備忘録として

タイトルのまま

ムペンバ効果 

2008-11-30 01:30:13 | 話の種
NHK7月放送の”ためしてガッテン”で、早く氷を作りたければお湯を製氷室に入れろと言ったとか、言わなかったとか。これに早稲田大学の大槻教授はそんな非科学的なことを公共放送がすべきではないと噛みついたらしい。この温かい水の方が冷たい水より早く凍るという現象は、ムベンバという名のタンザニアの高校生が発見し、ムペンバ効果(Mpenmba Effect)と名づけられている。大槻教授が言うように、普通は、70℃の水が30℃まで冷えるのに時間がかかり、それから氷になるまでには30℃の水と同じ時間を要するので70℃の水が30℃の水より早く凍るとは、ちょっと考えにくい。ところが、ある条件下で、それが起こりうることを何人もの研究者が実験で確認しているのである。

英文Wikiの外部リンクにあったUniversity of Californiaの物理学専攻の研究者の論文”Can hot warter freeze faster than cold warter?”に、以下の複合的な理由を上げていた。(一部意訳)
1.温かい水は蒸発量が多く、水量が減り冷却に要するエネルギーが少なくて済む。
2.温かい水は溶存ガスが少なく熱対流が起こりやすくなり冷却効率が上がり単位当たりの熱量が少なくて済む。または、溶存ガスがないことで氷になる温度が0℃より高くなる。
3.温かい水は全体に温度が不均質で表面が熱く容器の底が冷たいので、熱対流が冷たい水より早く起こり冷却効果を上げる。(この部分の原文を理解するのが難しかったのでこれは自己流解釈による)
4.周辺環境の影響。冷たい水を入れた容器の周辺部と温かい水の容器の周辺では環境が異なってくる。例えば、冷却装置に霜がついていたら温かい水は霜を溶かし冷却効果が上がる。
5.過冷却現象(Supercooling)が重要な要素である。温かい水は-2℃で凍るが、冷たい水は-8℃で凍る過冷却現象というものがある。ただし、実験で確認されても、この過冷却現象の説明ができていないので、過冷却をムペンバ効果の原因とすることは疑問をすり替えただけになるのだ。
結局ムペンバ効果は、まだ全面的に解明されていないのだ。

ムペンバ効果は、35℃と5℃の水で効果が最大限に発揮されるらしい。ムペンバ君はこれを発見した時に学校で変人扱いを受けたそうだ。たまたま彼の高校を訪れ、ムペンバ君の意見を取り上げた物理学者のオズボーン博士が、大槻教授のような人であり、後日実験で確認することもなかったなら、ムペンバ効果は世に問われないままだった。合理的な科学者は理論に囚われているが故に、直感的に理論的でない現象を容認できないのである。超常現象と対決してきた大槻教授ならなおさらである。私も科学万能癖が強い上に頑迷で、納得できないことには聞く耳を持たないことが多く、虚心坦懐を心がけようと前々から思っているのだが、よく忘れる。

なお、ムペンバ効果を1963年に発見したムペンバ君は、今60歳前後で、アフリカ森林および野生動物委員会(African Forestry and Wildlife Commission)で働いているそうだ。


風立ちぬ

2008-11-27 22:41:50 | 他本

上原和は“トロイヤ幻想”の中で、戦後の混迷の時代を生きる上で堀辰雄の作品に救われたと述べている。代表作の”風立ちぬ”は、高校の現代国語で一度読んでいるはずだが、サナトリウムに入院したカップルの話程度の記憶しかなく、今回古本屋で購入し読み返した。
1年に満たないサナトリウムでの日々。入院した春から夏にかけては、ゆったりと時が過ぎるのに、冬に入ると、日付に追われるように急速にその時が近づいてくる。節子の病状の悪化につれて二人の気持ちが微妙に揺れるが、相手を思いやる気持ちがあふれている。会話し、無言で見つめあい、手を握り、ほほを寄せ、心を通わせる二人に、確実に死は訪れる。一年後、喪失感の中、風は思い出を運び、残された者には“いざ生きめやも”(生きなければならない)が課されているということか。

高校時代に原作を読み映画も観た”ある愛の詩”や黒澤明の”生きる”など、映画やドラマ、小説、ドキュメンタリーなどに見る、余命を宣告され死に向き合う人々の姿は多様である。それぞれ性格、環境、背負うもの、生への執着が異なるからだろう。自分が同じ境遇に置かれたら、どのように振舞うだろうかなどと想像しても明確な姿は見えてこない。
でも身近な人、特に同年代の知人が亡くなった時には、自身に置き換えて考えてしまう。今は亡き中学・高校の同級生は、実母を幼い頃に亡くし義母に育てられた。修学旅行に親の出迎えがなかったことや運動会に親が来なかったことから、幸せとは言えない環境で成長したことは想像に難くない。結婚し家庭を持ち2人の娘を授かった幸せの絶頂で、実母が死んだ年齢で突然ガンを宣告される。娘たちに自分と同じ不幸を味わわせたくない、少なくとも娘たちが成人するまでは生きたいと願ったであろう、その心境を思うとやりきれなくなる。別の知人は高校生と中学生の子供を残し心臓発作で突然亡くなった。旅先のホテルで発見された時にはすでに息絶えていて、家族に何も語らずに逝ってしまった。息子の同級生の父親だったので、この時は人間、突然何が舞い降りてくるかわからないと思い、遺書を書こうと思った。父親が居なくてもしっかりと生きていくようにといった内容の遺書を書こうと思ったのだが、結局何も書けなかった。その時は、日頃から自分の生き方や考え方は伝えてきたのだから改めて書くことがないのだと自分を納得させた。あれから早や8年が経ち、年齢の所為か葬儀に出る機会が増え、手にする本も生死を論じるものが多くなったが、やはり遺す言葉が思い浮かばない。

自分の死とは逆に、愛するものを亡くした喪失感についても想像するしかない。喪失感を宗教で埋める人も多いようだが、知り合いの一人は、息子が急死した喪失感をペットの犬で埋めようとしている。野良犬を保護し育て、いまや21匹に達している。上原和は学徒出陣の19歳で土浦の海軍航空隊すなわち特攻隊に入り、20歳までの人生しか考えられなかった。死の一歩手前で生きて帰った上原和は、その後の人生を余生と考えたという。文字通り”風立ちぬ いざ生きめやも”で生きたのである。


平山郁夫美術館

2008-11-23 11:36:02 | 
上の絵葉書は平山郁夫美術館で買った。”月明の砂漠”1992という作品だが、展示作品の中にはなかった。美術館のある瀬戸田町(現尾道市)で生まれた平山郁夫の小学校や中学校時代に描いた絵が展示されていたが、この年齢でここまで描けるのかというものばかりだった。特に、蘇我兄弟などの歌舞伎を題材にした作品は中学生ばなれしたものだった。
月明かりや夕陽の中の駱駝隊商や遺跡を描いた作品は、描線がはっきりせず、薄暗い中の茫漠とした感じがいい。足立美術館で見た横山大観の絵も描線をはっきりと描かない朦朧体という画法で描かれているが、大観の黒白主体で寒々とした感じの作品に比べ、平山郁夫は青、赤、黄、緑など多彩で雰囲気がまったく違う。大観のような控えめの色を使った淡い感じの絵が代表的な日本画という先入観があったので、原色を多用する平山郁夫は洋画家だとばかり思っていた。絵画の素人ということで勘弁してください、と誰に謝っているのだか。

ところで、平山郁夫は若くして東京芸術大学を首席で卒業した美智子さんと結婚しているが、美智子さんは”結婚と同時に絵筆を折る”と略歴にあった。芸大の首席という才能を捨てて郁夫を支えた美智子さんがどのような絵を描いていたのか気になる。

清少納言

2008-11-22 08:30:45 | 中世
2008年が源氏物語の執筆が始まって1000年ということで様々なイベントが開かれている。学生時代に買った円地文子のほか谷崎潤一郎、与謝野晶子の訳本を本屋で横目に見ていたが、海外を含め多くの人々が訳本を出しているのを新聞の特集記事で知って驚いた。

私と源氏物語との関わりは、中学や高校の古典の授業でさわりを勉強したことに始まり、大学のとき同い年の従兄の面白いという評価に乗せられて買い込んだ円地本を上巻の途中で投げ出したこと、長女が小学4年生のとき“いづれの御時にか、女御・更衣数多さぶらひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが-----”と暗唱してたのに合わせていつのまにか自分も唱和していたこと、2年ほど前に読んだ“私の好きな古典の女たち”の中で瀬戸内寂聴が六条御息所や女三宮や朧月夜などの寂聴好みの女性を取り上げて紹介し、そのあまりに偏った人間観察に辟易としたこと、梅原猛が自著の中で何度も絶賛していること、などが主なもので、結局通読したことがない。

枕草子も同程度で、古典の授業で最初の数巻を読んだが通読したことがない。清少納言も枕草子も梅原猛著“古代幻視”の中の「清少納言の悲しみ」を読むまで何も知らなかったといえる。梅原猛は自著の中で、紫式部に比べ清少納言が不当に評価されているとし、当時の清少納言と紫式部の境遇を比較し清少納言を擁護している。

後世、清少納言が紫式部に比べ過少評価された理由は、紫式部が日記の中で清少納言を批判していることや宮中を下がったあとの落ちぶれた伝承などが一因となっているらしい。
紫式部の清少納言評(梅原による大意をさらに意訳)
「清少納言は賢ぶって学識をひけらかすが、たいしたことはない。こんな人は末は没落するに違いない。この人はささいなことでも”をかし”とか”あわれ”と感動ブルが軽薄すぎる。そういう人の末は決していいものにはならないだろう。」
と極めて厳しい。しかし紫式部は清少納言が宮中を去った後に宮中に入ったので、直接二人が接触したことはなく、枕草子と周囲の評判による評価なのだろう。
伝承
「自宅前を通りかかった馬車が軒先を壊したときに、簾を上げて鬼のような形相でにらみつけた。」古事談・清少納言零落秀句事
「比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという」徳島県鳴門市里浦町坂田 伝墓所
すさまじいかぎりである。

これに対して、梅原猛は、当時の政治情勢を見て、清少納言は零落した藤原道隆の娘で中宮の定子に仕えた女官であり、紫式部は道隆を追い落として権力者の座についた道長側の女官という恵まれた立場にあったことを考慮すると、清少納言への評価は過酷過ぎるという。道長は定子に様々な嫌がらせをしたらしい。清少納言は、人々が定子を見限って去っていく中にあっても、定子が24歳で死ぬまで仕えた。枕草子は零落し宮中を下がったあとに書かれたものだという。
枕草子という題は、古今集にある平貞文の歌
”枕より 又しる人も なきこひを なみだせきあへず もらしつるかな”
の枕から取られていることは明らかである。枕草子321段に、草子を書いたが「隠していたものが露見し涙がとまらない」と貞文の歌と同じ心境が述べられている。枕草子には定子への思慕や道隆一家の置かれた状況、道長の横暴が抑制された形で隠されているという。

悲惨な境遇にあっても「をかし」、「あわれ」と何事も前向きに捉え様とする清少納言の気持ちはいじらしく、その心境を思うと涙せきあへずだ。権力者側の恵まれた立場にいる紫式部の清少納言評は厳しすぎる。清少納言の才能に対する紫式部の嫉妬ゆえだろうと梅原はみている。

徳島に清少納言の零落ぶりを伝える伝承があるということは初めて知ったが、徳島には、空海、写楽や邪馬台国に関する奇説も多く、キワモノ好き・流行りもの好きは県民性なのだろうか。

種田山頭火

2008-11-19 20:19:31 | 近代史
梅原猛の“百人一語”を一日一語、便座に座る毎に読んでいる。
やっと半数の50人を過ぎたところだが、次の種田山頭火の俳句が最も心に残った。

“どうしようもない自分が歩いている”

自分自身が後ろ指を指されているように感じて、どきっとさせられた。
これほど簡潔で、客観的に自分を見、的確に自己の内面と漂泊人生を表現した言葉を知らない。
Wikiによる彼の略歴は以下のとおり。
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。11歳の時、母が自殺。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学するが神経衰弱のため中退。帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝う。1910年(明治43年)結婚し一児をもうける。1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。1913年(大正2年)井泉水の門下となる。1916年には、『層雲』の選者に参加。その後、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産。妻子を連れ熊本市に移住。古本屋を営むがうまくいかず、1920年(大正9年)離婚。妻子を捨てて東京へ出奔。その後、弟と父親は自殺。1923年(大正12年)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。生活苦から自殺未遂をおこしたところを市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となる。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。
1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。1932年(昭和7年)郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵。1939年(昭和14年)松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年57。

略歴からは、どうしようもない奴だったかはともかく、どうしようもない業を背負っていたことは事実のようだ。
新山口駅に銅像が立っている。

百人一語で印象に残った言葉は他に、
葛飾北斎
”一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生くるが如くならん”
73歳にしてやっと鳥獣虫魚の心に通じる絵が描けるようになった。80歳、90歳と進歩し、100歳で神品を、110歳にして一点一格が生けるが如き絵を描きたいと言ったらしい。90歳まで生きた北斎は最後まで向上心を持ち続けたことだろう。芸術の深さと北斎の執念を感じる。

与謝野晶子
”親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや 人を殺して死ねよとて 廿四までを育てしや”
日露戦争に出征する弟を思って詠んだ有名な”君死にたまふことなかれ”の一節である。梅原猛は、”今後また、いつか、誰かがはっきりと「君死にたまふことなかれ」と言わねばならぬ時代が来るような気がする”と不吉なことを言う。

折口信夫 
一語を引用した折口の”死者の書”を買った。大津皇子が殺され、肉体は腐っていくのに、霊は目覚めて言葉を語るのである。死者の書をぱらぱらとめくったが、なんだこれはという印象である。梅原でさえ難解でまだわからないところがあると言うのだから、読むには覚悟が必要だ。

聖徳太子
”便(すなわ)ち財在るものの訴は、石をもて水に投ぐるが如し。乏(とも)しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。”
すなわち、聖徳太子は、金持ちの訴えは100%受け入れられるが、貧乏人の訴えは100%退けられると言う。裁判の公平と法の平等性の重要性を言うのである。さすが聖徳太子である。

眉山天神さん

2008-11-16 18:15:18 | 徳島

眉山のロープーウェイ麓駅の背後に天神さんがある。新町幼稚園と新町小学校へは天神さんを横目で見ながら通い、境内でおにごっこやこま回しなどをして遊んだ。正式には眉山天神社(HPより上の写真を拝借)といい、菅原道真が祭神である。物心ついた頃から馴染みの神社で、境内で開かれたのど自慢大会でおばあちゃんがこまどり姉妹の何とかいう歌を歌っていたことや新町川での色鮮やかな船上祭をかすかに覚えている。

北野天神縁起絵巻に描かれた菅原道真の話を梅原猛著”古代幻視”で読んだ。貴族階級にない秀才菅原道真は科挙の制度を足がかりに右大臣まで上り詰めたが、時の権力者である藤原時平に嫌われ無実の罪で九州の太宰府に流され、藤原氏を呪詛しながら死んだ。死後、時平の親族が次々に死んだり、宮廷に雷が落ちたりしたことから、道真は怨霊となり神に祭られた。ここまでは、一般に知られている北野天満宮を始めとした天神様の縁起である。絵巻には、さらに地獄絵が描かれている。

梅原は、いつものように北野天神絵巻を詳細に論じ、以下の説を唱えている。
道真を重用した宇多上皇は道真と密かに諮り、醍醐天皇を廃立し、道真の娘が妃となっている斉世(ときよ)親王を立てようとしたが露見し、藤原時平の讒訴によって醍醐天皇の怒りにふれ、太宰府に流された。梅原は、道真には天皇の外祖父として権力を手に入れたいという強い権力欲があったという。また、道真は天皇の后である藤原温子から衣をもらっているが男女の関係があった可能性が高い。
絵巻は承久年間(鎌倉時代)に作られたものであるが、道真の生い立ちから死後怨霊となって雷で時平を死に追いやり、さらに醍醐天皇が猛火の中に倒れる場面の後は地獄絵が続き、天皇を呪詛する物語になっている。当時、藤原氏は親幕派で反幕府の後鳥羽上皇と立場を異にしたため天皇との関係が悪化していた。絵巻は愚管抄を描いた天台宗の座主の慈円が描かせた可能性が高い。藤原一族である慈円の書いた愚管抄は絵巻と同じ年に書かれた歴史書で、聖徳太子と道真を神として扱い、聖徳太子が馬子とともに崇峻天皇を殺害したのは正しかったとする。愚管抄と絵巻は同じ思想で貫かれているのである。
梅原がずっと主張してきたように、聖徳太子、柿本人麻呂、菅原道真の3人は遺恨を残して死んだため怨霊となった。彼らを死に追いやった当事者たちは、災厄が自分たちに及ばないように神として祭ったのである。天神さんは学問の神様、柿本人麻呂神社は水難、火難の神様であり、日本中に建てられている。

”古代幻視”では他に、「清少納言の悲しみ」が悲しく、”水底の歌”での柿本人麻呂論を要約補足し、土偶の謎に迫り、今昔物語の入門編が面白い。


一殺多生

2008-11-10 21:02:32 | 近代史
戦時中、太平洋戦争の末期、本願寺を始め仏教界は一殺多生を理由として、戦争を肯定する声明を出し戦争に協力していた。長野県の竹中彰元という真宗大谷派の和尚さんは、若者を戦場に送ることに反対し、「戦争は罪悪である」と表明したことで憲兵隊に逮捕され尋問を受けたが説を曲げず宗派を破門された。竹中彰元の事跡を調べた人の尽力によって、70年目にして真宗本山も誤りを認め竹中彰元の名誉の回復がなされたというドキュメンタリーが何週間か前に放映された。

一殺多生とは文字通り、多くを生かすために一人を殺すという考え方であるが、殺生戒(殺すなかれ)は最も大切な仏教の教えのひとつであり、一殺多生は本来の仏教の教えから逸脱するものである。仏教の捨身や捨命の思想を考えると、わが身を投げ出す自己犠牲による多生はあるが、多生のために人を殺してもよいということはありえない。

聖徳太子の遺児である山背大兄皇子は自分が蘇我氏と戦うことは民百姓を苦しめることになると言って一族もろとも自害する。まさに仏教者・聖徳太子の遺訓である捨身を身をもって体現した。

私は仏教信者ではないけれど戦争は罪悪だと思う。平和と自由はどんなことがあっても守り抜かなければならない。戦争はあらゆる外交手段を用いて回避すべきであり、侵略からの自衛のみが最後の選択肢であると考える。

最近の航空幕僚長の思想は極めて危険だと思う。先の戦争を肯定することは同じような状況であれば国外で戦争になってもしかたがないという論理である。幕僚長は裁判所のイラク派兵違憲判決に対しても「そんなの関係ない」と言ったというが、戦争を無制限に拡大していった関東軍参謀本部が「自分たちの判断がすべてに優先する」統帥権を有するとしたのと同じ思想が垣間見えて恐ろしくなる。

素晴らしき日曜日

2008-11-09 13:53:30 | 映画
以前、録画しておいた黒澤明の表題作(1947年作)をやっと観た。録ってはいたものの、あらすじから勝手に面白くないだろうと今日まで放置していたのだが、良かった。若く貧しい二人(雄造と昌子)の一日を描いた映画に、戦後2年目における日本の荒廃、社会のひずみと矛盾、復興、夢、希望がちりばめられていた。
東京の町の至る所に英語が氾濫している。上野駅の出口にWay Out、ホームのごみ箱にTrash、Cabaret Drum、Billiyard、Musical Instrumentsなどが見られ、戦後2年目がGHQ統治下だったことに改めて気付かされる。

雄造のキャバレーで金を受け取ることを拒むプライドやダフ屋に殴りかかる正義感、昌子の浮浪児を見て社会の矛盾に涙する優しさや一度は出たアパートに再び戻ってくるいじらしさに、黒澤明のヒューマニズムがあふれている。
演奏会に急ぐ電車の中で、昌子が”もっと早くもっと早く、アレグロ、アレグロ、ビバーチェ”と足踏みしながら言うのに雄造が笑う。二人の最初のランデブー(デート)が音楽会で音楽用語が会話に入る。(私のような音楽音痴のために、アレグロもビバーチェも演奏記号で”速く”の意)
ブランコに乗って月を見ながら歌を歌う場面は、”生きる”や”まあだだよ”につながっている。野球の場面で子供たちが雄三の空振りを観て笑う場面は、七人の侍で菊千代が馬から振り落とされる場面を彷彿とさせる。ブランコでは敦煌の巻で話した月の沙漠を口笛で吹いていた。
音楽堂で観客に拍手を求める場面で、フランス人は拍手したと解説で言っていたが、日本の観客はどうだったのだろう。シンガポールでスターウォーズを待ち焦がれた客が拍手したり、イタリアを離陸して途上ひどく揺れたタイ航空機が無事バンコクに着いたときにヨーロッパ人乗客が拍手するなど、外国人は感情表現が豊かなのでフランス人が拍手したというのは納得できる。

昌子役の中北千枝子はこのとき21歳。
黒澤は本質的には、香川京子、原節子、山口淑子、津島恵子などの正統派美人女優よりも、一番美しくの矢口陽子(黒澤夫人)、静かなる決闘の千石規子、椿三十郎の団玲子や、この中北千枝子といい、ぽっちゃり型の個性派女優が好きだったような気がする。
私の黒澤ベストに含めたい作品である。
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PS 
観終わった後、「次の日曜日はもっといい日であれ。二人の未来に幸せあれ。」と願わずにいられなかった。一日たった今も映画の余韻に浸っている。ローマの休日を観終わった後、王女(オードリー)と記者(グレゴリー・ペック)の泣き出したい気持ちが痛いほど伝わってきた時と同じ感覚だった。
貧しさゆえに厳しい現実に直面して昌子は何度も泣き出し挫折しそうになるが、気持ちを切り替えて乗り越える。特に昌子の前向きな気持ちと雄三に対する深い愛情が観る者を温かくする。昌子のいじらしさは、彼女の持っている小さなクマの人形ほど可憐で雄三もそれに気づいている。ささやかな幸せを求める二人には必ず身の丈に合った幸せがもたらされなければならない。
戦争後の社会の荒廃に比べる時、物質的に豊かになった現代人の心の荒廃はどうしたことだろう。お金第一の拝金主義的な考え方は人の心を卑しくする。勤勉で正直で前向きに生きてさえいれば、ささやかな幸せを誰もが得られる社会でなければならない。(11月10日)


南十字星

2008-11-06 21:39:30 | 東南アジア
学生の頃、写真のような星座早見盤を持っていた。折々に夜空を見上げては、星座を覚えた。仙台の星はきれいだった。面白山や秋保のキャンプ場で見上げた夜空は、恐ろしいほどの数の星で埋め尽くされていた。
カノープスは、日本ではシリウス(-1.4等級)に次いで2番目に明るい星(-0.7等級)なのだが、南半球の星なので仙台では見ることができないということを、その頃、大学の友人のSに教わった。星座盤を買ったのもSの影響だったように思う。カノープスは関東以南で南の地平線すれすれに見ることができる。カノープスは、トロイア戦争のときのギリシャ船団の水先案内人の名前だということは最近知った。

有名な南十字星も南半球の星で日本では見えないが、赤道直下のシンガポールでは6月頃によく見えた。にせ十字と呼ばれる本物より明るい星のグループがあり間違えやすいのだが、正しい南十字星の4つの星をクロスさせた交点の少し右下にうっすらと星団が見えるのを目印に判別していた。25年ほど前に行ったオーストラリアのメルボルンのホテルはSouthern Cross Hotelだった。シンガポールの日本人会の出す雑誌名は南十字星だった。日本人会には、もちろん加入していた。というより、シンガポールの日本人学校は日本人会に所属する私立学校のため会員でないと入学の優先権がもらえない仕組みだったので、選択の余地はなかった。日本人学校は私立なのだけれどなぜか先生方は文部科学省派遣だった。こどもたちが通っていた1991年~2000年ころの日本人小学校は世界でも最大の日本人学校で、生徒数は2000人に達し、狭いシンガポールに2校目が建てられた。二女が通った2校目のチャンギ校は、最近汚職で元幹部が逮捕され国際業務を実質廃業した日系の建設コンサルタントが設計したのだが、その設計がひどかった。シンガポールの気象条件をまったく考えていない人工芝の運動場は、日中は炎熱地獄となり、開校当初は熱中症でばたばた生徒が倒れたり、転んだ生徒が人工芝との摩擦でやけどをするなどした。運動会は午前中で終了するか他のスタジアムを借りて実施した。校舎の屋根は金属製(アルミかブリキ製の屋根)だったため、スコール時には雨音がひどく、教室で先生の声が聞こえないほどだった。中庭に面した2階の廊下のフェンスが格子だったため、生徒が格子に足をかけて身を乗り出し危険極まりなかったため、プラスチック板をフェンスに貼り付けた。学校設計を手がける日系ライバル会社の知り合いに意見を聞いたところ、”素人の設計だ”と一言で吐き捨てた。当時、児童の父兄を中心に、設計責任を追及し、人工芝をはがして天然芝に変更することを提案する人は多かったが、日本人会幹部や学校関係者はなぜか行動を起こさなかった。あれから10年以上経つのだが、あの人工芝はまだ剥がされずにいるのだろうか。

シンガポールは街灯が明るく星を見るにはあまりいい環境ではなかったが、日本でも馴染みのオリオン座、カシオペア座、さそり座などは普通に見られた。北極星は地平線ぎりぎりに見えてもよかったのだろうが確認できなかった。生涯に一度しか遭遇しない1986年のハレー彗星のときはシンガポールにいたが、アパートの屋上から肉眼では見ることができなかった。会社のローカルスタッフが双眼鏡にカメラをセットして撮った写真で確認するのが精いっぱいだった。そういえば、あんなに長く住んだのに、シンガポールの夜空にカノープスを確認することをすっかり忘れていた。

ラッフルズ

2008-11-04 21:49:49 | 東南アジア
英国植民地時代の1887年に建てられたシンガポールのラッフルズ・ホテルは、1864年創業のコロンボのゴールフェイスホテルと並び称せられる伝統あるホテルで、サマセット・モームが宿泊したことでも有名である。村上龍が同名の小説を書き映画化もされているが、申し訳ないけど読む気も見る気もない。建て替え前の1980年に初めてラッフルズ・ホテルに行った。高い天井にCeiling Fan(扇風機)の回るホールは、観光客のためのAsian Cultural Showをやっていて、バンブーダンスや中国、マレーの民族舞踊を、ビュッフェとともに楽しむことができた。シンガポール・スリング発祥の“Long Bar”も古色前としており、年月のせいで茶色に燻すんだ白壁には歴史を感じさせる無数の落書きがあり、コロニー時代の雰囲気を満喫することができた。新築後もレストランを利用したりして何度も足を運んだが、コロニー風の建物の体裁はとっているが、白壁があまりにまぶしく、建て替え前の建物に趣を感じていた所為か、好きではない。100年後には好きになるかもしれない。写真は今年6月にシンガポールへ行った時に西側から撮ったホテルである。

ラッフルズ・ホテルの由来となったスタンフォード・ラッフルズは、19世紀初頭、シンガポールの植民地化を推進した東インド会社の職員兼イギリスの行政官であり、シンガポールの創設者と呼ばれる。シンガポールの道路、建物、学校、地下鉄駅、クラブ、店などに名前を残しており、国会議事堂近くには肖像も立っている。彼は、ジャワのボロブドールの発見者であり、植物学者でもある。スマトラに生息する世界一大きな花であるラフレシアや食虫植物のうつぼかずら(ラフレシアーナ)にも名前を残す。うつぼかずらは、マレーシアの海岸端でよく見かけたものである。
子供のころ、少年漫画雑誌で、人間の背丈ほどの直径のラフレシアの絵を見た記憶がある。それは、斑点のある毒々しい赤いグロテクスな花の絵で、隣に原住民を配して花の大きさが分かるように描かれていた。当時の少年雑誌は不思議情報満載で、見たこともない植物、動物、人間がよく特集されていた。今のギネスの代わりに世界一特集などもあった。ラフレシアをネットで探したが、大きさの比較ができない写真がほとんどで、あっても大人の背丈ほどのものは見つからなかった。
本でラフレシアを見た頃、食人植物を描いた洋画、“人類SOS(トリフィド時代)”1962や食べるとキノコになってしまう邦画“マタンゴ”1963が流行っていた。マタンゴは怖くて見られなかったが、“トリフィド時代”はテレビ映画で複数回観たし、原作も読んだので内容をよく覚えている。流星が落ちて刺激を受けた食人植物が人間を襲い始めるのだが、人間は流星の光で盲目になったため、食人植物に一方的に餌食にされる。たまたま、目の手術をしていて流星を見ずに済んだ主人公は、食人植物をやっつけようとして、焼き殺そうとするのだが、その繁殖力はすさまじく、劣勢に立たされる。結局、トリフィドの弱点が偶然に分かるという筋だった。
ラッフルズから食人植物に話が逸れてしまった。とにかく、ラッフルズは偉いのだ。

ガラパゴス化

2008-11-03 11:37:44 | 話の種
ネットニュースで、ガラパゴス化という言葉を使っている記事があった。技術やサービスなどが日本市場で独自の進化をとげて、世界標準からかけ離れてしまうという現象を日本の誰かがガラパゴス化と呼んだらしい。ガラパゴス化が進む産業として、携帯、建設技術、デジタル放送、電子マネー、ゲーム機などが挙げられている。過去には、IBM主流の時代にNEC98シリーズが日本市場を占有していた。グローバル化に対応できない現象を指すネガティブな表現である。

でも、ガラパゴス化とは商業面だけをみたネガティブキャンペーンである。技術開発レベルではガラパゴスにおけるようなユニークな進化こそを目指すべきで、グローバルな視点は逆にユニークな技術や多様性を損なうので放棄すべきだと考える。古代文明の多様性を見れば、世界中で独自に生まれた文化が相互に刺激しあい干渉しあって発展し人類の財産となってきたことは明白である。世界中がマクドナルド化、ミッキーマウス化してしまっていいのだろうか。ノキアのような遅れた携帯技術でいいのだろうか。シンガポール政府はIT先進国を自負しているが、世界標準をもとにした通信速度はいらいらするほど遅いし、未だに携帯からのネット利用は進んでいない。グローバル化は文化や技術の停滞しか生み出さない。技術の大きな発展は、グローバルに背を向けた研究者による異端の研究からのみ生みだされることは、先日のノーベル賞を取った研究者達のユニークな生き方や研究態度で明らかである。

ノーベル賞だけではない。日本で独自の進化を遂げた漫画は今や世界を席巻している。アメリカの漫画は陳腐なこと甚だしく、日本の漫画のレベルにはるかに及ばないので世界標準にはならなかった。日本の漫画はそのレベルの高さ故に世界に受け入れられた。日本の建設土木技術は世界的にみて最先端にあり、複雑な地質に対応して独自に発展進化してきたトンネル掘削機械(TBM)は今や世界中で活躍している。カナダの某社のTBMは、日本のTBMに比べ数十年遅れている。技術的に進んでいる産業では、遅れている技術に合わせるような後進的なグローバル化を目指す必要はないのである。

少なくとも技術者または研究者レベルではグローバルに目を向ける必要はまったくないと言える。最先端を走る技術が、世界標準をとれないのは、政治、貿易、経済に携わる人たちの怠慢である。

写真はネガティブキャンペーンに使われている気の毒なガラパゴス諸島ピント島に
いた(今は別の島のダーウィン研究所に移され保護されている)最後のゾウガメ”Lonesome George”(Wikiより)である。60~90歳という彼(?)が死ぬとこの種のゾウガメは絶滅するのだそうだ。絶滅危機に至った原因は19世紀に捕鯨船の船員たちの食用のための乱獲と人間が持ち込んだ環境変化によるのだそうだ。ユニークな進化が絶滅の原因ではないのに、”Lonesome George”は、外的変化に順応できなかったから滅びるのだと非難されなければならないのか。非難されるべきは、外的要因を持ち込んだ人間であり、すぐれた技術を生かせない政府や経済人なのである。