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斉明天皇陵

2010-09-11 17:25:23 | 古代
 斉明天皇陵は、これまで車木ケンノウ古墳とされていたが、発掘中の牽牛子塚古墳(けんごしづか)が八角形だったことからほぼ間違いないという記事が出た。七世紀の天皇陵は八角形が特徴であること、日本書紀に娘の間人皇女と合葬されたという記述があり今回の発掘で石槨(せっかく)が二室に分けられその一つから皇女と同年代の女性の歯が出たことから確定的とされた。ところが、宮内庁は発掘成果を注視はするが、息子の天智天皇は大規模土木工事をしなかったと書記に書かれていることを理由に被葬者の名前が記された墓誌などが出ない限り見直さないという。
  (毎日新聞記事より)

 高松塚やキトラ古墳の北西に位置している。

 斉明天皇は推古天皇のあとの舒明天皇の皇后として、中大兄皇子、大海人皇子、間人皇女を産み、夫が崩御した642年に皇極天皇として即位した。645年の大化の改新を経て同年、弟の孝徳天皇に譲位した。654年孝徳天皇は斉明や中大兄らに難波宮に置き去りにされたことで孤独のうちに崩御し、斉明天皇(皇極天皇が名前を変えて)が再度即位(重祚)した。
 斉明天皇の在世中は、国際的には百済・日本連合軍と新羅・唐連合軍の間で白村江の戦いが起こったり(熟田津に参照)、国内では大化の改新の政変があるなど多難の中、「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と呼ばれる運河や百済大寺を造るなど大土木建築工事が好きだったと言われる。大化の改新以降は斉明天皇の背後に実権を握る中大兄皇子がいたはずなので、土木工事も中大兄皇子が主導していた可能性が高い。天智天皇になってからは大土木工事をしなかったとされるが、土木工事に対する民の怨嗟を斉明天皇に押しつける天智天皇の深謀かもしれない。
 梅原猛は大化の改新のとき斉明天皇は蘇我入鹿と深い関係にあったと疑っている。多武峰縁起絵巻の大化の改新の場面で、中大兄皇子に切られた入鹿の首が皇極天皇(斉明天皇)に向かって飛びかかっているように見えることもその関係を示唆しているように書いている。(梅原猛著「塔」第四部第二章若き中大兄皇子など)
 661年斉明天皇は、百済救援の遠征途中、北九州で崩御した。

 そもそも現在の天皇陵は明治以降に指定されたもので今回のように誤りも多く、宮内庁が調査解禁の英断をし天皇陵調査が進めば日本の歴史が変わる可能性もあるという。

 来週末、上原和の「法隆寺を歩く」を手に法隆寺へ行くが、明日香にも足を延ばす予定にしている。

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