備忘録として

タイトルのまま

銀の匙

2013-10-26 20:00:40 | 他本

娘に薦められて中勘助の「銀の匙」を読んだ。夏目漱石や和辻哲郎が絶賛するこの名作を知らなかった。

明治後半の時代を背景に、伯母に背負われた幼児から、近所の女の子だけが友達だった小学生時代、自分を男らしく矯正しようとする兄に反発する中学生時代、老僧や美しい若妻に出会う17歳までの主人公”私”の心情が美しい文章で描かれている。心理描写がその年齢の者でしかできない迫真性をもって語られているのである。大人が記憶を掘り起こして子供の頃の心情を語るのではなく、子供が大人の文章を借りて語っているようにしか思えないという和辻哲郎の解説以上のことばが浮かばない。繊細な者にしか感じ取れない心情や風景を美しい言葉で修辞し、その修辞がくどくはなく文章は短く平易である。それに明治時代の文豪である師匠の夏目漱石や森鴎外の文章で感じるような古くささがない。強いて言えば、「しろばんば」や「夏草冬涛」の井上靖の文章を思いだした。また、小説には主人公の心理描写だけでなく、明治末年ごろの子供の遊び、庶民の生活、文化、教養、信心と宗教の細部が生き生きと描かれ、民俗学的資料としても貴重だと思った。

主人公の”私”の心情はよく理解できるものの、自分の幼少期を振り返ると彼とは真逆で、無神経で人の気持ちなどお構いなく仲間と群れて尖っている、”私”のような繊細なおとなしい者は弱者だと決めつける側にいたと思う。伯母さんの庇護のもと、お国さんやおちゃんのような女とばかり遊ぶ男を軟弱だと軽蔑し、餓鬼大将の富公の後ろではやし立てる雑兵の一人のようなものだった。”私”と同じところがあるとすれば、小学校に入ったとき、ひらがなをまともに書けない落第生だったところである。友達に手紙を書くという授業では”ぬ”や”ね”の難しいひらがながわからず隣の席の友達に教えを乞いながら手紙を仕上げたことを思い出す。いたずらが過ぎて母親が学校に呼びつけられたのも1度や2度ではなかった。通信簿の成績は5段階の3がほとんどで2,3個の2と体育だけが4だった記憶がある。毎日かばんを放り出して眉山で遊びほうけ、体には生傷が絶えず、額や足の縫い痕も含めそのころの傷跡が体中に今も残っている。小学4年生のある日、落第生の自分に危機感を持った母親が無理やり学習塾に通わせたのがきっかけで、”私”と同じように勉強に目覚めていった。あのまま親が自分を放置していたらどうなっていただろうかと思ったりする。子供はちょっとした環境の変化によってその後の生き方が変わるほどの影響を受けるので、親の責任は大きいと思う。

話の後編、中学生の”私”は、外面の男らしさを要求する兄に反発しながらも、内面ではしっかりとした自我を持つまでに成長している。世の中が富国強兵で日清戦争へ突き進む中にあって、クラスでひとり反戦を主張し、こわい修身の先生にも堂々と意見を述べる。そこには女々しい”私”はもういない。自分は木から落ちた猿(頼りになるものがなくなりどうしていいかわからない)だと言い、すぐに涙ぐむ性癖は変わらないけれど、ちゃんとした自分を持っているのである。

中勘助の他の作品も読んでみたいと思う。


奇跡のリンゴ

2013-10-21 00:25:27 | 映画

機中で「スピード」のサンドラ・ブロックの映画を3本観た。Speed、Speed2の頃のサンドラ・ブロックは早口でまくしたてる画一的な演技が鼻についたが、2009年に「しあわせの隠れ場所 The Blind Side」(未見)でオスカー主演女優賞をとり演技派に脱皮している。上のポスターはIMDbより。

「The Heat」2013、監督:ポール・フェイグ、出演:サンドラ・ブロック、メリッサ・マッカーシー、FBI捜査官のサンドラ・ブロックとボストンの警察官のメリッサ・マッカーシーのコンビがギャングや麻薬ギャングに内通する警察上層部と対決するコメディーアクション映画で、エリートとたたき上げの正反対の二人のやり取りが抱腹絶倒である。特に太った相棒のメリッサ・マッカーシーは下品で滅茶苦茶だが警察官として正義を貫こうとする姿勢は一貫している。メル・ギブスンとダニー・グローヴァーの警察官コンビ「リーサルウェポン」の女警察官版のようなもの。同じコンビで続編が出るらしい。★★★★☆

「While You were Sleeping」1995、監督:ジョン・タートルトーブ、出演:サンドラ・ブロック、ビル・プルマン、ピーター・ギャラガー、駅の改札係のサンドラ・ブロックは毎日駅を利用するあこがれの弁護士が事故に会ったところを救うが彼は昏睡状態になる。彼女を婚約者だと勘違いする家族にほんとうのことを言えない間に話は結婚の方向にどんどん進んでいく。早くほんとうのことを話せよといらいらしたので、★☆☆☆☆

「Premonition 邦題:シャッフル」2007、監督:メナン・ヤポ、出演:サンドラ・ブロック、ビル・プルマン、夫が死ぬまでの1週間をバラバラに迎える。設定は奇抜だがこれといった感動はなかったので、★★☆☆☆

「Never Been Kissed 邦題:25年目のキス」1999、監督:ラージャ・ゴスネル、出演:ドリュー・バリモア、デービッド・アークエッド、25歳の記者バリモアが今どきの高校生を記事にするという企画で、現役の高校生となって高校に潜入する。自分の悲惨だった高校時代の思いと現在が重なり、恋愛感情を抱くようになった若い先生との間がこじれてしまう。最後の野球場で彼の愛を勝ち取ろうと賭けに出るところは、後の「Fever Pitch」2005でのBoston Redsocksのフェンウェイ・パークでの場面につながる。今日、レッドソックスは田沢と上原の活躍でタイガースを下しリーグ優勝を果たした。今日の上原は打者4人に対しすべてストライク勝負で1安打2三振を奪いリーグ優勝決定戦で3つ目のセーブを記録し、MVPに選ばれた。★★☆☆☆

「The Gauntlet 邦題:ガントレット」1977、監督:クリント・イーストウッド、出演:クリント・イーストウッド、ソンドラ・ロック、クリント・イーストウッドが監督をした初期の作品で、見せ場であるバスを滅多打ちにする場面やヘリコプターからバイクで逃げる場面などの演出は今ひとつで、後年の名監督としての手腕はあまり伺えない。★★☆☆☆

機中映画では「奇跡のリンゴ」2013という邦画が一番面白かった。出演:阿部サダオ、菅野美穂、山崎努、10年もの苦労の末に無農薬リンゴ作りに成功するリンゴ農家の実話である。世間から嘲笑され、実家に見放され、収入がなくなり電気を止められ生活苦に陥り、自殺まで図ろうとするが家族の愛に支えられ最後は無農薬りんごを成功させるというヒューマンドラマである。実話を下敷きに苦労話をことさらにドラマチックに脚色しただろうし、かつ結末もわかってはいるのだが、義父と妻のぶれないサポートと長女の「お父さんのリンゴが食べたい」という作文には涙してしまった。★★★★☆

リンゴはチーズといっしょに食べるのが基本である。チーズといっしょなら富士でも陸奥でも紅玉でも銘柄は問わない。チーズはKiriのCream CheeseかCamembert Cheeseである。シンガポールのスーパーマーケットでは青森産の陸奥や富士やジョナゴールドを1個400円くらいの高級品として売っている。時々買うが、大抵果肉がぱさぱさになっていて日本で食べる質のいいリンゴにはめったに出会えない。中国産の富士やアメリカ産とニュージーランド産の紅玉は1個数十円と安いがほとんど甘みがないので買わない。

ケーキならアップルパイ、菓子パンはリンゴパンを好む。小学生のときに詠んだエジソンの伝記で、アメリカではリンゴを蒸して食べることを知った。実際に蒸しリンゴを食べたのはずっとずっと後になってのことである。ある料理本にあった調理法に従い、リンゴの芯をくりぬいてバターと砂糖を詰めたものをレンジで蒸したデザートである。エジソンは蒸しリンゴを食事として食べていたので味付けは違うと思う。


九州王朝

2013-10-15 23:19:52 | 古代

古田武彦の九州王朝説は、本人曰く「学会から無視されている」。ところが、古代史学会の泰斗である井上光貞は、今読んでいる「飛鳥の朝廷」の中で、関東と九州の金石文に雄略天皇の名が見えることから九州王朝の根拠はなくなったと述べているので、まったく無視はしていない。それどころか、本の末尾に1章を設け唐突に九州王朝説に言及していることや、空中楼閣だと強い言葉で否定しているので、井上光貞は九州王朝説に相当ひっかかっていたとみるべきかもしれない。「邪馬台国はなかった」という人目を引くタイトルで初めて古田の本に触れ、その後、古田の古代史シリーズにのめり込んでから20年は経つだろうか。古田に出会うまでにもいろいろな著名人の古代本を読んではいたが、九州王朝説ほど衝撃を受けたものはなかった。強いてあげれば江上波夫の騎馬民族征服説くらいだろうか。古田によって古代史の魅力の虜になり、その後、梅原猛や上原和に熱中していったのだと思う。古代は資料が限られているので想像力がいるのである。

古田の九州王朝説は、中国の史書に見える倭国あるいは日本国の記事と記紀に代表される日本側の記述の矛盾の多くが九州王朝という仮説によって説明できるというものである。以下がその概説である。

  • 古代、日本列島には、九州王朝、大和王朝、吉備王朝、出雲王朝、関東王朝などの国が勢力を競いながらそれぞれの地域を支配していた。しかし、中国の歴代王朝が交渉を持ち、倭国と認識していたのは、中国の最初の史書(山海経?)に現れたときから旧唐書までずっと、九州にあった。それは、卑弥呼の倭国であり、700年近くまで存続していた。
  • 九州王朝は、九州北部(筑紫や大宰府)に都を持ち、朝鮮半島の南部をも含めた海洋王国であった。
  • 6世紀以前の記紀に中国との交渉史がまったく出てこないのは、中国側の邪馬台国や倭の五王の朝貢記事と相容れない。このことと、倭の五王と大和朝廷の天皇の即位年代や相続関係が一致しないということは、倭の五王は大和朝廷の天皇とは別系統の九州王朝の大王たちだったからである。
  • 磐井の反乱の磐井は九州王朝の大王で、反乱を起こしたのは大和政権の方だった。
  • 6世紀の磐井の陵墓にある石人は当時の裁判を表現しており、九州ではすでに律令制が敷かれていた。
  • 隋書に記述されている隋の煬帝に国書を送ったアメノタリシヒコは、その妻妾の数まで記載されているように明らかに男王であるが、当時の大和政権は、女帝の推古天皇である。通説では女帝であることを隠し摂政の聖徳太子を大王として国書を送ったとするがこの解釈には無理がある。九州王朝の男の大王が使者を送ったとすれば隋書の記述を無理なく理解できる。
  • 遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。
  • 唐・新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。
  • 6世紀初めから700年ごろまで続く九州年号が存在するが、記紀にはその断片しか記録がない。年号の改元年と大和朝廷の天皇の崩御と即位年がまったく一致しないことは不自然である。九州王朝は年号を持っていたが、大和政権には独自の年号がなかった。
  • 旧唐書には倭人伝と日本伝があり、倭国の使者と日本国の使者が自分の正統性を主張し言い争いをしたと記録されている。

上記以外にも、壬申の乱は九州王朝と大和王朝戦いだった論や法隆寺移築論などがあるが、論理が飛躍しすぎだろうと思うものは恣意的に省いた。 

九州王朝説に対しては様々な反論や批判があるが、その多くは方法論に対する批判だったり、一部の資料の恣意的な解釈や信憑性への批判だったり、古田個人への批判だったりで、井上光貞のように九州や関東で大和朝廷の支配が確立していたという証拠をあげる正統な反論は少ないように思える。井上光貞の指摘に対して古田は、両金石文の大王名は雄略天皇ではなく、その地方の固有の大王名だとし真っ向から対立する意見を述べている。九州王朝説と大和一元王朝のどちらがより矛盾なく文献資料や考古学資料を解釈できるかを問うべきであり重要なのである。同じように、梅原猛の多くの仮説も古田と同じように学会からは無視された状況にあり、彼らの出自が古代史専門でないことや、ある資料の解釈が恣意的であったことをことさら取り上げて否定するのは正しい態度とは言えないのではないかと思う。九州王朝説を完全に真正面から否定する反論にはまだお目にかかっていないのである。


三無主義

2013-10-12 13:08:36 | 徳島

1950年代半ばに生まれ、1970年代前半に高校生だった我々の世代は、しらけ世代と呼ばれた。少し上の団塊の世代や全共闘世代とは異なり、政治に対する関心が薄れ個人主義になり、無気力、無関心、無責任の三無主義世代とも呼ばれた。高校生だった1970年から1973年は、大阪万博が開かれ経済成長まっさかり、沖縄が返還されもう戦後ではないと言われる時代だった。自衛隊員の決起を促す三島由紀夫の演説が世間から浮いて見える時代だった。ヒッピーと呼ばれる若者が世界中にあふれ、男は誰もが長髪でベルボトムのジーパンをはいてムサイ恰好をしていた。

ふとしたことで見つけた森田健作の青春ドラマ「おれは男だ」の吉川操役の早瀬久美のブログに写る姿があまりに若々しいことに驚き、当時大人気の青春ドラマと、それをリアルタイムで観ていた高校生の自分と時代を思い出した。

写真は早瀬久美ブログより転載

しらけ世代と言われたが、当事者たちは、個人主義ではあっても無気力、無関心、無責任とは無縁だったように思う。級友たちはそれぞれがそれぞれの方法で高校生活を謳歌していた。ビートルズの解散はオノ・ヨーコの所為だとまじに思っていたし、ホームルームの時間には差別や愛国心やクラスのあり方をまじめに議論した。文化祭の準備に夜遅くまで熱中した。級友と「おれは男だ」の吉川操と丹下竜子(小川ひろみ)のどちらが好みかを熱く語った。早瀬久美には悪いけど丹下竜子派が圧倒的に多かった。クラスの女子の横顔がオリビア・ハッセイに似ているという級友に、それは恋愛感情が入っているからだと冷やかしたこともあった。庄司薫の「かおるくん」シリーズや柴田翔の「されど我らが日々」の感想を披露しあったり、「ある愛の詩・ラブストーリー」を回し読みした。皆、受験勉強の重圧にあがいてはいたが、若者らしく体力と気力にあふれていた。それでいて精神的には未成熟で繊細で、泣いたり笑ったり、些細なことで激怒したり、劣等感にさいなまれたりした。何かに反発し試験の答案を白紙で出した級友もいた。傷つきやすく登校拒否になった仲間も一人だけじゃなかった。早瀬久美がブログで語っているとおりだったのである。

本当の青春時代って十代の頃?明るくって将来の夢に向かってキラキラしてるってイメージだよね。

でもさ~
実際の青春時代は傷つきやすく、繊細で、それでいて無神経だった。

私もその頃は、こんな写真で表紙飾って・・そりゃ人様には楽しそうに見えるかもしれないけど・・
やっぱり胸に突き刺す事多かったよ。

「おれは男だ」の断片をYoutubeで振り返ると、高校生の自分は丹下竜子派だったけど、今の自分なら吉川操派かもしれない。

おまけの話として、早瀬久美、本名・物集久美子(もづめくみこ)の曽祖父は国学者の物集高見(もづめたかみ)、大伯父は国文学者の物集高量(もづめたかかず)で、他にも物集家は多くの学者や文人を輩出している。物集高量は文学者でありながら博打や女遊びで身を持ち崩し留置所に入ったこともある。106歳まで生きたが100歳のとき「百歳は人生の折り返し点」という本を出している。wikiによると死去する前日、若い看護婦のスカートに手を入れて婦長に叱責されたという逸話が残っている。死ぬまで青春のまま奔放に人生を生きた人だったようだ。60歳になろうかという早瀬久美のブログは、自分の生年を多分わざと書いてないように、大伯父同様に好奇心にあふれ、今、青春を生きているぞっていう様子が満載なのである。そう言う自分はあと1年あまりで還暦を迎える。還暦を文字通り訳すと、「こよみが戻る」、すなわち人生の再出発点である。早瀬久美には負けられない。


バウンティ号の反乱

2013-10-06 17:38:09 | 

 旧知のアメリカ人Dr. Sは最近仕事で南太平洋のピトケアン島(Pitcairn Island)に行った。ピトケアン島はバウンティ号の反乱者が隠れ住んだ島として有名である。1789年、イギリス海軍のバウンティ号で反乱を起こした12人のうち8人がタヒチの島民を連れて当時無人島だったピトケアン島に移り住み自給自足の生活をはじめた。島では反乱者であるイギリス人とタヒチ人の混血の子孫たちが今も住んでいる。Dr. Sは反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンの子孫であるMr. Christianに会い話をしたという。古い英語を話したそうだ。Dr. Sはピトケアン島に防波堤を作る仕事で行ったのだが、反乱について書かれた本にあるとおり、島には船が寄港できるような入江はなく断崖に囲まれていたという。先週、彼は防波堤の材料にすると言って島で採取した玄武岩を持ってシンガポールの事務所を訪ねてきた。ピトケアン島は上の地図にあるように、タヒチから西南に2000㎞、さらに2000㎞のところにモアイ像のイースター島がある。タヒチはニュージーランドから4000㎞、ハワイから4000㎞である。

「バウンティ号の反乱」の話は冒険小説に熱中していた頃、「十五少年漂流記」、「神秘の島」や「白鯨」などと共に読んだ。何度も制作された映画は観ていない。一応、反乱の顛末を簡単に書いておく。

艦長ウィリアム・ブライの指揮するバウンティ号は、1787年12月にイギリスのポーツマスを出港し、喜望峰を回って1788年10月にタヒチに到着した。1789年4月までタヒチに滞在しパンノキなどの植物を採集し西インド諸島に向けて出航した。タヒチを出港してまもなく、トンガ付近で航海士フレッチャー・クリスチャンら12人が反乱を起こした。艦長と忠実な船員18人をボートに乗せて追放し、反乱者12人と他の乗員はタヒチに引き返した。反乱者のうち4人と反乱には加わらなかった乗員8人はタヒチに残ったが、クリスチャンら反乱者8人はタヒチ人の男女18人を連れてバウンティ号に乗りタヒチを離れ、隠れ住むに適したピトケアン島を東南海上に探しあてた。クリスチャンらはバウンティ号を解体し島で自給自足の生活を始めた。

ブライ艦長を乗せたボートは、47日間の漂流ののちティムールに漂着し、ブライ艦長は1790年3月にイギリスに戻り反乱を報告した。イギリス海軍は反乱者逮捕のため戦艦パンドラ号を派遣し、1791年3月にタヒチで反乱者を逮捕する。しかし、周辺海域の探索ではクリスチャンらを探し当てることはできなかった。逮捕された反乱者はイギリスへ送られ裁判の上3人が絞首刑に処せられた。

その後の話として、ピトケアン島では内紛やタヒチ人との確執などにより反乱者はほとんど亡くなり、1808年1月にアメリカ船が島に行ったときには水夫のジョン・アダムズだけが生き残り、クリスチャンの息子ら反乱者の子孫たち40名ほどが生活をしていた。1838年にピトケアン島はイギリス領となり現在まで続いている。ブライ艦長は、後オーストラリア・ニューサウスウェールズの総督になるがそこでも反乱(ラム酒の反乱)が発生する。

ピトケアン島では1832年に来たアメリカ人ジョシュア・ヒルが島を独裁支配した。1879年マーク・トウェインはジョシュア・ヒルを題材にした小説「The Great Revolution in Pitcairn=ピトケアンの大革命」を書いている。19世紀中頃には人口増加を解消するため住民の一部をノーフォーク島(オーストラリア領、オーストラリアの東、ニューカレドニアの南)に移住させている。2004年ピトケアン島での女児に対する性的虐待がイギリスの女性警官により報告され大きな話題になった。

反乱の原因は、反乱者がタヒチでの享楽的な生活に慣れ艦上生活に耐えられなくなったために起こったか、ブライ艦長の部下の扱いが過酷だったかのどちらかが有力である。1879年ジュール・ヴェルヌはバウンティ号を追放されボートでの漂流47日ののちティムールに到着したブライ艦長一行の話を短編「Les révoltés de la Bounty=バウンティ号の反乱」(上の絵はこの小説の挿絵)に書いているが、ブライ艦長は一人の死者も出さずに漂流を指揮したように、指揮官としての能力に疑いはないと言われる。また、部下の扱いも当時の他の士官や艦長と比べ特に過酷だったとか性格に問題があったということもなかったらしい。しかし、何度も制作された映画の多くは、ブライ艦長の部下の扱いに問題があったように描かれているという。