God Father I,II,IIIをBSで観た。I,IIは、劇場公開時(学生時代)に観て素晴らしいと思ったが、今回も同じだった。IIIは初めて観たが、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の懺悔(Confession)の話でそれなりに楽しめたが、対立するファミリーとの抗争や裏切りは、I,IIの手法の繰り返しのような気がした。父のビトー・コルレオーネ(II ロバート・デ・ニーロ、I マーロン・ブランド)は、孤児の身でシシリアからニューヨークに移民し、人々のもめごとを裁くことで信頼を得て街の顔役になり、大きなファミリーを作り上げる。息子マイケルはファミリーを守ることで逆に敵を増やし抗争や裏切りの毎日の中で、猜疑心ばかりが増幅し、最後は家族まで失うことになる。
IIを観ながら、ヘンリー8世とエリザベスや天智天皇の宮廷での権謀術数、暗殺、罠を思い出していた。
猜疑心の塊であった天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我入鹿を殺して権力を獲得した後は、権力を守るために協力者や身内を粛清していく。兄の古人皇子を殺害し、入鹿殺害の協力者であった蘇我倉山田石川麻呂を殺害する。中でも、叔父の孝徳天皇の息子で皇位継承権のある有間皇子(ありまのみこ)を罠にかけて死罪を賜る話は悲惨である。聡明であった有間皇子は、自分に皇位継承権があるが故に猜疑心の強い天智天皇を怖れ狂人を装っていたのだが、天皇が紀の湯(白浜)へ行っている間に天皇の意を受けて近づいてきた蘇我赤兄の誘導につい本心を吐露してしまう。赤兄はすぐに天智天皇に有間皇子が謀反を企んでいると注進し、有間皇子は白浜に喚問される。
18歳の若い有間皇子が白浜にいる天智天皇に釈明に行く時に読んだ辞世の歌2首は悲しい。
有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
(結んだ枝を、もしも無事でいられたら、また見たいものだ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいれば碗に盛る飯を、旅では葉に盛る)
一方、天智天皇の一番の協力者である中臣鎌足は、天智天皇から寵妃をもらい受けた時に、
われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ 安見児得たり
(得難い美人をもらってうれしいという意)
と詠み、天皇のお古を貰って有頂天になる”ふり”をしてまで、邪心がないことを示す気配りを見せるのである。漢の高祖劉邦がやはり漢建国の大功労者であった韓信など忠臣を次々に粛清した中にあって、いち早く身を引いた軍師の張良のことが思い浮かぶ。
その後、天智天皇は息子の大友皇子に皇位を譲るのだが、弟の大海人皇子に皇位を簒奪されるのではという不安の中で死んでいく。
マイケルの最後も誰にも見取られない寂しいものだった。
God Father I、II (1972,1974) 監督:フランシス・コッポラ 出演:マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、ロバート・デ・ニーロ ★★★★★
God Father III(1990)監督:フランシス・コッポラ 出演:アル・パチーノ、ダイアン・キートン、アンディー・ガルシア ★★★☆☆