備忘録として

タイトルのまま

サラディン

2013-04-27 12:25:35 | 西洋史

就活中の息子が面接担当者の「歴史上で好きな人物は?」という問いに、「サラディン」と答え怪訝な顔をされたといって帰ってきた。超人気会社の面接だったが、次の面接に進んだという話を息子から聞かないので落選した模様である。「サラディン」が落選の理由かどうかわからないが、「せめてアラビアのロレンスにすれば良かったのに!」と呆れ顔で言ったことを反省している。第一次世界大戦でアラブがトルコから独立するのを支援したイギリス将校を描いた映画「アラビアのロレンス」1963を息子が好きだということを知っていたからだが、そもそもサラディンもアラビアのロレンスもマイナーであることにおいては五十歩百歩(孟子)なので、自分の感性も息子と大差ないのだと思う。

息子も私もサラディンのことを知ったのは、映画「Kingdom of Heaven」で、サラディンは異教徒であるキリスト教徒に対して寛容に描かれていた。その後、彼の簡単な事蹟を知の再発見双書「十字軍」や「テンプル騎士団の謎」で読んだ。そして今回息子の就活面接事件をきっかけに、もう少しサラディンのことを知りたくなり、佐藤次高「イスラームの『英雄』サラディン 十字軍と戦った男」を手にしたのである。

サラディンの簡単な年表は以下のとおり。

  • 1137  イラク北部のタリクートで生まれる。父はクルド人アイユーブ。1138年説もある。
  • 1146  家族はダマスクスに移住
  • 1152  アレッポへ行き、ザンギー朝2代目ヌール・アッディーンに仕える
  • 1164  ヌール・アッディーンの命令で叔父シールクーフとエジプトへ遠征する。
  • 1169  エジプト・ファーティマ朝の宰相となりヌール・アッディーンからほぼ独立する。
  • 1174 ヌールアッディーン没しサラディンがダマスカスに入り実質アイユーブ朝を開始する。
  • 1177 アスカラーンへ遠征するもボードワン4世に敗れる
  • 1187 ハッティンの戦い。ギー率いる十字軍を破る。エルサレムを奪還。その後も地中海の諸都市を次々と十字軍より開放する。
  • 1191 アッカーの救援に失敗
  • 1192 獅子心王リチャードと和平
  • 1193 没

分裂していたイスラム勢力を統一しエルサレム解放によってイスラム世界の英雄になったサラディンが実際、異教徒に寛容だったのかどうかが知りたかったが、それに関して「イスラームの英雄サラディン」の歯切れは悪かった。

サラディンは、個人的な権威と人望でイスラム勢力をひとつにまとめ十字軍と闘い地中海海岸都市を開放していった。戦闘に終始したためか、あるいは寛容さゆえか、サラディンは強権的な中央集権国家を建てることはできなかった。サラディンは質素で無欲で、彼の死後残ったのは金貨1枚と銀貨47枚だけだったという。また、サラディンはクルド人だったが、アラブ人やトルコ人にも公平で、軍団内に人種による対立や差別はなかった。 一方、エルサレムで降伏した敵に安全保障を与えたのはサラディンの寛大さゆえではなく、身代金を要求し捕虜を解放したのは単にイスラムの慣習に従っただけという考え方もあるらしい。エルサレム奪還後の十字軍との戦いでは、十字軍に包囲されたアッカーの救出に失敗するなど一進一退が続き、配下の武将がサラディンの指導力に疑念を抱くようになる。長年の戦闘で疲弊するムスリム騎士の間で厭戦気分が広がったこともあり1192年にはサラディンはリチャード王率いる十字軍と和平条約を締結する。

エルサレム

エルサレムはユダヤ教徒にとってはソロモンがエホバの神殿を建設した故地であり、キリスト教徒にとってはイエスの死と再生の舞台として重要であった。ムスリムにとってもエルサレムは、メッカ、メディナにつぐ第3の聖地とされた。それは、預言者ムハンマドが天馬ブラークに乗ってメッカからエルサレムまで夜の旅をし、ここの岩から天に昇って神にまみえたとするコーランの伝承による。7世紀後半には灰白色の岩を覆って「岩のドーム」が建設され、エルサレムは聖なる家と呼ばれるようになる。1099年エルサレムは第1回十字軍によって占拠される。88年後の1187年になってやっとサラディンがエルサレム奪還に成功する。写真中央の金色のドームは「岩のドーム」(wikiより)

ムスリム騎士の理想

ムスリムの騎士はイクターという封土を与えられるかわりにスルタンへの絶対的な服従を要求される。異教徒との戦い(ジハード)で奮迅の活躍をし、戦闘で死んでも「神の道」において戦った者は殉教者となり、天国に入ることができると信じられた。一方、十字軍あるいはヨーロッパの騎士は封土の授受が王との契約を前提とする。キリストの墓を異教徒の支配から解放する(エルサレムの解放)ことで免罪符が与えられることになったため十字軍に参加する騎士が増えた。ムスリム騎士もヨーロッパ騎士も勇気と誠実さを重視することに変わりはないが、ムスリム騎士が学問や教養を奨励することに対し、ヨーロッパ騎士はそれらが武勇の妨げになるとみなした。

ダンテの神曲のサラディン

地獄篇は、イスラム預言者ムハンマドが頭を切り裂かれ呻き苦しむ姿を描くのに、サラディンは”ただひとり離れて哲人の中に座す智者の師”と描く。十字軍を通してヨーロッパに伝えられたサラディン像がここに現れている。

ムスリムの教育

通常のムスリム初等教育は、アラビア語の読み書きと数学、およびコーランの暗記が中心だった。さらに学問を志す青少年は各地の都市に建てられたマドンサ(学院)に入学し、法学、神学、コーランの解釈、歴史学や、医学、天文学、化学、数学、地理学、哲学を学んだ。イスラム世界は中国と並ぶ書の世界であり、サラディンに関するアラビア語史料も豊富だと言う。 

サラディンの死後、息子たちが版図を分割統治した。サラディンから5代目サルタンのカーミールは1229年に、岩のドームへの自由な立ち入りを認めさせることを条件にエルサレムを十字軍に譲り渡す。エルサレムを手に入れた十字軍はその統治を維持できず10年後にはムスリムに奪回される。エルサレムをめぐるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の確執は現在まで続くのである。


The Assassination Bureau

2013-04-14 19:02:57 | 映画

 

映画「世界殺人公社」は高校時代、おそらく徳島のかぐや町商店街はずれ紺屋町近くの洋画専門館”松映ピカデリー”で観たと思う。中高生のころ友人らと洋画をハシゴしていたころのことである。1960~1970年代、洋画は東新町のデパート丸新の中にあったテアトル丸新、秋田町の路地裏のOSグランド、徳島新聞社ビルにあった徳島ホール、東新町のダイエーがあった東宝とそれに松映ピカデリーで上映されていたと記憶している。西新町にあった新町劇場も洋画中心だったように思うがその記憶はかすかである。映画全盛時代の話である。徳島市の映画館はひとつずつ消え、高校時代に洋画を上映していたのは徳島ホールと東宝と松映ピカデリーだけになっていた。そして数年前に徳島市から映画館が消えたらしい。中でもテアトル丸新では自分の洋画人生で最も古い「ターザン」や「狼王ロボ」を観た記憶がある。1960年初頭のことだと思う。

”世界殺人公社(原題:The Assassination Bureau)”1969、監督:バジル・ディアデン、出演:オリヴァー・リード(Oliver Reed)、ダイアナ・リグ(Diana Rigg)、この映画は長くビデオレンタル店や海外のビデオショップで探していたのだが、YouTubeでFull Movieを見つけたときは歓喜した。実に40年ぶりに鑑賞した。

オリヴァー・リードは、当時売出し中でミュージカル「オリバー!」1968で悪役を演じたり、その後豪華キャストのチャールトン・ヘストンやフェイ・ダナウェイが悪役を演じ話題になった「三銃士」や「四銃士」でアトス役を演じた。まったく知らなかったダイアナ・リグはこの映画が初見で、そのキュートな役柄のせいで即座にファンになった。彼女はイギリスの舞台やテレビで活躍していたが、映画はわずかに007シリーズ「女王陛下の007」と探偵ポアロシリーズの「地中海殺人事件」に出ている程度である。彼女を有名にしたのは「Avenger」というイギリスのテレビシリーズだったらしいが残念ながら観ていない。というか日本で放映されたことがあるのかすら定かでない。この主演の二人に加え、テリー・サバラス、クルト・ユルゲンス、フィリップ・ノワレ(ニュー・シネマ・パラダイスのアルフレッド)ら名優が出演する豪華版である。

要人暗殺を請け負う組織が存在することに気付いたジャーナリストのダイアナ・リグが、組織のボスであるオリヴァー・リードに近付き、ボス自身の暗殺を依頼する。かねてより組織の腐敗を感じていたボスのオリヴァーは組織の幹部に自分の暗殺を命ずると同時に、部下幹部を返り討ちにすることも宣言する。そしてコミカルに殺人ゲームが繰り広げられる大層楽しくおしゃれな映画なのである。YouTubeは英語字幕付きだった。http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=jLb4SOLxHPA ★★★★★

”東京家族”2013 監督:山田洋次、出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、妻夫木聡、蒼井優 小津安二郎の”東京物語”を現代に移したリメイクである。脚本は戦争未亡人の原節子の個所を妻夫木聡と蒼井優に置き換えた以外は、ほぼ前作を忠実に踏襲していた。原節子の役は前作でもっとも重要だったので、新作の成否はこの変更が吉と出るかどうかにかかっている。妻夫木登場の冒頭は最悪だったが映画の進行とともに彼の優しさが伝わってくるとともに、吉行和子と蒼井優が語り合う場面は前作に負けないくらい心に沁みた。脚本(山田洋次、平松恵美子)の勝利だと思う。橋爪功と笠智衆はキャラが違うので好みだけで判断して申し訳ないのだが笠智衆のあの何とも言えない朴訥さが好きである。★★★★☆

”Bernie”2011、監督:リチャード・リンクレイター、出演:ジャック・ブラック、シャーリー・マクレーン、町の人気者の葬儀屋バーニー(ジャック・ブラック)は、変人で嫌われ者の大富豪マージョリー(シャーリー・マクレーン)に気に入られる。バーニーはいつしか独占欲の強いマージョリーにとらわれ自由がなくなり、発作的にマージョリーを殺してしまう。実話をもとにしたブラックコメディーである。久しぶりに名女優シャーリー・マクレーンを観たが、ニコール・キッドマン主演”奥様は魔女”2005で観て以来である。シャーリー・マクレーン初見はおそらく遙か昔テレビの洋画劇場で観た”アパートの鍵貸します”1960だと思うが、今なお健在で映画に出続ける息の長さには驚くばかりである。★★☆☆☆

”The Cold Light of Day”2012、監督:マドロック・メクリ、出演:ヘンリー・カビル、ブルース・ウィリス、シガニー・ウィーヴァー、普通の家族だと思っていたのに父親(ブルース・ウィリス)がスパイだったことから事件に巻き込まれる。普通の息子が父親や家族を助けるためにスパイばりの活躍をし、冷徹なスパイのシガニー・ウィーヴァーと対決する。ケイト・ブランシェットが冷徹な殺し屋スパイだった”ハンナ"2011に似ている。ブルース・ウィリス映画は前回観た”Red”2010も期待外れ(星1)だったが今回も同じ。★☆☆☆☆


法顕

2013-04-07 18:33:39 | 仏教

法顕は399年数人の仲間とともに長安を発ち、西域を経由してインドへの求法の旅に出る。西域ではブッダも実践していた雨安居(雨期の一定期間一カ所に留まって修行すること)のため旅の中断を入れながら、タクラマカン砂漠を横断しパミールの山岳地帯を超え、403年にやっとの思いでインドへ到達する。その間、仲間は死亡したり中国へ引き返したりと次々と脱落していく。上の行路図は「中国文明の歴史4 分裂の時代-魏晋南北朝」から転載した。

法顕が訪れたときのインドは、マガダ国から興ったグプタ王朝(紀元320~550年)がインド全土を統一し、チャンドラグプタ2世の時代だった。ブッダの後、紀元前300年頃にマガダ国の首都をラージギルからガンジス川沿いのパータリプトラに都を移しマウリア王朝(紀元前317頃~紀元前180年頃)を開いたのもチャンドラグプタという名の王で、その3代目が有名なアショカ王(紀元前268頃~232年頃)である。アショカ王以降マウリア王朝は衰退する。紀元1世紀から3世紀にかけてクシャナ朝が起こり有名なカニシカ王がでる。カニシカ王は仏教を厚く保護しガンダーラ美術などの仏教美術が栄える。

法顕が見た紀元400年頃のインドは以下のようだった。

祇園精舎

祇園精舎のあったかつてのコーサラ国の都シュラーヴァスティに昔の面影はなく、戸数200余のわびしいところだった。法顕は祇園精舎でありし日のブッダを偲んだ。

カピラヴァストゥ

ブッダであるゴータマ・シッダールタの属するシャカ族の首都カピラヴァストゥは廃墟と化しブッダ誕生の地ルンビニーも荒れ果てて訪れる人もいない。ブッダの遺骨を当時の八大国にわけて仏舎利に納めたが、アショカ王はそれをさらに八万四千に分骨する。ただし、ここの仏舎利塔はそのまま残したので法顕が訪れた時も残っていた。

クシナガラ

クシナガラには仏滅を記念する塔が建っていた。そこからブッダが自身の死期を悟ったヴァイシャーリを訪ねる。法顕はクシナガラからブッダ最後の旅を逆回りする。

パータリプトラ

ガンジス川を渡ってマガダ国最大の都市パータリプトラにつく。ゴータマの渡しを逆に渡ったことになる。かつてのアショカ王の首都である。法顕が見たものは以下のような風景だった。立派な宮殿が残り、市民は富栄えている。毎年2月8日に行像(ブッダ像を乗せて練り歩くこと)があり、当日はみなが集まって供養する。富裕者は貧困者や病人に施しをする。都城にはアショカ王が建てた八万四千塔のうちの最初の大塔や周囲一丈五尺、高さ三丈余りの石柱がある。行像とは灌仏会(Vesak Day)のことである。

ラージギル

法顕はラージギルからブッダが座禅した霊鷲山(耆闍崛山ぎじゃくつせん)に登り香華をたむけ、”仏、昔ここに住して首楞厳(しゅりょうごん)を説きたもう。法顕はこの世に生まれて仏にあうことができず、ただ遺跡の諸所を見るのみ。”と慨嘆する。そして石窟前で首楞厳をとなえ一夜を明かす。首楞厳とは弟子が菩提(悟りや智慧)をすみやかに得る法や魔境を遠離する法を尋ねたことにブッダが答えたものである。ブッダも悟りを開く直前の瞑想中に魔境を見た。

その他竹林精舎や鹿野苑などのブッダゆかりの地を巡ったあと法顕はパータリプトラに戻り、そこに405~407年までの3年間留まり梵語を学び経典を集め経や律を筆写する。

法顕はその後ベンガルのタマリッティ国(多摩梨帝国)で2年、セイロン島(師子国)で2年を過ごしさらに多くの経典を集める。411年法顕はスリランカを出港し、バラモン教が盛んな耶婆提国(ジャワ、パレンバン、ジャンビ、ボルネオ?など異説有)を経由し412年に中国の山東省に辿りつく。上の地図ではスリランカからニコバル諸島を経由し、マラッカ海峡を通り山東省の牢山に着いているが、法顕の航路についてはいろいろな研究があり、嵐でアメリカ大陸まで流されたという説さえ存在する。法顕が訪れた5世紀初めにシュリービジャヤ室利仏逝しつりぶっせい)はまだ建国していなかったと思われる。玄奘は法顕の約200年後の629年に中国を出て645年に数々の経典を長安に持ち帰ったが行きも帰りも陸路であった。法顕や玄奘にあこがれインドに行き「大唐西域求法高僧伝」を書いた義浄は671年に海路でインドへ渡り帰路も海路で695年に中国へ戻った。高丘親王(または高岳親王)が天竺(インド)をめざし道半ばで羅越国(マレーシアのジョホール)で薨去したのは9世紀のことである。