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大津皇子

2012-07-08 12:04:32 | 古代

 5世紀の履中天皇が作り、用明天皇や大津皇子ゆかりの磐余の池について、6月30日の奈良新聞に以下の記事が載った。

「幻の姿」少しずつ解明 - 橿原の推定堤跡で池の痕跡/古代の「磐余池」

昨年、古代の「磐余(いわれ)池」の一部と推定される堤跡が見つかった橿原市東池尻町で、付近から池の痕跡が確認され、市教育委員会が29日、発表した。出土土器から、池は遅くとも6世紀末~7世紀初頭までには存在し、13世紀ごろまでには耕地化されたとみられる。磐余池かどうかも含め池の実態は不明のままだが、少しずつ様相が明らかになってきている。前回調査では、丘陵を利用した人工的な堤(6世紀後半以前)と、その上に建てられた大壁建物など建物6棟を検出した。今回は池に推定される南西側の低所を中心に調査した。池の堆積土(厚さ0・1~1・2メートル)が確認され、6世紀末~7世紀前半の土器数十点が出土した。過去の池推定地内の調査でも同時期の土器が確認されているため、この頃までには池が存在していたと考えられる。

 磐余の池は人工池で天の香具山の東に位置し、聖徳太子の父である用明天皇の宮殿である磐余池辺双槻宮があったとされる。

大津皇子は、686年10月3日謀叛の罪により死刑に処せられるとき磐余(いわれ)の池の堤で涙を流して下の歌を詠んだ。

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ     (巻3-416)

 犬養孝は「万葉の旅」で、”24歳の生を終わる日の心の窓に、池の鴨は、そして大和の風物はどんなに深くきざみこめられたであろうか。妃の山辺皇女は髪をふりみだしはだしになって刑場に走り、皇子の死に殉じたという。”と記す。”雲隠れ”は死ぬことで、万葉集の挽歌にいくつか見られる。源氏物語の本文のない雲隠れの巻は光源氏が亡くなったと解釈されている。

 大津皇子の謀叛と刑死のいきさつは、28年前の有間皇子とまったく同じである。下の系図に示すように天武天皇の次の皇位継承者で有力だったのは、天武天皇の子で1歳違いの草壁皇子と大津皇子である。、それぞれ母は天智天皇の娘で同母の姉・大田皇女と妹・鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)で、妃は共に天智天皇の娘であり、資格血統ともにほとんど互角である。違いは、天武天皇崩御の時、草壁皇子が皇太子であったことと、草壁の母親・のちの持統天皇は権力の中心にいたが、大津皇子の母・大田皇女はすでに亡くなり大津には後ろ盾がなかったことである。持統紀や懐風藻によると、大津は堂々たる体格で、弁舌に長じ、教養高く、文武にすぐれ、度量も大きく人望をあつめ、漢詩をよくし、天智から特に愛されていたという。

 大津皇子は、天武天皇が崩御された1か月後の10月2日に謀叛の罪で捕えられ、翌日に死を賜る。自分の身に危険が迫っていることを察知し伊勢神宮にいる姉の大伯皇女に会いに行ったのは、天武崩御前後のことである。

大伯皇女は天武崩御により斎宮を解任され11月16日に帰京する。大津皇子刑死後に都に戻る途上で詠んだ歌二首。

神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに

見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに

同じく大伯皇女が大津皇子が二上山に葬られたときに詠んだ歌二首。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに

犬養は、”大津皇子の死は、おそらくは草壁皇子の競争相手としての大津を抹殺しようとする持統天皇側のたくらみであったと思われる。”とする。大伯皇女もその辺の事情を察していたので、最初の二歌のくやしい思いと、次の二上山を弟と見ようとするあきらめと、あしびの花を弟にみせようにも、その弟はこの世にいるとはだれもいわないとあきらめきれないくやしさと、大伯皇女の揺れる気持ちが詠めるという。二上山は奈良県と大阪府の境にあり、そのうちの雄岳の頂上に大津皇子墓がある。西は太子町で、聖徳太子の磯長陵を始めとし、太子と関係の深い用明天皇陵、推古天皇陵や小野妹子の墓があり、大津皇子墓とともに是非にも訪れなければならない地である。


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