備忘録として

タイトルのまま

God Father

2009-02-21 13:58:55 | 映画
昨日、日本アカデミー賞授賞式を観た。予想通り”おくりびと”が主要部門を独占した。予想通り主演女優賞だけがはずれた。何年か前は、”Shall We Dance?”が主要部門を独占した。次々と”Shall We ---”が賞を取っていく中で、他の作品でノミネートされていた西田敏行が”Shall We ばかりだ”とあきれ顔でインタビューに応えていた。そして、まさか女優としては素人同然の草刈民代に主演女優賞が行くとは思ってもいなかったのだが、そのまさかだったので日本アカデミー賞の審査員のレベル、公平性、透明性だけでなく、賞の権威そのものを疑った。今回は、かろうじて信頼をつなぎとめたといえる。

God Father I,II,IIIをBSで観た。I,IIは、劇場公開時(学生時代)に観て素晴らしいと思ったが、今回も同じだった。IIIは初めて観たが、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の懺悔(Confession)の話でそれなりに楽しめたが、対立するファミリーとの抗争や裏切りは、I,IIの手法の繰り返しのような気がした。父のビトー・コルレオーネ(II ロバート・デ・ニーロ、I マーロン・ブランド)は、孤児の身でシシリアからニューヨークに移民し、人々のもめごとを裁くことで信頼を得て街の顔役になり、大きなファミリーを作り上げる。息子マイケルはファミリーを守ることで逆に敵を増やし抗争や裏切りの毎日の中で、猜疑心ばかりが増幅し、最後は家族まで失うことになる。

IIを観ながら、ヘンリー8世エリザベスや天智天皇の宮廷での権謀術数、暗殺、罠を思い出していた。

猜疑心の塊であった天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我入鹿を殺して権力を獲得した後は、権力を守るために協力者や身内を粛清していく。兄の古人皇子を殺害し、入鹿殺害の協力者であった蘇我倉山田石川麻呂を殺害する。中でも、叔父の孝徳天皇の息子で皇位継承権のある有間皇子(ありまのみこ)を罠にかけて死罪を賜る話は悲惨である。聡明であった有間皇子は、自分に皇位継承権があるが故に猜疑心の強い天智天皇を怖れ狂人を装っていたのだが、天皇が紀の湯(白浜)へ行っている間に天皇の意を受けて近づいてきた蘇我赤兄の誘導につい本心を吐露してしまう。赤兄はすぐに天智天皇に有間皇子が謀反を企んでいると注進し、有間皇子は白浜に喚問される。
18歳の若い有間皇子が白浜にいる天智天皇に釈明に行く時に読んだ辞世の歌2首は悲しい。

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
(結んだ枝を、もしも無事でいられたら、また見たいものだ)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいれば碗に盛る飯を、旅では葉に盛る)

一方、天智天皇の一番の協力者である中臣鎌足は、天智天皇から寵妃をもらい受けた時に、

われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ 安見児得たり
(得難い美人をもらってうれしいという意)

と詠み、天皇のお古を貰って有頂天になる”ふり”をしてまで、邪心がないことを示す気配りを見せるのである。漢の高祖劉邦がやはり漢建国の大功労者であった韓信など忠臣を次々に粛清した中にあって、いち早く身を引いた軍師の張良のことが思い浮かぶ。

その後、天智天皇は息子の大友皇子に皇位を譲るのだが、弟の大海人皇子に皇位を簒奪されるのではという不安の中で死んでいく。
マイケルの最後も誰にも見取られない寂しいものだった。

God Father I、II (1972,1974) 監督:フランシス・コッポラ 出演:マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、ロバート・デ・ニーロ ★★★★★

God Father III(1990)監督:フランシス・コッポラ 出演:アル・パチーノ、ダイアン・キートン、アンディー・ガルシア ★★★☆☆
 





Kopi Luwak

2009-02-15 10:14:58 | 映画

The Bucket List(邦題:最高の人生の見つけ方)でエドワード(ジャック・ニコルソン)が飲んでいた最高級コーヒーのKopi Luwakが手に入った。友人がインドネシアで見つけて買ってきてくれた。さっそく飲んでみた。インドネシアで有名なトラジャコーヒーなどに比べ、苦みや酸味が少ないあっさり系で、特別変わった香はなかった。写真の上の赤いところはネコのロゴになっている。

Kopi Luwakについて、The Bucket List(シンガポールでDVDを買った)でエドワードが読み上げた記事をそのまま引用すると、
”Kopi Luwak is the world's most expensive coffee. Though for some, it falls under the category of 'too good to be true'. In the Sumatran village where the beans are grown lives a breed of wild tree cat. These cat eat the beans, digest them and then defecate. The villagers then collect and process the stools. It is the combination of the beans and gastric juices of tree cat that give Kopi Luwak its unique flavor and aroma."
(訳:Kopi Luwakは世界一高価なコーヒーである。うま過ぎる話の類に入る。コーヒー豆の育つスマトラの村にはある種の野生のネコ(Tree cat)がいて、豆を食べ消化し、そして排便する。村人はその便を集めて処理する。豆とネコの胃液の組み合わせがKopi Luwakに独特の味と香りを与えている。注:Tree catはジャコウネコのこと)

Edward, "You're shitting me."(くそやろうめ)
Carter, "Cats beat me to it"(ネコに出し抜かれた)
この後、二人は大笑い(Laugh until I cry)する。

Kopi Luwak は、主に日本とアメリカで100gあたり6000円から1万円で売られているが、毎年450kgしか市場に出てこない。オーストラリアのクィーンズランドにあるカフェ”the Heritage Tea Rooms”では一杯約4500円で週に4杯だけ、ロンドンのカフェPeter Jones department store ではKopi LuwakとBlue Mountainのブレンドを一杯約9000円で売っているそうだ(英語版Wikiによる)。 2008年5月11日にブログ(The Bucket List)を書くためにWikiを参考にした時には、The Bucket Listに言及はなかったのだが、今回再度覗いてみたところ、
英語版Wikiでは、In Popular Cultureの項で、
”Kopi Luwak is featured in the 2007 film, The Bucket List, and with an interesting misspelling: 'cope luvac'.”
日本語版Wikiでは、その他の項で、
”2008年に公開された映画、「最高の人生の見つけ方」のキーワードである。その他、2006年映画「かもめ食堂」にも登場する。”
かもめ食堂は観ているけど、Kopi Luwakが出てきたのには気がつかなかった。まさか毎日食堂に来ていた若者にふるまっていたコーヒーじゃないだろうけど。

友人は、ジャカルタのSOGOで、写真の200gパックをUS$5(約450円)で買った。ちょっと安すぎる。
だけど、以下の理由で本物かどうかの判断ができないのがもどかしい。
・日系デパートがまさか偽物を出すとは思えない。
・高級コーヒーを飲んだことがないので味で判定できない。
・ジャコウの香を知らないので香からの判断もできない。
結局、1杯5000円のKopi Luwakが5ドルで買えたなんて、’too good to be true'かも。


デクノボーになりたい

2009-02-13 22:40:19 | 賢治

山折哲雄の宮沢賢治論である。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
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ミンナニ”デクノボー”トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモセズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

の”デクノボー”である。

1.賢治は日蓮宗だけを信じていたわけではない。

一般に宮沢賢治は18歳のときに法華経を読んで感動し日蓮宗に帰依するようになったと言われているが、賢治は父親が熱心な信者であった浄土真宗を学び、またキリスト経カソリックとプロテスタントの神父さんたちと同時に親交があり、これら複数の宗教が矛盾なく賢治の心の中に入っていた。日本の風土は多神教的、汎神論的でさまざまな宗教に心が開かれていたと考えられ、賢治の目も広い世界に開かれていたと考えるべきだという。

2.賢治は他界から聞こえてくる声を聞くことができた。

賢治の内面には宗派や宗教を超えた自然や宇宙に対する独特な鋭い感覚がはたらいていた。星や天体に霊気が宿り、とりわけ風の中に精霊が宿っているという感覚を持つ。”永訣の朝”では、あふれ出る言葉を形にすることで、とし子の魂を呼び下ろそうとしている。

3.賢治は捨身飼虎図を知っていた。

なめとこ山と熊の猟師である小十郎は、熊の前に我が身を投げ出して死んでゆく。人間も自然界の食物連鎖の環の中に入っている。上原和は捨身飼虎は仏教ではなく狩猟民族的な生活習慣が影響を与えたとする。賢治の童話”二十六夜”に捨身菩薩という名のフクロウが登場し、食うか食われるかの日常を生きている。

4.共に生きるものは共に死ぬしかない。

賢治は共生と共死を当然の前提として生きていた。今、人は環境を論じるとき「共生、共生」と言うが、なぜか共生の一方通行である。共に生きる者は、共に死ぬべきであり、人間論・環境論は共生共死を原点に考えるべきである。

5.賢治につながる狩猟民的な感覚を伝えるもの

柳田国男「遠野物語」「山の人生」、千葉徳爾「人獣交渉史」、折口信夫と千葉徳爾による食うか食われるかに生きる武士論、万葉集の「ほかいびと」の世界、こじきの生活、新渡戸稲造「武士道」、写真家星野道夫の死(カムチャッカで熊に襲われる)、藤井日達のインドで虎が人間を襲う話

6.風が吹いて物語が始まり、風が吹いて終息する

春と修羅、風の又三郎、銀河鉄道の夜、注文の多い料理店など、賢治の作品にはみんな風が吹いている。
どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ(風又三郎)
ジョバンニが草の上に寝転がっていると、丘の草がそよぎはじめ、そして汽車の音が聞こえてくる。(銀河鉄道の夜)
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。(注文の多い料理店)

7.中原中也の詩にも賢治と同じ風が吹く

中也は春と修羅を愛読していた。賢治がそうであったように、名辞以前の世界に注目し、知識以前の、いわば生の言葉を編んで詩を作ろうとした。中也の”永訣の秋”に賢治と同じ風が吹く。
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り酒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)っていた。
”永訣の朝”で賢治は、妹とし子の死にあって「此の世の果て」にいたのである。


”生きる”と死生学

2009-02-11 08:57:31 | 映画
先週NHKBSは、あなたが選んだ黒澤アンコールを発表した。
視聴者アンケートのベスト5
(1)七人の侍、(2)赤ひげ、(3)用心棒、(4)生きる、(5)天国と地獄

昨年10月末の回で書いた私の黒澤明ベスト5
(1)七人の侍、(2)赤ひげ、(3)天国と地獄、(4)椿三十郎、(5)静かなる決闘

1位2位の”七人の侍”と”赤ひげ”は陳腐な言い方だけど衆目の一致するところということか。”用心棒”と”椿三十郎”は私の中で並列なので、どちらがベスト5に入っても同じ。NHKでも”椿三十郎”は次点の6位だった。”天国と地獄”もそんなところだと思う。違うのは、私が5位にした”静かなる決闘”が19位、また最近見ていいと思った”素晴らしき日曜日”が25位で、”乱”や”どですかでん”より下なのがわからない。両作品に対して個人的な思い入れが強すぎるのだろうか。

NHK4位の”生きる”が私のランキングがあまり高くない理由は、余命わずかの人間を描いた良質なドラマや映画を相当数経験した後で”生きる”を観たことや生死に実感のない、または関心の薄い30代に観た所為だと思う。それでも渡辺課長(志村喬)がブランコを揺らしながら「♪命短し~、恋せよ乙女~♪」とゴンドラの歌を歌う場面は忘れがたいし、私も渡辺課長と同じ53歳になった。

2~3週間前だったか、新聞で関西学院大学の藤井美和准教授による”死生学”の授業を紹介していた。
「多くの人は死に直面したとき初めて「生と死」について深く考えていなかったことに気づき、大きく動揺する。死の瀬戸際になって、何を大切にして生きるべきだったかわかった」では遅いのであると記事は始まる。
授業1)「死とは○○である」という一文を書かせる。多いのが「終わり」「消滅」で、次に「悲しいもの」「怖いもの」で、「未知なもの」というのもあるそうだ。
授業2)紙に左から右へ1本の横線を引き、線に沿って、これまでに経験したこと、これから起こるであろうことを書かせる。誕生、入学、卒業、受験、いじめ、恋愛、失恋、結婚、出産、病気、死別、自身の死……。それぞれに年齢を入れる。最後に感情の浮き沈みを曲線で表し、出来事をつなぐ。横線の上がプラス、下がマイナスの感情である。

「多くの人はグラフをつくるなかで、就職や恋愛はしっかり意識しているのに、人生最後の大仕事である死を考えていなかったことに気づきます。死は生の一部なのです。」 だそうだ。
授業3)--この授業は示唆に富んでいるので新聞記事をほぼ原文のまま以下に転載--
形のある大切なもの。大切な活動。大切な人。形のない大切なもの。この4領域から三つずつ選んで、12枚の紙に書く。21歳の学生ががんに冒され、亡くなっていく過程を疑似体験する。病の経過に随い、何をあきらめるのかを決めて、順番にその紙を破っていく。 入院して検査が続くときに3枚、手術するときに3枚。さらに、自身の病気ががんであるとわかって3枚破る。そして、最期を悟ったときに2枚を破る。 本当に大切なものは何だったのか。何のために生きてきたのか。手放す過程でこうした問いを自らに突きつけ、その答えを求めて苦しむ。これが、自分という存在の根底を揺るがす「スピリチュアル・ペイン」、つまり魂の痛みなのである。残った1枚は、多くが「母」や「愛」で、それを持って目を閉じ、「さようなら」の言葉とともに破る。 死の疑似体験によって学生は変わり、当たり前の生活がどれほど大切なものだったのか。いかに多くの人に支えられてきたか。死に直面して苦しんでいる人になんと安易な言葉をかけていたか。そうしたことに気づく。講義後、死を前にして伝えたかったことを書くと、多くは、「ここまで育ててくれてありがとう」といった感謝、「天国から応援しているよ」といった残される人への思いやりである。
最後の授業)また死についての一文を書かせると、「死とは学ぶべきもの、感謝、永遠、親しい人との再会と受け止める人」が増えてきて、「死から逃げないでください。どう死ぬかを考えることは、どう生きるかを考えることなのです。」 と結ぶのである。

また、記事ではキューブラー・ロス著「死ぬ瞬間」を紹介し、200人以上の末期患者からのインタビュー結果から、死に直面した人々は(1)否認と孤立(私は病気ではない)(2)怒り(なんで私が病気に)(3)取引(○○すると誓うのでやり直させて)(4)抑うつ(5)受容の5段階を経て死を迎えるという。

”生きる”の渡辺課長は、死が近いことを知った後、(1)布団の中でむせび泣き、(2)自暴自棄になり町をさまよい歩き、様々な快楽を追及するが(4)むなしさを覚え、この後(5)吹っ切れたように公園作りにまい進する。
”生きる”には「死の瞬間」の段階がほぼ当てはまるのだが(3)取引はなかった。取引は誰とするのだろうか?---神様? そうなら(3)は宗教者にだけ当てはまるということか。渡辺課長が神仏に頼った場面はなかったように思う。擬似体験の中で超自然や神を感じて安らぎを覚えたという学生が多くいたらしい。渡辺課長は違ったが、最後は宗教か?

♪ いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 あせぬ間に 
熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを 
いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 あせぬ間に
心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび来ぬものを ♪

どう生きるかを考えるのは今なのだ。





良寛

2009-02-08 11:44:50 | 江戸
昨日、一休さんのことを書いたので良寛さんのこともついでに書くことにする。実は山折哲雄の”一休”は一か月ばかり前に読んだのだが難しくてブログに書く自信がなかった。そのあとに読んだ井本農一著”良寛”で、良寛の生き方が一休に似ていながら何か嘘っぽく感じられたので、山折の一休を読み直した上で良寛を考えてみようと思った。

橘栄蔵(良寛)は新潟出雲崎の没落しつつあった名主の家の長男として生まれた。一時、名主見習となるが世事経営の才がなく挫折する。家督は二男が継ぎ、良寛は18歳か22歳で出家し岡山の曹洞宗円通寺で40歳まで修行を続ける。円通寺の修行では僧侶として大成することができず、すなわち挫折の中、諸国行脚をしたのち故郷に帰り五合庵というあばら家に住う。その間、実家が良寛の生活を支えていたがまもなく実家は完全に没落してしまい当主の次弟も公金横領の罪で追放される。良寛が住んだ五合庵は真言宗の寺であったが、曹洞宗の良寛に宗派に対するこだわりもなくなっていた。五合庵に住する間に、多くの漢詩、和歌、俳句を読むとともに、書を書き、子供と遊び、貞心尼との交流があったのである。良寛の詩歌は概ね1)自嘲的なもの、2)諦念、3)志を述べるもの、4)友人知己のこと、5)自然を詠んだものに分けることができる。

良寛は、人生に挫折し基本的に諦観の中に生きていたが、時に俗気が出て世間に一言物申し、児童と手毬をして遊び、貞心尼と交流して失意を癒していた。良寛の作には古典の歌や詩からの無神経な拝借があり誤字脱字も多く、結局芸術家ではなく、ましてや仏教家でもなかった。井本農一は結びで、
「彼が悩み苦しみ---安易に逃避生活に安んじたのではなく---手毬をつく彼の背後にある深い人間的苦悩と、それを乗り越える不断の営みを見ることによって(彼の生き方を考える)意義がある。」
と良寛を多面的に捉えるべきだと言うのだが、井本の良寛を見る目は案外厳しいような気がした。

詩歌を通じて素直に自己を表現する書のうまい世捨て人にすぎなかったという結論になってしまうのだけど、井本農一の”良寛”を読んだ限りではそうとしか思えなかった。良寛の人気が高い理由が結局わからなかった。良寛の漢詩や和歌を深く読み込んでいないからか、一休さんに比べてしまった偏見によるものなのだろうか。臨済宗の高僧であり、多くの政治家、僧侶、文化人に影響を与えた一休さんとは所詮比べる土台が違うので、もっと虚心に良寛を理解すべきなのだろう。

一休さんと自己韜晦

2009-02-07 19:04:01 | 仏教

山折哲雄の”日本仏教思想の源流”は難解である。もっとわかりやすく書いてよと愚痴りながら読んだ。結局、山折のいうところの半分も理解できなかったように思う。空海、覚鑁、道元、日蓮、一休のことを論じた本で、5人のうち生き方が好きで、自分なりに理解できたと思える一休さんのことを書くことにする。山折は、一休は自己韜晦(じことうかい---ほんとうの自分を隠す)の中に生きたとする。
ところが、司馬遼太郎は”街道をゆく、大徳寺散歩”で「一休は自己を透明化することに一生をついやしたことがわかる」と言い、森侍者(しんじしゃ)との性愛を狂雲集の中で赤裸々に描いていること、同門の禅僧への憎悪を隠さないこと、また一休の詩文が極めて透明性が高いことなどを上げて、一休の生き方を結論付けている。
司馬の一休は、山折の一休とは真逆じゃないか。どちらが正しいのだ。

山折の言う一休とは、
1.一休はある種の人間を激しく憎み、子供、雀、老人に深い愛情を注いだ。これは常識的な大人の世界に対する屈折した感情の裏返しである。さらに、老、幼、鳥は一休の孤独を写す鏡である。
2.跡を晦(くら)まし、光を韜(つつ)んで世間から姿をかくす生活こそ自身の目指すべき境涯であるはずだが、自分はまだ果たしえないという意味の韜晦という言葉を使った一文を残している。
3.一休は生涯に2度自殺未遂をしたという話が残っているが、いずれもその事実はない。大徳寺事件(ある僧が故なく自殺したことが露見し連座して投獄される僧が出た)では世間が騒いだのに我慢できず山に隠れた、すなわち晦跡(かいせき)したのだが、一休には生涯を通して晦跡癖があった。
4.与えてもいないのに一休から印可証明をもらったと自慢顔をする自派の僧が横行したことに対し、もう禅僧を止めて法華僧か念仏僧に転派すると怒りを露わにしたのは、自派の臨済宗から韜晦し、自派の批判をしようとしたといえる。
5.一休はある時期、小庵から小庵を行雲流水的に放浪し自己の足跡を消そうとした気配がある。
6.王昭君、楊貴妃、舜という中国の歴史に翻弄された女性を何度も狂雲集に取り上げているのは、同じく天皇の寵妃であり不運であった一休の母への思慕の裏返しであり、父・後小松天皇へのあこがれである。一休のマザー・コンプレックスは王昭君や楊貴妃に韜晦されているのである。
7.女色、飲酒、逆行など常軌を逸した振る舞いの多かった人物であったことは一休自身が狂雲集で述べている。ところが、婬犯肉食を非難された時に応えて、「説法によって虚名をはせる僧には本来俗漢が多い。何の意味もない先輩面の忠言を聞けば、物事の是否善悪を顛倒して自己韜晦でもしたくなるではないか」という趣旨のことを言っているのである。山折は実際に婬犯肉食をしてなくても答えは同じだと言いながら、一休が婬犯肉食をしている振りをしていたと考えているのではないかと思ったりする。
8.一休は森侍者との閨房の秘事をあからさまにうたっていることは事実ではあるが、森侍者と母のイメージである楊貴妃とを重ね合わせている。山折は一休と森侍者が同じ輿に乗って春遊している自然な姿から、一休の森侍者に対する心情は直接的な性愛的なものではなく、一休が人間に対して持ち続けた愛情に発し、同時に母の理想像への思慕に結びつくと考える。
このように一休のすべてが韜晦という言葉で説明できるとする。

最後に山折は自分の仮説に「いささかの不安を感じないでもないが、この推測の当否については、ひとまず後世にゆだねるほかないであろう。」と結ぶ。梅原猛の自分の説に反論があるならいつでもかかってこいというのに慣れていたので、いたって弱気な発言のように思ってしまったが、山折の方が普通なんだろうな。

再度言うけど、山折哲雄の文章は難しい。特に彼の空海論はほとんど理解できなかった。空海については、これまで梅原の本などを通して表面的ではあるが、ある程度理解していたと思っていたのだが、その自信が崩れ去ってしまった。Amazonで山折哲雄の”デクノボーになりたい 私の宮沢賢治”を注文したのだけど読みこなせるか心配だ。




飫宇の海(おうのうみ)

2009-02-01 11:28:37 | 万葉
島根県の中ノ海のことである。

出雲守門部王(かどべのおほきみ)、京(みやこ)を思う歌 

”飫宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば わが佐保川の 思ほゆらくに” 巻3-371

河原の千鳥が鳴けば、なつかしい都の千鳥の鳴く佐保の河原を思い出すという郷愁の歌である。佐保川は春日山から出て平城京を東北から南に流れる小さな川(”万葉の旅 上巻”に写真がある)であり、

”佐保川の 清き川原に 鳴く千鳥 かわづと二つ 忘れかねつも” 巻7-1123

という歌もある。



先週松江へ行ったときに写真を撮った。写真を比べると犬養孝”万葉の旅”の昭和30年代と変わらないように見えるが実は下の写真が”万葉の旅”とほぼ同じだと思われる意宇川の河口で撮ったもので、前方埋立地の工場群が背後の山を遮っている。上の写真は意宇川河口の先の埋立地に200~300m入り込み工場群を避けて撮影したもので背後の山並みの位置関係が万葉の旅とは微妙に異なる。下の衛星写真(Wiki写真を細工した)で黄点から大根島方向を撮影したのが上の写真で、赤点からが下の工場が入った写真。上の”万葉の旅”の地図とこの衛星写真をよく比べて見ると写真を撮った辺り一帯が大きく埋め立てられていることがわかる。
この日は、写真の右手方向(東)に雪を戴いた大山がくっきりと見えた。大山は古代から変わらないと思いたい。



中海干拓計画は”万葉の旅”の昭和30年代からあったようで、犬養孝は「千鳥の声など思いもよらないが、よどんだ水面はまだかすかに古代の郷愁をのせている。」と結んでいる。犬養孝が歩いてから50年近く経つが、写真を撮るために堰堤を歩いていると私の気配に驚いて水鳥が何十羽も飛び立ち、歌にある「河原の千鳥」の情景と 犬養孝の言う「あたりはまだまだ鄙びていて---古代をひそめている---」をわずかながらに感じることができた。
写真の奥の山と重なりわかりにくいが、海面に浮かぶように大根島がある。出雲風土記に”たこ島”または万葉集7巻に”栲島(たくしま)”と記された島で、第四期の玄武岩からなる。粘性の低い玄武岩溶岩が噴出してできたため山にならず平坦な島になったという。