備忘録として

タイトルのまま

仙人

2016-09-22 21:28:18 | 中国

北斎は孔子や水滸伝や竹林の七賢人など、中国に題材をとった読み物の挿絵を描いている。Ukiyo-e.org databaseを検索すると他にも中国の歴史や故事に由来する人々の絵を描いていた。下の人物は、北斎が描いた羅子房(らしぼう)、鄭思遠(ていしえん)、王倪(おうげい)、憑長(ひょうちょう)という名の中国の仙人たちである。

この仙人たちの名前はネット検索に引っかかってこなかった。わずかなヒントを頼りに探っていくと、国立国会図書館のコレクションの中の『有象列仙全傳』という書物にその名前があった。この本は江戸時代、慶安3年(1650)に藤田庄右衛門が出版した中国の仙人列伝で、著者は明の時代の王世貞らとある。列伝は、老子に始まり、同じ道家の荘子列子はもちろんのこと、馴染みの墨子、帝舜、黄帝、西王母、秦の始皇帝をだました徐福、邯鄲の夢の盧生がいる。三国志に出てくる左慈と干吉、唐の詩人・白居易と李白もいる。目録に並ぶ人名を数えると581人だった。杜子春は仙人になれなかったから当然この列伝には入っていない。道教の神のひとりで仙人になることを目指した張良はこの列伝にない。あまりに実業の人すぎるという評価なのだろうか。

下に老子の部分をコピペしたが、記事は返り点付き漢文で書かれ老子が牛にのった挿絵がある。この本の挿絵は北斎のものではないので、この本以外にも北斎の挿絵になる別版があったということだ。江戸時代には返り点付き漢文を読める読者が相当数いたということがわかる。『殿、利息でござる!』の田舎の庄屋や商人をみても、一茶が村々を廻り庶民を集めた句会で教授料をとって生計をたてることができたことなどからも、江戸時代の庶民の教養は高く、それは日本の隅々にまで行き渡っていたと想像できる。一方、現在を生きるブログ主は漢字の語彙量が少なすぎて漢字辞典なしには読めず、北斎の挿絵にある4人の短い記事を苦労して読んだ。老子の記事はがんばってはみたが長すぎるのでかなり読み飛ばした。

  • 羅子房が乗っている船は空飛ぶ船らしい。雲に浮いている様を描く。
  • 鄭思遠は山中で母親を人間に殺された子虎を2頭連れ帰り育てる。父虎も思遠を慕うようになり思遠はいつも父虎と2頭の子虎を従えて出歩くようになる。上の北斎の絵のなかで思遠がよりかかっているのは虎である。
  • 王倪は老子の弟子で”飛走之道”を行い、いろいろな時代に現れて天に昇るところを目撃されている。
  • 憑長は天文を観る役人だったとき真人(仙人)に会い”太上隠書”(おそらく老子の書いた奥義)を授かり”仙用術”を得て、天に昇って去ったという。
  • 老子は”太上老君”なり。混沌の図にいわく。三皇、伏義、女媧、尭、舜などの世に化身となって出現する。玄妙玉女の胎内に81年いたのち楚の苦県の瀬郷の曲仁において左脇より生まれる。姓は李、名は耳である。大秦(ローマ)や竺乾(インド)に遊ぶ。孔子が老子に道について尋ねる。その後も様々な時代に老子の化身があらわれる。 

 


The Path

2016-09-10 19:00:06 | 中国

カナダにいる娘が贈ってくれた本書のタイトル『The Path』は中国哲学に限定すれば、道家の道(Tao)の英訳である。儒家と道家の道は異なる概念なのだが、副題が”What Chinese Philosophers can teach us about the good life"とあるように、本の目的が中国哲学から人生訓を学ぶということなので、人生訓=道と考えればいいのだろう。

本はピュエット教授が教えるハーバード大学での講義を書き起こしたもの(訳者:熊谷淳子)で、卑近な例を引いて中国の哲学者たちの教えをわかりやすく解説してくれる。それぞれの解説はわかりやすいのだが、儒家や道家の思想で聞きなれた中庸、性善説、性悪説、無為自然などの語句がなく面食らってしまった。ただ、宗教や哲学は、身近なものとして人生の道しるべにならなければ意味がないということに気付かされる。これまで中国哲学を単なる知識として詰め込んでいただけで、それを人生の中でどう活かしていくか、実践していくかという視点にまったく欠けていた。若い頃、荘子の万物斉同を知らないまま五体満足について友人と熱く語り合ったあの感覚を思い出していた。すなわち、万物斉同説などという難しいことばよりも、五体満足について真剣に考えて実践することに、より大きな意味や価値があるのだということである。そして哲学はその議論を深め行動するために補完的な知識を与えてくれればそれでいいのである。

ビュエット教授は、西洋哲学は、トロッコ問題のようなパラドックスに普遍的な答えを見出そうと躍起になったが、中国哲学は、トロッコ問題など日々の暮らしを生きるのに何の役にも立たないと断じたとする。孔子は弟子が死後のことを尋ねたとき、”いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん”と答え、今ここでできることに集中すべきだという姿勢を貫いたように、中国哲学は抽象的な西洋哲学よりもはるかに実践的なのである。先進世界で急増する不満や広がる格差社会、地球規模の環境破壊や人道上の危機に直面しているのに、西洋哲学は解決策を示せていない。中国哲学を日々実践することで我々が世界を変えられると本書は述べる。

孔子

これまで自分らしく生きること、あるがままの自分を受け入れることが重要だと考え、孔子が重視する儀礼的、形式的な礼には意味がないと思っていた。ところが、ビュエット教授は、あるがままの自分を受け入れることこそが無条件に自分にレッテルをはり自己をパターン化し向上心を失くすことになるという。”いくら自分探しをしても、単一の真の自己など存在しない”というのだ。礼こそがパターンだと思っていたが、礼が自分を変えてくれる。どういうことかというと、礼によって自分を仮の型にはめ、仮の役割を演じることで少しづつ自分が変わる。日常実践するあいさつや丁寧な言葉遣いを続けることで、感情を抑えることができるようになり、まわりの人に親切にするすべを感じとる能力が身につく。この能力が、””、すなわち人間の善性である。孔子は仁を定義せず、弟子たちにその都度状況に応じた仁を説いた。ドイツの哲学者カントはどんな人にもどんな状況にも当てはまる普遍的な法則になりうるような行動をとるべきだと論じ、カントにとっては、たとえ真実を述べて身内を不利にする状況であってもウソを禁じることが絶対だった。しかし、孔子は仁を実践するためにはウソをついてもいいとする。現実世界は複雑でそれを凌駕する普遍的な道徳や倫理は存在しないというのだ。

孔子の”七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず”と言う言葉は、礼を意識せずとも仁を実践できる境地のことだろう。

孟子

孟子は自身の挫折体験から世界は転変するものととらえた。だから複雑な世界において全容を見極めて決断を下すには、状況を見抜く能力を培う必要があると考えた。その能力は感情と理性の双方を合わせたもの、すなわち心でなければならない。人間はそもそも善の素質を持って生まれてきた(性善説)から正しい決断を下す能力を持っている。井戸に落ちた子供を救うというような単純明瞭な状況下だけでなく、もっと複雑な状況下でも、日頃訓練を積んでおけば心のままにものごとを広く大局的にとらえ正しい決断を下すことができるようになる。世界は転変し不安定だから、人生がどう進展するか予測不能である。しかし、それを運命として受動するのではなく、能動的に積極的に関わっていくことで、人生の岐路で心のままに正しい決断をし運命を方向づけることが可能になるのだ。そうすることで不安定だった世界が、無限の可能性に満ちた世界に見えてくる。

孟子”人事を尽くして天命を待つ”とは、運命を受容するという受動的消極的なことばではなく、能動的に天命に働きかけることだったのだ。

老子

老子はいかなる状況下でも、もっとも影響力のあるのは無為を実践する人だという。真の影響力は、あからさまな強さや意志ではない。影響力は、あまりに自然でだれも疑問を持たないような世界を作り上げる。それを実行した歴史上の人物として、リンカーンやルーズベルトをあげる。リンカーンは、すべての人が平等であるという概念はアメリカ建国の理念だとゲティスバーグの演説で聴衆に訴えたが、独立宣言にそのようなことは書いてないのに今やアメリカ人の一般通念になっている。それどころか独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは奴隷を所有していたという。世界恐慌のときルーズベルトはかつてない累進課税を課し経済を規制し金融機関を監督し、社会保障と福祉制度を導入し高齢者や貧困困窮者を救済し、その後アメリカは景気拡大期に突入した。しかし、多くのアメリカ人は政府が経済の規制や金融機関の監督に果たす役割を限定すべきだと考えている。そうした規制や監督が経済成長を鈍らせると信じているからだ。二人とも国民に気づかれないうちに国の方針を大変換したのだ。

老子第十七の無為自然の政治とは 儒教的な仁愛の政治も法家的な刑罰の政治もだめで、民衆に政治を意識させない政治が最上だとする。

荘子

荘子にとっての道とは、たえまなく流転し変化するあらゆるものと完全に一体化することである。理性は道との一体化を阻害する。訓練した自発性が身につけば、意識的な理性から自由になれる。これは、テニスプレーヤーがゾーンに入った時、無意識に絶妙のロブをあげるようなものである。自分中心から脱却し、自分の見方だけが唯一の見方ではないことを常に意識し、ものごとを違った目で見る。視点を変えれば、新鮮さと情熱をもって人生を経験できるようになる。区別や差別のない視点でものを見られるようになれば、人生のあらゆる局面をいとおしんで受け入れられる。死でさえも、道の終わりなき循環の一つにすぎないとして受け入れられる。らしい。

荘子の道において、差別と対立は人間の心が生じさせるもので、本来万物は斉(ひと)しい。だから、貴賤も賢愚も禍福も有用無用の区別もないのである。人間社会の価値体系そのものが絶対不変ではないのである。変化は無限に展開していく。だから、偏見を去り執着を捨て、さらには人間という立場をも捨て去り、世界の外からふりかえるとき、もはや生死の区別さえもが消え去るのである。

荀子

荀子は人為的に構築された世界をつくりだす人間の能力をよいものととらえていた。人間の自然への介入は、時に多くの危険な結果をまねく。しかし人間はずっとそうしてきたし、多くの問題を抱えているけれども、だからといって世界をよりよいものに変える人の力を放棄すべきではない。この世界を構築したのはわたしたちなのだから、わたしたちなら変えることができるとビュエット教授は述べている。

荀子もビュエット教授も自然は統御すべきものという考え方である。梅原猛山折哲雄も宮沢賢治も、このような西洋的(荀子は東洋だけど)な自然観を捨て、もっと自然に謙虚であれと、声を高くするのである。 


史記の世界

2015-07-27 01:12:50 | 中国

大奥話でさらに視聴率が芳しくない今晩の『花燃ゆ』に船橋屋の羊羹がでてきた。厳密には亀戸天神前にある船橋屋はくず餅が有名で何度も食べている。それはおいといて、高校の文化祭で演劇部が、洞窟のなかの飢餓で極限状態の人間を描く『ひかりごけ』を演じた。武田泰淳を知ったのはこのときだったと思う。おふざけ喜劇が多い中でのシリアスな出し物だったので印象に残っている。武田泰淳の『史記の世界ー司馬遷』は、史記の解説書である。

私のような読者が史記を読む楽しみは、本紀や列伝に登場する人物の人間味いっぱいの物語に心躍らせる即物的な楽しみである。伍子胥や屈原や孫子や始皇帝や劉邦や張良や韓信や李陵の物語はいずれも実話とは思えないほど小説的である。個々の物語は登場人物の個性に大きく依存してはいるものの、史実である以上、当時の社会情勢や思想哲学を背景とし、歴史的な意義や意味があるはずなのである。作者の司馬遷は各伝末尾の大史公自序で人物評をしているのだが、それは個人的な感想としかとらえられず歴史的な意義は読み取れなかった。それは単に読者の知識不足や読解力不足に起因するのだが、武田泰淳の解説書は、読者の浅学を補い司馬遷の視点を解説してくれた。

第一編・司馬遷伝

司馬遷の父である司馬談が泰山での武帝の封禅の儀に参加できず悲憤のうちに死に、自分のかわりに史書を完成させるよう司馬遷に遺言したこと、『任安に奉ずるの書』で宮刑を受けた身で史記を書くことに執着する自分の心情を吐露することで、大史公という歴史家の立場や司馬遷が史記を書いたときの状況がわかる。この任安への手紙は、史記にはなく、後漢書や文選に残っている。任安は知己の司馬遷に手紙を書き、朝廷での立場を利用し有能な人材を推挙することを説いた。ところが司馬遷は公務に忙しく何年も返信を出せずにいた。そのうち司馬遷は李陵の禍で宮刑に処せられ、さらに返信が遅れる。しかし任安が反乱の罪を得て投獄され、死刑を待つ身となったことから、返信しないままで死なせられないと、獄中の任安にあてて書いた手紙がこの『任安に奉ずるの書』である。手紙には、宮刑の恥辱と憤怒の中で史記を完成することに執念を燃やしていることが書かれている。直接的ではないが、自分や任安に罪をかぶせた武帝に対する怒りが見える。

当時の学問は、六派にわかれていた。陰陽家、儒家、墨家、名家、法家、道(徳)家である。司馬談は、「道家は、人の精神を集中させて乱さず、行動すべて無形の道にかない、万物をみち足らせる。その術は、陰陽自然の大きな道理にしたがい、儒家墨家のよきところをとり、名家法家の要旨をつまみ、時とともに移りうごき、物に応じて変化し、習俗をつくり、世事を施しても、すべてよろしく、そのおもむきも簡単で扱い易く、面倒もなく、効果が多い。」と述べ、道家がすぐれているとする。これは史記の列伝の大史公自序第七十に記されている。武田泰淳は、歴史家の仕事は、歴史的事実を前にして、何物にも規定されず無為自然、老荘の思想で臨まなければその仕事は為し難いと読み解く。

任安への手紙の中で、智、仁、義、勇、行の五つの徳が語られる。修身は智のしるしであり、施しを好むのは仁のきざしであり、取ること与えることは義のあらわれであり、恥辱は勇を決するところであり、名を立てるのは行の極みである。これらは論語や儒教の徳であり、司馬遷は儒家の董仲舒に師事したので儒家の思想の中にいることがわかる。しかし、父の司馬談は儒家を批判し、史記の中でも孔子や儒家は他家からさんざんに批判されている。

第二編・「史記」の世界構想

本紀

武田泰淳の述べる「人間の個性などは、激しい大きな歴史の動きの中では、まことにはかない微小存在に見える。」という感覚は、人間が生きていく中で誰もが感じる感覚だと思う。それでも司馬遷は、「人間個性のはたらきに眼をそそぎながら、歴史を書こうとしている」とする。秦の始皇帝や劉邦や項羽や呂后を世界の中心にすえて本紀を書いた。史記は本紀を太陽とすれば、その周りを列伝がまわっている図である。

世家

世家は分裂世界の一家一家の興亡を記し、ひとつの宇宙を構成し、それぞれの世家は相互に影響しあっている。その中で国を持たない孔子世家は特異である。なぜ司馬遷は孔子世家をつくったのだろうか、列伝でもよかったのではないかと武田泰淳は問う。孔子が魯の政治に悲嘆し、「喪家の狗(そうかのいぬ)」として諸国をさまよった。他の世家を否定することで自己の世家を主張しているとする。そして孔子世家は、列伝のいたるところで批判され列伝に連なっている。この部分の武田泰淳の説明は難解なのだが、孔子世家は政治的な一家ではなく思想上の一家としてひとつの宇宙を構成しているということを武田泰淳は言っているのだと思う。

列伝

列伝の最初に置かれた伯夷、叔斉は周の武王が義なく殷を滅ぼしたことに反対し世捨て人となった。司馬遷は自分の境遇と重ね、天さえ見捨てた人を歴史家である自分が拾い上げ歴史に名前を残すことができると宣言していると武田泰淳は解釈する。さらに列伝第一に純真無垢な精神主義の伯夷列伝を配し、最後第六十九に極端な物質主義の貨殖列伝をおいて対比させ、両者の間の列伝の登場人物が精神性と物質性のはざまで浮遊し徘徊する姿を描いているという。これを読んで張良のことを思いだした。張良はその功績に似合わないわずかな禄をもらい「仙人に従って遊びたい」と第一線から退き潔く身を処したように、劉邦亡き漢の宮廷にあって精神性と物質主義を絶妙にバランスさせた。

史記は思想史ではないが、思想を巧みに取り込む。老荘申韓列伝では、孔子が礼について質問すると、老子は「きみが言っている人たちはその骨とともに朽ちてしまった。ただその言葉だけが存在する」と答え、その形式主義、理想主義を批判した。この列伝では老子荘子、申不害、韓非子の黄老派(道家)の思想家が活躍する。司馬談の思想も道家系統である。一方、司馬遷は仲尼弟子列伝で孔子のことばである論語の中身を、”は人を愛すること、智は人を知ること”と簡潔に述べている。孟子荀卿列伝で、孟子は実務では役立たずだったので孟子七編を書いたと司馬遷に言われている。孟子とは対照的に、そのあとに出てくる科学者の騶衍(すうえん)は主人の心に合うように物事を考え実行したので政治的な成功を収めた。孔子も孟子も世俗におもねり主人の心に合おうとしなかったから主人を去らなければならなかったと司馬遷は批判する。

史記の文学者はことごとく政治家である。司馬遷の時代では丞相として武帝に取り入り権勢を誇った公孫弘を激しく非難し、同じ儒家で自身の師だった董仲舒の学問に及ばないと述べている。対照的に自分の提言が入れられず失脚した屈原が疲れ果て、世を怨み、自身の文学を述べた『離騒』は、「その志を想い見るに、日月と光を争うものと称して、さしつかえない」(功績が太陽や月の光と比較できるほど素晴らしい)と司馬遷は絶賛する。司馬遷は屈原に自分を重ね合わせ、佞人を重んじる武帝を間接的に批判する。

列伝の中心は英雄豪傑の武人たちである。思想家や文化人たちに比べ、武人たちの列伝は戦い、殺人、陰謀、反逆の繰り返しで殺伐としたものなのだが、武人たちは多様な個性を持ち、司馬遷は史記列伝で彼らの人間論、歴史論を展開する。史記の中で司馬遷は、武人たちが争いで命を失うことに「ああ悲しいかな」ということばを何度も発し彼らの運命を憐れみ嘆ずる。匈奴列伝は李陵事件を思いながら読むべきであるように、司馬遷は歴史の単なる記録者ではなく、歴史の批評家であり、政治に関わらずにはいられなかったのである。

史記に込められた司馬遷の感情や思想が示されたので、史記を再読すればより深みのある読書ができそうである。 


2015-05-10 13:34:10 | 中国

写真は数年前の誕生日プレゼントに長女が贈ってくれた『Confucius Analects』論語の英語訳である。もらったときに数ページを読んだあとは放り出し、学生時代に買った『論語』金谷治訳のとなりでほこりを被っていたのを本棚から引っ張り出してきた。論語はこのブログで断片的に引用していたが全体を通して読んでみようと思ったからだ。この四書(論語、大学、中庸、孟子)筆頭の書は松下村塾の塾生たちの必読書だからだ。ここでは、『Analects』と『論語』を比較しながら、松陰や孔子が命を懸けるに値すると言った仁について述べた箇所を拾った。

吉田松陰の『留魂録』に、「成仁の一死、区々一言の得失に非ず」という一節が出てくる。命を捨てて仁を成し遂げようとしているときに、些末な一言にこだわる必要などないのだと自分を戒めるこの松陰のことばは、以下の「論語 衛霊公第十五 九」に由来するという。

子曰 志士仁人 無求生以害仁 有殺身以成仁

志のある人や仁の人は、命惜しさに仁を害するようなことはしない、時には命を捨てても仁を成し遂げるという意味である。松陰や孔子が命を懸けてでも成し遂げる価値があるとする仁とはいったい何なのだろうか。国語辞典を引くと、仁は、”他者へのおもいやり、情け”などと説明されている。

前出の論語の一節の英語訳をみると、以下のように仁は”Goodness"、すなわち”親切”や”やさしさ”と訳されていた。

Tha Master said, "No scolar-official of noble intention(志士) or Good person(仁人) would ever pursue life at the expense of Goodness(仁), and in fact some may be called upon to give up their lives in order to fulfill Goodness"

この英語本には主要な用語の索引があり、”Goodness(仁)"の項では、”benevolence”という単語を使っている。この和訳は”慈悲”で、国語辞典の”他者への思いやり、情け”と似てはいるが微妙に違うような気もする。孔子の頃の仁は、慈悲だけでなく、もっと広い意味があったが、孟子の頃に”慈悲”と意味が狭まった、あるいはより具体的になったと『Analects』に書かれている。

巻第一 学而第一 三

「子曰 巧言令色 鮮矣仁」 先生は、ことば上手の顔よしでは、仁の徳はほとんどないものだと言われた。(巻第九 陽貨第十七 十七に重複する。) 『Analects』によると、巧言令色を弄する者は佞人(ねいじん)として、孔子はよほど嫌っていた。仁の反対語として佞を置き、仁が真実で内面の美徳とすると、佞は外面の虚飾とする。

巻第二 里仁第四 十五

「子曰 参乎 吾道一以貫之哉 参子曰 唯 子出 門人問曰 何謂也 曾子曰 夫子之道 忠恕而巳矣」  孔子が我が道はひとつのことだけで貫かれていると言ったことを聞いた門人が、どういう意味ですかと曾子に尋ねると、先生の道は忠恕のまごころだけだと答える。忠はうちなるまごころにそむかぬこと、恕(じょ)はまごころによる他人への思いやりで、忠恕は仁そのものと言われる。 『Analects』によると、忠はRoyalty(忠誠)よりもDutifulness(忠実)と訳すべきだとする。なぜなら、君主に背いても原則に忠実であることが忠だと論語にあるからである。恕はunderstanding理解と訳す。他者を理解することである。

巻第三 公冶長第五 十九

「未知 焉得仁」 誠実であっても清潔であっても、智者でなければ仁とは言えない。

巻第三 雍也第六 三十

「子貢曰 如能博施於民 而能済衆者 何如 可謂仁乎 子曰 何事於仁 必也聖乎 (中略) 夫仁者己欲立而立人 己欲達而達人 能近取譬 可謂仁之方也巳」 子貢が先生に、人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら仁といえますかと尋ねたところ、仁どころかそれは聖だと答えた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行き着きたいと思えば人を行き着かせてやる、他人のことでも自分の身近に引き比べることができる、それが仁の手立てだといえる。孔子は、子貢にどうすれば仁の徳を持てるかを説明している。『Analects』は、この一節が仁をより具体的に"benevolence"慈悲に近い徳のように述べている点において、後年の孟子での完成形に近いと解説する。

巻第六 顔淵第十二 一

「顔淵問仁 子曰 克己復禮為仁 一日克己復禮 天下帰仁焉 為仁由己」 顔淵の問に先生が答えて、わが身をつつしんで礼にたちもどるのが仁というものだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。仁を行うのは自分しだいだ。顔淵がその要点をさらに問うのに対し、先生は、「非禮勿視 非禮勿聴 非禮勿言 非禮勿動」と答える。礼にはずれたことはするなと言うのである。『Analects』によると、これは、後年の猿の彫刻”見ざる言わざる聞かざる”のもとになったという。

巻第六 顔淵第十二 二

「仲弓問仁 子曰 出門如見大賓 使民如承大祭 己所不欲 勿施於人 在邦無恕 在家無恕」 仲弓が先生に仁について尋ねると、先生は、家の外で人に会うときは大切な客にあうかのようにし、人民を使うときは大切な祭りを行うかのようにし、自分の望まないことは人にしむけないようにすれば、国にいても怨まれることがなく 家にいても怨まれることがないと答えた。

巻第六 顔淵第十二 二十二

「樊遅問仁 子曰愛人」、樊遅が先生に仁について尋ねと、孔子は人を愛することだと答えた。『Analects』では、この”愛人”の部分を「Care for others」と訳している。他人を慈しむこととでも訳せばいいだろうか。正しい人を人の上につければ、「不仁者遠矣」不仁の者はいなくなる。

巻第七 子路第十三 二十七

「子曰 剛毅木訥近仁」 先生は、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は、仁に近いと言われた。金谷治は、剛毅朴訥を、正直、勇敢、質実、寡黙と訳す。『Analects』では、resolute(丁寧)、decisive(果断)、straightforward(率直)、reticent(寡黙)と訳す。

巻第七 雍問第十四 五 

「子曰 有徳者必有言 有言者不必有徳 仁者必有勇 勇者不必有仁」 先生は、徳のある人は必ずよいことばがあるが、よいことばのある人に徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らないと言われた。『Analects』では、本編の番号は14.4で、雍問第十四の二が抜けている。金谷が参照した原本と異なっているのだろう。本節は学而第一の三の「巧言令色 鮮矣仁」に通じる。

巻第七 雍問第十四 三十

「子曰 君子道者三 我無能焉 仁者不憂 知者不惑 勇者不懼」 先生は、君子の道に三つあるが、わたしにはできない。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者はおそれないと言われた。『Analects』14.28で、本節は、孔子が門人に徳の習得には限りがないことを示したのだと解説する。

巻第九 陽貨第十七 二十二

親が死んで3年間喪に服さないのは、「不仁」だと孔子は言う。 『Analects』17.21 では「不仁」をbenevolence(慈悲)に欠けると解釈しているが、喪に服し親の恩に報いることは明らかなので、「不仁」は孝や忠に欠ける行為を指している。だから、仁の徳は、孝、悌、忠をも含むと思われる。三年喪に服すことは実務的ではないため孔子の弟子たちの間でも議論されてきたという。後年、孟子はこれをさらに発展させたらしい。

巻第十 子張第十九 六

「子夏曰 博学而篤志 切問而近思 仁在其中矣」 子夏がいった、広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近かに考えるなら、仁はそこにおのずから生まれるものだ。仁の習得方法が示されているのだが、この金谷治の訳ではよくわからない。『Analects』の次の説明の方がよくわかる。仁を身に着けるためには、広く学問し、学んだことを確実に自分のものとし、人の質問への答えが的を射て身近な出来事に反映できることである。

Explanation of ”Goodness (ren 仁)” in 『Confucius Analects』

Goodness refers to the highest of confucian virtue.(中略) One of Confucius' renovations was to transform this aristocratic, martial ideal into an ethical one. Ren仁 in the Analects refers to a moral, rather than physical or martial ideal. In post-Anallects texts, it has the more specific sense of empathy or kindness between human beings---especially for a ruler toward his subjects---and in such contexts is therefore usually translated as "benevolence". (中略) it is more commonly used there in the more general sense of "Goodness", the overarching virtue of being a perfected human being, which includes such qualities as empathetic understanding (shu 恕) or benevolence (hui恵).

仁は儒家の最高の徳とされる。孔子は、仁が貴族や戦士の物質的な理想であったものを、道徳と解釈した。論語以降、仁はより具体的に人間どうしの共感や親切とされた。それは特に支配者が被支配者に対してのものであり、その意味では慈悲(benevolance)とも訳される。通常、もっと一般的な感覚としては、親切(Goodness)という意味で使われ、完璧な人間の徳を包含し、その徳は共感や慈悲のような特質を含んでいる。

これまでの文節から、『論語』の設立時点で、仁をひとことで言うと、他者への”思いやり”だと思う。それは、他の徳である忠、孝、悌、恕、恵をも含むため、最高の徳だとされている。仁は、智で支えられ、礼で実践する。智と礼を学ぶには学問が大切なので、だから後年、大学や中庸の重要性が言われた。しかし、仁が思いやりや慈悲だとしても、孔子や松陰が言うように、それに命を懸けるだけの価値があるのかどうか、まだよくわからない。後年、孟子が仁を具体化したと『Analects』に書いてあったので『孟子』を読めばわかるかもしれない。以前、貝塚茂樹の解説本『孟子』を読んだが、孟子をかなり批判的に書いていたので、そればかりに着目してしまったため、仁や至誠に注意が回らなかった。松陰をはじめ幕末の志士たちは論語よりも孟子をより引用しているように見えるので、別の孟子本を読んでみたいと思っている。


大学・中庸

2015-04-26 15:04:28 | 中国

NHK大河『花燃ゆ』の評判は芳しくなく視聴率は10%を切っているらしい。私は視聴率とは関係なく視聴を楽しんでいる。史実にもとづく幕末を背景に、若い志士たちの性格を踏まえ、身近で生身の人間を描く脚本は野心的でレベルは高いと思う。ただ、ドラマの中心にある松陰の妹・文の心情に、私はまったく関心がないので、ドラマとして面白いかどうかは別の話ではある。

安政5年(1858)、幕府は日米通商条約を一方的に結び、松陰はこれを激しく批判し討幕を唱え始める。再び野山獄に幽閉された松陰は、文天祥同様、獄中で国を憂い浩然の気を養っていたが、幕府の弾圧は厳しく、安政6年(1859)に江戸送りになる。江戸に発つ前日、松陰は野山獄から自宅に戻り、弟子たちを前に最後の講義をする。

至誠にして動かざる者は、未だこれ非ざるなり

弟子たちと唱和し、野山獄で高須久子が松陰に贈る手拭いに縫い付けたこのことばは「孟子」で、その意味は”誠を尽くして心を動かさないものはいない”である。ところが、今日の『花燃ゆ』で松陰は至誠をもって井伊直弼の説得を試みるが、井伊の心は動かず松陰は斬首され小塚原回向院に埋葬される。松陰、享年30歳、いわゆる安政の大獄である。

松陰の行動規範は、当時の若者たちが学んでいた儒学、朱子学、陽明学、国学にある。萩の明倫館、松下村塾、野山獄の塾生たちは四書(論語、大学、中庸、孟子)と五経(詩経、易経、礼記、書経、春秋)をはじめいろいろな書物を勉強している。それら儒家の書に加え、兵学書、医学書、さらには禁書だった林子平の『海国兵談』なども読んでいる。森鴎外著『渋江抽斎』の抽斎は松陰らと同じ幕末から明治の知識人で、五経に楽経を加えた六経を読んだうえで、論語と老子の二書を守って修養すれば十分だと言っている。

『花燃ゆ』の志士たちに刺激を受けて金谷治訳『大学・中庸』を読んでいる。

『大学』『中庸』は『礼記』49編のなかにあり、その第31篇として伝えられてきた。『大学』は孟子より古く、孔子の弟子の子思子が書いたとされるが、その内容からは孟子よりあとの漢の時代の成立であろうとされている。『中庸』は孔子の孫である子思(BC483-402)の作だという言い伝えがあると『史記』の孔子世家に書かれている。しかし、本中の語句からは『大学』同様、漢代のものとするのが妥当であるとする。金谷は、中庸前半は史記の記すとおり子思の作で、後半の誠は後年付け加えられたのだろうと推測している。たくさんある儒家の書物の中より、大学・中庸を重要視したのは1200年頃の朱子で、自分が解釈した『大学章句』と『中庸章句』を書いた。

大学 

儒教は自己の修養を求める道徳と人を治める政治を中心とする思想(修己治人)であり、6章からなる『大学』はそれを組織的に簡潔に表現した書物である。大学教育、すなわち大人の最後の総仕上げ教育の目的は、個人の修養を国の政治に連続的に結び付けることである。それは、格物致知から始まり、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下へと進む。格物致知とは、知識を極めるなら物事の理(ことわり)を極めつくすべきだということである。正しい知識を身に着けたなら、意を誠にする。意を誠にするとは、”小人閑居して不善を成す。至らざるところなし”(朱子)なので、悪を戒め誠実になれということである。次に、心を正しくし、身を修める。心を正しくするとは、怒りや恐れや好楽を去り心を平穏にするということである。正心がなって身を修めることができる。身が修まったなら家が平らかになり、家が平らかなら国が治まり、天下は平定される。このように朱子は『大学』の注釈書である『大学章句』を表し修身の根本として致知格物を特に重視する。

中庸

中庸ということばは、極端に走らず中ほどをとることであり、『論語』の中で、”中庸の徳たるやそれ到れるかな”と孔子が讃嘆する。中庸は、アリストテレスの「メソテス」やブッダの「中道」に通じる。書物である『中庸』は、その中庸の徳を解説するだけでなく、後半では中庸の完成の基になる”誠”が重視される。

”天の命ずるをこれ性という” が『中庸』冒頭のことばである。人間の本性は天が命じるもので、本性のままに従っていくのが道である。道を踏み外さないようにするのが教育である。喜怒哀楽が動き出す前の平静な状態を、”中”という。感情の乱れがなく調和がとれていることを”和”という。”中”と”和”を実行すればあらゆるものが健全になる、中と和、すなわち中庸は最高の徳であると孔子は言う。『中庸』の後半、誠が中庸の実践に重要だと繰り返し述べられる。誠は大学にある誠意のことで、孟子の性善説に基づく人間の徳であり、松陰たちが唱和した至誠の誠である。天命の本性=誠であると解釈される。天が命じる人間の本性こそが善にもとづく誠意であるという天命の誠を説くのが本書『中庸』本来の目的であるが、書名を『中庸』としたところに含意があると金谷は解説する。

朱子は『中庸章句』の中で孔子、顔回(顔淵)、曾参、子思、孟子と連なる正当性を主張する。

孔子の”七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。”という境地が大学と中庸の目指すところで、私もそうありたいと思っているが、それは平時の個人目標である。松陰は世を憂え信条を曲げずに30歳で刑死した。平天下という目的は同じでも、中庸とは程遠い炎のような志は、70歳の老人の言葉とははるか遠いところにあった。孔子もブッダもアリストテレスも、心の平安を追求したが、平時ならいざしらず、乱世において中庸で人が動き世の中を変えられるのだろうかと思うのである。


多謝

2015-04-18 11:51:57 | 中国

 

上の竹簡を同僚から還暦祝いにもらった。多謝多謝。諸葛亮孔明の子を戒める書、すなわち子への遺訓である。読み下し文は以下のとおり。

夫れ君子の行は、を以って身を修め、倹(けん=つつましい)を以って徳を養う
澹泊(たんぱく=無欲)に非ずんば以って志を明らかにする無し
(ねいせい=穏やか)に非ずんば以って遠きを致(きわ)むる無し
夫れ学は須(すべから)くなるべきなり、才は須く学ぶべきなり
学に非ずんば以って才を廣むるなし、に非ずんば以って学を成すなし
慆慢(とうまん=怠惰)なれば則ち精を研く能わず
険躁(けんそう=心がとげとげしい)なれば則ち性を治むる能わず
年、時と興(とも)に馳せ、意、日と興に去り、遂に枯落を成す
多く世に接せず、窮蘆(きゅうろ=)を悲しみ守るも、将復(はたまた)何ぞ及ばん 

平静に修養しなさい。無欲でなければ志を実現できない。穏やかでなければ道の達成は遠い。学問は静から才能は学ぶことで磨かれる。学問が成らなければ才能は発揮できない。平静でなければ学問は成らない。怠惰なら精進できないし心がとげとげしければ性格を制御できない。年をとるのは早く、日々意志はなくなり老いぼれる。世間と接触せず、貧乏暮らしを悲嘆しても取り返しがつかない。

”静”が4回出てくる。孔明は、若いうちから冷静に怠けず修養し学問をしろと子を諭す。”少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず”(朱子)である。学問が成らなければ才能を発揮できない。1度目の人生は”将復何及”となってしまったが、2度目の人生への戒めとしたい。再次多謝。


則天武后

2015-01-25 23:22:20 | 中国

21日、陳舜臣が90歳で亡くなった。陳舜臣の『小説十八史略』や『中国の歴史』で知った中国の故事はどんな小説よりも面白かった。それまで、吉川栄治の『三国志』や大学の図書館に籠って読んだ『水滸伝』、『聊斎志異』、『紅楼夢』などで中国の物語には興味を持っていたのだが、歴史そのものに興味を持ち始めたのは陳舜臣の一連の歴史小説に負うことが大きかった。『中国の歴史』全15巻は新刊が出るたびに購入し読んだ。いつの頃からか『風よ雲よ』や『秘本三国志』など時代小説の中の虚構が受け入れられなくなって陳舜臣の小説からは離れていったが、その後も思い出したように『録外録』や『耶律楚材』、『敦煌の旅』などを読んでいた。

 李勣碑

陳舜臣が亡くなったニュースが流れたとき、たまたま中公新書の外山軍治著『則天武后』を読んでいた。則天武后は『小説十八史略』巻5に出てくる。則天武后は中国歴史上、最大の悪女、あるいは、劉邦の呂后、清の西太后に並ぶ三大悪女といわれる。唐王朝を簒奪し、周を建て自らを則天武后と称した。

  • 645 玄奘三蔵がインドより戻る
  • 649 太宗没、高宗即位
  • 655 武照儀が皇后となる
  • 663 白村江の戦い
  • 666 高宗は武后とともに泰山で封禅をする
  • 668 高句麗滅亡
  • 674 武后は天后と称する
  • 675 武后が実子で皇太子の李弘を弑する
  • 680 武后の実子の李哲を皇太子とする
  • 683 高宗没、中宗(李哲のち李顕)即位、すぐに廃位し、弟の叡宗(李旦)即位
  • (686 天武天皇崩御、690 持統天皇即位
  • 690 国名を周とし、武照儀は皇帝・則天武后となる。
  • 705 則天武后没、高宗の乾陵に埋葬される。同年、中宗が再度即位し唐に復する
  • 710 中宗は偉皇后により毒殺され、叡宗が再度即位
  • 712 玄宗即位
  • 716 吉備真備阿倍仲麻呂が遣唐使として長安に滞在

このころ偶然か必然か、日本では、斉明(655-661)、持統(690-697)、元明(707-715)、元正(715-724)、孝謙(749-758)と女帝が続いていた。

則天武后の名前は武照儀で、もともと唐の2代目皇帝太宗(李世民)の後宮にいた。649年太宗没後、息子の李治が3代目皇帝・高宗となり王氏を皇后とした。王氏には子供がなかったことから、高宗は男児を生んだ簫淑妃を寵愛する。これが気に食わない王皇后は対抗馬として出家していた武照儀を後宮に迎える。武照儀は聡明で、当初は王氏に献身的に仕え簫淑妃を追い落とすことに成功する。その間、武照儀は徐々に高宗の寵愛を受けるようになり、今度は官僚の多くを味方につけ王皇后から皇后の座を奪うことを画策する。皇帝側近の李義府は高宗の外戚(太宗の皇后の兄)である長孫無忌(ちょうそんむき)に嫌われたが、王皇后を廃し高宗お気に入りの武照儀を皇后とするよう上表し保身を図ろうとする。外山軍治は、家臣は職を賭して諌言することがあるが、李義府は甘言で職を守ったとダジャレで批判している。廃后について、太宗時代からの4人の重臣は皇后廃后の会議でそれぞれ異なる対応をする。長孫無忌と褚遂良(ちょすいりょう)は廃后に反対し、于志寧(うしねい)は態度を明白にせず沈黙し、李勣(りせき)は会議を欠席する。会議で廃后が決まらなかったため、高宗は李勣を訪ね意見を聞いたところ、”陛下の家事だから臣下は関知しない”と答えた。これによって高宗は廃后を決意し武照儀が皇后になる。皇后になった武照儀は、王皇后、簫淑妃を投獄したのち四肢をはね弑し、重臣4人のうち李勣を除く3人を左遷したのち死に追いやる。かつて李勣は太宗によって左遷され、高宗のときに都に呼び戻されたことがある。しかし、実はこれは太宗が我が子高宗を心配し、優秀な李勣に高宗に恩を感じるように仕向けた芝居だと言われる。外山は立皇后のときの李勣について、一度試された人間はその後自分の地位に保守的になると分析している。また、長孫無忌や褚遂良である文官を武官の李勣がこころよく思っていなかったことも二人に同調しなかった理由ではないかとする。後者の理由がより説得力があると思った。その後、李勣は高句麗戦で活躍し生を全うし太宗の陵墓である昭陵に陪葬される。上の写真は昭陵にある李勣碑で亀趺になっている。

高宗は即位後、性格が弱く健康にもすぐれず武后が政治を摂政するようになり、反対派を粛清し唐王室を簒奪する。その間、武后は一族の武氏を登用し、妖僧の薛懐義や美少年の張兄弟を寵愛する。薛懐義は大雲経に天女が即位するという一説があることから、武后は弥勒仏の下生(生まれ変わり)であり帝位につくべきだと言い始める。武后は即位すると仏教を優遇し全国に大雲経寺を造営する。武后と薛懐義の関係は、孝謙天皇と道鏡に重なり、大雲経寺は聖武天皇の国分寺建立に重なる。しかし、武后は薛懐義が図に乗ってくると彼を見限り始末したように単に気まぐれだったように思うのだが、外山は彼女のバランス感覚が優れていたとする。

則天武后は”君を弑し国を奪った”権勢欲のかたまりであるとして一般的に評価は低いが、中には人材登用を進め唐帝国を発展前進させたと評価するものもある。外山軍治は、武后がけたはずれに聡明で周到に準備して自身の描く目的を達成し、自分の帝国を築くことに成功したとする。そして、文化面での貢献を高く評価する。王羲之に代表される書の発展、仏教保護、則天文字の発明、四字年号の採用、官庁や官職の改名など、武后によって独創的な唐文化が花開いたとする。確かに即物的短期的に賢い女だったとは思うが、結局、彼女一代限りの王朝で、一族はその後粛清されたことから、大局的には問題の多い帝王だったと思う。


長安

2015-01-10 16:30:44 | 中国

昨年の初詣は水天宮で盛りだくさんのお願いごとをし、ほぼ願い事が叶ったので本来ならお礼参りに行くべきところ、今年は1月2日に仙台から上京してきた友人夫婦と待ち合わせして亀戸天神へ行った。天神さんは学業成就だけでなく、社殿に掲げられたご利益は家内安全、商売繁盛、交通安全、病気平癒など10以上に及び、考えられる願い事のほとんどすべてを網羅する心の広い庶民の神様なのである。八方美人的な天神さんのご利益を疑うわけではないのだけれど、お賽銭の多寡はご利益に無関係だという新聞記事にも勇気づけられ、さらには魔法のランプの魔神なら願い事を確実に叶えてくれるはずだなどと不謹慎な事を考えながらお参りをした。そして『アラジンと魔法のランプ』の舞台が長安だったことを思い出していた---本題に入るために少し強引で誇張はあるけれど、そういうことにしておこう。

アラビアンナイトの舞台は当然バグダッドなどのペルシャ地方の話だと思い込んでいた。絵本の挿絵やディズニーのアニメでは、砂漠やモスク風の丸屋根の宮殿を背景に、ペルシャ服を着てターバンを巻いた若者やベリーダンス衣装の美女など朱髯緑眼(しゅぜんりょくがん)の人々が活躍するのだから当然である。ところが、昔子供たちに買った絵本に”長安の仕立て屋の息子アラジンはーーー”とあり大変驚いたものだった。アラジンが実は中華風の長安の街で大活躍し、最後は(唐の?)姫君と結ばれるとは想像もできなかった。なぜ長安なのか。最近読んだ長澤和俊『シルクロード』にそのヒントが書かれていた。

第十章 唐代のシルクロード

ゾグド人の隊商の通商活動によって、唐の長安にはさまざまな西域文化が流行した。7~8世紀のアジアでは西のバグダードとともに東の長安が、世界的に最も繁栄した国際都市であった。数々の西方の珍貨を積んだ朱髯緑眼のソグド人の隊商は、はるばる西域から敦煌をへて、唐の長安にやってきた。これによって宝石、香料、金銀細工、象牙細工、織物、薬品など、唐人の珍重するササン朝ペルシャの物産が輸入された。長安の市場にはソグド人やウイグル人も珍しくなく、酒場へ行けば胡姫が胡酒(ぶどうしゅ)をすすめたと詩に歌われるほど、盛唐時、とくに開元天宝時代の長安は、ペルシャ・モードにあふれていた。(胡=異民族)

『旧唐書』輿服志によれば、”開元年間以来、----太常(宗廟の儀式を司る官命)の薬は胡曲を尚び、貴人の食事はことごとく胡食を供し、士女は皆競って胡服を衣る”ようになったという。

李白 ”何れの処にか別れをなすべき 長安の青綺門 胡姫 素手もて招き 客を延(ひ)いて金樽(よきさけ)に酔わしむ ---” 「斐十八図南の嵩山に帰るを送る」

このように、唐代の長安では、ペルシャ文化が大流行していたのである。さらに、

 7世紀中葉、ササン朝ペルシャの滅亡により、多数のササン朝の遺民が長安に亡命したと推定されることである。ササン朝ペルシャは642年、ネハーワンドの戦いに敗れて以来、アラブ軍に支配され、その遺民はトハリスタンに逃れた。674年にササン朝の王子ペーローズは直接長安に来て請兵救援を求めた。ペルシャ遠征を試みるが叶わずまもなく長安で病没する。ササン朝王族とともに多くの家臣、工芸家、芸術家が行をともにしたことは当然であろう。

『旧唐書』楊貴妃(719~756)伝によると、”宮中の供貴妃院は織錦刺繍の工およそ700人、彫像鎔造も数百いたーー”とあり、その中には多数のササン朝の遺民工芸家が含まれていたであろう。

唐の長安には実際にペルシャ人が大勢移り住んでいた。アラビアンナイトはササン朝時代の中世ペルシャ語で書かれ、8世紀ごろバグダッドで成立したと言われる。その後、多くの説話が付け加えられ、現在のアラビアンナイト物語集は成立当時の姿の何倍にも膨らんでいる(wiki)。『アラジンと魔法のランプ』は長安に住んだペルシャ人が作った説話だったに違いないと思うのである。姫君は中国人の可能性があるが、アラジンが中国人だったというわけではないと思う。

ササン朝ペルシャはイスラム教の創始者ムハンマド(570~632)の後継者(3代目カリフ)によって651年滅亡する。ササン朝の王子ペールーズが遺民を引き連れて長安に救援を求めるのはその後674年のことで、その時の唐の皇帝は第3代・高宗である。高宗のとき、倭が百済を助けるため唐と新羅の連合軍と戦った白村江の戦い(663年)があり、敗れた百済は滅亡し、ほどなく新羅が朝鮮半島を統一する。第9代・玄宗の治世は712~756年で、吉備真備が1回目の遣唐使として唐に渡ったのは716年、2回目は750年だった。阿倍仲麻呂が唐に滞在したのは716~770年で、彼らはペルシャ文化花盛りの長安の空気を吸ったことになる。アラジンが長安で活躍し、奈良の正倉院の宝物にもペルシャ文化の影響がみられるように、東西世界が密接に関連しあっていることがわかる。


さまよえる湖

2014-12-22 00:58:50 | 中国

「シルクロード」、「敦煌」、「楼蘭」などということばに憧れて西域本を読み漁った時期がある。たぶん、NHKの番組「シルクロード」や井上靖や陳舜臣の本の影響だったと思う。その中でも、スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンの「さまよえる湖」はもっともロマンをかきたててくれた。楼蘭はロプノール湖畔に発展した国で、5世紀末ごろ湖の消滅とともにその姿を消す。ヘディンは1896~1901年の1回目の探検旅行では存在しなかったロプノール湖が、1921年に突然出現したという報を受け1934年再度探検にでる。ヘディンは中国新疆ウィグル地区のコルラからカヌーでクム・ダリヤ川を東へ下りロプノールを目指す。ロプ・ノール湖畔では”楼蘭の王女”と名付けたミイラを発見する。ヘディンが楼蘭の王女と呼ぶミイラは、1979年にNHKと中国合同のシルクロード調査隊が発見した”楼蘭の美女”とは別のミイラである。

写真は古本屋で買った訳本である。下巻はまだ手に入れていない。表紙に、”幻の湖ロプ・ノールは1600年周期で南北に移動・交替する湖なのである。この壮大な学説を提唱したヘディン(1865-1952)が、みずからの仮説を実地に検証し長年の論争に決着をつけるべく旅立った念願の探検の記録”とある。しかし、ヘディンはこの本の中で1600年で周期するなどとは一言も言っていないという。少なくとも上巻では触れていなかった。本にはヘディンが鉛筆書きした表紙絵のようなスケッチと写真が満載で、おそらく井上靖も初めて西域に足を踏み入れるまでは、このようなスケッチや写真で旅情をそそられたに違いない。以下は、長澤和俊『シルクロード』からの情報を中心に、司馬遷『史記列伝』の匈奴列伝、長澤和俊訳『法顕伝』と『宋雲行紀』、玄奘三蔵『大唐西域記』から該当箇所を拾った。

文献上の楼蘭

ロプノール湖の湖畔に栄えた国家が楼蘭であり、その後、中国の支配下に入り鄯善(ぜんぜん)国と呼ばれる。法顕は往路の紀元400年頃に1か月ほど滞在し、国の様子を以下のように書き残している。

その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服は大体中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なっている。その国王は仏法を奉じ、国内にはおよそ4千余人の僧がおり、すべて小乗学である。諸国の俗人と僧侶はことごとくインドの仏法を行っているが、内容は精粗さまざまである。この国から西方の通過した諸国は、大体みなこのような状態であった。ただ国々の言葉は同じではないが、出家の人は、みなインドの言語と文字を習っている。

6世紀始めにガンダーラへ経典を求めて行った宋雲の旅行を記した『宋雲行紀』には以下のように記す。

土谷渾城から西行3500里で、鄯善城に至る。鄯善城はもと自分たちで王を立てていたが、土谷渾のために併合され、今の城主は土谷渾王の次男の寧西将軍である。彼は3000を統べ、西方の異民族を防いでいる。

法顕が400年に立ち寄った鄯善国のすぐそばを620年頃インドからの帰路に通った玄奘三蔵は『大唐西域記』で以下のように記す。

さらにここ(チェルチェン)より東北へ行くこと千余里、納縛波の故国に至る。すなわち楼蘭の地である。

長澤和俊『シルクロード』によると、楼蘭の名が史上はじめて現れるのは、紀元前176年、漢の孝文帝に送られた匈奴の冒頓単于の手紙だという。そして7世紀の初めころに滅んでしまったと思われると書いている。張騫が西域に派遣されたのは紀元前135年頃なので、それよりも40年程前のことである。史記の匈奴列伝を紐解くと、冒頓単于が孝文帝に送った手紙があった。

天がお立てになった匈奴の大単于は、敬(つつ)しみて皇帝に挨拶を送る。お変わりはないか。----(中略)----(わが匈奴の)軍官兵卒はすぐれ、戦馬は力強く、月氏を滅亡させ、全員を斬り殺したり降伏させたりした。楼蘭、烏孫、呼掲(こけつ)およびその近辺の26か国を平定し、すべて匈奴の領土とした。

法顕、宋雲、玄奘三蔵はいずれもロプノール湖に言及していない。

カローシュティー文書

20世紀初頭にヘディンやイギリスのスタインが楼蘭付近でカローシュティー文書と呼ばれる文書を発見し、その解読によって国の歴史が徐々に明らかになる。カローシュティー文書はインドのサンスクリット文字の方言で書かれ、中央政府からの命令を伝えたものであることがわかった。文書群の大半は木簡に書かれ、ほかに若干の皮、紙、絹の文書が残っている。文書には王名と在位年が記されており、研究者はそれと中国との交渉史を比定して絶対年代を推定している。研究者によって比定された年代は若干異なるが、いずれも3~4世紀の文書とする。この時期の楼蘭は、インド・クシャン朝の植民王国であったことは確実視されている。400年に法顕が立ち寄ったときの、”みなインドの言語と文字を習っている”と符合する。クシャン朝のカニシカ王は楼蘭の西の于闐(ホータン)出身という説もあるという。

文書には、行政組織、町や村の税収単位、奴隷制度などが記されている。法顕が見たように宗教は仏教で、僧侶は妻帯が認められ官職にも就き、土地・奴隷を持ち豊かな生活を送っている。ロプ・ノール南方のミーラン遺跡からは多数の仏塔や僧院が発見されている。西方文化であるグレコ・ローマン(ギリシャ・ローマ)風の有翼天使像やフリギア(トルコ)帽の乙女像の壁画が出土している。 

考古学上の楼蘭

ヘディンはロプノール湖の西北岸に楼蘭城の廃墟を発見し、カローシュティー文書や漢文木簡や紙片を発見した。また、同じ頃、スタインも楼蘭の西端にあるニヤ遺跡や楼蘭遺跡を発掘し多数の古文書を発見した。1979年に発見されたミイラはDNA鑑定により、漢人と白人の混血女性ということが判明している。また、同位炭素法で判明したミイラの年代は紀元前19世紀だった。

楼蘭王国の滅亡

 6世紀の梁の職貢図に、近くの于闐(ホータン)や高昌国や亀茲(クチャ)からの使節はいるが、楼蘭あるいは鄯善国からの使節はいない。楼蘭は、5世紀中頃には中国に支配され独立性を失っている。5世紀末には相次ぐ遊牧民の侵入で街は荒れ果て人々は故郷を捨てる。そして楼蘭はいつしか砂漠に埋もれ人々の記憶から消えてしまう。

Google検索するとロプノール(罗布泊)は今はなくなっていた。wikiによるとロプノールは20世紀半ばまで水があったが、タリム川につくったダムなどによって干上がったという。地図の中の水色の四角は、貼りついた写真によるとロプノールを再現した人口の湖(プール?)のようである。今やロマンは消え去り、ロプノールは記憶の中だけの”さまよえる湖”になってしまった。ヘディンや井上靖が生きていたら何と言っただろうか。


張騫

2014-10-23 01:05:39 | 中国

先に法顕玄奘三蔵について書いたが、根本史料である『大唐西域記』と『法顕伝』を読んでのものではなかった。その二書をずっと大型書店や古本屋で探していたが結局見つからずアマゾンで中古本を購入した。購入したのは東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』長沢和俊訳注と、平凡社中国古典文学大系22『大唐西域記』玄奘著水谷真成訳である。『法顕伝』と『仏国記』は、隋書の史伝部で『法顕伝』、地理部で『仏国記』と別名が使われているが中身は同じである。『法顕伝』は短かったのですでに読み終えたが、『大唐西域記』は大書のため、相当の覚悟で読み進めなければいつ読破できるかわからない。

法顕は西暦400年頃、玄奘三蔵は西暦620年頃に長安を出発し、敦煌を通り西域を経由してインドすなわち天竺を目指した。彼らよりはるか以前の紀元前135年頃、張騫(ちょうけん)は漢の武帝の命を受け西域に入り大月氏に向かった。張騫のことは史記列伝第63の大宛列伝に書かれている。漢の武帝は匈奴撃滅のため、その西に位置する月氏と協力して匈奴を挟撃しようと考え、月氏に使者を送ることにした。郎という漢の役人だった張騫は使者に応募し採用された。張騫は敦煌を出たあと匈奴に捕えられ、その地に10年留め置かれた。隙を見て逃げ出した張騫は、そのまま月氏を目指し、大宛、康居を経由し、大夏にいる大月氏の王に会うことができた。しかし、大月氏は漢の地が大夏からは遠く離れていることと匈奴と戦いたくなかったため、張騫は結局大月氏よりいい返事をもらうことはできず帰途につく。張騫は帰り道で再び匈奴に捕えられ1年余り捕虜となったが匈奴の相続騒動の混乱に乗じて逃げ出し、13年目にして長安に帰り着くことができた。同盟はできなかったが張騫は西域の貴重な情報を持ち帰った功績を認められ太中大夫となった。 

下は、英語版Wiki”張騫(Zhang Qian)”と日本語版Wiki”楼蘭”にある西域の地図である。

青い地名 中国=China、匈奴=Xiongnu、大宛=Dayuan(フェルガナ=Ferghana)、康居=Kangju(ソグディアナ=Sogdiana)、月氏=Yuehzhi、大夏=Daxia(バクトリア=Bactria)

その他の地名、楼蘭=Loulan、姑師=Gushi、干=Khotan、小月氏=Lesser Yuehzhi、烏孫=Wusun、羌族(チベット系とされる)=Qiang、蜀=Shu、身毒(天竺)=Shendu(インド)、安息=Anxi(パルティア)、条枝=Tiaozhi(シリア) 

張騫が長安に戻ったあとの紀元前123年、武帝は衛青を大将軍として匈奴討伐を命じ、部隊長として同行した張騫は水や牧草のあるところを知っていたので作戦は成功する。紀元前121年再び李広将軍(李陵の祖父)とともに匈奴を攻撃したが、張騫は李将軍と合流する期日に遅れたため失脚し平民となる。平民となった後も武帝はたびたび張騫を召し出し西域のことを尋ね、張騫もまた様々な進言を行った。武帝は張騫の”匈奴を圧迫するため烏孫と連合すべき”という進言を受け入れ、張騫を復権させ再度西域に派遣する。張騫は烏孫に赴くと同時に、烏孫以西の安息、条枝、身毒などの国々にも部下を送った。烏孫との交渉は成功し、烏孫以外の国々も次々と漢と交易を始めた。西域からもたらされた代表的な物品は馬と葡萄酒で、漢からの主要な交易品は絹だったため、シルクロードは張騫によって開かれたともいわれる。一方、政治的には匈奴と漢の力関係が流動的で、楼蘭などの西域諸国は友好と離反を繰り返し、漢はその都度、使節と軍隊を送った。同時に漢は酒泉から玉門関、さらには西方の塩水(楼蘭のロプノール)に至るまで要所要所に守備隊の物見台を置いた。

法顕や玄奘は立ち寄った西域の都市の宗教や僧侶の数、仏跡などを細かく書きのこしているが大宛列伝は宗教について触れていない。仏教が正式に中国に伝搬するのは後漢の時代とされているので、西域各都市の宗教はまだ仏教ではなかったかもしれない。また、紀元前3世紀のアショカ王は多くの遺跡を残すが仏像はなく、ガンダーラ(上図バクトリア内にある)などに見える仏像は2世紀のカニシカ王の頃から作られ始めたと言われる。カニシカ王はホータンの小月氏の出身だという説があるらしい。

大宛列伝の最後、”太史公曰く、『禹本紀』に黄河は崑崙の山から源を発する、--としるされる。ところが張騫が大夏に使者として赴いたあと、ひとはついに黄河の水源をきわめた。かれらは、--崑崙の山など見つけはしなかった。だから--『尚書』の記述が真実に近いことになるのである。『禹本紀』や『山海経』に書かれている奇怪な物どもについて、わたしは語ろうとは思わない。”と、司馬遷はいつものように迷信や虚構にとらわれず現実主義である。

ところで、井上靖の原作を映画化した『敦煌』でウイグル(干闐ホータン付近に住む)の女王役だった中川安奈が亡くなったというニュースが数日前に流れた。この映画でデビューし、エキゾチックな顔立ちの美人だったので人気が出るだろうと思っていたが、当方はシンガポールに住んだ所為なのか以降映画やテレビで見かけることはなかった。合掌。

今日シンガポールはヒンズー教の祭日ディーパバリである。


梁職貢図

2013-07-06 22:05:37 | 中国

 中国の梁(502~557年)に朝貢していた外国使節を描いた職貢図(wiki)というものがある。526~539年に作成されたとされているが原本は存在せず1077年宋代の模写である。

梁に朝貢した各国使節像がカラフルに描かれた巻物で、倭や朝鮮半島の百済、新羅、高句麗、法顕が立ち寄った西域の亀茲国や于闐(ホータン)、さらには波斯(ペルシャ)などの國使がいる。渤海の建国は713年なので使節の中には含まれていない。下は倭國使の部分を抜き出したものである。

倭の國使は、頭に布を巻き、上衣らしきものをはおり、腰には布を巻き、手甲脚絆、裸足のいでたちである。隣りの狼牙脩国(マレーシア半島付近にあったとされる国)の國使も似たようないでたちである。人物像の隣に国の説明が書かれている。相当欠損しているので読み取れる字だけを下に記す。

倭國使

倭國帯方東南大海中依山島居自帯方循海東乍南乍東對

其北岸歴三十餘國可方餘里倭王所xx在会稽東氣暖地温

出真珠青玉無牛馬虎豹羊 (欠落) 面文身以木綿帖x衣

横幅無縫但結 (欠落)

(ここから左は”河涼二州”や”隴西”などの文字があり西域の國の記事と思われる)

 記述は魏志倭人伝の内容とほとんど同じで、魏志倭人伝を参考にしていることは明らかである。魏志倭人伝、正確には魏志東夷伝倭人条は、西晋の陳寿が3世紀末に記した正史で、邪馬台国と卑弥呼で有名である。靴を履いていない國使は倭國使の両隣を含めわずかで、大半の國使は皆靴を履き色鮮やかな正装をしている。そのため、倭の國使を実際に見て描いた図ではなく倭人伝の記述から想像で描いたのだろうという説が一般的である。しかし、百済などの國使の貴人顔に比べ、倭國使は、あごが張り鬚は濃く腰回りもがっしりしていて野性味があり、リアルである。以前、吉備真備の巻で大伴古麻呂が唐での朝賀の際、日本の席次が新羅の次だったことに抗議し、席次を入れ替えさせたことを書いたが、この倭の國使ならそれくらいのことはしそうである。野生的でありながら、合掌してへりくだった様子も出していて、自分を相手の交渉は一筋縄ではいかないぞという雰囲気を出している。いかにも倭人(日本人)らしく好きである。

 実は、この梁職貢図の存在を全く知らなかった。高句麗の広開土王(好太王)のことを調べている時に、新羅の記事でひっかかり知った。広開土王碑は中国吉林省にあり、広開土王の息子が父王の業績を称えるために414年に建てた碑で、”391年倭が海を渡り攻めてきた”という解釈が、関東軍諜報機関の改竄だとか、読み方が違うとか、主語が違うとか、日韓中の歴史学者の間で論争になっている。改竄説は改竄したとされる年よりも以前の拓本が出てきたことで根拠がないことが判明した。漢文は主語が不明瞭、動詞と名詞の区別が不明瞭、動詞に時制がない上に、碑文に判読不能の文字もあるため、解釈が割れているのである。職貢図の新羅國使の文中に、”或屬韓或屬倭 (新羅は)あるいは韓に属しあるいは倭に属した”とあり、4~7世紀に倭軍が朝鮮半島にいた、または行った、あるいは百済や新羅と密な交渉史があったことだけは明らかなようである。古田武彦の倭=九州王朝説は、倭は対馬海峡を挟む海洋王国だったというものであり、奈良を中心とする大和王朝とは別系統とする。古田の一連の著作で初めて九州王朝説を知ったときは衝撃だったが、最近顧みられなくなっているのが何とも寂しい。古田武彦は早い段階から、広開土王碑文改竄説を批判していた。


老荘と仏教

2012-05-19 17:11:48 | 中国

 統計的根拠はないが、シンガポールの人口比率の中国系75%、インド系10%弱に比べて、インド人弁護士の比率が高いように感じる。インド人が論理的な思考に優れているため弁護士業に向いているからだと理解している。以前にも書いたが、シンガポールには、”中国人が3人寄ればギャンブル、インド人が3人寄れば議論を始める”ということわざがある。個人的にも、これまで出会ったインド人は議論に長けていて、理屈に合わないことに妥協することはなく自分の主張を曲げない人が多かった。中国系華僑もタフな交渉相手だが、それでも議論が平行線をたどった場合には大抵現実的な決着が期待できるが、インド人だとそうはいかない。インド人とビジネスをするときは契約書の細部にまで目を通し不利益がないかを徹底的に調べておけとよく言われる。契約で問題が生じても、契約外での妥協に期待できないからだ。

 インド人と中国人の民族性について感想を述べたのは、森三樹三郎が「老子・荘子」の中で、インド発祥の仏教が中国で当初受け入れられなかった理由やインドで始まった仏教の教えに対し中国独自の解釈が発展した理由を、民族性の違いで説明しているからだ。森曰く、”もともとインドの仏教の救いとは、知恵によって真理を悟ることだったといわれる。その意味では極めて理性的な教えであり、哲学的な宗教であったといえよう。--ところが中国人は理屈が苦手であり、きらいである。” 中国では当初仏教を老荘思想で理解しようと試みた。たとえば般若経の”色即是空”の空を、それに近い老子の無で解釈しようとした。しかし、老子の無は有の根源としての無、有を生むための無であり、無という名の有だと解釈され、一方、仏教の空は一切の実在の否定であり無限の否定の連続なので、両者は根本的に異なるのだが仏教を理解するために中国人に馴染みの道家の思想が利用されたのである。実際は、般若の空は老子の無よりもどちらかと言えば荘子の無に近い。荘子は、老子のように万有の始めに無を置くのは間違っていて、”無がなかった始めに先行する始め(別の無)があるはずだ”と、老子の無を否定する。荘子が見直した無は、無限や無極のことである。

 中国に入った仏教は、老荘思想で解釈されたあと独自に発展し、禅宗と浄土教が生まれる。これらは中国人の現実的な体質に合うように改造された仏教だと森はいう。禅宗と浄土教はまったく逆の方向を持っている。禅は座禅などの修行によって心のうちに仏を見つけようとする自力業であるのに対し、浄土教は念仏だけで成仏できるとする他力業である。禅宗の仏は各人の心の中にあり、浄土教の仏は西方十万億土の彼方にいる。両者に共通するのは、知識や理論に重きを置かないことである。禅宗は”行”、浄土教は”信”であり、インド仏教の”慧(知恵)”を排除する。禅宗は中国で完成するが、浄土教はその後日本にわたり親鸞を持って完成する。

禅宗と荘子

禅宗は、荘子の思想に極めて似ているという。禅宗には不立文字や以心伝心という言葉があり、真理は言葉で伝えることができないとする。荘子の哲学はありのままの真理、自然のままの姿を知ることから出発する。荘子は、言葉は真理を表すのに十分でないばかりでなく、真理のありのままの姿を損なうから、真理にたどりつくには言葉よりも直観が大切だとする。言葉を重視しない点において荘子は禅宗と同じである。禅宗と荘子の違いは、戒律や修行による精進努力を要求する禅に対し、荘子は無為である点にある。

浄土教と荘子

親鸞が最晩年にたどり着いた境地は自然法爾(しぜんほうに)である。阿弥陀仏は最高神ではなく真の仏とは無形の真理で、真理とは自然だというのである。彼の著書「教行信証」では、善導(中国の浄土教僧侶)の”仏に随い、逍遥して自然に帰す。自然は即ち是れ弥陀国なり”を引用している。自然とはなにかというと、救いが自己の努力によらず無為によって達せられるということである。人為を放棄して得られた自然は必然に通じる。自然必然の法則は生と死を包摂する無限の広がりを持つ。すなわち、自然必然の法則(運命)に抵抗する私意を否定し、自然のままに生死を迎えようというのである。歎異抄で唯円が、”念仏を唱えても急いで浄土に行きたいと思わないのはどうしたことか”とたずねたとき、親鸞は”私も同じだ”と告白するのである。理性において浄土が極楽であるとしても人間の本能がそこへ行くことを許さないのである。

これは”死生を斉しくす”という荘子的な思想そのものである。荘子の無為自然は、”人為を捨てて必然のままに従え。運命のままに生きよ。”ということである。荘子には運命の主催者(神や仏)はいない。荘子は自然主義者、運命論者、無神論者である。親鸞の晩年は荘子と同じ境地に至るのである。阿弥陀仏を否定し真理をみる親鸞の無神論は危険すぎるため親鸞本人がこの問題を取り上げるなと注意喚起している。

 ところで、荘子の内編は「逍遥遊編」より始まる。親鸞の教行信証には、この逍遥という荘子に直結する言葉や、論語、陶淵明の帰去来などの言葉が散りばめられている。森三樹三郎は、”親鸞が荘子を知っていたとは思えない”と言っているが、それは信じがたい。荘子の思想を知悉した上で、浄土教そして自分の浄土真宗の教義には荘子の思想が奥深く秘められていることを十分理解していたのではないかと思う。


淮南子

2012-04-22 22:51:47 | 中国

漢の武帝の時代、淮南王・劉安は高祖・劉邦の孫でありながら、いや孫であるからこそ武帝の政策に従わず謀反の罪を受け自害し、一族は皆処刑された。「淮南子(えなんじ)」21編は劉安が集めた食客たちに作らせた書で、淮南王の書とも呼ばれる。金谷治「淮南子の思想」は劉安の生涯と時代背景を概説し、淮南子の思想を解説したものである。

多様と統一

老荘思想を中心に諸子百家を網羅し、”思想的に統一してとらえることの困難な雑然たる書”なのだが、要略編で、”作者は巧妙極まる理由づけを行い”、雑多な淮南子20編を統一へ導くのである。中国哲学は道徳や政治の問題が中心で、形而上学の問題だけをとりあげたものは少なく、形而下の現実問題に絶えず関心を持ち続けてきた。荘子は、”道はいずくに往くとして存せざらん”と述べ、道が現実(事)の中のどこにでも存在すると言う。淮南子は、道(=統一=哲学=形而上)と事(=多様=現実=形而下)を合わせた思想である。

道家の道

多様な現象を生み出す唯一の根源的存在としての老子の道と、現象に即して多様な現象をつらぬく理法的あるいは原理的な荘子の道がある。淮南子はこの老荘二つの道を統一する。

無為自然の政治

淮南子は無為自然の立場を中心としながら、人間による作為も兼ね合わせて重視する。自然と作為の合一、または天人の合一を特色とする。政治的には、作為を捨て私心を捨てて法度に従う。私的な行動や国家的な事業をはぶいて経費を節約する。民衆のためになる政治をめざす。老荘の因循無為の立場を中心としながら、儒家や法家の思想を折衷して具体的な政治論を展開する。様々な人材を採用し政治に役立てる積力衆智の政治思想である。それは、万人万物にとりえがあるとする斉物思想を根拠に民衆の声・世論に耳を傾け、道に従い大勢に順おうとする因循主義である。これは儒家を中心に中央主権国家を進める武帝の政治とは大きく異なる民主的な政治を目指すものである。

真人と聖人

淮南子の理想とする最高人格である真人と聖人のうち真人は道を体得した仙人のような理想人であるが、聖人は道を守りながら現実の人事を忘れない。

松岡正剛は「千夜千冊」で、金谷治の「淮南子の思想」を取り上げている。http://1000ya.isis.ne.jp/1440.html  松岡の解説は相変わらず難解で、金谷の本を読んでいた方がよっぽど淮南子の思想が理解できるのだから可笑しい。松岡は、淮南が位置するかつての楚にいた屈原の生涯や楚辞にみられる楚の風土が淮南子の根底にあるという。この楚辞と淮南子がつながるという彼の結論を是認するには、彼がその根拠をきちんと説明してないので、楚辞を読むしか確かめようがない。


文天祥 字は宋瑞

2012-03-18 18:02:31 | 中国

息子の名前に使おうと思っていた3字のうち、”良”の張良と”亮”の諸葛亮孔明については書いたから、あとは”祥”の文天祥である。結局、名前は泰山の”泰”を拝借したことは以前書いた。

文天祥は13世紀、元(モンゴル)に攻められ滅びゆく宋に忠誠を尽くした軍人・政治家である。元に抗戦したものの捉えられ獄中で有名な「正気(せいき)の歌」を詠む。

  • 天地には正気があり
  • 渾然として形を持たず存在する
  • 下に行けば川や山岳になり
  • 上に行けば日星になる
  • 人において浩然の気という
  • 大いに天地に満ちている
  • 大いなる道が清らかで太平な時は
  • 和やかに明るい朝廷に吐き出される
  • 動乱の時代には節義があらわれ
  • ひとつひとつ歴史に残る

以上が第1段で、第2段には歴史にあらわれた正気が述べられる。張良が始皇帝に投げた鉄槌や、孔明の出師表も正気である。権力者に殺されても歴史を曲げなかった太史(史家)、軍人は断たれる頭は持っているが垂れる頭は持ってないと言った蜀の厳顔将軍のことばなども含まれる。正気の清らかな節操は氷雪よりも厳く、その意気は異民族を呑込み反逆者の頭を破裂させる。以下、第3段に続く。

  • 歴史の事象は正気が噴出するところであり
  • 永遠に残る
  • 正気は日月さえ貫き
  • 生死は論ずるに足りない
  • 大地は正気によって存在し
  • 天は正気によって尊いとされる
  • 三綱(人の道)も正気によってその命を与えられ
  • 道義は正気を根幹とする

正気は第1段で”浩然の気”とあるから孟子だが、第3段まで読むと、渾然としていたるところに存在し、生死さえ区別がないという点で、老子荘子あるいは列子の道家思想で、正気とは”道”そのものではないかと思えてくる。文天祥の思想は儒教よりも老荘思想が根底にあるような気がする。どちらにしても、文天祥は口先だけの儒家や道家の形式主義者ではなく実践家であった。

第4段は獄中での苛酷な境遇を語り、自分は正気があるから生きていられると述べる。人間の模範は昔にあり、書物の中の古の哲人の正気が自分を照らしてくれると結ぶ。

  • 典刑在夙昔
  • 風檐展書読
  • 古道照顔色

文天祥は、その才を惜しむフビライの説得にも応じず4年間の幽囚のあと刑死する。彼の生き方は、張良や孔明にも通じ、権力・権威に屈せず信念を貫き通す。苛烈な生き方なのである。


諸葛亮 字は孔明

2012-03-17 18:19:50 | 中国

諸葛孔明は、28歳のとき「三顧の礼」をもって劉備に迎えられる。ゲーム「三国志」で劉備玄徳をプレーヤーとし、新野に根拠をおくと200年に「三顧の礼」のイベントが開始され、孔明を臣下にすることができる。このときの劉備は、荊州を根拠地とする劉表の客将にすぎず、天下の情勢は、曹操が中国北部をほぼ制圧し中国統一のため荊州を目指して南征を始めようとしていたころである。一度は曹操に仕えその後離反した劉備は曹操のもとで生きる道はなく、荊州を逃げ出すか徹底的に抗戦するしかないのである。客観的にみて、劉備の立場は風前のともしびにも近いほど不安定で、曹操によって滅ぼされる危険性は高く、なぜ28歳の前途ある青年がこの状況の劉備に仕えたのか、なぜあえて困難な道を選んだのかずっと疑問に思っていた。彼の才能を考えると曹操に仕え勝ち馬に乗る選択肢もあっただろうし、また孫権に仕えていた兄(諸葛瑾)の伝手で劉備よりは安全な孫権に仕えることもできたはずである。

この若者に、孫権を味方にできるという自信はあったのだろうか。仮に同盟がなったとして曹操と闘って勝てるという確信はあったのだろうか。目の前の危機を脱出できたとしても、曹操に傾いている天下の情勢を変え、劉備を押し立てることができるという勝算はあったのだろうか。

その後の展開は、劉備は孫権と同盟し赤壁で曹操軍を打ち破り、荊州を手に入れ地歩を確保し、やがて蜀漢という政権を建てることに成功し三国鼎立の状況を作り出す。すべてが孔明の筋書きによるものとされ、彼が天下の奇才とか稀代の政治家・軍師と言われる由縁である。

そのあたりの疑問に答えてくれるのではないかと、古本屋で買った植村清二著「諸葛孔明」を読んだ。それは、P76以降「孔明の心事」の章に解説されていた。(植村清二は相当昔に著書「神武天皇」を読んだ。)

劉備の人間性:

”劉備が白面の1青年を三たびまで訪問した雅量と、これに当世の時務を問うた切実な態度とは、人を打つものがあったに違いない。劉備は真率な(裏表のない)精神の持主であるという点で、カーライルのいう英雄たる資格を具えていた。出師表に「是レニ由リテ感激シ、遂ニ先帝ニ許スニ馳駆(ちく=力を尽くす)ヲ以テス」と書かれているように、孔明は劉備の誠実な精神に答えて、彼のために、その全力を挙げて活動することとなったのである。”

孔明の大望:

曹操に仕えればそれなりに地歩を築けたが、孔明がいなくても曹操の事業はある程度成就できた可能性が高い。それは孔明の才能にとっては、”小に過ぎ、また安易に過ぎるものであった。劉備の勢力は小さいが、これを助けて将来の未知の何かを求めることは、さらにいっそう大きい事業である。(その達成には)前途に多くの危険と困難が横たわっているに違いないが、大きい自信を持つ者は大きい艱難を意としない。孔明は、艱難を克服して、自己の大いなる可能性をその限界まで確かめようとしたのである。”

才能ある人間は安定に生きることなど考えもしないし、機会があれば、その前途がどのように困難であたっとしても果敢に挑戦を続ける。ただし、劉備の可能性を見抜いた人間洞察力と当時の形勢に対する戦略眼と判断力があったればこその選択だったのである。

孔明は、劉備が死に臨んで残した”自分の跡継ぎに才能がなければ、君が取って代われ。”と言うのに対し、あくまで先帝の遺児を推戴しつづけた。北伐(魏を攻める)のときの「出師表」には、劉備に対する恩顧、若い皇帝劉禅に対する忠誠、孔明の壮烈な決意が”平明で簡素な文章で語られ”ていて、頭脳明晰な人間にありがちな計算高さや怜悧さは見られない。だからこそ、中国史上で、孔明はいつも張良と並び称される存在なのである。