司馬遼太郎は「街道をゆく」で、江戸を本所深川から歩き始め、その後、神田、本郷、赤坂と続く。昨日は両国駅から清澄白河まで歩き、回向院の鼠小僧次郎吉の墓、吉良邸跡、芥川龍之介の文学碑、芭蕉記念館、霊巌寺の松平定信の墓を見て回った。
回向院は両国駅から歩いて数分のところにある。回向院は明暦の大火や安政地震の犠牲者など無縁仏を埋葬している。ペットのお墓もある。その中に鼠小僧次郎吉の墓(上右の写真)があった。鼠小僧は寛政から天保の江戸末期の実在の人物で、大名屋敷を荒らしまわった盗賊である。36歳で捕縛され小塚原刑場で斬首されたという。貧乏人に盗んだ金を恵んだという証拠はないらしい。手前の白い碑を小石で擦りとり持ち帰るとご利益があると書いてあった。
回向院の裏口を出て東に向かうと赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡があり、そこは白壁に囲われた小さな広場で赤穂浪士のことを説明する屋外展示場になっていた。松の廊下の場面の浮世絵、殉死した吉良側の家臣の碑、吉良の首を洗った井戸などが展示されていた。その中に討ち入り時の吉良邸の見取り図があった。屋敷は大きく部屋は相当数有って上野介を探すのは大変だったろうと思う。テレビの赤穂浪士で炭小屋で見つけたことを覚えていたので、見取り図の中の離れに炭小屋がないか探したが見つからなかった。あとで調べたら炭小屋は台所の隣ということだった。討ち入りの後、吉良邸を出た浪士たちは上野介の首を掲げて泉岳寺まで行進し亡き主君に仇を討ったことを報告する。
今年芥川賞をとった田中某は、”都政が混乱するからーーーもらっといてやる。”と言って物議を醸した。映画「三丁目の夕日」で吉岡秀隆演ずる東大出の茶川龍之介はもちろん芥川をもじったものである。その芥川龍之介は幼少期の一時期この辺に住んでいて、旧居跡には案内板も建っていた。「杜子春」の最後の一節が書かれた上の文学碑は、吉良邸跡から数十m東に行った両国小学校の角に立っていた。芥川は回向院近くに住んでいた所為か「鼠小僧次郎吉」という短編を書いているので青空文庫で読んでみた。遊び人二人が船宿で酒を飲み鼠小僧を語った小盗人の話をするのだが、話をしている一人が”鼠小僧とは実は俺のことだ”と明かして終わる話である。あるいは鼠小僧だと明かした男も鼠小僧を騙っている可能性もあるのだが、この話からはわからない。
隅田川に架かる清州橋
隅田川沿いに芭蕉記念館がある。芭蕉は奥の細道に出かける前は深川のこの辺に住んでいたという。100円の入場料を払って記念館に入った。山寺の芭蕉記念館はがっかりだったがこっちも似たり寄ったりだった。芭蕉を記念館で顕彰するのは少し無理があるのではと思う。画家、彫刻家、書家、陶工などはその作品を展示する場所が必要だが、文学者は子規のように生き様が壮絶で遺品が珍重される人以外は作品がすべてだということだ。
松平定信(1759-1829)の墓は、清澄白河の霊巌寺にあった。田沼意次の商業主義をやめて農業中心の寛政の改革を進めたが、倹約を奨励し町民文化を抑制しすぎて庶民から嫌われ、大田南畝に”白河の清きの魚のすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき”という川柳で揶揄されたことで有名である。清澄白河とは、定信の領地であった福島の白河藩からとった白河町と隣の清澄通りからその名がついているのだが、白河のとなりに皮肉たっぷりに清澄という地名があるのは、この川柳が流布されたあとだろうか。そうだとしたら江戸っ子の洒落(皮肉)の精神には感服する。 定信は幕政だけでなく白河藩でも仁政を敷いたらしいが、その頃白河藩に立ち寄った山伏の泉光院はまったく別の見方をしている。定信の朱子学にもとづく理想主義による商業の否定、倹約、蘭学の禁止は、定信後の商業、文化、外交の停滞を招いたという意見もある。
大田南畝オオタナンポ(1749-1823)は、天明・寛政期の文人・狂歌師であり、寛政の改革を揶揄した句もいいが、”今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん”という辞世の句は味があってたまらん。
とりとめのない本所深川の旅だった。「街道をゆく」で司馬遼太郎がこの辺を歩いていたので、”本所深川”という表題を付けたが、本所がどこで深川がどこかもよく理解していない。霊巌寺の近くに観光客向けにあさりの佃煮を売っている店が何軒かあり、池波正太郎の言う深川めしを思い出した。それで、”ここは深川だ。”と実感したような次第である。本所は墨田区(隅田川東岸の両国から錦糸町付近)のことらしい。