写楽北斎説で衝撃を受けてから、ネットで購入した飯島虚心著『葛飾北斎伝』や手元にあった中西瑛著『北斎七つのナゾ』で、写楽が活躍した寛政6年(1794年)5月から寛政7年3月前後の北斎について調べている。まずは、『北斎七つのナゾ』でまとめられた北斎の名前の変遷を以下に示す。
- 春朗 安永8年 (20歳) - 寛政6年 (35歳)
- 群馬亭 天明5年 (26歳) - 寛政6年 (35歳)
- --------(写楽? 寛政6年5月 - 寛政7年3月 ブログ主記す)
- 宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政10年 (39歳)
- 百琳宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政9年 (38歳)
- 俵屋宗理 寛政8年 (37歳)
- 北斎宗理 寛政9年 (38歳) - 寛政10年 (39歳)
- 北斎 寛政9年 (38歳) - 文政2年 (60歳)
次に『葛飾北斎伝』にある北斎作品目録から、寛政年間の作品を年代順に列挙する。東都勝景一覧と絵本狂歌山満多山の画手本2編以外は黄表紙である。
- 福来留笑顔門松 2冊 寛政元年通笑作にして 春朗画なり
- 臭気靡屁倉栄 2冊 寛政元年軒東作にして 春朗画なり
- 六歌仙虚実添削 3冊 寛政元年の出板。 作者の名詳ならず。春朗画とあり
- 竜宮洗濯噺 2冊 寛政3年 作者の名詳ならず。春朗画とあり
- 鵺頼政名歌芝 2冊 寛政4年の出板。作者詳ならず。春朗画とあり
- 昔々桃太郎発端話説 3冊 寛政4年の出板にして、作者の名詳ならず。春朗画とあり
- 貧福両道中之記 3冊 寛政5年の出板。山東京伝作にして、春朗画とあり
- 智恵次第箱根詰 寛政5年の出板。春道草樹の作にして、春朗画とあり
- 東大仏楓名所 寛政5年の出板。白山人可候作とあり
- 福寿海無量品玉 3冊 寛政6年の出板。曲亭馬琴の作にして、春朗画とあり
- 覗見喩節穴 2冊 寛政6年の出板。坪平の作にして、春朗画とあり
- --------(寛政7年に作品がない。ブログ主記す)
- 朝比奈御髭之塵 寛政8年の出板。慈悲成の作にして、北斎画とあり
- 化物和本草 2冊 寛政10年、京伝作にして、可候画とあり。可候は、戯作名なれど、時として画名にも用いたり
- 東都勝景一覧 2冊 寛政12年板、北斎辰政画とあり。江戸の須原屋茂兵衛の所蔵なりしが、後に大坂の河内屋の蔵板となる。(画手本で、脚注に”「東都名所一覧」浅草庵人撰。寛政12年刊。蔦屋重三郎版”とある)
- 竈将軍勘略之巻 3冊 寛政13年、時太郎可候画作とあり。『青年年表』に、「文軒翁云く、竈将軍は、北斎の画作なり。可候は、仮に設けたる名なり。これより、二三年続きて出る。---(以下略)」
- 絵本狂歌山満多山 3冊 出板の年月今詳ならず。蓋し寛政の末か、享和の始なるべし。(画手本で、脚注に”原本巻末に享和4年蔦谷重三郎梓”とある)
『葛飾北斎伝』に記された北斎が勝川派から破門された理由は以下の通り。
後ひそかに狩野某に就き、画法を学びしが、春章これを聞き、他家の画法を学ぶを憤り、遂に春朗を破門せり。
一説に、春朗、春章の高弟春好とよからず。春朗かつて両国辺の絵草紙問屋某の招牌(看板)を画く。問屋の主人喜びて、これを店先に掲げんとす。時に春好来たりて、大いにその画のつたなきを笑い、これを掲ぐるは、すなわち師の恥を掲ぐるなりとて、春朗の面前におきて、引き裂き打ちすてたり。春朗憤怒堪えがたかりしが、おのれの後学(後輩)のことなれば、止むを得ず、頭をおさえて退きたり。---(中略)---北斎晩年人に語りて曰く、「我が画法の発達せしは、実に春好が我をはづかしめたるに基せり」と。
春朗の師匠勝川春章は、歌舞伎役者の似顔を画き、春朗は春章のもとで20歳のときから15年もの間、修行し多くの役者絵を残す。しかし、その春章は寛政4年12月11日に死亡したので、春章が春朗を破門したとすれば、寛政4年以前のことになる。一方、一説に従うなら、春章の死後、高弟の春好との不仲が表面化し勝川派を離れたことになり、春朗という名を使わなくなった寛政6年が破門の時期として妥当ということになる。春朗は蔦屋重三郎に見込まれ、上の作品目録にあるように寛政5,6年に曲亭馬琴や山東京伝の黄表紙のさし絵を描き、まだ春朗を名乗っている。このころ狩野派だけでなく雪舟の子孫と称する堤等琳や、中国画、西洋画(『葛飾北斎伝』は司馬江漢に学んだとするがこれは否定されているらしい)を学んだように春朗の向上心は高く、勝川派一門の画風に飽き足らなくなっていたことが破門に大きく関係しているように思える。
寛政5,6年の頃、日光神廟の再修があり、狩野融川と門人とともに宗理(北斎)も廟中の絵事に参加することになった。旅の途次、融川が旅亭の主人に請われて描いた絵を宗理が批判したことから、融川の怒りを買い追放されひとり江戸に戻っている。馬琴との仲違いと絶交も有名で、誰彼となく喧嘩している。改名、転居、金や身分や日常生活など絵以外のことにはまったく無頓着な変人だった。写楽が”あまりに真を描かんとし”、世間に不評であっても描き続け、極めたらきっぱりやめたところなども北斎の性格に合致しているように思うのである。