湯島聖堂へ行った。日本の孔子廟である。江戸時代のはじめに林羅山が開設した儒教の学問所で、昌平黌と呼ばれる。湯島聖堂の大成殿には、真ん中に孔子像、左に孟子・曽子像、右に顔子・子思像が祀られていたが、人も配置もハノイの孔子廟と同じだった。林羅山は幕府に朱子学をひろめ孔子を聖人化神格化した。孔子廟には神社のように賽銭箱が置いてあり、ちょうど受験シーズンで合格祈願でもしているのか手を合わせてお参りする人もいてお守りも売っていた。ハノイの孔子廟でも線香を焚き大勢がお参りしていたが、”怪力乱神を語らず”という孔子は自分が神のように祀られて驚いているに違いない。と、孔子があの世から見ているかのように言うのも怪力乱神を語っていることになるので儒者失格である。
孟子・曽子像
孔子像
顔子・子思像
庭には大きな孔子像が立っていた。
以下、金谷治「孔子」より孔子と弟子の言葉を選んで載せておく。
子曰はく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はす。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。 (為政4)
五十にしての天命は、朱子学では道徳的使命の自覚、おそらく弟子を教導する使命ということになっているが、運命とみるほうがいいという説が主流である。井上靖の「孔子」でも両説が述べられていた。吾れ五十五歳、あとひと月で五十六歳だが、まだ惑っていて運命に身を任せる境地には至らない。学に志したのが最近なのでそれも仕方ないか。
子曰はく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。 (子路23)
君子は違った立場の人と交わっても自分の基準を持って調和するが、小人はただ付和雷同するだけである。自分では正論のつもりが、異端とか極論だと非難されると、”どうせ小人にはわからないさ”と開き直るようでは、君子は遠い。
子曰はく、温故知新、以て師と為(な)るべし。 (為政11)
昔からの古典や伝承に学ぶと思っていたが実は、以前学んだことを時間をかけて習熟し、しかも新しい現代のことにも通じることが重要だという解釈もあるらしい。
子曰はく、老者は之を安んじ、朋友は之を信にし、少者は之を懐けん。 (公冶長26)
孔子が弟子たちと志望を述べ合ったとき、自分の望みは、”老人には安心され、友人には信頼され、年少のものには慕われたい”とした。顔淵は、これに対し”自分に善いことがあっても自慢せず、つらいことは人に及ぼさない”と述べた。子路は”車や馬や着物を友達に貸して傷つけられても気にしないでいたい”と物に対する執着をなくし友だちを大切にしたいと述べる。いずれも物質や名誉名声出世を目標とせず、道徳的な目標を人生の志望とする。最近こんな目標を聞かないので新鮮な思いがした。
己れを克(せ)めて礼を復(ふ)むを仁と為す。 (顔淵1)
顔淵は克己復礼(こっきふくれい)を心掛けている。克己復礼とは、わが身を慎んで内省し礼を実践することである。後代の儒教は形式的な礼の重視や逆に心があれば形式は必要ないというような孔子の本来の考えとは異なるものになってくる。本来、孔子の礼は道徳としての性格が強く、礼の形式を支える精神の重要さを強調する。すなわち外形と内実の一致、礼の形式はまごころから発した仁徳の具現である。(金谷治)。
有子曰はく、礼の用は和を貴しと為す。 (学而12)
”和を以て貴しとなす”は、聖徳太子の17条憲法で有名だが、ここからぱくったという説がある。梅原猛は自著「聖徳太子」で十七条憲法を細かく分析し論語の和と聖徳太子の和はまったく違うと結論付けている。
顔淵、喟然として歎じて曰はく、之を仰げば弥々(いよいよ)高く、之を鐟(き)れは弥々堅し。之を瞻(み)るに前に在り、忽焉(こつえん)として後に在り。 (子罕11)
顔淵は嘆息して、”仰げば仰ぐほど高く、きりこめばきりこむほどいよいよ堅く、前にいるかと思えば、ふいに後方にある”。孔子の人格はとらえようもないほど素晴らしい。孔子はまさに顔淵のMentorなのである。注:Mentor=父親・母親のような指導者、アレキサンダー大王に対するアリストテレス、アナキンやルーク・スカイウォーカーに対するオビワン・ケノービー、語源は「オデッセイア」に出てくるオデッセイの友人メントールが、オデッセイ不在時にオデッセイの息子テレコーマスを指導したことから