備忘録として

タイトルのまま

People Like Us

2012-10-31 00:08:25 | 映画

最近Heartful Movieと言われるジャンルの映画を続けて観た。その中では”People Like Us"が良かった。上のポスターはIMDbより。

 ”People Like Us"2012、監督:アレックス・カーツマン、出演:クリス・パイン、エリザベス・バンクス(ハンガーゲーム、崖っぷちの男)、オリビア・ワイルド、マイケル・ホール・ダダリオ、ミシェル・ファイファー、マーク・デュプラス、出演者紹介が長くなったのは、最初の2人が主役で、次の二人も重要な役をしていて、最後の名女優ミシェル・ファイファー(Dark Shadows、I am Sam、Batman Returns)と最近よくお目にかかるマーク・デュプラス(Safety Not Guaranteed、Darling Companion)を外せなかった。主人公のサム(クリス・パイン)は父親が死んだことを聞いて恋人(オリビア・ワイルド)と葬式に出るため田舎へ戻る。父親がサムに残した遺言は腹違いの妹(姉?)でシングルマザーのフランキー(エリザベス・バンクス)の息子(マイケル・ホール・ダリオ)に$150,000を渡し二人を”take care"してくれというものだった。仕事のトラブルで金が必要なサムは、自分の素性を隠し遺産のことを言い出さない。そんなサムのいい加減なところに恋人は腹を立て愛想をつかして去っていく。その時点で自分も映画を観るのを辞めようと思った。母親(ミシェル・ファイファー)のどこか依怙地なところや、死んだ父親の自分勝手な生き方、シングルマザーの息子の屈折した性格など、他にもイライラするところがあって、その後も何度も観るのを辞めようと思ったのに、どういうわけか観続けてしまった。サム自身の性格が一番屈折していて、母親にも恋人にも、まわりの誰にも素直になれない。死んだ父親は自分勝手で、自分はその父親から充分に愛されていなかったと思い込んでいる。でも、基本的にフランキー母子を見捨てられない優しい男なのである。母子に関わっていくうちに、自分の父親や母親の気持ちに気づき、恋人の優しさにも救われる。タイトルの”People Like Us"は、”僕たちと同じような人々”、すなわち”普通の人たち”ということだが、仕事で訴えられたり、父親の死後に隠し子がいたことを知らされたり、その腹違いの妹がアルコール依存症で、問題児の息子を抱えたシングルマザーだったりで、これが日常だったらちょっときついと思う。最後の八ミリビデオでは不覚にも涙で画面が滲んでしまった。★★★★☆

 ”The Magic of Belle Isle"2012、監督:ロブ・ライナー(The Bucket List)、出演:モーガン・フリーマン、バージニア・マドセン、妻の死や事故で書くことを辞めてしまった老境の作家が、避暑地で隣家の離婚調停中の母親とその3人の娘と触れ合ううちに生きる希望を取り戻す。結末はまったく違うが、クリント・イーストウッドの”グラン・トリノ”を思い出した。生き甲斐には、人と関わり誰かのために何かをすること、想像力、一歩踏み出す勇気が重要なんだと気付かされる。モーガン・フリーマンと犬のぶちじゃないけどぶち(Spot)のやりとりが素晴らしい。★★★☆☆

 ”Marley & Me(邦題:世界一おバカな犬)”2008、監督:デイビッド・フランケル、出演:オーウェン・ウィルソン(Behind Enemy Line、ナイトミュージアム1,2、Midnight in Paris、The Big Year)、ジェニファー・アニストン(Just Go with IT)、ほとんどの場合、犬はバカでなく飼い主がバカなので邦題には納得できない。ということは置いといて、この映画は、犬のいる家族の日常を人気俳優オーウェン・ウィルソンとジェニファー・アニストンが演じたホームドラマである。映画は二人の結婚と同時にMarleyと名付けた犬を飼いはじめるところから始まり、子供が生まれ家族が増え、引っ越しがあり、職業が変わり、子供たちは成長するが、いつもそこには愛犬Marleyがいる。変哲のない一家の生活を描いただけの映画である。脚本家は、一家の生活があまりにありきたりなので、犬をおバカにでもしなければドラマ性がないとでも思ったに違いない。でも、人生は平々凡々とした日常の積み重ねで、ドラマチックなことなんてそうはないのだ。この家族こそ”People Like Us”である。うちのFukuももうすぐ13歳になる。リードをぐいぐい引くような若いころの力はなくなり、ベッドに飛び乗るのも一苦労で、たまに食べ物を嘔吐し、失禁するようにもなった。しつけがうまくいかなくて家族にかみついたり、リードから逃げ出したりしたこともあった。でも、いつになっても、うちに帰れば真っ先にしっぽを振って駆け寄り顔を舐め回してくる大切な家族なのである。★★★☆☆

 ここからはシリーズ映画の最新作

 ”プロメテウス”2012 監督:リドリー・スコット、出演:ノオミ・ラパス、シャーリーズ・セロン(ハンコック、Snow White & The Huntsman)、マイケル・ファスベンダー、ガイ・ピアース 人間を創造したプロメテウスの話だと思って見始めたら、エイリアンだった。昔のエイリアンシリーズはすべて観ていて、特にジェームズ・キャメロン監督の”エイリアン2”はくり返し観たように基本的に嫌いではないのだが、この映画は昔のエイリアンのエッセンスを取り込んだだけだったので、★☆☆☆☆

 バットマンシリーズ 監督:クリストファー・ノーラン、出演:クリスチャン・ベイル(The Fighter、3時10分決断の時)、マイケル・ケイン、モーガン・フリーマン ”The Dark Knight”2008、ヒース・レジャー、アアロン・エッカート、マギー・ギレンホール、”The Dark Knight Rises"2012、トム・ハーディ、アン・ハサウェイ、マリオン・コティヤール(エディット・ピアフ、プロバンスの贈り物、Midnight in Paris) バットマンシリーズは前シリーズから今シリーズまですべて観ている。ティム・バートン監督によるジャック・ニコルソンのJokerに始まり、ダニー・デヴィートのペンギン男、ミシェール・ファイファーのCat Woman、トミー・リー・ジョーンズのTwo Face、ジム・キャリーのリドラー、アーノルド・シュワルツネッガーのMr. Freezeと、いずれも面白かった。今シリーズの”Batman Begins”2005は豪華俳優が出ていたがあまり面白くなかった。2本続けて観たDark Knightは、バットマンのように非合法に悪を懲らしめる方法と、警察や検事が合法的に悪に立ち向かうことを対比した問題作で、単純な悪役退治活劇ではなかった。ヒーローは合法的に解決できない巨悪を痛快に懲らしめることで成り立っているので、合法性を持ちだすと結局、自己矛盾を起こしてしまう。というお話で、映画自体、痛快アクションを追求したいのか社会派映画にしたいのかわらなくなってしまった。★★☆☆☆

 ”The Amazing Spiderman”2012、監督:マーク・ウェブ 出演:アンドリュー・ガーフィールド(Never Let Me Go)、エマ・ストーン(The Help) スパイダーマンシリーズもすべて観ている。スパイダーマンの誕生話はすでに初版で語られているので、今回それを繰り返した理由がよくわからない。悪者のトカゲ男もあまりインパクトがなかった。それでも、ヒロインのエマ・ストーンは前作のキルスティン・ダンストよりも好みなので、★★☆☆☆


祇園精舎

2012-10-27 14:48:27 | 仏教
    • 祇園精舎の鐘の声
    • 諸行無常の響きあり
    • 沙羅双樹の花の色
    • 盛者必衰の理をあらわす
    • おごれるひとも久しからず
    • ただ春の世の夢のごとし
    • 猛きものもついには滅びぬ
    • ひとえに風の前の塵に同じ

 高校の古文で習った平家物語の冒頭である。最初の5行は頭にこびりついている。源氏物語や枕草子や奥の細道の冒頭も同じで、おそらく学校で何度も何度も朗誦した所為だと思う。今年のNHK大河ドラマは平清盛を主人公にしたが視聴率はあまりよくなかった。そもそも歴史上の人物として清盛は人気がないから、低視聴率は仕方がないと思う。その点、一昨年の「龍馬伝」は得をした。

1. 祇園精舎 

 中村元の「原始仏典、サンユッタ・ニカーヤ」に祇園精舎のことが書いてある。ブッダの生まれ故郷に近いコーサラ国の首都シュラーヴァスティー市の郊外にジェータという林があった。スダッタという長者が所有者のジェータ太子から林を買い取ったのちブッダの教団に寄進する。そこに建てられたのが祇園精舎で、ブッダの教化活動の中心地のひとつである。日本各地にある祇園という地名は、この祇園精舎からきている。伝説ではジェータ太子はスダッタに林を高く売りつけてやろうと、”林に敷き詰めるだけの金貨を持ってきたら譲ってやる”と言ったところ、スダッタはほんとうに金貨を林に敷き詰め、その金を太子に差し上げて土地を手に入れたという。

4世紀末に鳩摩羅什が訳した「金剛般若経」あるいは「金剛般若波羅密経」の冒頭にも祇園精舎が出てくる。

如是我聞。一時佛在舎衛国”祇樹給孤独園”。輿大比丘衆千二百五十人俱。爾時世尊。食時著衣持鉢入舎衛大城乞食。於其城中次第乞已。還至本處飯食訖。収衣鉢洗足已敷座而坐。時長老須菩提在大衆中。即従座起。偏袒右肩。右膝著地。合掌恭敬而白佛言。

舎衛国(シュラーヴァスティー市)”祇樹給孤独園”というのが祇園精舎である。上の金剛般若経の内容は、その漢文の邦訳よりも中村元がサンスクリット原典から直接訳した以下の訳のほうが良くわかる。漢文は2行と少しで終わるところ、口語にすると7行になってしまう。世尊はブッダで、長老須菩提はスダッタ(スプーティ長老)のことである。

わたくしが聞いたところによると、あるとき師は、1250人もの多くの修行僧たちとともに、シュラーヴァスティー市のジェータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在しておられた。さて師は、朝の中に、下衣をつけ、鉢と上衣とをとって、シュラーヴァスティー大市街を食物を乞うために歩かれ、食事を終えられた。食事が終わると、行乞から帰られ、鉢と上衣とをかたづけて、両足を洗い、設けられた座に両足を組んで、体をまっすぐにして、精神を集中して坐られた。そのとき、多くの修行僧たちは師の居られるところに近づいた。近づいて師の両足を頭に頂き、師のまわりを右まわりに三度まわって、かたわらに坐った。

ちょうどそのとき、スプーティ長老もまた、その同じ集まりに来合せて坐っていた。さて、スブーティ長老は座から発ちあがって、上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、師の居られる方に合掌して次のように言った。

ブッダがシュラーヴァスティー市内での托鉢から戻り、食事を終え祇園精舎で瞑想していると、スブーティ長老(スダッタ=須菩提)が質問を始める。スブーティ長老が若い修行者はどのような心持ちで修行すべきでしょうかと問うのに対し、ブッダは、”善行をすると意識して修行すべきでない。迷いも悟りも区別しない。我執を捨てよ。”と繰り返し繰り返し説くのである。いいことをしたとか悟ったと自覚することは、すでに自己の利益や悟りに執着していることになるので、悟りの自覚さえ否定されるのである。これが仏教の”空”の思想である。孔子は、”70にして心の欲するところに従い規を超えず。”と言ったが、この無意識のうちに行動しても人の道を踏み外すことがないという境地は、仏教の空や無我の思想に通じると思う。

中村元は祇園精舎跡を訪れ、”小高い丘の上に木が茂り、涼しの森になっている良い所だった”という感想を残している。金剛般若経全文が泰山の摩崖に刻まれているという。刻まれたのは六朝時代(3~6世紀)のことだという。

2. 諸行無常 

 権勢を欲しいままにした平家も、必滅の運命から逃れることはできない。ブッダは諸行無常、すなわち”この世には常なるものは存在しないのだ。だからその理(ことわり)を悟りなさい。”と言った。でも、決して宿命論者、運命論者ではなかった。正しい行いをすればいい結果が生まれるという因果応報を説きはしたが、運命の連鎖は存在せず、すべて(果)は自己の行い(因)によって生ずるものだから、自己を磨きなさい。と説いた。平家はおごったから、その因果で滅びることになったということである。

3. 沙羅双樹

 沙羅双樹は、二本のサーラ樹のことで、上原和は自著「世界史上の聖徳太子」で、”クシナーラーのマハーバリ・ニルヴァーナ寺の前には、冬枯れの茶褐色の葉をした2本のサーラ樹(沙羅双樹)が高々と立っていた。”と記し、ブッダ入滅のときから何代目かの沙羅双樹が、入滅の地に今も立っているのを見たのである。ブッダ最後の旅を記した中村元訳「大パリニッバーナ経」に沙羅双樹の間に身を横たえるブッダの姿が見える。

さあ、アーナンダよ、わたしのために、2本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい。

教養のある人は北枕にしていたという説と、北枕はたまたまだったという説があるらしい。日本では人が亡くなったときに北枕にするが、ここに由来するという。

4. ブッダの最後

そこで尊師は、右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた。

当然のように法隆寺五重塔内で見た涅槃像も右脇を下にし右足の上に左足を重ねた大パリニッパーナ経に記録された寝姿と同じ寝姿をしていた。ブッダの周りには泣き叫び悲嘆にくれるアーナンダをはじめとした弟子たちが並んでいる。

やめよ。アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたしはかつてこのように説いたではないか、 すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということがどうしてありえようか。

諸行無常である。そして、ブッダ最後のことばも、諸行無常であった。

さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、”もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい”と。

怠ることなく毎日生きていれば、生や死を超越した有意義な日々を送ることができるような気がする。最澄の”わが志を述べよ。”やスティーブ・ジョブズの”毎日を今日が最後と思って生きる。”や正岡子規の生き様と戸塚洋二のことばを思い出す。


Banana

2012-10-14 11:54:12 | 東南アジア

 日本のバナナの95%はフィリピンからの輸入である。ミンダナオ山中の村(Baranggayバランガイ)のバナナ畑には青いバナナが房いっぱいに実っていた。バナナの木、実際は草、の高さは3mほどで、房の先端には大きな紫色の花がついていた。下の写真は直径30㎝ほどの茎の断面できれいな幾何学模様になっていた。これは茎ではなくて仮茎または偽茎といい、葉柄(葉っぱの柄)が集まったもので、タマネギの球根を引き延ばしたようなものだという。茎は地面の下にあるらしい。訪れたバランガイは、ブトワン市から舗装されてない山道を1時間ほど入ったところにあり、人口は700人、150家族ほどが暮らしている。付近の山中には、この規模のバランガイが点在し、それぞれバランガイキャプテンと呼ばれる村長を中心に自治が行われている。バランガイキャプテンは選挙で選ばれるという。

 村の雑貨屋でバナナを買って食べたが、実がしまり濃厚な甘みがあり、日本で食べるバナナより数段美味かった。日本へ送られるバナナがこれほど美味しくないのは、青いままで収穫し防腐剤や殺虫剤にまみれてるからだろうと、いっしょに行った仲間たちと根拠もなく納得していた。シンガポールで売られるバナナは日本のバナナよりもさらに落ちる。マレーシアやインドネシアには、ピサンゴレン(マレー語でピサンはバナナ、ゴレンは揚げる、ナシゴレン=焼き飯、ミーゴレン=やきそば)というバナナを天ぷらにした食べ物があり、街中の屋台で売っている。あまり甘みのないバナナでも天ぷらにすると美味しいので、良く買って食べる。

 子供のころ、バナナはまだ高価で、誕生日や遠足など特別な日にしか食べることのできないぜいたく品だった。そのころ、「好物はなに?」と聞かれたら、「バナナ」と即答していた。ところが、いつの頃からかバナナは大量に輸入されるようになり値段は暴落し、それとともにバナナの価値さえも暴落した。味が落ちたわけでもなくバナナの質には何の違いもないのに、高価で希少ならありがたく、安価で大量に出回ると見向きもされなくなったのである。

 

手製のブランコで遊ぶバランガイの子供たち。下の子が、”はやく代わって!”とお姉ちゃんに言うのに、なかなか代わろうとしない様子。水牛に引かせる木材に乗って遊ぶ。

川遊びのついでに沐浴する。

 一日中、山と沢を歩き暑さと疲労で意識がもうろうとする脇を、村の70歳の老人や子供がスリッパで岩場や急斜面をいとも簡単に追い抜いて行く。自分がいかに都会人になりさがったかを実感させられた。底抜けに明るい村人の笑顔と子供たちの笑い声を聞きながら、人間本来の生き方とは何なのだろうかと考えさせられた。


ブッダの教え(原始仏教)

2012-10-07 22:24:36 | 仏教

 中村元の訳したブッダのことばの最も古い経典「スッタニパータ」やブッダの最後の旅を記した「大パリニッバーナ経」、真理のことば「ダンマパダ」、無我を説く「サンユッタ・ニカーヤ」は、山折哲雄の本や三枝充悳の「仏教入門」に頻繁に引用されている。これらは、初期仏教を伝える唯一の文献で、アーガマ文献(阿含経)と呼ばれる。そこに記されたブッダは極めて人間的で現実中心主義であり、アーナンダの徒によって神格化された姿とはまったく異なる。以下に、三枝充悳の「仏教入門」と中村元の「原始仏典」からブッダの仏教(原始仏教あるいは初期仏教)を抜き出した。

ブッダの現実主義

ブッダは訪ねて来た人々の問いに対し現実に即して臨機応変に解答し人の苦悩を癒していく。超人的な力を借りない現実主義である。ブッダは人生の苦悩をあるがままに見つめて、絶え間ない欲望(煩悩)を自覚し、超克する(悟る)ことを現実の世界で実現しようとするのである。現世は苦にみちているので、念仏によって極楽往生しあの世で幸せになるという現実逃避的な後世の仏教とは異なり、現世においてニルヴァーナ(涅槃=こころの安らぎ)を実現することを目指す。ブッダは、世界が時間的に無限である(常住)か有限(無常)であるか、世界が空間的に無限か有限か、身体と霊魂は同一かそうでないか、などという形而上学的な問いには一切答えず沈黙したままだったという。”世界が無常か常住かといった問題にかかわらず、世間には生、老、死の苦があり、現実の実践、悟り、ニルヴァーナには形而上の思索は何の役にも立たない。”と述べ、現前の諸問題に対処することを徹底するのである。

こころ

「ダンマパダ」の最初のことば”ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。---影がそのからだから離れないように。” このように、人々の悩みや問いに対するブッダの答えはすべて、心のあり方にもとづいて説かれるのである。「ダンマパダ」の中の有名な言葉、”諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教” (ありとあらゆる悪をなさず 善をおこないそなえ 自らのこころを浄める これが仏の教え) は、ブッダの仏教の真髄を表している。

苦には、欲望が叶わないことによる苦、無知による苦、人間であることにもとづく四苦、無常にもとづく苦などがある。”苦とは自己の思い通りにならないこと”と定義されるとすると、その苦をもたらすものが欲望であり、百八つの煩悩が生まれる。無知による苦は、例えば死は必ず訪れるにも関わらずいつ来るか人間は知るよしがない。このように人間は無知に囲まれていて、その無知が苦をもたらす。人間存在にもとづく苦は、生、老、病、死の四苦で、業や輪廻も含み、人間であれば生まれながらに誰もが持つ苦である。無常の苦とは、一切は生者必滅を繰り返す、形あるものは消滅する無常なるものであり、そこにも苦がある。

無我

「スッタニパータ」は、執着のもとになっている自我を捨てることを説く。それが無我である。自我からの脱却、超越、解放、解脱を志向するのである。解脱によって安らかな自己を確立したあとは、自己(アートマン)と法(ダルマ)を燈明として、いかに思い、いかに語り、いかにおこなうかを決めるのである。”つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境地である。つとめ励む人は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者のごとくである。”、”道に思いをこらし、堪え忍ぶことにつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎ(ニルヴァーナ)に達する。これは無上の幸せである。”「ダンマパダ」  自分を救うものは自分である。

無常

一切は生者必滅を繰り返す、形あるものは消滅する無常なるもの、すなわち諸行無常である。山折が3.11後の東北で見た無常の意味がやっとわかったような気がする。

ニルヴァーナ

現世で達成される安らぎの境地がニルヴァーナ(涅槃)であり、ゴータマ・シッダルータはこれに到達してブッダ(覚者)になった。ニルヴァーナは仏教のゴールである。涅槃が如来の死を指すようになったのはブッダの死以降の事であり、死後に到達できるとするのは誤りである。ブッダは、”この世と、かの世を捨てる”と説く。とにかく、老死の理を知り、勤め励み妄執を捨てることが生きる道であり、老死を克服することである。と「スッタニパータ」にブッダのことばが記されている。

慈悲

”母が自分のひとり子を命をかけてもまもるように、一切の生きとし生けるものに、無量の慈しみの心を起こすべし”「スッタニパータ」とあり、ブッダは人々は思いやりの心を持って助け合わねばならないと言った。当然、他の宗教も人の道に反しないならば排斥することもなかった。

中道

ブッダは孔子やアリストテレスと同じように極端を排除し中道を説く。

 人間として解脱したゴータマ・シッダルータは、人々の悩みに現実的な解答を説いていった。ブッダの教えは、理を知り我執を捨て心を浄め、勤め励めば心の安らぎが得られる。その自己をたよりに生きろということなのである。