備忘録として

タイトルのまま

Social Network

2011-02-27 10:25:31 | 映画

シンガポールへの機中で”The Social Network”を観た。2004年に立ち上げて今や世界で6億人もが利用するFacebookを作った主人公(マーク・ザッカーバーグ)は女の子とまともな会話ができないSocial skillの全然ない奴なのである。その性格のせいで仲間(?)から次々に訴訟を起こされる。映画の最後、自分の雇った若い女性弁護士と仲良くなりたくて、自分の作ったFacebookを通してアプローチするコミュニケーションバカなのである。これを見て、以前触れたチームラボの猪子寿之のことばを思い出した。 

”コミュニケーション能力もいらない。むしろないほうがいい。コミュニケーションってエンターテインメントだから、その能力が高いと楽しい。だから新しいコミュニケーションのほうに行かないんです。コミュケーション能力が低い人のほうが新しいコミュニケーションのほうに行く。たとえば、コミュニケーション能力が高いと、女子大生とも共通の興味がなくても話せるわけ。それは楽しいことです。でも、コミュニケーション能力が低い人は、女子大生と話すことができないから、自分のすごく詳しい分野をブログなんかに書く。そうすると、自分が本当に詳しい分野に対して本当に理解してくれる人が集まってくる。いい人材もいいユーザーも集まる。進化論と一緒で、"前のコミュ二ケーション能力"が高い人は進化できない。(前時代的な)コミュニケーション能力の低い人のほうが有利になってくる。コミュニケーション能力の低い人が勝つんですよ。専門性は持ったほうがいい。”

Social skillがないから結果として裏切ることになったのか、意図的に裏切ったのかは不明だが、不等に仲間を排除したこととアイデアを盗用したとして2件の告訴を起こされる。ハーバードの白熱教室ではルームメイトの不正(カンニング)を告発しない共同体主義の学生が多数派だったが、実は共同体主義などではなく、告発した時の利益不利益を計算して、この場合は告発が不利益となると言う判断基準だった。個人の利益を守ることだけにしか関心のない単なる利己主義から仲間の不正を告発しないだけなのではないか、と映画を見て思った。サンデル教授が共同体主義とした分類は間違っているのではないのか。逆に自分の利益が損なわれる状況ならルームメートを簡単に告訴する、頭はいいけどSocial Skillのない計算高い利己主義の人間の集まりがハーバードの学生なのである。そう考えると民主党の内紛も同じように見えてきて面白い。政治家やエリートは、仁や義を徳とする儒教道徳とはまったく違う世界にいるのである。実は孔子の時代も同じだったから、君子は徳が大切だと孔子は嘆いたのだ。
 
”The Social Network"2010、監督:デヴィット・フィンチャー、出演:ジェシー・アイゼンバーグ 主人公の思考回路を基準にすると、彼の行動には一貫性があり理解できた。思考回路の論理性は認めるものの、現実に受容できるかというと、彼を拒否した元カノや彼を訴えた友人たち(本当の友人はいない)と同じようにただむかつくのである。彼の態度にむかついただけでなく、ハーバードのエリート主義にもむかつたし、天才的頭脳にも嫉妬してむかついた。むかついたけど最後まで映画にのめりこんだので、★★★★☆
 
同じく1月の旅と今回2月の機中で観た映画
 
”RED”2010、監督:ロベルト・シュベンコ、出演:ブルース・ウィルス、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコビッチ、ヘレン・ミレン、隠退した元CIAのスパイたちにA級俳優が扮し活躍するB級映画。ジョン・マルコビッチは「コン・エア」のときと同じようないつもの変態スパイ役だった。★☆☆☆☆
 
 
”Secretariat”2010、監督:ランドル・ウォレス 出演:ダイアン・レイン、ジョン・マルコビッチ、1973年にUSAで3冠を達成したSecretariat(馬)の馬主になった主婦(ダイアン・レイン)の実話。ここでもジョン・マルコビッチは偏屈調教師に扮する。ハリウッドの好きな普通の人が成功を収めるサクセスストーリーで、これといったものは何もない映画だが、ダイアン・レインなので、★★★☆☆
 
 
”Bone Collector”1999、監督:フィリップ・ノイス、出演:デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー、「羊たちの沈黙」に似ていて、デンゼル・ワシントンはレクター博士並みの頭脳を持つ犯罪捜査プロの元ニューヨーク市警の責任者だったが、勤務中の事故で全身麻痺になり、ベッドの上から捜査を指示する。アンジェリーナ・ジョリーはジョディー・フォスターに相当し、警官だった父親が自殺した過去をもつ女性警官で、犯罪現場で犯人の痕跡を探しだす能力を有することからワシントンに見込まれ、その指示で猟奇殺人の捜査をする。面白かったが「羊たちの沈黙」と重なりすぎた。★★★★☆


”The Shipping News"2001、監督:ラッセ・ハルストロム、出演:ケヴィン・スペイシー、ジュリアン・ムーア、ケイト・ブランシェット、おどろおどろしい過去を持つ一家と父親の厳しい躾によるトラウマを引きずる主人公は、妻(ケイト・ブランシェット)に捨てられ一人娘を連れて叔母といっしょに一家の故郷であるニューファンドランド島に戻る。島には尋常でない一族の話があり、また島の自然は過酷なのだが、生活はのんびりとしたもので主人公は癒されながら過去のトラウマを克服していく。あの大女優ケイト・ブランシェットが端役のめちゃくちゃな妻を演じていた。これといった映画ではないが最後まで見飽きなかったので、★★★☆☆

 
”ウォール・ストリート”1987、2010 監督:オリバー・ストーン、出演:マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン(1987年版)、マイケル・ダグラス、シャイア・ラブーフ、キャリー・マリガン(2010年版) 1987年版は、金儲けだけが正義という世界で、チャーリー・シーン扮する主人公が大物の投資家ゲッコウ(マイケル・ダグラス)に見込まれ、のし上がっていく。最後は自分の父親の会社を食い物にすることになりゲッコーと対決する。飛行機の整備工の父親がいい。2010年版のウォールストリートは、それから10年後インサイダー取引で収監されていたゲッコーが出所してくるところから話が始まる。ゲッコーに反発する一人娘と金融業界で働く婚約者が、ゲッコーの商売敵と対決する話である。前作のほうが面白かった。二作併せて、★★★☆☆ 

杜子春

2011-02-20 17:22:03 | 中国

湯島聖堂・大成殿の天井に飾られた額の儒家集団の中に、あの芥川龍之介の杜子春がいるではないか。杜子春って儒家で実在だったのか?

芥川龍之介の杜子春を読む限りでは、母親を助けようと声を出してしまう孝を大切にする人で仙人(道教的)にはなれなかった。芥川が杜子春の題材にした唐大伝記の「杜子春伝」は、3度の金持ちと貧乏の繰り返し以降は話が違っていて、杜子春自身が仙人になるためにどんなことがあっても声を出さないと仙人と約束をし、妻が殺されても自分の体が切り刻まれても声を上げなかったのに、死んで女に生まれ変わり産んだ子供を夫が殺した瞬間に声を出してしまった。そのため杜子春は仙人になりきれなかった。わが子への愛をさえ捨てないと仙人にはなれないのである。このあたりは、列子にも共通している。杜子春は仙人(道家的)にはなれなかったが孝悌を大切にしたので儒家的といえばそうなのかもしれない。

では、杜子春は実在の人物だったのか? ネットサーフィンしたが結局、唐大伝記の「杜子春伝」以外に、その名を見ることはできなかった。上の写真の人物は、以下に示すように杜子春以外すべて儒家として史書に名があるか業績がはっきりしている。

左丘明(さきゅうめい):春秋時代の史官で、盲目になってから国語をつくった。孔子の弟子ともいわれる。(史記・大史公自序)

穀梁赤(こくりょうせき):孔子の門人子夏の弟子で春秋の解釈書である春秋穀梁伝を表す。(?)

高堂生(こうどうせい):漢代の儒学者で最初に礼書を伝えた。(史記・儒林列伝)

毛萇(もうちょう):漢代の儒家で、儒教の基本経典のひとつである詩経を伝えた。(漢書)

杜子春(とししゅん):唐代の人?

王通(おうとう):隋代の儒学者で弟子との対話を記録した「文中子中説」という著書がある。(隋書?)

儒家を描いた額は広間の天井近くに左右7つほど掲げられていただろうか。たまたま、もう一枚写真を撮った下の額に入った人物についても調べてみた。


韓愈(かんゆ):唐代の進士合格官僚。古文復興運動を行った。(旧唐書、新唐書)

后蒼(こうそう):漢の武帝のときの博士で礼を伝えた。(漢書)

董仲舒(とうちゅうじょ):漢初の儒家で武帝の丞相になった公羊派である。司馬遷も会っている。(史記・儒林列伝)

孔安国(こうあんこく):孔子11世の孫で漢の武帝のとき博士となった。(史記・孔子世家・儒林列伝)

伏勝(ふくしょう):伏生ともいい、秦の焚書坑儒のとき書物を隠した。(史記・儒林列伝)

公羊高(くようこう):孔子の弟子の子夏の弟子で、公羊高が解釈した春秋を春秋公羊伝という。(?)

史記における孔子の弟子と儒家の系譜は、「孔子世家」に顔回、子路、子貢ら側近の弟子、「仲尼弟子列伝」に77名の孔子の弟子の名、「儒林列伝」に孫弟子以降、司馬遷の時代までの儒家の名前が見られる。杜子春以外は、儒家としての業績もはっきりしているか、史書にその名がみえるので、なぜ杜子春の名が湯島聖堂の大成殿の儒家の集団の中にいるのか不明である。


列子

2011-02-19 18:45:44 | 中国

孔子のつぎは、孟子か荀子か墨子、そうでなければ老子か荘子にいくところを、湯島聖堂に行ったついでに立ち寄った神田の古本屋でなぜか「列子」(岩波書店・小林勝人訳注)を買ってしまった。列子は、周の列禦寇(れつぎょこう)の撰だと言われているが、司馬遷の「史記」に記載がなく実在さえ疑われている。

今八百長騒動で大変な大相撲の白鵬が63連勝で敗れたとき、双葉山の言った”我、いまだ木鶏にあらず”ということばが新聞などで引用されていた。この”木鶏”は列子からの引用なのである。列子は、第1から第8までの八編に分けられた短い説話集で、”木鶏”に加え、”杞憂”、”愚公山を移す”、”朝三暮四”、”不射の射”などの話が有名である。

杞憂:杞の国に天が落ちてくるのを心配して夜も寝られない男がいた。そんな心配はないと諭す男もいた。列禦寇先生は、天地が崩壊するかしないか人間にはわからない。生きている者には死んだ者のことはわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからない。だから、天地が崩壊するとかしないとかに心を悩ますことは無駄なことだ。といった。天端第1-14

不射の射:列禦寇は弓の名手だが、師匠の伯昏瞀人(はっこんぼうじん)に言わせると、それは射の射であり、不射の射ではないという。列禦寇は断崖絶壁の上ではぶるぶる震えて矢を射ることができなかった。師匠は、道を体得した者は心も顔色も動じないものだ。と言う。黄帝第2-5 中島敦の名人伝に不射の射が書かれている。

常勝の道:強は自分より弱いものには勝つが、自分より強いものには必ず勝つとは決まっていない。しかし、柔によれば必ず勝つ。黄帝第2-18

朝三暮四:宋の猿飼いが貧乏になって猿の食い扶持を減らそうと、”どんぐりを朝に3つ、暮れに4つにしようと思うがどうだ”と猿に尋ねたところ、猿は皆怒り始めた。そこで、”では朝に4つ、暮れに3つにする。”と言ったら、猿は大変喜んだ。本質は変えずに、愚かな相手をいいくるめることができるのだ。黄帝第2-19

木鶏:王のために闘鶏の鶏を飼っている男がいて、王が自分の鶏はもう戦うことができるかと問うたとき、”いやまだです。鶏は空威張りできおい立っているだけです。”と答えた。次に王が訪ねた時も、相手を見るときおい立つのでまだまだだと答えた。その次の時は、まだ相手を睨みつけて気合をいれると言った。次に王が尋ねたときは、”もう申し分ありません。いくら他の鶏が鳴きたてても自分は一向に動じません。遠くからみるとまるで木造りの鶏のようです。すっかり無為自然の徳を身につけました。他の鶏は皆逃げ出すでしょう。”と答えた。黄帝第2-20

白馬非馬:公孫竜は、白い馬は馬ではないという詭弁を使った。彼は、馬という実体と白いという馬の属性の二つの概念は別物であるから両方がくっついた白馬は別物であると言った。彼の詭弁は他に、親なし子牛にはもとより母牛はいない。なぜなら母牛がいれば親なし子牛とは言わない。物体は動いても影は動かない。前の影と物体が動いたあとの影は影の移動ではなく次々と入れ替わった別物だから。仲尼第4-13

愚公山を移す:愚公という90歳の老人は家の前の山が邪魔だったので子供たちと山を崩して道を開こうとした。近所の老人がそれを笑ったが、愚公は、”自分が死んでも子供があとを継ぎ、その子が死んだら孫が継ぐ。子孫は絶えることがないが、山は高くなることはないのでいつか山を平らにすることができる。”と答えた。これを聞いた天帝は愚公のまごころに感心し山を移してやった。湯問第5-2

孔子不能決也:日の出の太陽が昼間の太陽より遠いか近いかで二人の子供が言い争いをしていた。子供の一人が、朝の太陽は昼間より大きく見えるので近くのものが大きく見えるわけだから朝の太陽が大きいというのに対し、もう一人の子供は、昼間の太陽が近いから熱いと反論した。二人の子供がどちらが正しいか孔子に聞いたところ、孔子はどちらが正しいか決めかねてしまった。子ども二人は、笑って孔子を冷やかして、”お前さんをたいへんな物知りと言ったのはどこのどいつだね。”湯問第5-7

偃師の人形:偃師が作った人形は人間そっくりで、周の穆王(ぼくおう)に献上したところ王の愛妾に秋波(いろめ)を送ったので王はたいそう怒ったが、偃師は人形をばらばらにして見せた。墨子の集団はそのころ城を落とす雲梯や空を飛ぶ木で作った鳶を誇っていたが、この人形を見てからは自慢しなくなった。湯問第5-13

列子は、老荘思想と同じ道家思想の流れを汲んでいる。列子の”道(生ぜざるもの)は、宇宙の本体で虚無であり、一切の万物はこの道から生まれる。道は不生不変、無限無窮のものである。”、といことで、宇宙に絶対の根源がある、いる?のである。でもこれは宗教の神のような意志は持たない。孔子あるいは儒家は、”怪力乱神を語らず”や”未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん”と孔子が言ったように、現実にないものやわからないもの、神や死を語らない。それに比べると列子には、”死と生は行ったり来たりするもの”(転生輪廻のような思想)、”人間にも獣心あり、禽獣にも人心あり”(山川草木悉皆成仏のような思想)があり、頻繁に出てくる孔子は、聖人としては扱われず、どちらかと言えば凡庸にさえ描かれているのである。例えば、楊朱第7-12で、孔子は、”宋の国では追い立てられ、衛の国では排斥され、商や周の地では窮迫し、陳や蔡では兵に包囲され、魯の国では屈辱を受け、匡の地では辱められ、一生苦しみながら死んでいった。これは、”天の生みたもうた人間のなかで、誰よりも一番落ちつきのないあわただしい男である。”、第7-18で、世間(当然、孔子や儒家)では忠ということを美徳のように言うが、忠などというものは君主を安泰にさせることができないばかりか、自分の一身を危うくするのが落ちである。また、世間では義を善行のように言うが、義などは人民の利益にならないばかりか、自分の命をそこなうのが落ちである。忠とか義などの道徳などに振り回されずに皆が安泰に暮らし、他人も自分も利益を受けることが理想である。と、孔子の教えを否定する。説符第8-8では、チャンスに臨機応変に対応することが大切で、孔子のように広い学問を身につけてもこれができなければ意味がない。という。

案の定、津田左右吉は列子架空説を提唱している。しかし、「列子」の訳者である小林勝人は津田左右吉の架空説の根拠は薄弱で、列子の名は、「戦国策」や「呂氏春秋」という確固たる文献に現れており実在だとしている。すでに何度も触れたと思うが、津田左右吉の史観は矛盾する記述や超人的な記述があればすべて史実ではないという極端なものであることは有名で古事記や日本書紀の大半は史実ではないとする。梅原猛などは津田の史観は凡人史観だとボロクソに批判している。聖徳太子を否定する津田の論拠は、古事記や日本書紀に見える聖徳太子が凡人では考えられない事跡で埋められているという理由しかないのである。矛盾があれば偽作として分析や研究を放棄するより、誤りの中に真実を探すほうが余程科学的だと梅原はいう。津田の流れをくむのが「聖徳太子の誕生」の大山誠一らである。大体、大山誠一の論拠そのものも相当無理があり、特に、八世紀前半に遣唐使から帰国した道慈(どうじ)が日本書紀の仏教関係個所を記述し、十七条の憲法を作ったというお話には科学的な根拠がほとんど示されない。この辺の大山による道慈の話は、彼が真実が少ないという日本書紀の太子記事に勝るとも劣らないレベルなのである。聖徳太子の虚構を論証する個所はそれでも逐一論拠を示しているが、それに比べ道慈の役割を述べる個所の根拠のない決めつけに唖然とする。梅原や上原や他の歴史学者による仮説の論拠の精密さと比べての感想であり、私が聖徳太子ファンだからという主観的批判によるものでないことは強調しておきたい。


湯島天神

2011-02-13 09:54:17 | 江戸

切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。

湯島天神でお蔦が主税(ちから)に言う泉鏡花「婦系図」の有名な台詞である。ところが、青空文庫の「婦系図」を探したが、この台詞が出てこない上に、湯島天神にさえ二人は行ってない。泉鏡花の師匠である尾崎紅葉の「金色夜叉」で、熱海の海岸を散歩する貫一がお宮を蹴飛ばす場面と同じくらい有名なのになぜだ、と調べたら、「婦系図」原本にはなくて、後日、泉鏡花が二人の別れの場面を取り上げて書き直した戯曲「湯島の境内」で新たに作られたもので、その後何度も舞台化や映画化されて有名になったらしい。「湯島の境内」も青空文庫に載っている。

一昨日の金曜日、湯島天神の梅まつりに行った。上野アメ横の藪蕎麦で鴨南蛮そばを食べてから、湯島天神まで10分ほどを歩いた。藪蕎麦は「婦系図」にもその名がみえるが、小説の藪蕎麦はどこの藪蕎麦かはわからない。上野アメ横の鴨南蛮そばは鴨肉が肉厚でそこそこ美味いがしょうゆ味が強すぎるので、松江の八雲庵の鴨南蛮そばのほうが好みだ。

「婦系図」の映画の題名にもなった「湯島の白梅」が雪の中、満開だった。雪の湯島天神は広重が名所江戸百景に描いているが、もちろん今は鳥居の先に不忍池は見えない。もうひとつの浮世絵は同じ広重の銀世界十二景である。

亀戸天神や大宰府と同じ菅原道真を祀った天神さんなので、季節がら、合格祈願の絵馬であふれていた。

 


神田川・仙台堀

2011-02-06 10:16:29 | 江戸

先週、湯島聖堂へ行ったとき、御茶ノ水駅から聖橋を渡りながら、神田川の写真を撮った。聖橋の下を東京メトロ丸の内線の電車が通っている。電車の右手すぐ上、川の右岸沿いに走る鉄道は中央線で、さらにその上を走り川をまたぐ鉄橋の昌平橋を渡るのが総武線で、鉄道が3層になって交錯している。写真の丸の内線電車の下、神田川を横断して千代田線が走っているので実際は4層である。神田川は江戸の初期には江戸城(皇居)方面に流れていたのを、人工的に流路を変えるため本郷台地の南端を開削して、まっすぐ江戸湾に流し込んだことが、以前NHKの「ブラタモリ」で紹介されていた。写真でも川が深く掘りこまれていることがよくわかる。

司馬遼太郎の「街道をゆく36・神田界隈」を紐解くと、

ともかくも家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると、「神田御茶ノ水掘割」である。いま聖堂のある湯島台地と、神田山とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓に神田川の水を通したのである。現在の聖橋は、関東大震災後、昭和3年にかけられた橋で、湯島台と駿河台をむすんでいる。下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという。着工は大坂夏の陣(元和元・1615)のあとで。元和年間というから、その間、家康の死があった。家康は命じただけで、着工の風景は見なかったにちがいない。工事ははかどらなかった。おそらく断続しておこなわれたのだろうが、完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。

とある。だから、このあたりの神田川は仙台堀と呼ばれる。江東区にある仙台堀川や仙台にも仙台堀があるので注意。下のGoogle3Dで聖橋を真ん中に、神田川の左岸・湯島台に湯島聖堂、右岸・駿河台にニコライ堂が見える。

ついでに、「街道をゆく36」の湯島聖堂とニコライ堂の個所も読み返した。昌平黌の昌平は、孔子の生まれ故郷である魯の曲阜県のなかにある昌平という郷村の名からとったそうである。学生は主に幕臣で科挙と同じように5年に一度卒業試験があったそうだ。明治になると神田には60もの私塾が林立し、その後、明治大学、東京理科大、法政大学、中央大学、日本大学、共立女子大学などの私学になった。古本屋が多いのもこの所為である。聖橋から大学のビルの谷間を神保町方面に歩いていると楽器屋が集まる界隈もあった。ニコライ堂は函館に正ハリストス教会を開いたロシアのニコライさん(1836~1912)がのちに東京に出てきて建てたギリシャ正教(ロシア正教)の教会である。ニコライ堂の入り口まで行った私と妻は、入場料を取ることもあって、”どうせイタリアで見た壮麗なステンドグラスで飾られた教会には及ばないに違いない”と決めつけて中には入らなかった。。函館のハリストス教会に入った司馬遼太郎は、”壮麗としかいいようがない”と感嘆している(「街道をゆく15・北海道の諸道」)ことを後で知り、入らなかったことを悔いている。