備忘録として

タイトルのまま

額田王

2009-03-20 22:02:41 | 古代
中大兄皇子と大海人皇子との三角関係で有名な額田王であるが、書紀には、「天皇(大海人皇子)、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶(め)して十市皇女を生(な)しませり」とあり、後は万葉集に歌が10首ほどあるだけである。

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

”あなたが袖を振るのを野守が見ているではありませんか。”と今は中大兄皇子の妻である額田王が昔の夫の大海人皇子をたしなめるのに対し、大海人皇子は、

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも

”紫が匂うように美しいあなたを憎ければ、人妻と知りながらどうして恋しようか”と答える。高校の古典の授業で最初に出会う歌で、この歌をきっかけに万葉集や古代史に興味をもつようになり、井上靖の『額田姫王』もその頃読んだ。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

百済救援に出向く途中、斉明天皇の代わりに額田王が詠んだ有名な歌で、出陣の歌とする解釈が主流だが、梅原猛は以前罪あって伊予に流された木梨軽皇子の鎮魂の歌とする『赤人の諦観』。

あと、弓削皇子と交わした歌が数首ある。

弓削皇子
古に恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く
(昔のことを恋い慕う鳥でしょうか。弓絃葉(ゆずるは)の御井の上を鳴き渡っていくのは。)

額田王が答えて、
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きしわが念へる如
(昔を恋い慕っているという鳥はほととぎすです。私が昔を思い慕っているようにきっと鳴いたことでしょう)

続けて弓削皇子が
吉野よりコケむせる松の枝を折り取りて遣わす時、額田王の奉り入るる歌一首
み吉野の玉松が枝は愛しきかも 君が御言を持ちて通はく
(美しい吉野の玉松の枝はいとしい。君の言葉を持って通ってくださいますもの)

このとき額田王は50歳過ぎで、弓削皇子は30歳くらいである。
梅原は、『黄泉の王』で、弓削皇子を高松塚古墳の被葬者としている。この額田王との相聞歌と贈答歌は不吉だと解釈している。若い皇子の昔を慕う歌に対し、過去にはなやかな時代を生き、思い出にしか生きがいを感じなくなった額田王が答えている。若い貴人が昔ばかりを恋しがるのはどうしたわけだというのである。弓絃葉は無常をあらわし、ほととぎすは死者の亡魂が化した不吉なものだという。贈答歌の苔むす松も老人趣味で30歳の若者が贈るものではないという。その頃、弓削皇子は我が身を破滅させるかもしれない禁じられた恋、人妻(紀皇女)に恋していたのだという。そして、弓削皇子はほどなく死んでいるのだが、梅原は、権力に殺され高松塚に葬られたと考える。

他に万葉集に宮廷歌人としての長歌と天智天皇を慕う歌があり、正史と万葉集にある額田王は、これですべてである。

娘の十市皇女は天智天皇の第一皇子である大友皇子の皇后となるが、大友皇子は天智天皇の死後、672年の壬申の乱において天武天皇に敗れる。十市皇女は678年に急死している。額田王は、その後も生きて、上の弓削皇子と歌を交わす。

さて、梅原猛の『塔』に、かつて奈良にあった粟原寺で見つかった寺の塔のろ盤に”比売朝臣額田が持統天皇8年(694年)から和銅8年(715年)に至るまで、22年の間、この寺を造った”という銘が刻まれていることが書いてあった。もし、この比売朝臣額田が額田王のことだとしたら、十市皇女を生んだ年齢などから類推し和銅8年の715年にはどう若く見積もっても80歳を超えていただろうということである。また、本来皇族である額田王が朝臣を名乗ることはないが、朝臣の身分である中臣朝臣大嶋に嫁いだから朝臣を名乗っていると考える。中臣は神職で壬申の乱のあと十市皇女が参拝した伊勢神宮にも深く関係していることからも、比売朝臣額田が額田王である可能性は高いと考えている。

もくれんが一斉に咲いた

2009-03-18 21:49:54 | 広島
約5.5kmのちゃりんこ通勤の途中、ハクモクレンが一斉に白い花をつけていた。昨日、火曜日に花が咲いたことに気がついたのは1本だけだったのが、今朝は10本以上が花をつけていた。一昨日の月曜日には、まったく花に気づかなかったので、桜と違って、モクレンは蕾が一挙に満開になるに違いない。背丈ほどの低い木でも大きな花を隙間なく咲かせる木、小さめの花をまばらに咲かせるのっぽの木など、花の付き方は様々だ。きちんと剪定したモクレンの木ほど大きく密に花をつけるようだ。

モクレンの芽を撮影したのは、昨年の12月6日だった。長い冬だった。日本に帰ってきて丸三年が経った。
ところで、もくれんが登場する小説が、三島の『永すぎた春』だったか、庄司薫の『赤ずきんちゃん気をつけて』だったか、まだ確認できていない。

坊ちゃん

2009-03-12 19:59:57 | 松山
松山市駅で坊ちゃん電車を見た。小説のとおり“マッチ箱のような汽車”だ。客車と機関車を切り離し方向転換させていた。切り離しも、回転も、連結もすべて人力でやっていた。


中学2年の運動会の時、仮装行列でクラスの仲間と坊ちゃんの登場人物に扮した。級長で行列の先頭だったため自然と坊ちゃん役になり、白と薄緑基調の羽織はかまに高下駄を履いた。山嵐は、クラス一背の高いサッカー部のキャプテンをやっていた男が扮し、黒っぽい羽織はかまに、あごひげと胸毛をつけた。赤シャツは洋装にカンカン帽をかぶった。うらなり、野だぬき他はどんな扮装だったのか忘れた。男ばかりのグループだったので、マドンナはいなかった。クラスの女の子に声をかける勇気がなかったのだから仕方がない。仮装行列の後、その衣装のままフォークダンスになるのだが、予行練習で高下駄を履いたまま踊ったら、担任のアオケン(あだな)から、“おまえがいちばんへたくそだ!”と全学年の前で言われたので、本番では裸足になった。それでもリズム感がないので一番下手だったかもしれない。

山折哲雄のデクノボーになりたいに夏目漱石に関し驚くべき話が書かれていた。夏目漱石の奥さんの鏡子夫人は悪妻で有名なのだが、その鏡子夫人が病気で伏せっていた漱石に故意に劇薬を飲ませていたというのである。話の信憑性を確かめようとネットで何度も検索し、漱石の日記に胃潰瘍の薬として硝酸銀を飲んでいたことが書かれていることがわかった。平岡敏夫編『漱石日記』(岩波文庫)や鳥越碧著『漱石の妻』参照
同時代のニーチェ(1844~1900)も胃潰瘍の薬として硝酸銀を飲んでいた(小林真『ニーチェの病跡』(金剛出版))ので、当時の医療では胃潰瘍に劇薬の硝酸銀を飲むことは一般的で、鏡子夫人は医者の処方を守っていただけのことになる。山折哲雄は鏡子夫人が劇薬と知って飲ませていたように述べており、一方、子孫の証言などから鏡子夫人は実は良妻だったという説もあり、山折が何を根拠に毒殺説を取るのかはわからない。漱石の脳と胃は東大医学部に保存されているので、硝酸銀服用説は今でも検証できるだろうが、胃潰瘍の治療法として硝酸銀を用いることが当時の処方であり、鏡子夫人が長与胃腸病院の処方箋に従ったとなれば、毒殺説はお蔵入りである。

“強酸性物質、強アルカリ性物質、砒素、硝酸銀、ヨードなどを間違って口の中に入った場合に胃炎が起こります。酸性が強い場合には胃の中で炎症を引き起こし、アルカリ性の強い場合には食道にも炎症がおこります。摂取するとすぐに状腹部に痛みを感じてしまいます。 http://www.xmtennis.com/inobyouki/557_1.html”という。硝酸銀は水いぼなどを焼き切るのに使う劇薬で、今では硝酸銀を飲むなどもってのほかであるらしい。

漱石は1916年50歳のとき胃潰瘍で死んでいるが、硝酸銀を服用しなければ、もっと長生きしたかもしれない。


仏塔

2009-03-11 21:50:50 | 古代
朝日新聞3月9日付文化欄に百済の弥勒寺の石塔の基礎部分から黄金の舎利容器や639年建立が記された銘文が見つかったことが載っていた。弥勒寺には2つの石塔に挟まれた巨大な木塔が建っていたという。その頃、日本では、639年に舒明天皇が九重の塔を持つ百済大寺建立を発願し、発掘された一辺30mの基壇跡から塔の高さは90mと推定されている。また、645年ごろ完成したとされる新羅の皇龍寺の九重の木塔は高さ80mと伝わる(寺院跡から見つかった『皇龍寺刹柱本記』に高さが記されている。『皇龍寺刹柱本記』は皇龍寺九層塔跡心礎石より1964年12月に舎利具とともに盗掘された銅板に記載された銘文のことで、全3枚。)写真から1辺に7つの礎石が約3m間隔で並んでいるので1辺20m程度になる。これは百済大寺の30mより小さいので百済大寺の塔の高さを90mと推定することは妥当といえる。

今、梅原猛の『塔』を読んでいるが、西洋の塔は、バベルの塔がそうであったように人間が自分を誇示しようとする意思のもとで高さを求める(アレクサンダーの説)という。これに対し梅原は、東洋の塔すなわち仏塔は、釈迦の墓であり、垂直の意思より水平を志向する意思が重視されると述べる。
ところが、日本、新羅、百済などの古代の為政者はどうも梅原の考えとは異なり高さを競ったと上の新聞記事は伝える。同じころに建てられたという古代出雲大社は今の4倍の96mの高さがあったという記録がある。

1995年ごろミャンマーの首都ヤンゴンのシュエダゴンパゴダに行ったが、圧倒されるほど大きかった。釈迦の骨を収めたこの仏舎利塔はミャンマー最大のパゴダで高さ100mに達すると現地の友人は誇らしげに解説した。ヤンゴンへは日本人向けのマンション建設のための調査で行った。当時の写真が見当たらなかったので上のシュエダゴンパゴダの写真はネットのどこかのサイト(http://www10.plala.or.jp/kooi/myanmar/yangon/ygn-06.html)から拝借した。西洋だろうが東洋だろうが日本だろうが、高さと大きさを志向するのは宗教を離れても人間の自然な意思だと思う。

ところで、我が家では、梅原猛の名前を出すのを一日三回に制限されている。梅原の話だけをしているわけではないのだけれど???

おくりびと その2

2009-03-02 21:03:26 | 映画
おくりびと”がアカデミー賞外国語映画賞を取ったので、新聞に死生観の記事があふれ、主要新聞は社説にまで取り上げていた。

「山形県の自然を遠景に、死者の尊厳をどう守るかという重いテーマに妥協なく取り組んでいる。テーマの普遍性や映像美が文化の壁を越えて観客を揺さぶるのだろう。」日本経済新聞2/24社説

「個別の宗教に深入りしないことで、ともすれば、暗くて重いイメージの棺や葬送儀式の場面がなじみやすいものになっている。宗教色の代わりに、家族のきずなや死者への尊敬の念が、直接に強調されている。」毎日新聞3/2海外記事

「日本の精神文化を象徴する特異な仕事を描きつつ、遠い昔に家族を捨てた父に対する息子の魂の遍歴と父との和解、そして夫婦のきずなの再確認-といった人類普遍のテーマに迫った。」産経新聞2/25主張

「主人公は自分のしていることへの理解を強く求めず、真摯に、淡々と死者と相対する。死者は、年齢も死に方も様々だ。彼は誰に対しても同じ丁重さで向き合う。死とは、究極の平等である。」朝日新聞2/22社説

「死者を棺(ひつぎ)に入れて送り出す納棺師の男性が、仕事に戸惑いつつも生を見つめ直し、成長していく物語だ。人間の「生と死」という普遍的なテーマに挑んだ作品が、国際舞台でも高く評価されたということだろう。」読売新聞2/24社説

「納棺師の所作は凜(りん)として美しく、言葉の壁を乗り越えて、画面から死者への敬意がにじみ出る。人の死に臨んで描かれるのは、遺族や縁者の濃密な人間関係だ。皆、「ありがとう」と感謝しながら、愛する人を送り出す-。描かれているのは、日本人にもなじみが薄い職業と、日常にありふれた生と死だ。しかし、そこから紡ぎ出された「人生の尊厳」「コミュニケーションの復活」「人間関係の再生」といった普遍的なメッセージ(がある)。世界中の人々の心の渇きを癒やす名画」東京新聞2/24社説

「新聞、テレビなどで毎日、戦争に直面し、米国人は戦争を見たくないと思っている。その点、『おくりびと』は癒やしの映画。死者を送る行為だけでなく、主人公が自分を捨てた父親への怒りから解き放たれ、より完成した人間へと成長する物語。万人に通じる主題で、最も感情に訴え、心を動かした」アカデミー賞外国語映画賞委員会マーク・ジョンソン委員長