためか境内には雑多な物が置かれている。仏像だけでなく神像やマネキンもいる。土産物も充実し、八十八か所巡りは江戸時代の伊勢参りと同じように大衆文化となっている。

今回、2番の極楽寺から、3番金泉寺、4番大日寺とまわり、昨年訪れた5番地蔵寺と1番霊山寺を再訪して朱印をもらい、1番から5番が揃った。徳島県内は帰郷の際にまわればいいので県内は数度の里帰りで回りきれるが、あとは何年かかるか、あるいは興味を持ち続けられるかまったく自信がない。

下は巡礼の前日に行った徳島神山町の明王寺のしだれ桜。明王寺は真言宗だが八十八か所には入らない。