中大兄皇子と大海人皇子との三角関係で有名な額田王であるが、書紀には、「天皇(大海人皇子)、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶(め)して十市皇女を生(な)しませり」とあり、後は万葉集に歌が10首ほどあるだけである。
茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
”あなたが袖を振るのを野守が見ているではありませんか。”と今は中大兄皇子の妻である額田王が昔の夫の大海人皇子をたしなめるのに対し、大海人皇子は、
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも
”紫が匂うように美しいあなたを憎ければ、人妻と知りながらどうして恋しようか”と答える。高校の古典の授業で最初に出会う歌で、この歌をきっかけに万葉集や古代史に興味をもつようになり、井上靖の『額田姫王』もその頃読んだ。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
百済救援に出向く途中、斉明天皇の代わりに額田王が詠んだ有名な歌で、出陣の歌とする解釈が主流だが、梅原猛は以前罪あって伊予に流された木梨軽皇子の鎮魂の歌とする『赤人の諦観』。
あと、弓削皇子と交わした歌が数首ある。
弓削皇子
古に恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く
(昔のことを恋い慕う鳥でしょうか。弓絃葉(ゆずるは)の御井の上を鳴き渡っていくのは。)
額田王が答えて、
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きしわが念へる如
(昔を恋い慕っているという鳥はほととぎすです。私が昔を思い慕っているようにきっと鳴いたことでしょう)
続けて弓削皇子が
吉野よりコケむせる松の枝を折り取りて遣わす時、額田王の奉り入るる歌一首
み吉野の玉松が枝は愛しきかも 君が御言を持ちて通はく
(美しい吉野の玉松の枝はいとしい。君の言葉を持って通ってくださいますもの)
このとき額田王は50歳過ぎで、弓削皇子は30歳くらいである。
梅原は、『黄泉の王』で、弓削皇子を高松塚古墳の被葬者としている。この額田王との相聞歌と贈答歌は不吉だと解釈している。若い皇子の昔を慕う歌に対し、過去にはなやかな時代を生き、思い出にしか生きがいを感じなくなった額田王が答えている。若い貴人が昔ばかりを恋しがるのはどうしたわけだというのである。弓絃葉は無常をあらわし、ほととぎすは死者の亡魂が化した不吉なものだという。贈答歌の苔むす松も老人趣味で30歳の若者が贈るものではないという。その頃、弓削皇子は我が身を破滅させるかもしれない禁じられた恋、人妻(紀皇女)に恋していたのだという。そして、弓削皇子はほどなく死んでいるのだが、梅原は、権力に殺され高松塚に葬られたと考える。
他に万葉集に宮廷歌人としての長歌と天智天皇を慕う歌があり、正史と万葉集にある額田王は、これですべてである。
娘の十市皇女は天智天皇の第一皇子である大友皇子の皇后となるが、大友皇子は天智天皇の死後、672年の壬申の乱において天武天皇に敗れる。十市皇女は678年に急死している。額田王は、その後も生きて、上の弓削皇子と歌を交わす。
さて、梅原猛の『塔』に、かつて奈良にあった粟原寺で見つかった寺の塔のろ盤に”比売朝臣額田が持統天皇8年(694年)から和銅8年(715年)に至るまで、22年の間、この寺を造った”という銘が刻まれていることが書いてあった。もし、この比売朝臣額田が額田王のことだとしたら、十市皇女を生んだ年齢などから類推し和銅8年の715年にはどう若く見積もっても80歳を超えていただろうということである。また、本来皇族である額田王が朝臣を名乗ることはないが、朝臣の身分である中臣朝臣大嶋に嫁いだから朝臣を名乗っていると考える。中臣は神職で壬申の乱のあと十市皇女が参拝した伊勢神宮にも深く関係していることからも、比売朝臣額田が額田王である可能性は高いと考えている。
茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
”あなたが袖を振るのを野守が見ているではありませんか。”と今は中大兄皇子の妻である額田王が昔の夫の大海人皇子をたしなめるのに対し、大海人皇子は、
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも
”紫が匂うように美しいあなたを憎ければ、人妻と知りながらどうして恋しようか”と答える。高校の古典の授業で最初に出会う歌で、この歌をきっかけに万葉集や古代史に興味をもつようになり、井上靖の『額田姫王』もその頃読んだ。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
百済救援に出向く途中、斉明天皇の代わりに額田王が詠んだ有名な歌で、出陣の歌とする解釈が主流だが、梅原猛は以前罪あって伊予に流された木梨軽皇子の鎮魂の歌とする『赤人の諦観』。
あと、弓削皇子と交わした歌が数首ある。
弓削皇子
古に恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く
(昔のことを恋い慕う鳥でしょうか。弓絃葉(ゆずるは)の御井の上を鳴き渡っていくのは。)
額田王が答えて、
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きしわが念へる如
(昔を恋い慕っているという鳥はほととぎすです。私が昔を思い慕っているようにきっと鳴いたことでしょう)
続けて弓削皇子が
吉野よりコケむせる松の枝を折り取りて遣わす時、額田王の奉り入るる歌一首
み吉野の玉松が枝は愛しきかも 君が御言を持ちて通はく
(美しい吉野の玉松の枝はいとしい。君の言葉を持って通ってくださいますもの)
このとき額田王は50歳過ぎで、弓削皇子は30歳くらいである。
梅原は、『黄泉の王』で、弓削皇子を高松塚古墳の被葬者としている。この額田王との相聞歌と贈答歌は不吉だと解釈している。若い皇子の昔を慕う歌に対し、過去にはなやかな時代を生き、思い出にしか生きがいを感じなくなった額田王が答えている。若い貴人が昔ばかりを恋しがるのはどうしたわけだというのである。弓絃葉は無常をあらわし、ほととぎすは死者の亡魂が化した不吉なものだという。贈答歌の苔むす松も老人趣味で30歳の若者が贈るものではないという。その頃、弓削皇子は我が身を破滅させるかもしれない禁じられた恋、人妻(紀皇女)に恋していたのだという。そして、弓削皇子はほどなく死んでいるのだが、梅原は、権力に殺され高松塚に葬られたと考える。
他に万葉集に宮廷歌人としての長歌と天智天皇を慕う歌があり、正史と万葉集にある額田王は、これですべてである。
娘の十市皇女は天智天皇の第一皇子である大友皇子の皇后となるが、大友皇子は天智天皇の死後、672年の壬申の乱において天武天皇に敗れる。十市皇女は678年に急死している。額田王は、その後も生きて、上の弓削皇子と歌を交わす。
さて、梅原猛の『塔』に、かつて奈良にあった粟原寺で見つかった寺の塔のろ盤に”比売朝臣額田が持統天皇8年(694年)から和銅8年(715年)に至るまで、22年の間、この寺を造った”という銘が刻まれていることが書いてあった。もし、この比売朝臣額田が額田王のことだとしたら、十市皇女を生んだ年齢などから類推し和銅8年の715年にはどう若く見積もっても80歳を超えていただろうということである。また、本来皇族である額田王が朝臣を名乗ることはないが、朝臣の身分である中臣朝臣大嶋に嫁いだから朝臣を名乗っていると考える。中臣は神職で壬申の乱のあと十市皇女が参拝した伊勢神宮にも深く関係していることからも、比売朝臣額田が額田王である可能性は高いと考えている。