備忘録として

タイトルのまま

言霊

2014-01-04 12:35:53 | 万葉

 

昨年クリスマスの25日に先輩Kさんが73歳で亡くなった。癌だった。Kさんは、シンガポール、インドネシア、マレーシア、オーストラリアで海外駐在経験があり、会社を退職するまでに49か国を歴訪した海外業務のプロである。読書家で博識で話題が豊富だった。30年程前シンガポールで一緒に仕事をしていたころ、外回りで霊柩車に出会うとKさんは必ず、「今日はいいことがある」と声に出していたことを思い出す。そして日本には言霊(ことだま)の文化があるのだと話してくれた。言霊とは、言葉には霊魂があり、良い言葉を発すれば良いことが起こる、いわゆる言霊信仰である。

犬養孝によると言霊は万葉全体に通じ、万葉の中で言葉は生きていて言葉は命だという(犬養孝「万葉の人びと」)。犬養孝は例として舒明天皇の「大和には、群山あれどーーーーー、うまし国そ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は」という国見の歌をあげ、統治者である天皇が「うまし国そ (いい国だなあ~) 大和という国は!」と声に出して国をほめる言霊だという。万葉歌は声に出して初めて歌になり言霊になるのだ。

下は万葉集の編者である大伴家持が759年に赴任先の因幡で詠んだ万葉最後の歌である。

新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事   巻20-4516

あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと

家持が赴任先の因幡国庁で新年を迎え”降り積もる雪のように新しい年は良い事が続きますように”という願いを歌に詠んだものである。言霊信仰に従い、この歌を声に出して詠み、今年いいことが起こることを願った。”新しき”は”あたらしき”ではなく”あらたしき”でなければならないと犬養孝は書いている。当時の読み方で詠めというのだ。家持の言霊だけでは足りないので、2日に水天宮に初詣に行き”いや重け吉事”を重ねてお祈りした。水天宮の社殿は改築中で写真の仮宮でのお参りだった。一昨年の西新井大師ほどではなかったが長い行列をつくっての参詣になった。犬を連れた参詣客が大勢いた。

水天宮は地下鉄半蔵門線の水天宮駅近くにある。九州の久留米水天宮の分社で、祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、安徳天皇、その母の建礼門院(平徳子)、徳子の母の平時子である。8歳の安徳天皇は壇ノ浦で敗れた平家一門といっしょに入水し崩御した。水天宮はその怨霊を鎮めるための神社である。鎮魂慰霊の意味が込められた”徳”の字を抱く天皇たち、非業の死を遂げた安徳天皇、日本最大の怨霊とされる崇徳院、佐渡に流され崩御した順徳天皇、承久の乱に敗れ隠岐で崩御した後鳥羽上皇(顕徳院)らは神社に祀られている。梅原猛は有名な「隠された十字架」の中で、徳の字を持つ聖徳太子もその一人で法隆寺は怨霊封じの寺であるとする。「水底の歌」では柿本人麻呂も病死とする定説とは異なる流刑ののち死罪(水死刑)になったという仮説を立て、人麻呂の鎮魂のために全国に柿本人麻呂神社が建てられたとする。徳島の天神さん亀戸天神湯島天神など全国の天満宮に祀られる菅原道真は左遷された大宰府で死んだあと朝廷に祟ったことは誰もが知っている。祟りの強い怨霊ほど逆説的により大きな幸をもたらす福の神になるとされる。そのため庶民による信仰は篤く、天満宮と同じように水天宮も九州から北海道まで全国に分社がある。


有間皇子

2012-05-27 14:02:58 | 万葉

19歳の有間皇子は紀国海南の藤白坂で絞殺された。

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む      (巻二-141)

家にあれば 筍(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  (巻二-142)

 653年中大兄皇子は孝徳天皇の意志に反して強引に都を難波から飛鳥へ戻した。一人難波宮に残された失意の天皇は翌年病没し、中大兄皇子の母・皇極が重祚(ちょうそ)し斉明朝が始まる。民に負担を強いる大規模土木工事を行う斉明に対する世間の批判は、斉明を支える中大兄皇子に向けられ、孝徳天皇の遺児である有間皇子は反対派として疑いの目を向けられる。中大兄皇子からの疑惑をかわすため有間皇子は狂人を装う。658年斉明天皇や中大兄皇子らが南紀白浜温泉(牟婁ムロの湯または紀の湯)に行幸した留守中、有間皇子は蘇我赤兄の口車にのってしまい謀叛の罪を着せられ白浜に護送される。そのときの往路か帰路に岩代(今の田辺市の北の日高郡南部(みなべ)町)で死を目前にした絶望的な状況で詠んだ歌が上の二首である。白浜で中大兄皇子に尋問された有間皇子は、”天と赤兄のみが知る。吾はまったく知らず。”と答えるが、帰路の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。第1首・岩代で結んだ松の枝をもしも無事だったら戻ってきてまた見たい、第2首・家にいたら食器に盛る飯を、旅にいるので椎の葉に盛らなければならない、と自己の境遇を嘆く歌は哀切で、1300年も前の皇子の心情が手に取るように心にひびく。これが万葉歌の力であり、後世の古今和歌集などの歌は技巧に走り素朴で切実な感動がなくなる。

中大兄と有間皇子の関係がわかるように系図をつくった。蛇足だが、本来、聖徳太子もその子山背大兄皇子も皇位継承の資格があるのだが、なぜか敏達系に皇位は移っている。

左:海南市藤白にある有間皇子神社   右:有間皇子の墓と歌碑

 有間皇子神社は藤白神社の境内の片隅にひっそりと建ち、藤白神社(藤白王子権現)と比べ悲しいほどみすぼらしい。有間皇子の墓は神社の西に200mほど行った高速道路の高架下を抜け人家を数件やりすごしたところに建っていた。近所の人か有間皇子を哀悼する人が生けたのか墓には花が添えられていた。犬養孝「万葉の旅・中、藤白のみ坂」には、”墓は皇子が絞殺された藤白坂の登り口に明治42年に建てられたものだが、実際の皇子の墓はどこともわからない。追手の丹比小沢連国襲によって絞殺されたのがこの藤白坂である。”とある。

 藤白神社社殿は斉明天皇の白浜行幸のときに建てられたというから有間皇子が絞殺されたころである。神社の境内には樹齢1000年以上という大きな楠があった。南方熊楠の熊と楠は藤白神社で命名されたらしい。

藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも  作者未詳(巻九-1675)

翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ  山上臣憶良 (巻二-145)

岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人は反りて また見けむかも  長意吉麻呂ナガノオキマロ (巻二-143)

岩代の 野中に立てる 結び松 心も融けず 古思ほゆ    同上 (巻二-144)

 天智天皇時代にはばかられていた有間皇子への同情は、壬申の乱(672)以降、表立って上のような歌が詠まれるようになる。当時は皇子の結び松と伝える松があったのだろう。岩代には昭和10年建碑の結び松記念碑があり小松が植えられていたが、昭和38年8月道路拡張のためとりはらわれたのは惜しい。と犬養孝は嘆く。犬養「万葉の旅」には移建前の結び松の碑の写真が掲載されている。ただし、改訂版「万葉の旅」に、碑は昭和39年6月28日、近くの西岩代バス停付近に再建された。とある。今回の旅では確認しなかった。白浜の湯(紀の湯)には658年斉明、中大兄、有間皇子が訪れた後、701年には持統、文武も訪れている。犬養は露天の岩風呂につかり遠くの岬を眺めながら、”万葉第1期2期の歴史の一角はこの湯をめぐって集約されるようである。屏風のようにつづく岬々に歴史の悲喜はたたまれている感がする。”と感慨深く述べている。この感慨は、有間皇子と同様に天武・持統時代に非業の死をとげた大友皇子や大津皇子を念頭においたものであることは言うまでもない。

 犬養孝は、万葉の旅・中の「おわりに」において、”---前略―――地名も新行政区画にしたがったが、それさえもどんどん変わってゆく。地形の人為的な変動も急テンポの感がある。高師の浜も埋められているし、岩代の結松碑も昭和38年8月には道路拡張のために路傍に倒されていた。万葉の故地もいまこそいそがないと、わからなくなってしまいそうだ。―――後略---” (39年7月) 著者 と結んでいる。昭和39年は高度成長期の真っ盛りであり、その後20年以上、日本列島はさんざんに改変された。39年時点で埋立計画のあった万葉の歌枕である和歌の浦について、藤白坂からの写真を添えて犬養は、”何年かのちには湾内も埋め立てられてしまってスモッグの巷と化すかもしれない”と嘆いている。現在は平成の大合弁でわけのわからない地名が増え、和歌の浦は発電所や製油所が立ち並ぶ工業地帯と化してしまった。東京の在原業平にちなむ業平橋という駅もスカイツリー駅に変わった。熊野古道は南方熊楠が神社合祀令から守ったから世界遺産になった。しかし、平成の大合弁で古名が消えたときも、横文字へ地名が変更されたときも、埋立による歌枕の破壊にも、熊楠は現れなかった。どうしようもなく人間は愚かで、いずれ津波や原発事故の教訓も風化してしまうのではと悲観してしまう。


赤駒

2010-07-24 16:58:18 | 万葉
 水木茂が梅原猛と対談----なんていう宣伝文句が出ていたら飛びつかないわけにはいかない。ので、今まで見向きもしたことのない芸術新潮を買ってしまった。対談は実質4ページだけで、梅原得意の戦争と死と哲学と貧乏と執着と出雲周辺には霊魂のようなものが漂っているというようなたわいもない話だったが、水木しげるの古い貴重なマンガがいくつも掲載されていて中身は充実していた。ゲゲゲの鬼太郎はテレビで見ていたし、エロイムエッサイムと魔法陣の悪魔くんもリアルタイムで見た世代である。ただ、水木マンガが好きだったわけではないので、広島に住んでいたとき境港には何度も行く機会があり、妖怪オブジェの並ぶ水木しげるロードも水木しげる記念館の前も何度も通ったけれど見向きもせず、松葉カニを買うために魚市場に直行していた。「悪魔くん復活 千年王国」というマンガや「劇画ヒトラー」で焦土と化した街を見下ろし”これがヒトラーがドイツ国民に送った千年王国だったのである”と書いたように水木しげるが千年王国にこだわっていることも芸術新潮で知った。
梅原猛が最近、出雲王朝に関する本を出しているので買わなければならないのだが、2400円もするので躊躇している。

 NHKの「ゲゲゲの女房」は面白い。少なくとも、前回の「ウェルかめ」よりは断然面白い。「ちりとてちん」の次ぐらいにランクされるかもしれない。漫画家をあきらめた河合はるか(アッキーナ)が布美枝と深大寺へ行き、みやげ物のわら製の馬を手にすると、店のおばちゃんが、”この馬は万葉集に由来する”と話した。すぐに、犬養孝の「万葉の旅」の東国編で調べると次の歌が出てきた。

  赤駒を 山野にはがし 取りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
                       --防人椋椅部荒虫 妻宇遅部黒女--

 天平勝宝7年(755)2月、防人交替のときの、武蔵国豊島郡出身の防人の妻の黒女の歌である。防人は国府(府中)に集められ3年交替で太宰府に送られる。犬養によると、”赤駒を山に放して捕まえられず、(遠い旅路を)歩いていかせなければならない”という意で、夫への慕情を東国なまりで詠んでいるのだそうだ。
 


 山と川の特徴が明瞭に見える石川の時でさえ確信が持てなかったのだから、犬養孝の”府中市多摩川畔にて”という注釈だけでは、上の写真のどこにでもありそうな場所を特定するのは相当難しいような気がする。
 
 深大寺へ行って犬養の写真を撮り、そばを食べ、赤駒を買い、水木しげるの家を見る準備はとうの昔にできているのだけれど、連日の暑さと夏風邪の所為で家でぐったりしている。結局、深大寺へ行くのは秋風が吹くころになりそうな予感がする。そのころには”ゲゲゲの”ブームも去っていて混雑しなくていいかもしれない。

鴨山

2009-11-08 13:50:02 | 万葉

 柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまから)むとする時、自ら傷みて作る歌

鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ (巻2-223)

 柿本人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首

今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも   (巻2-224)
直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ (巻2-225)

 ”鴨山”は人麻呂の死んだ場所と考えられ、古来よりその”所在は諸説紛々定まるところがない”(犬養孝)という。人麻呂の妻である依羅娘子が詠んだ歌にある”石川”は鴨山のそばにあると考えられている。
                            
斎藤茂吉は、江の川上流の邑智郡邑智町大字湯抱小字に鴨山という地名を見つけ、「人麻呂がつひのいのち乎(を)終はりたる 鴨山をしも此処と定めむ」(下の写真の歌碑)として、ここを人麻呂終焉の地と決めたのである。

 左:湯抱の鴨山公園に立つ茂吉の歌碑   右:鴨山公園から撮った鴨山

 犬養孝の鴨山公園から撮った鴨山の写真は、おそらく植林前か直後のものだと思われ禿げ山のように見える。公園からの視界も開けているが、今は公園を取り巻いて杉が林立し鴨山の頂部しか見えない。鴨山の杉もまた、この50年で大きく育っている。ちなみに鴨山公園は訪れる人もないようで車道から登る小道や公園内の木々の手入れはおざなりだった。また、この辺はどこもかしこも似通った山ばかりで、敢えてこの鴨山を歌に詠むには、人麻呂の住居の前に見える山かなにか、相応の理由があったはずだ。”茂吉の説に難点はつけられ確定し難いとしても、人麻呂に寄せる茂吉のひとすじの執念はもう湯抱の山峡から離れることはない。”(犬養孝)

 
 こちらは石川の巻に犬養が「万葉の旅」に掲げた写真である。粕淵周辺の江の川で、茂吉の言う石川に倣った場所である。犬養の写真に合致する場所を探したが、完璧な場所は見つからなかった。江の川河畔にあったカヌー教室の職員にも犬養の写真を見せて尋ねたが、河原の様子や周辺の風景は変化しているようで確実な情報は得られなかった。上の写真も、川の様子が違うのは仕方ないにしても、遠方の山の形が違うのは撮った角度や標高だけの所為ではないような気がして自信がない。

 ”’もう、じかにお会いすることはとうていできないだろう。川の雲が立ち渡っておくれ、その雲を見てあの方をお偲びしよう’の趣にふさわしい景は川の屈折のあちこちで遭遇し、江ノ川が石川であってもいいような気さえしてくる。”と、犬養孝は石川の巻を締めくくり、ここが石川ということに、かなり懐疑的である。

梅原猛「水底の歌」(昭和48年)から拾った斎藤茂吉「柿本人麿」(昭和15年)と梅原猛の考える説の比較は以下のとおり。ただし、両者とも先人の説をそれぞれ踏襲する個所もあり独自説ばかりではない。

1.鴨山

(茂吉)邑智郡邑智町湯抱の鴨山
(梅原)益田の高津川河口近くの沖合の鴨島、平安時代に地震と津波で消滅した

2.石川

(茂吉)江ノ川、粕淵付近
(梅原)高津川、益田

3.”石川の貝に交りて”(依羅娘子の歌)の解釈

(茂吉)石川の峡(かい)の間違い、石川は山の中のなので貝では説明できない
(梅原)人麻呂は水死であり、石川の河口で貝に交っている。

4.人麻呂の身分

(茂吉)都から派遣された従六位以下の下級官吏である。万葉集詞書きに”死”とあり、身分の低い人が死んだときに使われ、身分の高い人の場合は、三位以上”薨”、四位と五位”卒”と定められている。
(梅原)都で従四位下の身分の宮廷歌人であったが、何かの罪を得て石見国に流された。

5.人麻呂の死

(茂吉)湯抱に見回りに来て伝染病による病死
(梅原)鴨山で刑死(水死刑)、怨念を残して死んだ悲劇の人のみ神として祭られる。例、菅原道真、崇徳上皇。人麻呂の命日の3月18日は死んで死霊になった義経や和泉式部らに限られるため、柳田國男は人麻呂がなぜと疑っている。

6.辛之崎

(茂吉)那珂郡唐鐘(浜田市)
(梅原)邇摩郡韓島(大田市)


からの崎

2009-11-07 20:18:05 | 万葉

  つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛之埼(からのさき)なる 海石(いくり)にぞ 
  深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し児を・・・・
                           柿本人麻呂 (巻2-135)

 辛之埼は、かつて邇摩(にま)郡仁摩町宅野(今は大田市)にある韓島(写真)とされていたが、斎藤茂吉は韓島では国庁から離れ過ぎていると考え国庁のあった那珂郡国府町(今の浜田市)の唐鐘の岬を辛之崎と推定した。唐鐘(とうかね)を古代”からかね”とよんだと推定してのことで証拠はない。梅原猛は自著「水底の歌」で、辛之崎はやはり韓島で、人麻呂はこの島に流人として妻とともにいたとする。梅原は人麻呂が死人を見た讃岐の沙弥島(さみねの島)も流刑地だという。沙弥島は讃岐本土から2.5kmの沖合にあり流刑地に似つかわしいが、韓島は本土から200mと離れておらず流刑地として不向きに見えた。また、沙弥島は周囲2kmで自活のための耕作のできる平地もあるが、韓島は周囲400mほどと小さく、海岸線から急傾斜のずんぐりむっくりの島で耕作地にできる平地は狭い。隣に寄り添う小さな無木島と逢島と昔陸続きだったとしたら沙弥島程度の大きさとなり、流刑地として手ごろな感じになる。

  石見のや 高角山の 木の際(このま)より わが振る袖を 妹見つらむか (巻2-132)
  小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば (巻2-133)
                                 柿本人麻呂 

 この歌は、多方の人は、人麻呂が国庁の任務を終え、現地妻を残し都へ帰るときのものと解釈する。そのため、韓島から西に向かう行程では都と逆方向になり都合がわるいため、辛之崎や高角山を別の場所に求めるわけである。これに対し、梅原猛は人麻呂は罪人で、流刑地の仁摩の韓島から西の益田の鴨山(処刑地)に送られるときに、妻を思って詠んだものであり、高角山は益田の高津の山だという。この鴨山は、人麻呂終焉の地であるが、梅原は高津川河口の沖合にかつてあった島で、平安時代に地震と津波で沈んだという。

犬養孝の「万葉の旅」では、茂吉説に沿って、”からの崎”の章に唐鐘の写真を掲げている。
 
                        左:2009年11月初旬   右:犬養孝「万葉の旅」昭和30年代の唐鐘浦、大洞窟より猫島を望む。

 写真の日の日本海は大荒れで、大洞窟を強風が吹き抜け、猫島には大波が打ち寄せ砕けていた。犬養孝が見た猫島の上の松の木は消え、島の周囲には防潮堤が築かれている。大洞窟は礫岩を波が浸食した海蝕洞であり、洞窟を奥に抜けると1872年に隆起した石見畳ケ浦(天然記念物)という千畳敷がある。満潮だったため千畳敷は水没し見ることはできなかった。
沢瀉博士は唐鐘から東4kmにある大崎の鼻を辛之崎とするがこちらも根拠はないらしい。犬養孝は、”ここなら位置景情ともに好都合である。両地ともまだ推定を出るわけにはいかないが、人がいないだけに、こわいような自然の景観のなかに思いをめぐらすには格好の処だ。”と書く。位置景情が好都合とは、人麻呂が近くにあった国庁の役人であり、犬養はここで海藻採りの人々やウニ採りの漁夫を見たので歌の”荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす”の情景にも合うということである。ただし、奈良時代国庁は、仁摩の宅野にあり、平安時代に那珂郡国府に移ったという説がある。宅野に国庁があったなら、韓島を流刑地とした場合に監視は容易い。


浮沼の池

2009-11-04 22:30:33 | 万葉

 昨日11月3日、大山に初冠雪と報じられていた。同じ日、三瓶山頂もうっすらと雪化粧していた。左の山が男三瓶、右が見える山が子三瓶、そのさらに右の低く見える山が孫三瓶。男三瓶の影に女三瓶があるはず。手前の池が浮布池で、火山噴出物による堰き止め湖である。

  
左:2009年11月3日  右:犬養孝の万葉の旅 昭和30年代(1960年前後)

君がため 浮沼の池の 菱採むと わが染めし袖 濡れにけるかも
                    柿本人麻呂歌集(巻7-1249)

”愛するあなたのために池の菱の実をつもうとして、自分で染めた着物の袖をぬらしてしまいましたよ”(犬養孝訳)
犬養孝は、”この歌の浮沼が浮布池だとすれば”と、浮沼が浮布池であるとは断定せず、この歌を”石見の人麻呂と関係づけて考えられなくもない。”と述べ、人麻呂が歌った歌であるとも断定しない。柿本人麻呂歌集の歌のすべてが人麻呂作ではないと犬養孝は考えているようだ。「古代幻視」”人麿・人生とその歌”で、梅原猛は、”信じられないことだが、柿本人麿の歌の数について日本の国文学界はまだ定説を持っていないのである。”とし、自身は歌集の歌の分析から、人麻呂歌集の歌は人麻呂作だとする。以下は、梅原猛の大胆な人麻呂の年齢と作品分類であり、官位まで示している。

 時代      年齢      作品       官位
--------------------ー
   ~670   ~36歳  歌集・略体歌   五位下
680~689 36~45歳 歌集・非略体歌  五位
689~701 45~57歳 作歌・宮廷歌   従四位下か
701~708 57~64歳 作歌・地方歌   流人

漢文表記が略体歌、音訓交りが非略体歌、訓だけが万葉仮名。
”可憐な野趣にみちた田舎乙女の恋情”を詠んだ浮沼の池の歌が、石見に流人として来た人の歌とは到底思えないのだけど、私の印象は間違っているだろうか。

梅原は人麻呂歌集の歌の分析をさらに進め、古事記に先行する原古事記という書があり、その作者が人麻呂であるという説を唱えている。

<出雲風土記によると>

三瓶山は出雲の国引き神話で有名な佐比売山(さひめやま)である。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い国なので、佐比売山と火神岳(大山)に綱をかけ、新羅から国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

<気象庁HPからの要約>

三瓶山の中央部には直径約4.5kmのカルデラがあり、その中にはいくつかの溶岩ドームがある。約4500年前、約3600年前、それ以降で時期不詳の少なくとも3回の火山活動があったと推定されている。これらの火山活動の噴出物は主にデイサイトで、降下火山灰、火砕流、溶岩の噴出、火砕丘の形成、火山泥流の発生などが知られている。特に火砕流および火山泥流は遠方にまで到達した実績がある。


志都の石室

2009-11-03 20:49:25 | 万葉

大汝(おおむなち) 少彦名(すくなひこな)の いましけむ 志都の石室(いわや)は 幾代経ぬらむ
                              生石真人 (巻3-355)

大国主命(大汝=大己貴おおむなち)は少彦名とともに国造りをしたと古事記や日本書紀に記されている。二神は志都の石室で国家の経営を論じたのだろうか。志都の石室の伝説地のひとつ大田市静間町垂水の静の窟は、島根県発行の観光地図には載らず、国道9号から、車一台がやっと通れる細い間道に入り、目立たない立札に導かれやっとのことで到達できる場所である。万葉ファン以外に訪れる人はいないと思う。犬養孝も、”誰一人、旅の人の来ないところだから海水も澄明のかぎりだし、砂浜の汀には千鳥が群れ、鳴き声は波音にまじって、やがて岬の山にすいこまれてゆくように思われる。”と、閑静な風景を描写している。



犬養孝の昭和30年代との相違点

  1. 鳥居が立派になった。
  2. 鳥居の右手前の岩礁がなくなった。
  3. 左手前の岩礁の変わりに防潮堤が築かれている。
  4. 犬養孝は洞窟に入っているが、今は”落石危険入るな”と洞窟の入り口にロープが張られているため、入ることはできなかった。洞窟が口を開ける断崖は脆い凝灰角礫岩からなる。暗い洞窟の中を眼を凝らしてみると、小さな鳥居と石碑が立っていた。石碑は犬養の言う、”奥の中央に大正4年に立てた万葉歌碑”と思われる。
  5. 犬養孝の見た閑静な風景とは異なり、小雨混じりの強風で海は荒れ、日本海の厳しさが際立っていた。波が引いた隙をみて波打ち際に踏み出して写真を撮ったが、次の瞬間、大きな波が押し寄せ、膝下まで濡れてしまった。
  6. 今回の訪問者は車のカギを砂浜でなくし、小雨と強風の中、寒さに震えながらY君の援護を2時間半待った。

江戸初期まで洞窟の前に滝の前千軒という集落があったが、明暦二年(一六五六年)四月の大津波で一瞬にして海中に没したと伝えられる。車のカギをなくしたことと集落一つが消えたことを同列にして恐縮だけど、大汝神と少彦名神の祟りかも。

柿本人麻呂終焉の地で益田川の河口近くにあったとされる鴨山(斎藤茂吉の湯抱温泉近くの鴨山とは違う)も、平安時代の大津波で海底に沈んだというから、山陰の海はほんとうに荒々しい。

スペアキーを持って翌日車を取りに再訪したとき、静の窟の岬の上にある静間神社へ行ってみた。社伝によると、”光孝天皇仁和二年(886)二月八日の創祀。もとは、魚津漁港にある「静之窟」の中に祭られていたが、延宝二年(1674年)六月二十七日、洪水により崩壊したため、現社地(垂水山)へ遷座。”とある。静の窟前の集落が消えた1656年から18年後のことである。社殿には出雲大社拝殿と同じような大綱が張られている。面白いことに、神社の向かいにある沼の端にかわいい社があった。こちらの社殿にも、ちゃんと大綱が張られ、屋根には千木(2本のクロスした木)と鰹木(屋根に横に並べた木)がある。


鞆の浦

2009-10-07 20:14:56 | 万葉
昭和30年代後半、犬養孝が撮った”黎明の鞆の浦、手前・弁天島、後方・仙酔島”である。
下は今。


海人小舟 帆かも張れると 見るまでに 鞆の浦廻に 波立てり見ゆ  作者不詳(巻7-1182)

「備後の鞆は、こんにちでは、4~5月ごろの鯛網の観光や、弁天島から仙酔島にかけての風光のよさで知られているが、(中略)いまはさびれた港町となって 昔の由緒も、船具などの鉄工場のひびきの陰にわずかに余喘をたもっている趣きである」犬養孝
注:余喘(よぜん)をたもつ=滅びそうなものがかろうじて続いている

10月4日の日曜日に鞆の浦へ車で行った。写真の弁天島、仙酔島、万葉歌碑、常夜灯、坂本竜馬のいろは丸、古い街並みなど見どころは多かった。鞆の浦では街なかの交通渋滞の解消のため、埋め立てと架橋が下の写真の場所に計画されている。

中国新聞の写真にお絵かきした。

犬養孝が訪れた昭和30年代後半、鞆の浦の由緒はすでに虫の息状態だった。それから50年、鞆の浦の由緒は何とか保たれてきたが、埋め立てと架橋が虫の息までも止めてしまうはずだった。そして先週10月1日、広島地裁は、景観保護を目的として、埋め立てと架橋計画の差し止めを命じた。この判決で鞆の浦が生き残る可能性がでてきたのである。

吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞ無き  大伴旅人(巻3-446)

大伴旅人は太宰府から帰京する途上、鞆の浦を過ぎるとき、赴任先で亡くした亡妻を思慕する歌を詠んだ。むろの木は松杉科のハイネズという木で、仙酔島に自生するのを犬養は弁天島を背景に撮影している。



仙酔島には渡らなかったのでむろの木の写真を撮れなかった。代わりに弁天島と仙酔島への観光船発着場の向かいに立つ大伴旅人の万葉歌碑を載せておく。歌碑のとなりに立つ木は、松杉のたぐいだと思うのだが、むろの木であるという表示はなかった。上の写真のむろの木とは、少し違うような気がする。もしも、むろの木でないとしたら、むろの木の歌碑の脇に”紛らわしい木を植えるな!”


長門の島

2009-10-03 08:28:36 | 万葉

わが命を 長門の島の 小松原 幾代を経てか 神さびわたる (巻15-3621)
恋繁み 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島陰に 蘆(いおり)するかも (巻15-3620)
石走る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ (巻15-3617)
われのみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖辺の方に 楫の音すなり (巻15-3624)
4首ともに遣新羅使人

遣新羅使は、天平8年(736)、瀬戸内海を西進しながら長門の島に仮泊し、上の4首を含め8首の歌を詠んでいる。望郷、妻恋い、異郷のわびしさを歌っているけれど、都を出たばかりで新羅までの道のりはまだ遥かである。これから先のことを考えたら、気が狂いそうになるかもしれない。確か大使は新羅からの帰途、対馬で亡くなっている。(天平の鬱

長門の島に擬せられる倉橋島の桂浜に行ったのは先週の日曜日(9月27日)で、犬養孝と同じように、音戸の瀬戸にかかるラセン型の橋(昭和36年竣工)を渡った。


砂浜と海と遠くの島を見る限りでは、犬養孝の行った昭和30年代後半と違いがないように見える。海辺には万葉歌碑が立っていたが、犬養孝の頃もあったそうだ。しかし、海から陸に目を転じると、海岸の道路脇には町営の近代的な温泉や体育館や公民館が建っている。
写真の灯篭の脇に大きな鳥居があり、陸に向かって道路を渡ると桂浜神社がある。祭神は仲哀天皇と神功皇后とその子応神天皇である。確か、山口県宇部市の琴八幡宮の祭神も同じだった。都から九州にかけては、熊襲や新羅征伐に行った3神を祭神とする神社が多いのだろうか。絵馬堂の絵は保存状態が悪く色あせ破れさびれていた。


石見の海

2009-08-25 20:43:43 | 万葉
犬養孝の「万葉の旅」の見開きを飾る”石見の海”都野津付近の海岸の写真である。

柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れ上り来たる時の歌
石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺をさして 和多豆(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振(はふ)る 風こそ寄せめ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を(A)
露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)毎に 万(よろづ)たび かへりみすれど いや遠に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ(B)
夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門見む 靡(なび)けこの山(C)

恋人と別れた寂寞は石見の海の情景と重なるように自然と融合し(A)、別離の自覚は苦悶焦燥となり(B)、恋人への思慕は、あたかも恋人が目の前にいるがごとく想像させ、”靡けこの山”という激しい衝動に完結する。と犬養はこの長歌を解説する。

5月に都野津の海岸を真島より撮影した。


砂浜が犬養の頃(昭和40年前後)に比べ痩せているように見える。遠方には工場の煙突が見え、海岸沿いの開発は著しい。犬養は「万葉の旅」で、”真島の砂山に立てば東西ともに波音さえ人麻呂の楽を奏するようである”と述べ、人麻呂と同じ古代の空気を吸っているかのようだ。砂浜と海だけを見れば犬養と同じ感覚に浸ることができる。



真島。鳥居があったが何を祀っているかわからなかった。

上の長歌への反歌
石見のや 高角山(たかつのやま)の 木の際(ま)より わが振る袖を 妹見つらむか
小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば




神島

2009-08-17 09:33:17 | 万葉
月よみの 光を清み 神島の 磯廻(いそみ)の浦ゆ 船出すわれは   遣新羅使人 (巻15-3599)

お盆休みを利用して岡山県笠岡市神島(こうのしま)にある神島神社へ行った。犬養孝が上の写真を撮った年がわからない。本には玉島から船で西航20km、神島に着いたといい、さらに昭和45年神島大橋架橋とあるので、少なくとも写真は昭和45年以前のものだと思われる。下の写真の今と比べると、昔は①鳥居の前に海岸パラペットがなく砂浜が見える、②大きな松の木がある、③狛犬が大きい
海岸は石積みで固められ砂浜はなくなっていた。変わらないのは、鳥居と遠望の島々の形状だけである。



「こんにち島は半農半漁ながら外浦(南側)には神島化学の工場もあり、神島・笠岡間の干拓も計画されているから、いずれは大いに変貌をとげることだろう。」と犬養孝が危惧したとおり、神島の北側は完全に埋め立てられ本州と一体化し、讃岐の沙弥島とまったく同じ状況である。
昭和30年代以前はパラペットがなく鳥居の目の前が海岸なので、波浪の大きい日の社殿は波に洗われたに違いない。鳥居脇の狛犬は新しく、平成18年奉納の文字が彫られていた。古い狛犬はなぜ撤去されたのだろうか。

ネット(http://www.geocities.jp/kibi_setouchi/kounoshima/kounoshima.htm)で探してきた古い狛犬--これが犬養の写真に写っている狛犬だと思う。

神島神社は、神社縁起によると726年創建で、神日本磐余彦命(神武天皇)と皇后の興世姫尊(おきよひめのみこと)を祀る。神武は日向から大和への東征の途中、吉備に8年間滞在しており、興世姫は東征に同行せずこの神島にとどまり亡くなった。






人麻呂終焉の海

2009-07-12 10:30:33 | 万葉
「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」

梅原猛が鴨山の地であるという石見の益田川河口近くに、人麻呂終焉の地、”鴨島址展望地”の石碑が、福祉施設の入り口にひっそりと立っている。石碑の背後には背丈ほどの柵が立っていて、鴨島のあった海の方向が展望できないのはどうしたことだろうか。
益田市役所のホームページ(http://www.city.masuda.lg.jp/kanko/hitomaro_01.html)は、ここを紹介しているが、石碑の写真は海岸傍に立っているので、柵は最近できたものだろう。ホームページには地図が添えられていないし、手元の観光地図にも載ってないので、こんな辺鄙な場所を訪れるのは人麻呂マニアか梅原マニアしかいないだろう。


石碑の脇に上の地図と説明文があった。写真の赤いところが、かつて鴨島があった地点で、梅原はここで人麻呂は水刑死に処せられたという。鴨島は平安時代の地震と津波で水没したとされている。梅原猛の「水底の歌」には、ここに岩礁があり周辺より浅いとある。”水底の歌”発表後、梅原猛の指揮で潜水調査をしている。
以下は、読売新聞で連載されている平成万葉の旅の人麻呂・島根県益田の項である。
http://www.yomiuri.co.jp/man-yo/20090213-OYT8T00796.htm
梅原の後も現地調査が行われたが、海底に人麻呂神社跡は見つからなかったという。


飫宇の海(おうのうみ)

2009-02-01 11:28:37 | 万葉
島根県の中ノ海のことである。

出雲守門部王(かどべのおほきみ)、京(みやこ)を思う歌 

”飫宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば わが佐保川の 思ほゆらくに” 巻3-371

河原の千鳥が鳴けば、なつかしい都の千鳥の鳴く佐保の河原を思い出すという郷愁の歌である。佐保川は春日山から出て平城京を東北から南に流れる小さな川(”万葉の旅 上巻”に写真がある)であり、

”佐保川の 清き川原に 鳴く千鳥 かわづと二つ 忘れかねつも” 巻7-1123

という歌もある。



先週松江へ行ったときに写真を撮った。写真を比べると犬養孝”万葉の旅”の昭和30年代と変わらないように見えるが実は下の写真が”万葉の旅”とほぼ同じだと思われる意宇川の河口で撮ったもので、前方埋立地の工場群が背後の山を遮っている。上の写真は意宇川河口の先の埋立地に200~300m入り込み工場群を避けて撮影したもので背後の山並みの位置関係が万葉の旅とは微妙に異なる。下の衛星写真(Wiki写真を細工した)で黄点から大根島方向を撮影したのが上の写真で、赤点からが下の工場が入った写真。上の”万葉の旅”の地図とこの衛星写真をよく比べて見ると写真を撮った辺り一帯が大きく埋め立てられていることがわかる。
この日は、写真の右手方向(東)に雪を戴いた大山がくっきりと見えた。大山は古代から変わらないと思いたい。



中海干拓計画は”万葉の旅”の昭和30年代からあったようで、犬養孝は「千鳥の声など思いもよらないが、よどんだ水面はまだかすかに古代の郷愁をのせている。」と結んでいる。犬養孝が歩いてから50年近く経つが、写真を撮るために堰堤を歩いていると私の気配に驚いて水鳥が何十羽も飛び立ち、歌にある「河原の千鳥」の情景と 犬養孝の言う「あたりはまだまだ鄙びていて---古代をひそめている---」をわずかながらに感じることができた。
写真の奥の山と重なりわかりにくいが、海面に浮かぶように大根島がある。出雲風土記に”たこ島”または万葉集7巻に”栲島(たくしま)”と記された島で、第四期の玄武岩からなる。粘性の低い玄武岩溶岩が噴出してできたため山にならず平坦な島になったという。

沙弥島

2009-01-11 22:21:12 | 万葉
柿本人麻呂が訪れ石の中に死人を見て歌を詠んだ沙弥島(さみねのしま、地元では”しゃみじま”)に年末徳島へ行く途中立ち寄った。上の写真は犬養孝の”万葉の旅 下巻”にある昭和37年撮影のもの

讃岐の狭岑(さみね)の島に、石の中の死人(みまかれるひと)を視て、柿本朝臣人麻呂の作る歌

◎ 玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ
  神(かむ)柄か ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月とともに
  満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中の水門(みなと)ゆ
  船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに
  沖見れば とゐ浪立ち 辺(へ)見れば 白浪さわく
  鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 楫(かじ)引き折りて
  をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の
  荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺を
  敷栲(しきたえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に 自伏(ころふ)す君が
  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを
  玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは(2-220)

反歌二首

妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや(2-221)
沖つ波来寄る荒礒(ありそ)を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも(2-222)

今の写真

万葉の旅と同じ場所から撮ろうと手前の小山(新地山)に登ったが、犬養の写真とは異なり笹や灌木が繁茂し視界が開ける場所が見当たらなかった。

犬養はこの”さみねの島”に破格の6ページを割き、島の美しさと歌の抒情を伝えようとする。
「いま、沙弥島は好風絶佳ののどかな島だ。一本松ノ鼻では潮騒高く、ナカンダの磯では海底の玉藻の揺れもすきとおって見える。”夢のかけ橋”の実現や、坂出からの埋立てによって、この美しい風土と千古にひびく人間抒情の埋れ去る日のないことを祈らないではいられない。」と危惧している。
島の北側のナカンダの浜は上の写真のように犬養の頃と大きくは変わっていないように見える。埋立てによって坂出と陸続きとなり車ですぐ島を訪れることができ、ナカンダの浜の目の前に見える瀬戸大橋は絶景であるが、残念ながら”千古にひびく人間抒情”をもって人麻呂の歌を偲ぶには橋は余計なものであり島は開けすぎたと思う。


万葉の旅 上は坂出沖に見える沙弥島、下は島の南側の西ノ浜---埋立てによっていずれの風景も今は見ることができない。


ナカンダの浜から見た瀬戸大橋


左の地図は”万葉の旅”より、右は今(Yahoo地図)

梅原猛は”水底の歌”で九州への航路から遠く離れたこの島になぜ人麻呂は訪れたのだろうかと考える。沙弥島にある古墳はほとんどが人麻呂の時代のものであること、側面から見た島の形が前方後円墳そっくりであること、人麻呂が石中死人に同情しすぎていること、中国の沙門島という流人の島が有名であったことなどから、沙弥島は流人の島であったと推測し、人麻呂は自身の運命に重ね合わせているとするのである。



万葉の旅

2008-10-20 22:17:54 | 万葉


最近、万葉故地に行く時は犬養孝の”万葉の旅”を携行することにしている。”万葉の旅”は万葉歌ゆかりの土地を写真とともに紹介したもので、昭和30年代に本著編纂時に撮影した写真が掲載されている。上、中、下の3巻から成るが、西日本の下巻だけを持っている。本棚の片隅で見つけたのだが、いつどこで手に入れたのか記憶がない。昭和の終わりから平成の初めにかけての一時期、万葉集、特に犬養孝の本をよく読んでいたので、そのころのものには違いない。犬養孝の本は他に”万葉の人々”を持っているが、娘に預けた本も何冊かある。

上の写真は”万葉の旅”にある熊毛の浦(上関)の写真で、先週(10月15日)ほぼ同じ場所から撮った写真と比べてみた。万葉の旅の写真では、左手遠くにうっすらと灯台の影が見えるが、今は白い橋脚の影にみえる。無骨なコンクリート橋がこちら側の上関(長島)と灯台のある対岸の室津(本土)を結ぶ。古い写真の手前の船の屋根に「上関-室津」とあるのは連絡船だろう。電柱の向こうに見えるタンクはなかった。
”都辺(みやこへ)に行かむ船もが刈薦(かりこも)の 乱れて思ふ言告げやらむ
                     --羽栗(はくれ)--巻15-3640”
「都のほうに行く船があればいいなあ、思い乱れる慕情を伝言してやろうに」というのが犬養孝の訳文である。作者は遣新羅使一行の一員である。

下の写真は、上関から西に1時間ほど走った周防大島”大島の鳴門”で撮った写真の比較である。大島の北端から昔とほぼ同じ場所から撮ったが、瀬戸の真ん中の灯台は健在で、写真では何も変わっていないように見える。しかし、ここも上関と同じで、本の右下の地図にはない鉄橋が島と本土を結んでいる。



犬養孝の万葉の旅の写真を今と比較し、309ヵ所すべてを踏破した人のWeb-siteを見つけた。犬養孝の弟子と称しテレビにも出ている有名な方のようなので、了承はないが貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/manyou-kikou/