備忘録として

タイトルのまま

寛政の北斎

2015-09-27 16:07:26 | 江戸

写楽北斎説で衝撃を受けてから、ネットで購入した飯島虚心著『葛飾北斎伝』や手元にあった中西瑛著『北斎七つのナゾ』で、写楽が活躍した寛政6年(1794年)5月から寛政7年3月前後の北斎について調べている。まずは、『北斎七つのナゾ』でまとめられた北斎の名前の変遷を以下に示す。

  • 春朗 安永8年 (20歳) - 寛政6年 (35歳)
  • 群馬亭 天明5年 (26歳) - 寛政6年 (35歳)
  • --------(写楽? 寛政6年5月 - 寛政7年3月 ブログ主記す)
  • 宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政10年 (39歳)
  • 百琳宗理 寛政7年 (36歳) - 寛政9年 (38歳)
  • 俵屋宗理 寛政8年 (37歳)
  • 北斎宗理 寛政9年 (38歳) - 寛政10年 (39歳)
  • 北斎 寛政9年 (38歳) - 文政2年 (60歳)

次に『葛飾北斎伝』にある北斎作品目録から、寛政年間の作品を年代順に列挙する。東都勝景一覧と絵本狂歌山満多山の画手本2編以外は黄表紙である。

  • 福来留笑顔門松 2冊 寛政元年通笑作にして 春朗画なり
  • 臭気靡屁倉栄 2冊 寛政元年軒東作にして 春朗画なり
  • 六歌仙虚実添削 3冊 寛政元年の出板。 作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 竜宮洗濯噺 2冊 寛政3年 作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 鵺頼政名歌芝 2冊 寛政4年の出板。作者詳ならず。春朗画とあり
  • 昔々桃太郎発端話説 3冊 寛政4年の出板にして、作者の名詳ならず。春朗画とあり
  • 貧福両道中之記 3冊 寛政5年の出板。山東京伝作にして、春朗画とあり
  • 智恵次第箱根詰 寛政5年の出板。春道草樹の作にして、春朗画とあり
  • 東大仏楓名所 寛政5年の出板。白山人可候作とあり
  • 福寿海無量品玉 3冊 寛政6年の出板。曲亭馬琴の作にして、春朗画とあり
  • 覗見喩節穴 2冊 寛政6年の出板。坪平の作にして、春朗画とあり
  • --------(寛政7年に作品がない。ブログ主記す)
  • 朝比奈御髭之塵 寛政8年の出板。慈悲成の作にして、北斎画とあり
  • 化物和本草 2冊 寛政10年、京伝作にして、可候画とあり。可候は、戯作名なれど、時として画名にも用いたり
  • 東都勝景一覧 2冊 寛政12年板、北斎辰政画とあり。江戸の須原屋茂兵衛の所蔵なりしが、後に大坂の河内屋の蔵板となる。(画手本で、脚注に”「東都名所一覧」浅草庵人撰。寛政12年刊。蔦屋重三郎版”とある)
  • 竈将軍勘略之巻 3冊 寛政13年、時太郎可候画作とあり。『青年年表』に、「文軒翁云く、竈将軍は、北斎の画作なり。可候は、仮に設けたる名なり。これより、二三年続きて出る。---(以下略)」
  • 絵本狂歌山満多山 3冊 出板の年月今詳ならず。蓋し寛政の末か、享和の始なるべし。(画手本で、脚注に”原本巻末に享和4年蔦谷重三郎梓”とある)

『葛飾北斎伝』に記された北斎が勝川派から破門された理由は以下の通り。

後ひそかに狩野某に就き、画法を学びしが、春章これを聞き、他家の画法を学ぶを憤り、遂に春朗を破門せり。

一説に、春朗、春章の高弟春好とよからず。春朗かつて両国辺の絵草紙問屋某の招牌(看板)を画く。問屋の主人喜びて、これを店先に掲げんとす。時に春好来たりて、大いにその画のつたなきを笑い、これを掲ぐるは、すなわち師の恥を掲ぐるなりとて、春朗の面前におきて、引き裂き打ちすてたり。春朗憤怒堪えがたかりしが、おのれの後学(後輩)のことなれば、止むを得ず、頭をおさえて退きたり。---(中略)---北斎晩年人に語りて曰く、「我が画法の発達せしは、実に春好が我をはづかしめたるに基せり」と。

春朗の師匠勝川春章は、歌舞伎役者の似顔を画き、春朗は春章のもとで20歳のときから15年もの間、修行し多くの役者絵を残す。しかし、その春章は寛政4年12月11日に死亡したので、春章が春朗を破門したとすれば、寛政4年以前のことになる。一方、一説に従うなら、春章の死後、高弟の春好との不仲が表面化し勝川派を離れたことになり、春朗という名を使わなくなった寛政6年が破門の時期として妥当ということになる。春朗は蔦屋重三郎に見込まれ、上の作品目録にあるように寛政5,6年に曲亭馬琴や山東京伝の黄表紙のさし絵を描き、まだ春朗を名乗っている。このころ狩野派だけでなく雪舟の子孫と称する堤等琳や、中国画、西洋画(『葛飾北斎伝』は司馬江漢に学んだとするがこれは否定されているらしい)を学んだように春朗の向上心は高く、勝川派一門の画風に飽き足らなくなっていたことが破門に大きく関係しているように思える。

寛政5,6年の頃、日光神廟の再修があり、狩野融川と門人とともに宗理(北斎)も廟中の絵事に参加することになった。旅の途次、融川が旅亭の主人に請われて描いた絵を宗理が批判したことから、融川の怒りを買い追放されひとり江戸に戻っている。馬琴との仲違いと絶交も有名で、誰彼となく喧嘩している。改名、転居、金や身分や日常生活など絵以外のことにはまったく無頓着な変人だった。写楽が”あまりに真を描かんとし”、世間に不評であっても描き続け、極めたらきっぱりやめたところなども北斎の性格に合致しているように思うのである。


No Fate

2015-09-24 16:48:45 | 映画

今日シンガポールは”Hari Raya Haji”(巡礼)の祭日である。外はHaze(煙害)のため、かすんでいる。汚染の程度を表すPSI(Pollutant Standards Index)は、PM2.5(微細粒子)、PM10、二酸化硫黄、二酸化窒素、一酸化炭素、オゾンの総濃度を表す指数で、0-50通常、51-100中位、101-200不健康、201-300極めて不健康、301以上は危険と分類されている。今日のPSIは200前後と不健康な状態に分類されたためか、街にはマスクをする人が大勢いた。Hazeはスマトラやボルネオの焼畑による煙が風に運ばれて来る煙害で、原因ははっきりしている。1990年代中頃も太陽が見えないほどかすんだことを覚えているので20年経っても改善されていない。煙害は国を超えた問題で、日本に被害をもたらす中国のPM2.5と同様、広く地域の問題となっている。原因が明らかで、汚染が健康被害を起こすこともわかっているにも関わらず対策がとれない。温暖化対策も同じで、各国の利害が絡むとき、統一的対策が取れず地球規模で汚染や破壊が進行する。戦争を失くすこともできない。人間は愚かだということか。

機中では、地球の未来を扱った以下の映画4篇を観た。核戦争が起こりロボットに支配される世界、環境破壊され荒廃した世界を舞台とし、それに立ち向かう人間をテーマにしている。何もしなければ悲観的な未来しかないというのである。

Terminator最新作「Terminator5:Genisys」を観る前に、復習のために「Terminator 2」を観た。実のところ老いて動きの鈍いシュワルツェネッガーは見たくなかったが、シリーズを見届ける責任があるので仕方がない。

「Terminator 2」1991、監督:ジェイムズ・キャメロン、出演:アーノルド・シュワルツェネガー、リンダ・ハミルトン、WowWowで再鑑賞した。おそらく1990年代始めにレンタルビデオで観たはずだ。第1作の「Terminator」1984が大ヒットし続編が望まれていた。核戦争後、ロボットに支配された未来ではジョン・コナーに率いられた人間とロボットが血みどろの戦いを続けていた。ロボット側は、子供時代のジョン・コナーを殺害するために液体金属でできたロボットT-1000を過去に派遣し、それを察知したジョン・コナーは子供の自分を守るようにプログラムしたT-800型ロボット(アーノルド)を過去に送り込む。Terminatorシリーズの名文句は、”I'll be back”だが、Terminator 2のテーマは、”No Fate”すなわち”運命は決まっていない!”である。T-1000の追跡から逃れたメキシコで、母親サラ・コナー(リンダ)はこの言葉をナイフで木のテーブルに刻み未来を変える戦いを始めることを決意する。まもなく始まる核戦争と、その後のロボット支配を阻止するため、サラ・コナーは原因になるロボット開発者を殺害しようとする。ロボット開発の阻止に成功したサラ・コナーは、”There is no fate but what we make for ourselves.”未来は自分で切り開くのだと、先の見えない道を走り始める。Alianシリーズと同じように2作目が最高の出来で、3作、4作と劣化していった。ジェームズ・キャメロン監督は非凡だ。★★★★☆

「Terminator 5:Genisys」2015、監督:アラン・テイラー、出演:アーノルド・シュワルツェネガー、エミリア・クラーク(サラ・コナー)、ジャイ・コートニー(カイル・リース)、ジェイソン・クラーク(ジョン・コナー)、未来では、ジョン・コナーに率いられた人間がロボットとの最終決戦に勝利しようとしていた。同じ頃、ジョン・コナーは1作目と同様に母親サラ・コナーを守るためカイル・リースを1984年に送り込む。ところが、カイルが会った1984年のサラ・コナーは1作目の何も知らないウェイトレスではなく、すでにロボットと戦う戦士になっていた。彼女の幼い時に送り込まれたT-800(アーノルド)が戦い方を教え、彼女の守護者になっていたのだ。サラ、カイル、T-800は、1984年に送り込まれた液体金属ロボットT-1000と戦いを続けるが、さらに思いがけない敵が送り込まれてくる。過去も未来もリセットされ、何でもありの世界になっていた。No Fateとは言いながら、ここまでFateを壊してしまうと話が軽薄になり、T-800の老アーノルドのにんまりした顔で極まり漫画映画になってしまった。IMDbでは、サラとカイルが1984年に関係を持たないまま2017年にタイムトラベルしたため、この映画ではジョン・コナーは生まれない矛盾が生じたというトピックが立っていた。親に無関係で子が生まれるのもNo Fateなのだろう。★★☆☆☆

「Mad Max:Fury Road」2015、監督:ジョージ・ミラー、出演:トム・ハーディー、シャーリーズ・セロン、メル・ギブソンの出世作マッドマックスシリーズを観たのは遥か昔のことである。滅びゆく世界で車をぶっ飛ばす激しいバイオレンス映画だったことしか覚えていない。水没した「ウォーターワールド」とは逆に砂漠化する大地を舞台とし、シャーリーズ・セロンら奴隷状態の女たちが緑の園を求めて悪の王国を逃げ出す。砂漠を何十台もの車やバイクが疾走しバトルを繰り広げるアクションは派手で息つく暇がなく、ストーリーは単純明快で面白かった。大型タンクローリーを走らせる隻腕のシャーリーズ・セロンはかっこいい。★★★★☆

「Tomorrowland」2015、監督:ブラッド・バード、出演:ジョージ・クルーニー、ブリット・ロバートソン、ラフィー・カシディー、破滅の危機に瀕した地球の未来は子供たちが連帯して立ち向かわなければならないのだ。すなわち、The children make tomorrowland. エッフェル塔は、エッフェル、エジソン、ジュール・ヴェルヌ、ニコラ・テスラが造ったTomorrowlandへ行くための乗り物だった。子供向け映画である。★★☆☆☆

「Spy」2015、監督:ポール・フェイグ、出演:メリッサ・マッカーシー(「The Heat」)、ジュード・ロー、ジェイソン・ステイサム、CIAの事務職の女(メリッサ)がサポートしていたスパイ(ジュード・ロー)が殺害されたことから自分がスパイとして現場に出向く。機関銃のように下品な言葉が出てくるアクションコメディー。美人は皆、悪者だった。メリッサ・マッカーシーは売れっ子で稼ぎは5本の指に入るらしい。★★☆☆☆

「Paper Planes」2014、監督:ロバート・コノリー、出演:エド・オクセンボールド、サム・ワーシントン、東京で開かれる紙飛行機の世界大会に出場することになったオーストラリアの少年の話。母親を事故で亡くして生きる気力を失くしたダメな父親をサム・ワーシントンが演じる。★★☆☆☆ 


Brave Blossoms

2015-09-22 14:37:48 | 話の種

ラグビーワールドカップ南ア戦は夜中に起き出して観た。追いつき追い越し逆転される展開に眠気はすっかり吹き飛んでいた。南アはラックでのノットムービングアウェイの反則を重ね、そのたびに五郎丸がキックを決め南アに食らいついていた。南アの大きな4番や16番にタックルを弾き飛ばされて簡単にトライされるのをみて、最後は地力に優る南アに振り切られるんだろうなと内心悲観的に観戦を続けた。しかし、残り8分同点の場面、ゴール前で圧力をかけていた南アが日本の反則でトライを狙わずキックを選択し3点差をつけたとき、なぜか南アがすごく弱気にみえた。対照的に残り1分ゴール前の反則でペナルティーを得たとき、キャプテンのリーチが同点キックでなく逆転トライを狙うスクラムを選択したときは、その強気の策に瞬間”うそだろう!”と思った。が、よく考えてみると、同点でも3点差負けでもどちらもヘッドラインは”善戦”であり、逆転勝ちなら”奇蹟の勝利”になる。その評価には雲泥の差が生まれる。受け身の強豪南アと、失うものがない挑戦者日本の立場の差が、ペナルティーキックの選択に出たのだと思う。上の写真はオフィシャルサイトよりヘスケスの決勝トライの場面。五郎丸は恰好だけでなくその精度でもウィルキンソンになったかもしれない。

ヘッドコーチのエディー・ジョーンズは、”Brave Blossoms must hit the ground running against Scotland.(勇敢な桜はスコットランドに対し、試合開始からハードワークをしなければならない)"と言っているように、スコットランド戦は日本がベスト8に進むためにはとても重要である。それはスコットランドも同じで、ここで負けると後がなくなる。明日23日の次戦は激しい戦いになることが予想される。

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26Sep追記:Jonny Wilkinson 19 Sepのツイッター

A brilliant performance by Japan, simple as that. My heart still racing after that last few minutes. World Cups are great & no one is safe.


カニシカ王

2015-09-06 00:08:22 | 仏教

8月中旬にタイのバンコクで発生した爆破事件は、中国から逃れてきたウィグル人が関係しているのではないかと言われている。下はWikiのウィグル人居住地域で、中国の新疆地区、ウズベキスタン、カザフスタン、アフガニスタン北部などの中央アジアを中心に、トルコやイランにも居住している。昔のホータンやガンダーラ地方はウィグル居住地内に位置する。ウィグルはトルコ系遊牧民で、中国では昔、突厥や鉄勒などと呼ばれていた。言語はテュルク語(突厥語)で、現在のウィグル語、トルコ語や中央アジアのウズベク語、タタール語などを含む。語順が主語+目的語+述語で日本語も同系統に分類される。映画『ナイトミュージアム』に出てきたアッティラはアジア系の顔をしていたが、彼の種族であるフン族はテュルク語・モンゴル系と言われる。アッティラは5世紀に騎馬でヨーロッパを蹂躙し大帝国を樹立し、後のチンギス・ハンと並べて語られる。

ホータン出身でガンダーラ(ペシャワール)を居城としインド西北部を支配した2世紀のカニシカ王は、仏教を保護しアショカ王と並び称される。カニシカ王はホータン出身だと言われるがウィグル人の祖先だというわけではない。カニシカ王の時代、ガンダーラ美術が花開き多くの仏像が造られた。カニシカ王の時代になるまで仏像は成立せず、ブッダは、法輪、菩提樹、仏足石などで表現され信仰の中心は仏塔だったということは以前ガンダーラの巻などで書いた。長澤和俊『シルクロード』に記載された高田修『仏像の起源』によると、ガンダーラに仏像が出現したのはクシャーン(あるいはクシャーナ)朝前期の紀元1世紀末頃で、マトゥーラではやや遅れて紀元2世紀初頭に出現し、両者はそれぞれ別個に成立したという。ガンダーラの仏像が、アレキサンダー大王以来のギリシャ文化の影響を受け、ギリシャ人の風貌を持っていることはすでに見てきた。

以下は、カニシカ王の時代までの古代インドの主要な出来事をまとめたものである。

  • 紀元前3000年頃 インダス文明
  • 紀元前1300年頃 アーリア人の侵入
  • 紀元前1200年~800年 『リグ・ヴェーダ』の成立とバラモン教
  • 紀元前550年 マガダ国成立
  • 紀元前5世紀 ブッダと仏教誕生
  • 紀元前327年 アレキサンダー大王の西北インド征服
  • 紀元前317年~紀元前180年頃 チャンドラ・グプタによるインド統一とマウリア王朝。3代目アショカ王
  • 紀元1世紀 クシャーナ王朝によるインド統一と3代目カニシカ王 

カニシカ王の略歴と事績を中村元『古代インド』より拾った。

クシャーナ王朝

北西からインドに侵入し紀元1世紀にクシャーナ朝を樹立したクシャーナ族は二系統からなり、最初はカドフィーセス1世と2世で、次はその後のカニシカ王から始まる系統であるというのが定説だった。しかし、最近発見された碑文に、カニシカ王自身のことばでカドフィーセス1世と2世が祖先だと書かれていたという。クシャーナ族は、トルコ系あるいはイラン系と言われていたが、最近の学会はイラン系遊牧民であるサカ族かトカラ族としている。

クシャーナ朝は2世紀のカニシカ王の時に、中央アジアからガンジス川流域までを支配する帝国となり、3世紀ごろに滅んだ。中国では月氏または大夏と呼ばれた国で、史記によると、もともと西域にいたが匈奴に圧迫され西に移動したという。漢の武帝がこの月氏と結び匈奴を挟撃するため、張騫を使者として送ったのは紀元前2世紀のことである。後漢書によると、大月氏が大夏(バクトリア)に移住し5つの部族にわかれて統治したのち、そのうちの1族であるクシャーナ族が他族を攻め滅ぼしインドにまで攻め入った。クシャーナ朝は、西はローマ、東は中国と交渉があり、国際色が豊かで種々の宗教を認めていた。クシャーナ朝の生活様式は中央アジア的すなわち遊牧民的で、ヘレニズム的な要素をあわせもち、その後、インドに土着するにつれて、インド的な習慣や風俗に変化していった。

Wiki英語版より

経済的には、ローマに絹、香料、宝石、染料などを売って、ローマの黄金を獲得した。ローマの金貨がそのまま用いられるとともに、芸術面では、ガンダーラ地方にギリシャ彫刻の影響を受けた仏教芸術が隆盛し、宗教上では大乗仏教が出現し、大乗仏教最初の経典である般若経が南方インドでつくられた。大乗仏教は西北インドに伝わりクシャーナ朝によって広められた。法華経が成立したのは、カニシカ王から3代あと3世紀中葉のヴァースデーヴァ王のときだと推定されている。バーミアンの小さい方38mの大仏はこの時代に造られたとされる。4世紀に入ると、クシャーナ朝は西からササン朝ペルシャ、南東インドからグプタ王朝の圧迫を受け衰える。

カニシカ王

カニシカ王(在位132~152、在位144~173など諸説あり)は西域のホータン出身とも言われる。ホータン(闐)出身だとすると大月氏ではなく小月氏に属していたと考えなければならない。紀元前3世紀より前にタリム盆地から黄河上流にいた月氏のうち西に移動し大夏を建てたのが大夏氏で、そのまま残留したのが小月氏と呼ばれるからだ。

下のコインの写真Wikiは、表面がカニシカ王で裏面がブッダ像の金貨である。ブッダ象のわきには、”BoDDo”と刻印されている。日本や中国の仏教徒はカニシカ王が大乗仏教を支持していたとするが、カニシカ王が信奉した仏教は、伝統的な説一切有部(すべての法は実在したとする学派)であり、2世紀にインドで龍樹が始めた大乗仏教(すべては空の一切空)ではなかったという説が有力らしい。カニシカ王時代の金貨は、他にギリシャの神々、ゾロアスター教の神、ヒンズー教の神々が刻印され、カニシカ王が仏教以外の宗教にも寛容だったことがわかる。

 

 中村元の『古代インド』は古代インドの歴史を紹介したもので、全11章から成るが、ブッダ誕生と大乗仏教にそれぞれ1章を割いて詳しく説明しているところが中村元の著した歴史書らしくて面白い。