備忘録として

タイトルのまま

城山貝塚

2009-06-30 20:44:44 | 徳島

城山の貝塚に忍び込んだ話は、このブログを始めて間もなくの頃の2005年12月14日の回で述べた。主人公のいない自伝の作者である中野好夫の子供の頃は柵もなく自由に出入りして遊んでいた城山の貝塚である。私が侵入して叱られた当時より柵が低いように思うのだが、小学生の印象だから低く感じてあたりまえなのだろう。

5月30日に常三島から城山公園を抜けて駅前まで歩く途中、貝塚前を通ったので撮った。貝塚前は柵を越えて遊んだ小学生の時以降も何度も通っているのだが、侵入したことを意識して通ったのはおそらく初めてだと思う。そういう意味では、何十年ぶりの再会ということになる。

5月30日は徳島大学のY教授の退職記念パーティーに出席した。徳島大学の出身者でもない私が退職記念パーティーに招待され、広島からはるばる参加したのは、Y教授と15年来懇意にさせていただいているからである。Y教授に初めて会ったのは、15年前のマレーシアでの学会で、その後シンガポールや台湾の学会で会ったり、徳島への帰省時に先生を訪問するうちに親しくなった。
Y教授は無類の動物好きである。マレーシアの学会後にシンガポールのナイトサファリにY教授夫妻を案内した時、ほとんどの訪問者は約45分のトラムライドで満足するのだが、Y教授は夜のジャングルを歩きたい主張された。19時からのトラムライドの後のジャングルトラッキングは一周に2時間を要し、ホテルに戻った時間は23時を過ぎていて、その夜の私のディナー計画は完全に変更を余儀なくされたのである。

Y教授の動物好きは、その後野犬を保護することに向かい、4~5年前から板野の山に土地を購入し飼育場を整備し野犬の世話を始められた。国立大学の教授は退職後は私立大学などへの再就職が普通なのだが、退職後は奥様とともに野犬の世話をするという。3年前にシンガポールから帰国して以来、私は年に2~3回の割合でY教授を訪ねるようになったが、1匹づつ、どのように世話をするようになったかのエピソードを話してくれた。大学のキャンパスに住みついてガリガリに痩せた犬、前足を骨折した犬、吉野川の河川敷に巣くっていた親子の犬、濡れた体に泥がこびりついてカチカチになった犬など、Y教授を訪問するたびに犬の数が増えて、今は24匹になっているという。Y教授は犬の世話を始めるきっかけになった御子息の急死のことや、犬が喪失感を埋めてくれるということも話してくれた。

Y教授は、世話は成犬に限定するという。自分が動けなくなるだろう15年後、それ以降に不幸な犬を残さないためである。そして里親探しも始めたいともいう。

Y教授の”退職後にやりたいことが決まっているなら、今すぐ始めなさい”という言葉を、退職まで6年ほどを残す者として真剣に考えたいと思う。


注文の多い料理店

2009-06-28 21:34:24 | 賢治

今日、津和野の安野光雅美術館で「注文の多い料理店」の絵葉書を買った。

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RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
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 という看板の店に二人の紳士がやってくる。

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ことに肥った
方やお若い
方は大歓迎
いたします
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 自分たちは大歓迎を受けているのだと二人は大喜びで店に入ります。

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当行(軒)は
注文の
多い料理
店です
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 二人は言われるままに
 靴の泥を落とし、髪に櫛を入れ、鉄砲を預け、服を脱ぎ、貴金属をはずし、
 顔や手足にクリームを塗ったあと、
 ”体に塩をよくもみこんでください”という注文を聞いた二人は、
 ”どうもおかしいぜ”二人はぶるぶるふるえだし、あわてて店を逃げ出したのです。

人類は食物連鎖の大きな環の中にいることを賢治は言いたいのだ。

 絵葉書のビキニの女の人(ポスター?)は、「注文の多い料理店」には出てこないので安野光雅の創作である。安野光雅は津和野出身で、子供の頃のことを描いた絵本が面白かった。子供の目で見た大人の世界が”おとろしい”。「街道をゆく」の挿絵画家は司馬が変人ぶりを書いていた須田剋太の印象が際立っていたので、安野光雅が数編を担当していたとは気付かなかった。美術館のプラネタリウムはあまりに快適だったので最初から最後まで快眠してしまった。


楢ノ木大学士の野宿

2009-06-27 16:21:48 | 賢治

1985年ごろオーストラリア旅行の時、オパールの原石を買った。楢ノ木大学士に言わせると、オパールではなく”オーパル(蛋白石)”である。”その中でも上等なものは、流紋破璃、貴蛋白石の火の燃えるようなやつだ。でも蛋白石くらいたよりのない宝石はなくて、すっかり曇ったじゃないかと思うんだ。今日虹のように光っている石が、あしたは白いただの石になってしまう。今日は円くて美しい。あしたは砕けてこなごなだ。 ”オーストラリアで買った蛋白石(上の写真)は、24年経った今も、虹色に輝いている。コアラを抱いた写真は、1991年西オーストラリアのパースのWild Life Parkで撮ったもので、長女10歳、二女は7歳だった。この時、二女は小さすぎるということでコアラを抱っこさせてもらえず、ずっと悔しがっていたが、10年後長男の野球のパース遠征に同行し、執念で願いを叶えた。

楢ノ木大学士は、擬人化した造岩鉱物の夢を見る。

ホンブレンさん=Hornblende(角閃石)
バイオタさん=Biotite(黒雲母)
ジッコさん=磁鉄鉱
オーソクレさん=Orthoclase(正長石)
プラジョさん=Plagioclase(斜長石)
クォーツさん=Quartz(石英)

彼らが言い争いをするのだが、それはマグマからの晶出順序、自形・他形といった結晶形、風化に応じた争いなのである。専門家(地質屋)にはたまらない。「楢ノ木大学士の野宿」は賢治が地学者そのものであったことを再認識できる。


ビジタリアン大祭

2009-06-22 23:30:40 | 賢治

 カナダのニューファンドランド島の小さな村で開かれた菜食主義者の世界大会の話である。菜食主義者には二種類あって、ひとつは動物に対し同情的であるため肉食を避ける人々、もうひとつは病気予防のために肉食を避ける人々である。もしたくさんの命の為に、どうしても一つの命が入用な時は、仕方無いから食べてもよい。
 ”そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとこう言うのです。”
ベジタリアン反対派は、①植物性食糧が不足するようになり人類滅亡を招く、②動物が可哀そうだと言うが動物心理学的に豚は死というような高等観念など持っていない、③生物分類学的に動物と植物に境がないので植物に意識がないとは言えない、④比較解剖学上人類は雑食(混食)に適するようにできている、⑤海岸で死んだ魚から魚粕をつくりキャベツや麦の肥料にしている、などとベジタリアンを非難するのです。大会会場に招待された反対派の意見に対し、ベジタリアンたちは個々に反論します。反対者は全員ベジタリアンに改宗してしまうのです。

 シンガポールの知り合いにチベット仏教の信者で、できるだけ動物を食べないようにしているという同情派のベジテリアンがいた。でもチベット仏教には菜食主義的な教義はないらしい。
シンガポールの知り合いのヒンズー教徒は、教義の殺生戒のため、ベジテリアンだった。インド料理屋に招待して、カバブやチキンマサラやフィッシュカリーを注文してくれるのだが自分は決して食べなかった。いっしょに行ったコロンボのヒンズー寺院で祠の周りをいっしょに(たぶん)7回左回りした。お寺の宿坊では精進料理が出される。松島の精進料理屋の精進料理は高価で豪華だった。精進料理が僧侶の禁欲などの修行のために始まったとしたら、一種の冒涜だ。

賢治はもちろん菜食主義者で、共生・共死を受け入れている。

 「よだかの星」のよだかは、”かぶとむしや、たくさんの羽虫が毎晩僕に殺される。僕が今度は鷹に殺される。”ことがつらくて、我が身を焼き尽くし星になる。

 「注文の多い料理店」では、食事をしようとレストランに入った狩人が、実は自分たちが動物の餌になることに気づき逃げ出す話だ。

 「なめとこ山の熊」の小十郎は、熊を殺すことが職業の狩人だが、熊に殺されることを受け入れる。

人類が食物連鎖の環の中にいることは、山折哲雄の「デクノボウになりたい」で、詳しく論じられている。


劔岳 点の記

2009-06-21 14:23:28 | 映画
上映初日の昨日、レイトショーで観た。
原作は読んでいないが、新田次郎の小説は学生時代に愛読した。「孤高の人」、「芙蓉の人」、「銀嶺の人」、「強力伝」、「栄光の岩壁」、「アラスカ物語」、「聖職の碑」など、職業や登山家として山や自然に深く関わる人間の極限状態を描き、深い感動があった。だから、「蒼氷」、「縦走路」、「火の島」、「武田信玄」を含め新田次郎は乱読状態で、自室は朱色の背表紙の本が山積みになっていた。

映画は残念ながら、人間の描き方が浅かった。
「何をなしたかではなく、何の為にやったか」という言葉が、言葉だけに終わっていて、主人公たちの測量基点を作るという崇高な使命感が伝わってこなかった。陸軍との軋轢、山岳隊との競争と交流、主人公と案内人長次郎の信頼、長次郎と息子の確執など、いずれも描き方に深みがなかった。さらに、剣岳登頂の場面が、そこに至るまでの苦難に比べ淡泊だったため、映画のClimaxがぼやけてしまっていた。

黒澤明は確か映画の良し悪しは脚本で決まると言っていたが、この映画は脚本がだめだと思う。キャストと自然、カメラワークが素晴らしかっただけに、残念としかいいようがない。原作を読んでいないのでコメントするには躊躇があるが、他の作品から抱いている新田次郎作品の印象を考えると、原作の素晴らしさが生かされていないのではと疑ってしまう。

初登頂のはずが、先人がいた。剣岳頂上に修験者の古い錫杖が置かれていたのは史実である。
江戸時代の修験者”泉光院”は、「日本九峰修行日記」と題する日記を残している。九峰とは、英彦山、羽黒山、湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山、箕面山、石鎚山で、日記では、さらに白山、御岳、榛名山、妙義山、浅間山、立山、鳥海山にも登っている。特に、1816年6月6日(旧暦)には、映画にも出てきた”室堂(むろどう)”まで雪の中を登り、さらに立山(3015m)に登頂したという。晴れていたので、富士、浅間、白山がよく見えたという。剣岳は立山のすぐ北側にそびえ、山頂は立山よりも低い2999mである。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.59755043&lon=137.65137481&sc=9&mode=map&pointer=on&home=off

”劔岳 点の記”2009 監督:木村大作 出演:浅野忠信、香川照之、松田龍平、仲村トオル、夏八木勲 ★★★☆☆

農民の地学者 宮沢賢治

2009-06-20 15:05:41 | 賢治

 西荻の古本屋で630円で買った宮城一男著「農民の地学者 宮沢賢治」は拾いものだった。ずっと農業のかたわら童話や詩を作っている作家だと思っていた。賢治を語るとき、詩人・童話作家・農業指導家・教育者などと紹介されるが、この本の綴じ込み写真にある賢治が作った地質踏査のルートマップを見ると、賢治は地質屋と言って差し支えない。花巻農学校での賢治が、黒板に描いた地質断面図の写真からも地質学の教師であったことがわかる。板谷栄城の「宮沢賢治の宝石箱」は広島の古本屋で350円で買ったが、これも賢治作品の中の宝石(鉱物)や植物を拾い集めていて、拾い物だった。

両書によって、賢治の童話や詩、短歌に地質、鉱物、化石が無数に散りばめられていることに気づいた。これまで、まったく無頓着だった。

 「銀河鉄道の夜」の地質学者が仕事をしているプリオシン海岸は”Pleiocene”のことだった。カムパネルラが銀河ステーションでもらったという地図(星座盤)は黒曜石でできている。「ビジテリアン大祭」の”金剛石は硬く滑石は軟らかである。”とあるように賢治はモースの硬度計を知っている。「風の又三郎」のお父さんは、モリブデン鉱脈を扱う鉱山会社の社員である。「虔十公園林」の石碑は橄欖岩(かんらんがん)でできている。「グスコーブドリの伝記」のサンムトリ火山には”溶岩が二層と、あとは柔らかな火山灰と火山礫の層だ。” 「シグナルとシグナレス」には蛇紋岩(サーペンティン)が出てくる。両書が引用するように、「楢ノ木大学士の野宿」は鉱物、地質の専門用語のオンパレードだ。

 ところで、『農民の~』で宮沢賢治がおとうさんに宛てた手紙が紹介され、岩石、鉱物を扱う仕事は、”山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致しかね候”と書いている。実は、私は宮城一男の出た教室の後輩になるのだが、大学入学を控えた18歳のある日、健康診断に行った徳島のある病院の医師に、大学で何を勉強するのかと聞かれ、地質学と答えたところ、その医者から「山師になるのか」と言われ、たまらなくイヤな思いをしたことを思い出す。板谷は理学部の先輩になる。


グスコーブドリの伝記

2009-06-07 19:41:39 | 賢治

「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」

イーハトーブのきこりの息子ブドリは幼いころ寒い気候による飢饉で、両親を亡くし妹のネリとも離れ離れになってしまいます。火山局に勤めるようになってしばらくたった頃、その寒い気候が再びイーハトーブを襲ったのです。

「先生あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、それを私にやらせてください。」

イーハトーブの皆は、その冬を暖かい食べ物と、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。

 ブドリは、賢治がそのように生きたいと思った人そのものだったはずだ。
クーポー博士の個人用飛行船、火山の観測網、潮汐発電所、人工雨、肥料散布、それに冒頭の二酸化炭素による地球温暖化など、1900年代初頭としては先駆的な話であふれている。

 昔、子供たちが持っていたスーパーファミコンに、『イーハトーブ物語』というゲームがあった。賢治の童話を題材にし、ゲームとしては極めて地味な内容だったが、ほっとさせられるゲームで好きだった。『グスコーブドリの伝記』や『虔十公園林』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』などの話が、賢治の活躍した羅須地人協会や農学校を絡ませたゲームだったと記憶している。山のようにあったゲームは子供たちの成長とともに処分してしまった。


なめとこ山の熊

2009-06-06 07:43:03 | 賢治

 宮沢賢治の「なめとこ山の熊」のことは、梅原猛の『百人一語』や山折哲雄の『デクノボウになりたい』の星野道夫の話を読むまで知らなかった。評論ばかり読んでいて、原作(一次資料)を見もしないで他人の論に寄りかかった評論家に堕していることを反省し、賢治の童話集を読んでいる。

驚いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二匹、ちょうど人が額に手をあてて遠くをながめるといったふうに、淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのに会った。
 小十郎はまるでその二匹の熊のからだから後光が射すように思えて、釘づけになったように立ちどまって、そっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん。谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん。」すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの。」
 子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう。」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見にきのうあすこを通ったばかりです。」
 小十郎もじっとそっちを見た。
 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。
 しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ。」ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし、第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花。」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」
「いいえ、お前まだ見たことありません。」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう。」
「そうだろうか。」子熊はとぼけたように答えました。
 小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになって、もう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながら、小十郎はそろそろと後退(あとじさ)りした。
 くろもじの木の匂(におい)が月のあかりといっしょにすうっとさした。

 母子熊の情景が鮮やかに目に浮かぶ。文章が写真や絵画を凌ぐことを実感できるシーンだ。

胃(コキエ)とは、二十八宿による牡羊座の近くにある小さな三ツ星。和名「コキエ=穀家(こくいえ)」といって、天の五穀をつかさどる宿

ひきざくら、くろもじ、などの花は、以下のWebページ”イーハトーブ・ガーデン”に詳しい。
http://nenemu8921.exblog.jp/tags/%E3%81%B2%E3%81%8D%E3%81%96%E3%81%8F%E3%82%89/