備忘録として

タイトルのまま

湯島聖堂・日本の孔子廟

2011-01-30 14:51:42 | 中国

 

湯島聖堂へ行った。日本の孔子廟である。江戸時代のはじめに林羅山が開設した儒教の学問所で、昌平黌と呼ばれる。湯島聖堂の大成殿には、真ん中に孔子像、左に孟子・曽子像、右に顔子・子思像が祀られていたが、人も配置もハノイの孔子廟と同じだった。林羅山は幕府に朱子学をひろめ孔子を聖人化神格化した。孔子廟には神社のように賽銭箱が置いてあり、ちょうど受験シーズンで合格祈願でもしているのか手を合わせてお参りする人もいてお守りも売っていた。ハノイの孔子廟でも線香を焚き大勢がお参りしていたが、”怪力乱神を語らず”という孔子は自分が神のように祀られて驚いているに違いない。と、孔子があの世から見ているかのように言うのも怪力乱神を語っていることになるので儒者失格である。

孟子・曽子像

孔子像

顔子・子思像

庭には大きな孔子像が立っていた。

以下、金谷治「孔子」より孔子と弟子の言葉を選んで載せておく。

子曰はく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はす。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。   (為政4)

五十にしての天命は、朱子学では道徳的使命の自覚、おそらく弟子を教導する使命ということになっているが、運命とみるほうがいいという説が主流である。井上靖の「孔子」でも両説が述べられていた。吾れ五十五歳、あとひと月で五十六歳だが、まだ惑っていて運命に身を任せる境地には至らない。学に志したのが最近なのでそれも仕方ないか。

子曰はく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。  (子路23)

君子は違った立場の人と交わっても自分の基準を持って調和するが、小人はただ付和雷同するだけである。自分では正論のつもりが、異端とか極論だと非難されると、”どうせ小人にはわからないさ”と開き直るようでは、君子は遠い。

子曰はく、温故知新、以て師と為(な)るべし。  (為政11)

昔からの古典や伝承に学ぶと思っていたが実は、以前学んだことを時間をかけて習熟し、しかも新しい現代のことにも通じることが重要だという解釈もあるらしい。

子曰はく、老者は之を安んじ、朋友は之を信にし、少者は之を懐けん。  (公冶長26)

孔子が弟子たちと志望を述べ合ったとき、自分の望みは、”老人には安心され、友人には信頼され、年少のものには慕われたい”とした。顔淵は、これに対し”自分に善いことがあっても自慢せず、つらいことは人に及ぼさない”と述べた。子路は”車や馬や着物を友達に貸して傷つけられても気にしないでいたい”と物に対する執着をなくし友だちを大切にしたいと述べる。いずれも物質や名誉名声出世を目標とせず、道徳的な目標を人生の志望とする。最近こんな目標を聞かないので新鮮な思いがした。

己れを克(せ)めて礼を復(ふ)むを仁と為す。 (顔淵1)

顔淵は克己復礼(こっきふくれい)を心掛けている。克己復礼とは、わが身を慎んで内省し礼を実践することである。後代の儒教は形式的な礼の重視や逆に心があれば形式は必要ないというような孔子の本来の考えとは異なるものになってくる。本来、孔子の礼は道徳としての性格が強く、礼の形式を支える精神の重要さを強調する。すなわち外形と内実の一致、礼の形式はまごころから発した仁徳の具現である。(金谷治)。

有子曰はく、礼の用は和を貴しと為す。  (学而12)

”和を以て貴しとなす”は、聖徳太子の17条憲法で有名だが、ここからぱくったという説がある。梅原猛は自著「聖徳太子」で十七条憲法を細かく分析し論語の和と聖徳太子の和はまったく違うと結論付けている。

顔淵、喟然として歎じて曰はく、之を仰げば弥々(いよいよ)高く、之を鐟(き)れは弥々堅し。之を瞻(み)るに前に在り、忽焉(こつえん)として後に在り。  (子罕11)

顔淵は嘆息して、”仰げば仰ぐほど高く、きりこめばきりこむほどいよいよ堅く、前にいるかと思えば、ふいに後方にある”。孔子の人格はとらえようもないほど素晴らしい。孔子はまさに顔淵のMentorなのである。注:Mentor=父親・母親のような指導者、アレキサンダー大王に対するアリストテレス、アナキンやルーク・スカイウォーカーに対するオビワン・ケノービー、語源は「オデッセイア」に出てくるオデッセイの友人メントールが、オデッセイ不在時にオデッセイの息子テレコーマスを指導したことから


共同体主義と正義

2011-01-29 23:26:00 | 話の種

NHKでやっていたハーバード白熱教室で、サンデル教授が、アメリカで殺人容疑者の兄である政治家が、捜査当局への情報提供を拒否したことをどう思うかと質問したとき、学生の多数派は兄の行動に賛成するものだった。別の質問ではルームメートがカンニングをしたことを知っても告発しない方を選ぶ学生が多かった。また、南北戦争で奴隷制に反対しながら故郷の南軍に参加した将軍についても同じように、賛同する意見が多かった。すなわち、殺人犯やカンニングの告発や奴隷制度の廃止という公共の正義よりも、身近な共同体に対する忠誠を大切にすることが道徳的に正しいとする意見(コミュニタリアリズム=共同体主義という)が多数派だった。これは少し衝撃で日本人の道徳観とは違うのではないかと思った。

孔子に同じような話があり、

葉公、孔子に語りて曰はく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之(これ)を証す。孔子曰はく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なるり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。   (子路18)

葉公(楚の重臣)の村に躬(きゅう)という男がいて、父親が羊を盗んだのを役所に知らせてきたと自慢した。孔子は、私たちの村の正直者は逆に父は子をかばい、子は父をかばって隠す。正直はそこに自然に備わるといった。

正義論ではなく、徳の政治と法の政治を説く話で孝悌や社会秩序の問題として語られている。法家の韓非子はこの孔子のことばを、親子の情は守られても社会秩序は守られないと批判している。しかし、最近読んだ「孔子」の著者の金谷治は、親子の間でさえ悪事を暴きあうようになったのでは、法のためとはいいながら、世の中はすっかりとげとげしい非人間的な世界になってしまう。人々の温かい思いやりもなくなって徳治の根底はまったく失われる。孔子はそれを考えてあえて反対したのであった。という。儒教的な道徳観と共同体主義は近いのかもしれない。あるいは孔子は父子の縦の孝悌、血縁秩序を尊重したから告発しないとしているだけであって、ルームメイトなど朋友への忠誠については(たぶん)言ってないので、孔子はカンニングをしたルームメイトの告発を支持したかもしれない。(PS.この推測は間違いで、1月31日 ”子曰はく、老者は之を安んじ、朋友は之を信にし、少者は之を懐けん。  (公冶長26)”、孔子は友人には信頼されたいと言ってるので告発しない可能性が高い。)

ハーバードの学生の多くが共同体主義を選んだことに、私が違和感を持ったということは、日本人の道徳感は身内より社会の秩序を守るという葉公の村人を支持する、法治主義を優先すると感じているからだ。小さい時から、身内の悪より公共の正義を優先するように教育されてきたような気がするのである。少なくとも私の母親は私の悪(いたずら)をかばうことをせず、何度、母親と学校や近所に謝罪に回ったかしれない。これは教育の問題で共同体主義とは無関係なようだが、人格形成においては共同体主義ではなく公共の道徳と正義を優先することを家でも学校でも植え付けられたように思う。

息子とハーバード白熱教室の話をしたら、息子もハーバードの学生と同じ意見で、公共の正義より身内をかばうそうだ。最近読んでいるという宮部みゆきの本を例にだしてきて、寝たきりの父親の介護に疲れた息子が父親を殺そうとするが妹はそれを止めさせようと兄を殺してしまうのだが、事情を知っている近所の人たちは告発しなかった。山本周五郎の江戸の人情長屋のような話だ。これは共同体への忠誠心や連帯感の共同体主義とは少し違い、人間の情や仁義に類する話でもっと情緒的なものが判断基準になっている。長屋の住人にとっては殺人は悪ではなく、妹を守ることが正義なのである。

家族やルームメート、故郷などの自分が所属する共同体への忠誠心を優先する場合、その所属する共同体の意見が道徳的に間違っていても無条件で従うのか?サンデル教授は、”正義とはただ単にその時代、そのコミュニティおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということか?と疑問を呈する。すなわち、正義は普遍的ではないのだという疑問である。

孔子が弟子の性格に合わせてまったく矛盾する教訓を授けているように、宮部みゆきの小説のように、普遍的な道徳や正義は存在しないのである。その場その場で合理的な判断をするしかないのだ。と思う。

もうすぐアジアカップ決勝戦が始まるので、筆をおくことにする。


ハノイ孔子廟

2011-01-23 17:20:40 | 東南アジア

松江の月照寺で見た亀跌(きふ)のことを書いたときに、ハノイの孔子廟の亀趺に触れた。今回ハノイ出張で孔子廟を再訪したが、15年前の前回訪問時にくらべ孔子廟はきれいに整備され欧米人、中国人、韓国人、日本人ら観光客で大変混雑していた。前回、訪問客は私ひとりで閑散とした崩れそうな建物の屋根には草が生え庭内も荒れて手入れされていなかった。何の興趣もわかない二流観光地だったが、今回は発見がたくさんあって興味が尽きなかった。印象がこれほど違ったのは、廟内の整備や観光客の混雑による表面的なものではなく、私自身の孔子に対する認識と知識の差によることは言うまでもない。

 

亀趺とその上に載る石碑に彫られた文字。”進士”という字が見える。廟内の英語の解説によると、ここは1442年から1779年の337年間開設されたベトナムで最初の大学で儒教を教え、廟内には82の亀趺の碑がある。碑には大学を卒業した人の名前が全部で1307人彫られているという。すなわち進士の試験は約4年に1回実施され1回に平均16人が合格したことになる。

孔子廟の最奥の建物内には孔子像を囲んで4体の像が飾られていた。

孔子とその右手の2体は奥が顔子(顔回または顔淵)で手前が子思。左手には孟子と曽子が並んでいた。孔子の弟子や系統の人々は大勢いるのに、どうしてこの4人なのかわからなかったのだが、ちょうど今読んでいる金谷治の「孔子」によると、”朱子学では、曽子が孔子から極意を授けられたとして、孔子から曽子、曽子から子思・孟子と伝承される道統の説を強調した。”と書いてあった。その中に顔子を加えればこの廟内に全員が揃ったことになる。道統とは儒教の極意(聖人の道)を伝える系譜で、朱子が自分が儒教の正統であると主張するためにとなえた。顔子は孔子よりも先に死んでしまったが、孔子自身が認めた後継者なのでここに並んでいるのだろう。

曽子は、史記の仲尼弟子列伝に、”曽参(曽子のこと)は南武城の人。字は子輿(しよ)。孔子より46歳年少。孔子はかれが孝の道によく通じていると思い、ゆえにかれにその学問をさずけて、『孝経』を作らせた。かれは魯で死んだ。”とだけ記されている。

曽子は孔子と次の問答をしている。(里仁15)

子曰はく、参よ、吾が道は一以て之を貫く。曽子曰はく、唯。子出づ。門人問うて曰はく、何の謂ひぞや。曽子曰はく、夫子の道は忠恕のみ。

孔子は曽子に向かって、「私の道は一つのことで貫かれている」と曽子はただ「唯(はい)」と答えた。門人たちはその意味がわからず、孔子が部屋から出て行ったあとで「どういうことですか」と尋ねると、曽子は「先生の道はただ忠恕だけだ」と答えた。すなわち、忠は内なるまごころで恕は他人への思いやりであり、合わせて仁である。朱子はこの問答を重要視し、曽子が孔子の正統とする。

子思は孔子の孫で、曽子が彼を教育しながら旧宅を管理した。孟子は孔子に遅れること200年で、孔子に深く傾倒し、曽子と同じく仁の思想、忠恕を重んじた。

ところで、白川静の「孔子伝」は難解で原語をそのまま使って書いてあることも多くよく理解できなかった。同じ文章を何度も何度も復誦したが理解を越えた文章が多かった。それに比べると、金谷治の「孔子」は、孔子の人、思想、弟子、その後の系譜が整理され比較的平易な言葉で語られ、孔子を理解する上では非常に有用である。白川静の著書を読むレベルに達していないのに手を出す読者が悪いのだろうが、白川静はそもそも私レベルの読者を相手にしていないのである。そんな浅学非才が金谷治「孔子」のまえがきの以下の一節に救われた。

孔子や論語について書かれた書物はたくさんあり、それらを凌ぐことは至難だろうが、”孔子の人間のはばの広いことからすると、人さまざまな感じかた受けとりかたがそこに生まれるのも、もっともにおもわれる。(中略)わたしはわたしにとって身近く心の通った孔子を描きたいと思う。”


末の松山

2011-01-15 23:48:50 | 仙台

”それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相(いりあい=夕暮れ)のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島(まがきがしま=塩釜の沖合の島)もほど近し。蜑(あま=漁師)の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとど哀也。其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。”

芭蕉と同じように多賀城碑をみたあと、末の松山や沖の石の歌枕を見に行った。

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは    (清原元輔)

作者の清原元輔は10世紀の人だが、彼の歌には本歌、「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」古今和歌集・東歌がある。905年に編まれた古今和歌集は過去140年間に詠まれた歌を収録した歌集なので末の松山の松はもっと古い。芭蕉が末の松山を尋ねたのは元禄2年(1689年)の約320年前である。もしも芭蕉がみた松が歌枕当時の松だとし、今ある松もそのままだとすると、優に1100年の樹齢ということになる。ネット情報では、樹齢400年の松の幹回りが4~5M、600年が7Mという記録があり、今の松の幹回りは3Mあるかなしかなので、芭蕉が見た松でさえないのではと無粋な詮索をしている。末の松山も沖の石もかつては波打ち際にあったはずだが、今は少なくとも2㎞は海辺から離れている。末の松山から数十Mのところに沖の石の歌枕がある。

       わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし  (二条院讃岐)

この沖の石は写真のようにコンクリート擁壁に囲まれた住宅地にあって風情も何もない。
芭蕉の言う野田の玉川も近くにあるはずだがコンクリートで固められた川になっているようなので行かなかった。

多賀城碑

2011-01-10 22:45:36 | 仙台
成人式の連休は仙台へいく用があったのでついでに多賀城碑を見に行った。多賀城政庁跡などのある広い丘陵の一角の小さな祠の中に碑は納められていた。
碑文の天部には”西”の文字が彫られているが、そのとおり碑は西向きに建てられていて、祠の屋根にも東西南北が示されている。3連休の中日だったが、寒い日だったためか観光地としては地味すぎるのか訪れる人はほとんどなく、カメラを片手にした学生らしき若者がただひとりの同行者で、祠の北の政庁跡から多賀城碑までいっしょだった。
多賀城碑の碑文は高さ約2mで、研磨され滑らかそうな平面に彫られているが裏側は自然石のままだった。
8世紀の日本最古級の金石文を見られて幸せだった。日本3古碑というものがあり、多賀城碑、那須国造碑、多胡碑がそれである。那須国造碑は700年に国造になったことを顕彰して建てられた碑で栃木県大田原市にある。また、多胡碑は8世紀に群馬県高崎市にあり多胡郡を設置したことを記念して建てられたと言われる。伊予国風土記逸文に聖徳太子が病気療養のため僧恵を伴い596年に道後に滞在し記念に碑を残したことが記録されているが碑そのものは現存しない。

初詣

2011-01-02 14:08:53 | 話の種

昨日、元日は西新井大師に初詣した。記憶の限りでは東京で迎える初めての正月である。新婚だった1980年の正月は習志野在住だったが徳島に帰省し東京にはいなかったはずだ。どこにいっても混雑するのはわかってはいたが、西新井大師は自宅から歩いて20分ほどの近場なので混雑覚悟で出かけた。案の定、山門が見えないうちからもう行列ができていて境内に入り参拝するまで40分ほど並んだ。妻、二女、息子、姪の5人で出かけたが、息子は参拝客の行列を見てうんざりして先に帰った。去年は、子供たちが一人も広島にいなかった上に神主も参詣客もいない小さな小さな神社での寂しい初詣だった。大師の境内も外にも出店がいっぱい出ていたが、おいしそうな中華饅頭や草団子店の前には長蛇の行列ができていたので、結局何も買わずにお参りとおみくじを引いただけで帰った。おみくじは去年と同じ”吉”だった。

西新井大師はその名のとおり御大師様・空海の開基で本尊は十一面観音菩薩である。真言宗では大日如来が宇宙の中心仏なのだが、西新井大師では大日如来は本堂でなく本堂前の小さな別館に安置されている。東大寺の大仏・盧舎那仏は大日如来ともいわれる。真言宗では大日如来よりも空海その人が信仰の中心になっていることが多いように思う。これはキリスト教のキリストや仏教のお釈迦様と同じようなものである。西新井大師の宝物の中に、”弘法大師修法図”という1.5mx2.4mサイズの大きな北斎の絵があるという。北斎晩年の肉筆画らしい。夜叉の前で弘法大師が念仏をしている絵で年に1回だけ公開されている。

弘法大師修法図(西新井大師Web-siteより)