備忘録として

タイトルのまま

見果てぬ夢

2007-04-24 20:44:20 | 映画

何気なく見ていたケーブルテレビで”ラマンチャの男”をやっていた。1972年のミュージカルだから、高校の時に徳島の映画館で見て以来だ。セルバンテス/ドン・キホーテがピーター・オトゥール、アルドンサ/ダルシネアがソフィア・ローレン、監督はアーサー・ヒラーなので見逃せない映画だった。その時点で、ピーター・オトゥールは、”アラビアのロレンス”、”チップス先生さようなら”、”ロード・ジム”、”マーフィーの戦い”をすでに見ていたし、ソフィア・ローレンも”島の女”、”エル・シド”、”アラベスク”やマルチェロ・マストロヤンニとの共演作をいくつか見ており、両者ともファンといってもいいぐらい好きな俳優だった。アーサー・ヒラーは、当時原作が教室内を飛び交うほど評判になった”ある愛の詩”の監督でもあった。私も原作を読み映画も見て、今ではありきたりの白血病と純愛に涙するほど純情だった。”ラ・マンチャの男”の劇中歌が気に入ったのでサントラLP盤を買った。そのころ買ったレコードはどこに行ってしまったのだろうか。
セルバンテスの数奇な人生を知ったのは、数年前に読んだ岩根圀和著”物語 スペインの歴史”中公新書による。彼は1571年24歳の時、有名なレパントの海戦に一兵卒として参戦し、弾丸により胸と左手を負傷している。海戦後、トルコの海賊に捕まりアルジェに送られ、5年間の囚人生活中に何度か脱出を試みたが失敗し、1580年身代金の支払いによってやっとの思いでスペインに戻った。スペインへの帰国後、セルバンテスは無敵艦隊に積み込む小麦やオリーブ油の徴収役人をしている。無敵艦隊がドレイク率いるイギリス海軍に大敗したのは1587年のことである。セルバンテスは、1605年に”ドン・キホーテ”前篇を、死の前年である1615年に後編を書いた。

2枚の写真は流川の飲み屋のトイレで見つけた人形である。酔っ払っていたのでピントがずれている。

”ラマンチャの男 Man of La Mancha”(1972年)アーサー・ヒラー監督 デイル・ワッサーマン原作 ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン


写楽その2

2007-04-15 12:19:13 | 江戸

江戸末期の斎藤月岑による”増補浮世絵類考”で写楽は、
”俗称斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者。”
と記載されている。
これがほぼ唯一の写楽の身元を記録した資料で、類考が写楽の活動期から50年後に成立したことや斎藤十郎兵衛の実在が証明されなかったことが主な原因となり、類考記述の信憑性が疑われたことから様々な写楽が比定されることになったのである。
中野三敏の中公新書”写楽”を羽田空港で買って機内・バス内・自宅風呂場で一気読みした。中野三敏は以前読んだいくつかの写楽本で頻繁に引用されていたので馴染みだったが、直接中野自身の本を手にしたのは初めてだ。私自身、中野や内田千鶴子によって写楽は斎藤十郎兵衛で決着したと考えていたのだが、中野によるとどうも世間はそう簡単ではないようだ。
すでに私が理解していたこと以外に中野の”写楽”で新しくわかったことは、太田南畝から月岑までの類考成立の流れ、写楽の身元を書き記した月岑の人物像を明らかにし類考の信憑性を論証したこと、江戸の人名録”江戸方角分”の八丁堀に住む写楽斎の記述に俗名がない不備は写楽が士分であったことで身元を明かせなかったという推理、”八丁堀図”(1854)に斎藤与右衛門(斎藤家では十郎兵衛と与右衛門が交互に世襲されている)が八丁堀に住んでいたことが確かめられ隣人の証言も残っていることなどだ。類考記事の信憑性を疑う論者たちの根拠は極めて希薄で、中野による論証にはるか及ばない。”江戸方角分”の記述が写楽でなく写楽斎としている不備は江戸時代は知識人であっても当て字を使うなど文字に対しておおらかだったことによるという中野の言い分は学者らしくないと思うかもしれないが、月岑とほぼ同時代人であった泉光院日記の地名や人名も当て字だらけだったことを知っていたのですぐ首肯できた。これが江戸時代人の通癖だとしたら、写楽の落款が違うことで合作説や別人説を論ずる細かい作業は徒労ということになる。
いずれにせよ斎藤十郎兵衛説以外は全く史料がないわけだから別人説は推理小説の域を出ず学術的に立証できないので別人説の提唱者に江戸史や美術史の専門家はいない。


桜2007

2007-04-09 20:32:51 | 中世
桜の季節だ。シンガポールから帰国して丸1年が経った。
10数年ぶりで見た1年前の桜より、今年の桜のほうが美しいと感じる。
厳冬を経験し待ちわびた末に迎えた春の所為かもしれない。

桜を見ながら、ふと西行のことを考えた。
職を捨て、妻子を捨てて出家したが、仏門にそれほど帰依したわけでは無さそうだし、結局、歌を作るためだけに人生を生きた世捨て人だったのではないか。

友人の突然の死に接し、人生の無常を感じて出家したという説があるが、死と背中合わせの武士という職業から逃げ出しただけではないのか?この時代には西行以外にも出家した武士がいる。

素養のない私にも西行の歌は格別だが、生き方としてはどうだろうか?
後世に素晴らしい歌を残した意義はあるのだが、同時代に職分を全して死んでいった無名の武士が無数にいたことを考えると無条件に賛美できない。

授業の本

2007-04-01 15:07:53 | 他本
梅原猛が中学生相手に仏教を教えた授業の本に続き、国際日本文化センターの河合隼雄を始めとした教授が小学生を相手に行った授業の本を読んだ。
梅原猛の授業は、今まで漠然と理解していた日本の仏教の歴史、種類、教義を概観できた上に、世界の宗教のことも良く分かった。遺伝子には自利(自己を生き永らえさせようとする)と利他(自分を犠牲にしても子孫を残そうとする)という仏教の精神が含まれ、これは遺伝子の永遠性、生命の永遠性に繋がる。自分のDNAは子孫に残るので、個人は死んでも遺伝子から人間をみると不死といえる。この考えによって梅原は無神論を克服したのだそうだ。
山折哲雄の授業は宮沢賢治の作品中の風の解釈が面白かった。
”賢治がひとたび風の音を聞くと、想像の世界が次から次へと現れてきた。”
”賢治はなんにでもなろうとしたけど、普通の人間は諦めて生きている。”
尾本恵市の授業”自然に学ぶ”では蝶マニアを5種類に分ける。
1.切手集め型(なんでもやたらと集める)、2.骨董品集め型(金にいとめをつけず珍品を集める)、3.ファーブル型(飼育して生活史を調べる)、4.リンネ型(やたらと名前をつけて分類する)、5.ダーウィン型(分布や進化に興味を持つ)
安田喜憲の授業”地中の花粉”では、イースター島の文明の滅亡を地球に擬して警鐘を鳴らす。
尾本による人生成功の秘訣は”好奇心、集中力、持続力”、梅原猛の生きる秘訣は”努力(精進)、集中力(禅定)、正直(正語)、忍辱”と湯川秀樹の好奇心を取り上げていて、どちらにも好奇心と集中力がある。