備忘録として

タイトルのまま

本所深川

2012-02-19 18:08:55 | 江戸

 司馬遼太郎は「街道をゆく」で、江戸を本所深川から歩き始め、その後、神田、本郷、赤坂と続く。昨日は両国駅から清澄白河まで歩き、回向院の鼠小僧次郎吉の墓、吉良邸跡、芥川龍之介の文学碑、芭蕉記念館、霊巌寺の松平定信の墓を見て回った。

回向院は両国駅から歩いて数分のところにある。回向院は明暦の大火や安政地震の犠牲者など無縁仏を埋葬している。ペットのお墓もある。その中に鼠小僧次郎吉の墓(上右の写真)があった。鼠小僧は寛政から天保の江戸末期の実在の人物で、大名屋敷を荒らしまわった盗賊である。36歳で捕縛され小塚原刑場で斬首されたという。貧乏人に盗んだ金を恵んだという証拠はないらしい。手前の白い碑を小石で擦りとり持ち帰るとご利益があると書いてあった。

回向院の裏口を出て東に向かうと赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡があり、そこは白壁に囲われた小さな広場で赤穂浪士のことを説明する屋外展示場になっていた。松の廊下の場面の浮世絵、殉死した吉良側の家臣の碑、吉良の首を洗った井戸などが展示されていた。その中に討ち入り時の吉良邸の見取り図があった。屋敷は大きく部屋は相当数有って上野介を探すのは大変だったろうと思う。テレビの赤穂浪士で炭小屋で見つけたことを覚えていたので、見取り図の中の離れに炭小屋がないか探したが見つからなかった。あとで調べたら炭小屋は台所の隣ということだった。討ち入りの後、吉良邸を出た浪士たちは上野介の首を掲げて泉岳寺まで行進し亡き主君に仇を討ったことを報告する。

 今年芥川賞をとった田中某は、”都政が混乱するからーーーもらっといてやる。”と言って物議を醸した。映画「三丁目の夕日」で吉岡秀隆演ずる東大出の茶川龍之介はもちろん芥川をもじったものである。その芥川龍之介は幼少期の一時期この辺に住んでいて、旧居跡には案内板も建っていた。「杜子春」の最後の一節が書かれた上の文学碑は、吉良邸跡から数十m東に行った両国小学校の角に立っていた。芥川は回向院近くに住んでいた所為か「鼠小僧次郎吉」という短編を書いているので青空文庫で読んでみた。遊び人二人が船宿で酒を飲み鼠小僧を語った小盗人の話をするのだが、話をしている一人が”鼠小僧とは実は俺のことだ”と明かして終わる話である。あるいは鼠小僧だと明かした男も鼠小僧を騙っている可能性もあるのだが、この話からはわからない。

隅田川に架かる清州橋

隅田川沿いに芭蕉記念館がある。芭蕉は奥の細道に出かける前は深川のこの辺に住んでいたという。100円の入場料を払って記念館に入った。山寺の芭蕉記念館はがっかりだったがこっちも似たり寄ったりだった。芭蕉を記念館で顕彰するのは少し無理があるのではと思う。画家、彫刻家、書家、陶工などはその作品を展示する場所が必要だが、文学者は子規のように生き様が壮絶で遺品が珍重される人以外は作品がすべてだということだ。

 松平定信(1759-1829)の墓は、清澄白河の霊巌寺にあった。田沼意次の商業主義をやめて農業中心の寛政の改革を進めたが、倹約を奨励し町民文化を抑制しすぎて庶民から嫌われ、大田南畝に”白河の清きの魚のすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき”という川柳で揶揄されたことで有名である。清澄白河とは、定信の領地であった福島の白河藩からとった白河町と隣の清澄通りからその名がついているのだが、白河のとなりに皮肉たっぷりに清澄という地名があるのは、この川柳が流布されたあとだろうか。そうだとしたら江戸っ子の洒落(皮肉)の精神には感服する。 定信は幕政だけでなく白河藩でも仁政を敷いたらしいが、その頃白河藩に立ち寄った山伏の泉光院はまったく別の見方をしている。定信の朱子学にもとづく理想主義による商業の否定、倹約、蘭学の禁止は、定信後の商業、文化、外交の停滞を招いたという意見もある。 

大田南畝オオタナンポ(1749-1823)は、天明・寛政期の文人・狂歌師であり、寛政の改革を揶揄した句もいいが、”今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん”という辞世の句は味があってたまらん。

 とりとめのない本所深川の旅だった。「街道をゆく」で司馬遼太郎がこの辺を歩いていたので、”本所深川”という表題を付けたが、本所がどこで深川がどこかもよく理解していない。霊巌寺の近くに観光客向けにあさりの佃煮を売っている店が何軒かあり、池波正太郎の言う深川めしを思い出した。それで、”ここは深川だ。”と実感したような次第である。本所は墨田区(隅田川東岸の両国から錦糸町付近)のことらしい。


In Time

2012-02-12 00:45:36 | 映画

 シンガポール便で、「In Time」を観た。日本では、「タイム」という邦題でまもなく上映が始まる。医学の進歩により25歳まで成長した人間はその後老化せずに永遠に生きることができるが寿命は腕に埋められたタイムクロックによって制御される。その世界では、時間は通貨になっていて、自分の生きる時間は自分で稼ぎ、バス代やコーヒー代や家賃は稼いだ時間で支払うのである。しかし、そこは格差社会であり底辺のスラムゾーンに生きる人々は上流階級の人々から搾取され、1日程度の時間しか持たないため毎日一生懸命働いて時間を稼がなければすぐに死んでしまうのである。逆に、上流ゾーンに住む人間たちは、1000年単位で時間を持っている。

スラムの人間の持ち時間は短いのでいつも時間を気にして生きなければならず、町には時間切れの死体がそこら中に転がっている。だからスラムの人間は、毎日死と向き合い生きている、三途の川の土手を危なっかしく、でも必死で自分の足で歩いているのだ。逆に、時間をたっぷりと持っている上流階級の人間は、ほとんど不死のため、時間を盗られることや事故などで自分が傷つき死ぬことを恐れ、ボディーガードを何人も雇い、走ることも車を運転することもせず窮屈に生きている。どちら側の人間も皆、時間にとらわれて生きるしかないという、息苦しい社会なのだ。

主人公のウィルはある日、自殺志願の男から100年の時間を譲り受ける。母親の悲惨な死をきっかけに、上流階級に潜り込み、社会の不合理に反抗を始める。タイムキーパーに負われ上流階級の娘とスラムゾーンへ戻ったウィルは、時間銀行を襲い時間カプセルを盗み出して人々に時間を分け与えることで社会を変えようとする。

「In Time」2011、監督:アンドリュー・ニコル、出演:ジャスティン・ティンバーレイク、アマンダ・セイフライド、最近アマンダ・セイフライドの「Red Riding Hood 赤ずきんちゃん」、「ジュリエットへの手紙」、「ママミーア」を続けて観ているのでユニークな顔を覚えてしまった。映画にはタイムキーパーという時間の守り人が出てきて重要な役割を演じる。昔、ドラえもんの映画にタイムパトロールだったか時間警察だったかが出てきたが、それはタイムマシンを操って時間の秩序を乱す犯罪を取り締まる組織だったが、この映画のタイムキーパーは時間格差社会の秩序を守るのが仕事なのである。銀行強盗をする二人は昔見た「俺たちに明日はない」のボニーとクライドそっくりだったし、時間をスラムにばらまくところは、金持ちから盗んだ小判を貧乏人に配った義賊・ネズミ小僧次郎吉とそっくりだった。このようにいつか見た映画の焼き直しのような陳腐なところも多いのだが、登場人物のタイムクロックが上がったり下がったり突然ゼロになったりというシチュエイションに完全にはめられてしまい、ハラハラドキドキの映画に引き込まれてしまった。★★★★★

1月2月の機中映画はとりあえずRatingだけしておく。

「ガタカ」1999 監督:アンドリュー・ニコル、出演:イーサン・ホーク、ジュード・ロー、ユマ・サーマン、「In Time」と同じ監督のSF作品で、生まれながらのDNAによって人間の適性(Valid)、不適正(In-Valid)が決められている社会の話で、適格者しかなれない宇宙飛行士になるために、不適格者が血液などを偽装して組織に入り込む。どこか暗い映画だったが、この監督には独特の世界観がある。★★★★☆

「タンタンの冒険」2011 ☆☆☆☆☆ 監督:スティーブン・スピルバーグ 3Dアニメ 期待していたのにはっきり言って面白くなかった。

「Hurt Locker」2008 ★★★☆☆ Avatarのジェームズ・キャメロン監督の前奥さんが監督し、Avatarを抑えてアカデミー賞作品賞を獲得した作品。イラク駐留米軍兵士の苛酷な任務を描いていてアメリカ人なら星5つかもしれないが、戦場と縁遠い身としては切実感がどうしても湧かなかった。戦場は想像力を超えた場所なのだと思う。

「My Girl」1991 ★★★☆☆ 葬儀屋の娘として生まれたから身の回りに日常的に死があり、さらに自分が生まれることと引き換えに死んだ母親や親友の死を乗り越えていくという11歳の女の子の成長ストーリーは過酷としかいいようがない。どこに救いがあるのだろうかと考えていたが、最後は結構しっかり生きてる姿を見せてくれた。

「恋愛小説家」1997 ★★★☆☆ ジャック・ニコルソンのいつもの毒のある演技で観る方はいっぱいいっぱいだった。それでも、周囲との関わりを否定していた小説家がウェートレスによって徐々に変わっていく過程が面白い。

「October Sky」1999 ★★★★☆ ロケットに魅せられた高校生がNASAの技術者になるという実話。とにかく好きなことをとことんやりぬく人生は素晴らしい。

「カウボーイとエイリアン」2006 ☆☆☆☆☆ 評価に値しない。ハリソン・フォードも何が良くてこんな映画に出たのかと思う。

「雪に願うこと」2006 ★★★☆☆ ばんえい競馬で生きる意味を取り戻す青年の話で、伊勢谷友介と佐藤浩市が良かった。


シュリービジャヤ

2012-02-05 12:39:28 | 東南アジア

 以前、神保町の古本屋で買っておいた永積昭著「東南アジアの歴史」講談社現代新書を読んだ。長く東南アジアに住んでいるのに東南アジアの歴史を通観したことがなかった。考古学的には紀元前5000年(紀元前1世紀という説が有力らしい)というタイのバーンチェン遺跡に始まり、文献史学で最初に登場する国はメコン川流域に建てられ1~7世紀に栄えた扶南という国で、7世紀の中国の史書・梁書に記されている。

 扶南が衰えたあと、シュリーヴィジャヤという国がスマトラとマレイ半島を支配し、ムシ川河口の良港であったパレンバンを首都とし、14世紀まで栄えた。インドと中国をむすぶ遠洋航路も、周辺諸国との沿岸航路も、この港を中心として行われた。と「東南アジアの歴史」に書かれている。中国僧の義浄は7世紀後半にインド留学の往還時、シュリービジャヤの首都で行きは5か月、帰りは10年ものあいだ滞在し写経や翻訳を行った。そこには1000人もの僧侶がいて仏教学の水準はインドにも劣らないと自著「南海寄帰内法伝」に記録している。シュリーヴィジャヤ(室利仏逝しつりぶっせい)は遺物が少なく義浄の記録のほかには五つの碑文と、中国への朝貢の記録があるだけである。パレンバンとバンカ島などで碑文は見つかっている。7世紀にはマレー半島の地峡を横断する陸路による交易路は、マラッカ海峡を通る水路に主役を奪われたという。

 8世紀後半には、中部ジャワのボロブドールを造ったことで有名なシャイレンドーラ朝に圧迫されシュリーヴィジャヤの貿易活動は衰えていた。ところが9世紀半ばにシャイレンドーラから母親の国であるシュリーヴィジャヤに亡命してきたバーラプトラ王子が隆盛を取り戻し、10世紀には全盛期を迎える。10世紀の中国は宋の時代で、シュリーヴィジャヤは三仏斉と記されて入貢を続けている。シュリーヴィジャヤの不思議はボロブドールやアンコールワットのような遺跡をまったく残していないことだという。

「東南アジアの歴史」より

 1982年ごろにパレンバンに2か月ほど滞在したことがある。パレンバンはムシ川の河口から100kmほど遡った内陸にあり、パレンバンから仕事場の河口まで毎日片道約2時間半かけて小さな船外機付スピードボートで往復した。ムシ川両岸は現地の人たちの小さな村が散在する大湿地帯である。パレンバンこそ製油所があり中国系の商店が軒を連ねて繁華であったが一歩パレンバンの町を出ると何もない。だから、「東南アジアの歴史」に書かれた”パレンバンはムシ川河口の良港”で、”遠洋航路も沿岸航路もこの港を中心に行われた”という記述に、”それは少し違うのではないだろうか?”と疑問を持った。 内陸にあるパレンバンは交易に便利な場所とは言い難い。シュリーヴィジャヤがスマトラとマレイ半島を支配し、インドと中国の間の交易国家だとしたら、根拠地はマラッカ海峡沿岸部に置くのが普通だろうと思う。それに中国からインドへの交易航路を考えると、パレンバンはマラッカ海峡の入り口に位置するシンガポールからずっと南に位置し、義浄が中国インドの往還でパレンバンに立寄ることは明らかに遠回りになる。スマトラの南東部マラッカ海峡側は大湿地帯が広がり今も未開発でパレンバンやジャンビなど大きな町は川を何十キロも遡った内陸にある。

 シュリーヴィジャヤについてネットサーフィンをしていると、「シュリヴィジャヤの謎」という本を書いた鈴木峻という人のWeb-siteに出くわした。http://www7.plala.or.jp/seareview/newpage5.html そこに本のあらましが紹介されていて、鈴木峻氏はシュリヴィジャヤの首都または義浄が滞在したのはマレー半島のクラ地峡の東海岸にあるタイのチャイヤーだとする。チャイヤーがシュリーヴィジャヤの重要な都市だったということでは異論がないらしいが、首都はあくまでもパレンバンで、それは1900年ごろフランス人学者ジョルジュ・セデスという人が発見された石碑をもとに最初に唱え、それが定説となったらしい。鈴木氏がパレンバンに疑問を持つ大きな理由は、義浄が見た1000人もの僧侶がいるなら寺院などの考古学的な遺物があるはずだが、パレンバンにはそのような遺跡はないということである。チャイヤーにはシュリーヴィジャヤ時代に建てられたお寺がいくつか残っているとチャイヤー国立博物館の紹介記事に書いてあった。パレンバンにしばらく滞在した身としては、鈴木氏同様パレンバンでいいのか?と、強い疑問がある。

 また、鈴木氏は義浄の書いた「大唐西域求法高僧伝」のなかに、”広府→室利仏逝→末羅遊→羯茶→裸人国→耽摩立国”という工程が記されていることを紹介している。通説では、広府は中国の広州、室利仏逝はシュリーヴィジャヤすなわちパレンバン、末羅遊はパレンバンの北にあるジャンビ、羯茶はマレーシアのケダ、裸人国はニコバル諸島あたり、耽摩立国は終点のベンガル州のTamulukとされているが、鈴木氏は、室利仏逝はタイのチャイヤーで、末羅遊はジャンビ付近かリアウ諸島のどこかという説である。Wikiの英語版など通説ではジャンビはマラユ(末羅遊)とされている。

 パレンバン首都説には強い疑問があるのだが、他の地に考古学的な証拠もないので、完全否定はできないように感じた。ムシ川は上流から大量の土砂を河口に運び堆積するので、しょっちゅう浚渫して水深を確保しなければ大型船が航行できない。だから、堆積作用によってパレンバンから海までは100kmもの距離ができてしまったが、1300年前は今とは異なり、パレンバンからムシ川下流に広がる湿地帯はもっと狭かったのかもしれない。すなわち、パレンバンは海にほど近い良港だったかもしれない。パレンバンは、1400年ごろの鄭和遠征のときには、”旧港”という名の歴史に記された大きな町で中国人が大勢住んでいたという。

 バンカ島はムシ川河口の対岸にある島で、島の西南端に位置するムントクという町には2度行った。一度目はジャカルタから国内線でパンカルピナンという町に降り、それから車で陸路で行ったのと、2度目はパレンバンから船でムシ川を下り海峡を越える水路だった。ムントクは小さな港町で、ローカルのホテルしかなく、たしか円換算して200円の宿に泊まった。風呂もシャワーもなく、大きな水槽から手桶で水をくみ体を洗った。扇風機もなく木の扉がついた窓を少し開けて寝たがベッドは蚊帳で覆われていたので蚊に刺されることはなかった。トイレは隣の川に垂れ流しで、穴からは川面が見えた。オランダ時代から錫を採取していたためか海賊の取り締まりなのか知らないが、インドネシア海軍が駐留していた。面白かったのは錫は海岸の砂浜で砂を掘り起こして採っていたことだ。


樋口一葉

2012-02-02 23:40:51 | 江戸

NHKぶらタモリの吉原の回を観たので先週の土曜日に吉原へ行ってきた。タモリとほぼ同様に浅草から待乳山聖天宮に寄り隅田川の支流だった公園を通り吉原大門まで行った。吉原大門ではスカイツリーを背景にしてちょっと貧相な見返り柳の写真を撮り、S字の道を抜けて吉原に入った。以前、鶯谷の子規庵に行ったときは「坂の上の雲」のあとで大勢見学客がいたが、ぶらタモリを見て吉原を見ようと思う人はいないのだろうか、吉原に私たち(妻と私)のような見物人は皆無だった。新吉原仲ノ町と呼ばれた吉原の中央通に見物人がいない理由とそこをテレビが映さなかった理由はすぐに判明したので、こちらも長居は無用と急ぎ足で町を抜け、予定外だったけど隣の竜泉町の一葉記念館に立ち寄った。

そもそも樋口一葉とは5000円札以外にまったく縁がなく、有名な「たけくらべ」も「にごりえ」も読んだことがない。才女だったが夭折した程度の知識である。

Wikiより

一葉記念館はりっぱな3階建ての洋館で、300円の入園料を払うと無料ボランティアガイドが一葉の生涯をかいつまんで説明してくれた。そこで初めて一葉の短い生涯を知った。優等生だったが女に学問は要らないという母親の意向で小学校4年までしか学校教育を受けていない。後日父親が事業に失敗し、さらにその父親が死去したことで困窮し、母親と妹の3人で雑貨・駄菓子屋を開くも商売はうまくいかず、苦しい生活の中で結核を患い、明治29年12月弱冠24歳で亡くなる。小学校しかでていないことで、教師などの明治の知識階級の婦人がつけるはずの職業につけず、悲惨な生涯につながるのである。最後の14か月は奇跡の14か月と言われ、その間に以下の代表作すべてが執筆されている。以下、一葉記念館Webページより http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html

明治27年12月「大つごもり」を『文學界』に発表 明治28年1月「たけくらべ」を『文學界』に連載開始 4月「軒もる月」を『毎日新聞』に発表 5月「ゆく雪」を雑誌『太陽』に発表 8月「うつせみ」を『読売新聞』に発表 9月随筆「雨の夜」「月の夜」を『読売新聞』に発表「にごりえ」を『文藝倶樂部』に発表10月随筆「雁がね」「虫の音」を『読売新聞』に発表12月「十三夜」を『文藝倶樂部』(「閨秀小説」)に発表、明治29年1月「この子」を雑誌『日本乃家庭』に発表「わかれ道」を雑誌『国民の友』に発表『文學界』に連載した「たけくらべ」完結

記念館前の公園に建つたけくらべ記念碑         記念館から少し吉原の方に戻った道沿いの雑貨・駄菓子屋の旧居跡を示す碑

一葉が記念館近くに住んだのは明治26年7月から明治27年4月のわずか10か月に過ぎない。下の池波正太郎の江戸古地図に今回の道順を書き入れた。江戸時代の遊び人もこの道順で吉原に通ったらしい。吉原の方形の一画が目立つ。方形の部分は周囲よりも少し高く盛ってあることも現地で確認した。