備忘録として

タイトルのまま

イスタンブール

2017-03-19 15:26:42 | 

イスタンブールは文化も宗教も街を歩く人々も食べ物でさえ、いずれも混然一体だった。壮大なモスクとかつてのキリスト教会が並び立ち、その教会であるアヤソフィア大聖堂(Hagia Sophia)では天井画の聖母子と大きなアラビア文字のパネルが同じ空間にあった。考古学博物館を歴史と地理があいまいなまま歩くと、最も古いメソポタミアもナイルも、続くペルシャもギリシャもローマも、最新のオスマントルコの遺物もただ雑然と並べられているように見えてしまう。そもそもシュリーマンも勘違いしてトロイの遺跡を発掘していたくらいだ。現在、トロイ遺跡では紀元前3000年から紀元後ローマ時代まで9層が確認され、トロイ戦争時代は下から7層目の紀元前1200年頃とされている。シュリーマンはトロイ戦争時代の層を破壊しながら紀元前2000年頃の第2層を掘っていたのである。

仕事の合間に旧市街の定番観光地を駆け足でまわった。

左上:スルタンアフメトモスク(17世紀オスマントルコ帝国) 右上:アヤソフィア大聖堂(4世紀東ローマ帝国)

左上:アヤソフィア大聖堂ドーム 右上:ヴァレンス水道橋(4世紀東ローマ帝国)

左上:金角湾と対岸のガラタ塔(14世紀) 右上:考古学博物館近くを走るトラム(現代)

左上:地下貯水池(5世紀?東ローマ帝国) 右上:同 柱台座のメドゥーサの首

 左上:古代都市ラガシュの王グデアと胴体の楔形文字(BC2100年古代メソポタミア) 右上:バビロンのイシュタル門レリーフ(BC6世紀ペルシャ帝国)

左上:ヘレニズム彫刻(BC3~2世紀) 右上:コンスタンチノープル陥落のとき金角湾入口に敷設された鎖(1453年オスマントルコ帝国)

 左下の写真グランドバザールの入り口ではテロを警戒してか手荷物の検査をしていた。トルコ菓子店に居合わせたヒジャブを被った女性客が店員と英語でしゃべっていたので、なぜトルコ語をしゃべらないのか不思議に思い尋ねたところ、彼女はアラブ人で、同じイスラムでもアラブ系とトルコ系では言葉が違うという話だった。ネット情報では9割近くがトルコ系で、少数派としてアラブ人、クルド人、ギリシャ人、アルメニア人他が共存しているという。それにしても英語を共通語として使っていることは驚きだった。イスラム教徒が大半だが、街を歩く女性の多くはヒジャブを付けてない。

 喫煙していた学生時代、イスタンブールで売っているという海泡石のパイプ(右下写真)をいつか使ってみたいと思っていた。真っ白な見事な浮彫のパイプが年月を経て琥珀色に変色することにあこがれた。20代後半に喫煙を止めたので、いつのまにか海泡石パイプのことはすっかり忘れていた。最下段写真は、餃子のようなパスタにクリームソースをかけひき肉をまぶした地元でマントゥと呼ぶ料理である。名前は中国風(饅頭マントウ)で餃子のようでもありイタリアのパスタのようでもあり東西折衷である。味は少し物足りない程度にあっさりしている。

左上:グランドバザール入口 右上:海泡石のパイプ

マントゥ

昨日シンガポールに戻り睡眠不足の中、整理しきれず、イスタンブールの街同様、混然としたまま一報をUpしておく。


モナ・リザ

2017-03-06 01:24:15 | 西洋史

田中英道『レオナルド・ダ・ビンチ』を読んだ。『写楽北斎説』が面白かったので、彼の他の著作に興味がわき『レオナルド・ダ・ビンチ』と『ミケランジェロ』を手に入れていた。映画ダビンチ・コードシリーズの『Inferno』を観たのはたまたまである。田中英道はイタリアに留学しルネッサンス時代の作品を身近に研究している。この本はレオナルドの生涯、性癖、技能、絵画や彫刻など芸術に対する思想と彼の生きた時代背景を解説してくれる。美術史家なので代表作品の解説が最も濃密で、彼の内面や思想がどのような形で作品に表現されているか個々の作品で詳細に語られる。同時代の作家たち、特にミケランジェロと芸術に対する考え方の相違も示される。

その中で『モナ・リザ』は誰かという自説を展開する章が、『写楽北斎説』と同じように、レオナルド周辺の人々、残された書簡、作品の分析などをもとに詳しく検討され面白かった。モナリザのモデルは長い間、フィレンツェの商人ジョコンドの夫人エリザベッタ(Wikiリザ・デル・ジョコンド)とされてきた。このエリザベッタの名前から『モナ・リザ』と呼ばれた。レオナルドの死後20年ごろにこの説を提唱したヴァザーリは、夫の肖像をレオナルドが作成したことから推定したもので他に根拠はなく、この絵をべた褒めしているにも関わらず原作を見たことさえなかったという。

田中英道は『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェに近い小国マントヴァ侯夫人のイザベラ・デステ(1474-1539)だとする。理由は以下のとおりである。

  1. イザベラ・デステと判明しているレオナルドの習作や同時代の他の画家が描いたイザベラ・デステの肖像画と『モナ・リザ』を比較し強い類似性があること
  2. レオナルドとイザベラ・デステの間に10通以上の書簡があり、イザベラはレオナルドに肖像画を依頼し、レオナルドは今の仕事が終わり次第取り掛かるとか、必ず描くと返信している
  3. 必ず描くという最後の手紙は1506年のことで、そのときイザベラ・デステは32歳で、『モナ・リザ』の年齢に合致しているようにみえる
  4. イザベラ・デステに肖像画が引き渡された形跡がないことは、描かなかったのではなく、作品の完成度をあげるのに時間がかかり引き渡す時期を逸してしまったのではないかと思われる
  5. イザベラ・デステは自分の肖像画を他の画家にも描かせていたが気に入らないと突き返していた。引き渡す時期を逸したのは、レオナルドが彼女の肖像画の完成に念を入れたことが一因ではなかったか
  6. レオナルドは、『モナ・リザ』を生涯手元に置いておいた。それは、ひとりの貴婦人の肖像画にとどまらず女性というものの本質、人間というものの本性を表すことに成功した作品だったとすれば納得できるとする。すなわち、レオナルドは完成度が高い作品であることを自覚していた
  7. イザベラ・デステは、マントヴァ侯国が戦争でひっ迫した折りに「私はまったく宝石なしになってしまいます。そして黒い着物を着なくてはなりません。と言うのも宝石なしで、色ものの絹や綿織りを着ることはおかしいことだからです。」と話しており、『モナ・リザ』で黒服・宝石なしを実践している
  8. レオナルドの友人がイザベラ・デステへの手紙の中で、ヴェネチアでレオナルドに会い肖像画を見せてもらったこと、それがイザベラに生き写しで、非常な出来栄えだったと伝えている

本ではレオナルドが習作として描いたイザベラ・デステの横顔とモナリザを比較し、広い額、深くくぼんだ眼窩や小さな口が特徴でその配置も一致すると指摘する。本の中でも上のような比較をしているがWikiにあった両絵を並べて自分なりに線を入れてみた。上は写真のスケールを調整したものだが、原画では顔の大きさが共に21㎝で正確に一致するという。レオナルドがイザベラ・デステの肖像画習作を何枚も描いていることは確認されているのに、本編の肖像画がないのは不可解である。レオナルドは肖像画を描くに際し正面・斜め・真横などの習作を描いたのち本編を仕上げている。

イザベラ・デステは魅力的な女性だったようで、Wikiイザベラ・デステには、同時代人が「自由闊達で高潔なイザベラ」、「最高の女性」、「世界一のファーストレディ」と称賛していることが書かれている。下はそのWikiにあるティチアーノが描いた肖像画で、制作時に初老だったイザベラが40歳若く描き直させ、広い額、すっと通った鼻筋、小さな口元、ふっくらした頬は『モナ・リザ』に通じるような気がする(専門家じゃないので控えめな感想にしておく)。

 Wikiモナ・リザによると、2005年にドイツで、1503年にフィレンツェの役人が「レオナルドがジョコンド夫人の肖像画を描いている最中だ」とラテン語で書いた文書が見つかり、ジョコンド夫人が『モナ・リザ』のモデルであることが決定的になったとする。これは、レオナルドが1503年にジョコンド夫人の肖像画を描いていたことの証明にはなるが、『モナ・リザ』がそれだという証拠にはならないと田中英道は言っているに違いないと、おこがましいが推測しておく。また、1479年生まれのジョコンド夫人は、肖像画が描かれたとされる1503年時点で24歳であり、『モナリザ』はもう少し年齢が上のような気がする。イザベラ・デステはジョコンド夫人よりも5歳年上になる。それよりも何よりも、当時第1級の女性であったイザベラ・デステが『モナリザ』のモデルであって欲しいという個人的な願望もある。