備忘録として

タイトルのまま

吉備真備

2012-07-21 17:10:46 | 古代

 教科書に出てくる吉備真備は遣唐使から帰朝したあと、唐の新しい制度を紹介し天皇の信任を得、異例の出世をしたが、玄とならび政治をろう断したとして藤原広嗣の乱が起こったり、道鏡と対立した仲麻呂の乱を鎮圧したり、権力側に居座り続けた老獪な人物という印象を持っている。井上靖の「天平の甍」でも吉備真備を傲岸不遜な人物と描いていたので、歴史上の人物としてあまり好感をもっていなかった。そのため、彼の生涯にもほとんど無関心だった。

真備の略歴を以下にまとめる。

  • 695年 備中(倉敷)に生まれる
  • 716年 遣唐使留学生(1回目)
  • 735年 帰朝
  • 740年 藤原広嗣の乱(真備・玄を除こうとした)
  • 752年 遣唐副使(2回目)
  • 754年 帰朝 遣唐副使の大伴古麻呂に伴われ鑑真来朝
  • 757年 橘奈良麻呂の乱(奈良麻呂に組した大伴古麻呂は拷問の末殺される。)
  • 764年 藤原仲麻呂の乱(真備が乱を鎮圧)
  • 766年 右大臣
  • 770年 称徳天皇崩御、道鏡左遷
  • 775年 死去80歳

 5月の伊勢紀伊の旅の途上、クジラで有名な太地町の岬の突端で、たまたま吉備真備漂着の碑をみつけた。

 碑の由来には、”天平勝宝5年末(753年)当時遣唐使であった吉備真備が唐からの帰途、遭難して牟漏崎に漂着したと続日本紀に記されている。ここは昔から牟漏崎または、室崎と呼ばれており、その記の牟漏崎はこの岬であると考えられる。その後、真備は船体などの修理のためしばらく滞在し、帰京したものと思われる。---平成23年2月 太地町教育委員会”とある。

続日本紀をネットで探してきた。

(天平勝宝)六年春正月丁酉朔。------入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰。唐僧鑑真。法進等八人、随而帰朝。○癸丑。大宰府奏。入唐副使従四位上吉備朝臣真備船。以去年十二月七日。来着益久嶋。自是之後。自益久嶋進発。漂蕩着紀伊国牟漏埼。○丙寅。副使大伴宿禰古麻呂、自唐国至。古麻呂奏曰。大唐天宝十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官・諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我、次西畔第二吐蕃下。以新羅使、次東畔第一大食国上。古麻呂論曰。自古至今。新羅之朝貢大日本国久矣。而今、列東畔上。我反在其下。義不合得。時将軍呉懐実見知古麻呂不肯色。即引新羅使。次西畔第二吐蕃下。以日本使、次東畔第一大食国上。 

 ”入唐副使の吉備真備の船は、昨年12月7日に屋久島(益久嶋)に来着し、その後屋久島を発ち、紀伊国牟漏崎に漂着”。その前の一文に鑑真の名がみえる。もうひとりの”入唐副使である大伴古麻呂の船が、唐僧鑑真と法進ら八人を従え帰朝した”とある。真備の船は鑑真とは別の船だったようだ。副使の大伴古麻呂は、正使の藤原清河が唐の官憲に遠慮して鑑真の乗船を拒んだのに、独断で鑑真を自船に乗せている。また、上の記事の後半部では、古麻呂が唐での朝賀の際、日本の席次が新羅の次だったことに抗議し、席次を入れ替えさせている。古麻呂はその後、時の権力者の仲麻呂と対立する橘奈良麻呂に組し謀叛したとして捕えられ拷問の末、殺されている。

 道鏡が専横した時も右大臣として何もしなかった学者の吉備真備とは異なり、古麻呂は硬骨の武人だった。しかし古麻呂は現在ほとんど顧みられることはなく、逆に吉備真備は、唐から囲碁を持ちこんだ、誰もできなかった「野馬台の詩」を解読した、張良の兵略書「六韜三略」を初めて日本に持ち込んだので兵法の祖、陰陽道の祖、九尾の狐を連れ帰った、など多くの伝説が語られ、太地町にも漂着の碑が建てられ顕彰されるのはなぜだろう。


賢治の仏教

2012-07-14 12:53:27 | 賢治

 前回、賢治は法華経(日蓮宗)を最後まで信仰していたという田口昭典の説と、そうではなく特定の宗教にこだわっていなかったという山折哲雄の説を並べた。今回は、「宮沢賢治の仏教」から著者・須田浅一郎という人の説を紹介する。「宮沢賢治の仏教」は本人いわくエッセイ風で100ページ余りの論文様の著作で中身は濃く得るものが多かった。

 日蓮宗の檀家に生まれ日頃日蓮宗信者ともいうべき須田は、本の冒頭で、アンリアルボン著「仏教」の一節を引き、日蓮宗とは”ただ意味がわからなくても南無妙法蓮華経を繰返し”、”特に無学な人々の間に広がり”、”熱狂的信仰は日本の他の宗派の示す広い寛容さと調和しない。”などと述べ、日蓮宗の極めてネガティブな紹介から始め、徐々に賢治の仏教に迫ろうとするのである。端的に言えば、浄土真宗である実家を飛び出したときの不寛容な信仰から寛容の信仰へ変わっていく過程を論じた本である。

以下に、本の要約を示す。

  1. 賢治が浄土真宗の歎異抄礼賛から法華経崇拝に変わるのは18歳のころである。
  2. 筆者は賢治を日蓮宗という狭小なレッテルから解放する目的でこの本を書いた。
  3. 賢治は法華経を尊崇はするが、他の仏典も広く読み、法華経にない十善法語の不貪慾戒は「春と修羅」で、ジャータカ物語は書簡や童話「学者アラムハラドの見た着物」で確認できる。
  4. 大正10年、賢治は上野の帝国図書館で、パウル・ダールケの「仏教の世界観」を原書(独語)で読んでいる。
  5. ビヂテリアン大祭」にブッダの最後の食事は豚肉か蕈(きのこ)だったのかという論争が出てくるが、大パリニッパーナ経という仏典にこの話が出てくる。漢訳仏典にはないので賢治はパーリ語系仏典も渉猟した。
  6. 日蓮と国柱会を柱にした賢治の狂信的とも思える法華経敬信は、保阪嘉内宛ての書簡に見られるが、それは大正10年で終わり、賢治の創作活動は大正10年以降に活発化する。その変化の動因は「図書館幻想」に見られるハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことである。
  7. 「銀河鉄道の夜」では、”ほかの神様を信じる人たちのことでも涙がこぼれるだろう。”ととても寛容なのである。オッペルに虐待された白い像は、”南無妙法蓮華経”とは祈らず、”苦しいです。サンタマリア”と叫ぶのである。
  8. 文語詩「不軽菩薩」に賢治の仏教がある。「不軽菩薩」は鳩摩羅什訳の妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十が元である。賢治は「不軽菩薩」を何度も何度も推敲し、法華経の原文にはない仏教哲学的解釈を施し改変している。
  9. 「狐の生徒の歌」は原始仏教からの戒律である八正道の正見が語られている。これは戒律重視のパーリ語系仏教を主体とする西欧仏教学を元にしている。
    • ひるはカンカン日のひかり
    • よるはツンツン月あかり
    • たとへからだをさかれても
    • 狐の生徒はうそ云ふな

筆者の須田は結論として、賢治は法華経尊崇はするが、それにはとどまらない自由で柔軟な仏教観、宗教観を持っていたとする。基本的に山折哲雄と同じ結論である。

 賢治の宗教観が変わったという大正10年、それは賢治が家出し、父親と上方旅行をし、父と和解した年である。最愛の妹トシが病に倒れ亡くなった年である。賢治が詩や童話の創作に入っていく年である。須田はハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことを賢治の仏教観を変える動因であるとしているが、一冊の本よりも、父との諍い、家出、旅行、和解、妹の病と死など大正10年前後に賢治の身の回りでおこったすべてが変化のきっかけだったと思う。特に妹・トシの死が大きかったと思う。


大津皇子

2012-07-08 12:04:32 | 古代

 5世紀の履中天皇が作り、用明天皇や大津皇子ゆかりの磐余の池について、6月30日の奈良新聞に以下の記事が載った。

「幻の姿」少しずつ解明 - 橿原の推定堤跡で池の痕跡/古代の「磐余池」

昨年、古代の「磐余(いわれ)池」の一部と推定される堤跡が見つかった橿原市東池尻町で、付近から池の痕跡が確認され、市教育委員会が29日、発表した。出土土器から、池は遅くとも6世紀末~7世紀初頭までには存在し、13世紀ごろまでには耕地化されたとみられる。磐余池かどうかも含め池の実態は不明のままだが、少しずつ様相が明らかになってきている。前回調査では、丘陵を利用した人工的な堤(6世紀後半以前)と、その上に建てられた大壁建物など建物6棟を検出した。今回は池に推定される南西側の低所を中心に調査した。池の堆積土(厚さ0・1~1・2メートル)が確認され、6世紀末~7世紀前半の土器数十点が出土した。過去の池推定地内の調査でも同時期の土器が確認されているため、この頃までには池が存在していたと考えられる。

 磐余の池は人工池で天の香具山の東に位置し、聖徳太子の父である用明天皇の宮殿である磐余池辺双槻宮があったとされる。

大津皇子は、686年10月3日謀叛の罪により死刑に処せられるとき磐余(いわれ)の池の堤で涙を流して下の歌を詠んだ。

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ     (巻3-416)

 犬養孝は「万葉の旅」で、”24歳の生を終わる日の心の窓に、池の鴨は、そして大和の風物はどんなに深くきざみこめられたであろうか。妃の山辺皇女は髪をふりみだしはだしになって刑場に走り、皇子の死に殉じたという。”と記す。”雲隠れ”は死ぬことで、万葉集の挽歌にいくつか見られる。源氏物語の本文のない雲隠れの巻は光源氏が亡くなったと解釈されている。

 大津皇子の謀叛と刑死のいきさつは、28年前の有間皇子とまったく同じである。下の系図に示すように天武天皇の次の皇位継承者で有力だったのは、天武天皇の子で1歳違いの草壁皇子と大津皇子である。、それぞれ母は天智天皇の娘で同母の姉・大田皇女と妹・鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)で、妃は共に天智天皇の娘であり、資格血統ともにほとんど互角である。違いは、天武天皇崩御の時、草壁皇子が皇太子であったことと、草壁の母親・のちの持統天皇は権力の中心にいたが、大津皇子の母・大田皇女はすでに亡くなり大津には後ろ盾がなかったことである。持統紀や懐風藻によると、大津は堂々たる体格で、弁舌に長じ、教養高く、文武にすぐれ、度量も大きく人望をあつめ、漢詩をよくし、天智から特に愛されていたという。

 大津皇子は、天武天皇が崩御された1か月後の10月2日に謀叛の罪で捕えられ、翌日に死を賜る。自分の身に危険が迫っていることを察知し伊勢神宮にいる姉の大伯皇女に会いに行ったのは、天武崩御前後のことである。

大伯皇女は天武崩御により斎宮を解任され11月16日に帰京する。大津皇子刑死後に都に戻る途上で詠んだ歌二首。

神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに

見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに

同じく大伯皇女が大津皇子が二上山に葬られたときに詠んだ歌二首。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに

犬養は、”大津皇子の死は、おそらくは草壁皇子の競争相手としての大津を抹殺しようとする持統天皇側のたくらみであったと思われる。”とする。大伯皇女もその辺の事情を察していたので、最初の二歌のくやしい思いと、次の二上山を弟と見ようとするあきらめと、あしびの花を弟にみせようにも、その弟はこの世にいるとはだれもいわないとあきらめきれないくやしさと、大伯皇女の揺れる気持ちが詠めるという。二上山は奈良県と大阪府の境にあり、そのうちの雄岳の頂上に大津皇子墓がある。西は太子町で、聖徳太子の磯長陵を始めとし、太子と関係の深い用明天皇陵、推古天皇陵や小野妹子の墓があり、大津皇子墓とともに是非にも訪れなければならない地である。


Regulatory Capture

2012-07-07 12:17:22 | 話の種

 福島第一原発の国会事故調査委員会の報告書が出た。要旨のみ読んだ。報告書は福島第一原発事故は日本の政官財の癒着構造による人災であり、根本原因を”Regulatory Capture”によるものとし、それは”規制の虜”と訳されていた。安全を守るべき規制当局が事業者の虜になっていたというのである。Regulatory Captureは、英語版wikiで以下のように定義されているので自分なりに訳してみた。

In economics, regulatory capture occurs when a state regulatory agency, created to act in the public interest, instead advances the commercial or special interests that dominate the industry or sector it is charged with regulating. Regulatory capture is a form of government failure, as it can act as an encouragement for large firms to produce negative externalities. The agencies are called "captured agencies".

訳:経済学でRegulatory Capture(規制の虜)とは、公共の利益を守るために創設された政府の規制機関が、本来規制すべき業界やセクターが独占する商業的利益や特定の利益を優先するときに起こる。Reguratory Captureは、一種の統治機能の崩壊で、大企業が負の外部性(経済用語=外部への負の影響)をもたらす方向に作用する。そのような政府機関を”虜になった機関”と呼ぶ。

 wikiにはRegulatory captureの具体例が示され、日本の項には、薬害エイズで厚生省が製薬会社の虜になった例と、電力会社の虜になった原子力安全保安院(NISA)の例が記されている。そこには、経産省と東電も実名で登場し、NISAが原発を推進する経産省の一機関である以上、watchdogの役割を果たせないことや、amakudari=”descent from heaven"があるため安全基準の改定が事業者(企業)に握られているとされ、基本的に国会事故調報告書が指摘する構図と同様の内容になっている。wikiが参考文献としてあげた2007年12月のBroombergの記事(http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=newsarchive&sid=awR8KsLlAcSo)には、安全基準を作成する委員(実名がでている)が電力事業者のアドバイザーになり、基準を書き換えた例を上げ、本来、独立性が求められる監視側の人間が監視される側にも立つという利害に反する行為(Conflict of Interest)が許される構造に日本の原子力の脆弱性があるとしている。翻ってフランスやアメリカの規制機関は、事業者や政府から完全な独立性を有していると記事には書かれている。福島の何年も前から、日本の原子力推進における構造的な問題は、このように指摘されていたのである。

 調査委報告書で感心したのは、活動のキーワード”国民、未来、世界”が示されていることである。キーワードは事故調委員の行動規範であり判断の拠り所となるものである。すなわち、この調査は誰のために何のために実施したかが高らかに宣言され、委員は世界中からの評価を意識し、さらには歴史の審判も意識ながら活動したと考えてもいいと思う。それは、委員長が”はじめに”で福島県出身の歴史学者・朝河貫一の業績に言及していることからわかる。朝河貫一は日露戦争後に日本の行く末を憂い、日本の外から客観的な視点で”日本の禍機(禍の兆し)”を書き警告を発したが、その警告に耳を傾ける日本人はおらず、彼の予測通り日本は戦争の道を突き進んだのである。

 報告書は、社会構造とマインドセット(思い込み)の改革を進言している。社会構造改革とは、政府の役割、規制組織の役割、電気事業者の役割を明確に区分規定し、真の独立性を持たせることである。日本でしか運用されていない安全基準を国際基準とし、事業者優先のマインドセットを捨て、日本の原子力政策を国民の安全を第一に考えるものに根本的に変革するべきだとしている。


The Help

2012-07-04 23:19:44 | 映画

 最近観た映画を数編。

「The Help」2011 監督:テイト・テイラー 出演:(写真IMDbより・三人は左から)エマ・ストーン、オクタビア・スペンサー、ヴィオラ・デイビス、他にブライス・ダラス・ハワード、ジェシカ・チャスティン 黒人差別が残る南部の町でメイドとして働く黒人女性を描いた映画でバカな白人女性が大勢出てくる。エイビリン(ヴィオラ・デイビス)ら黒人が受ける差別の深刻さには愕然とするが、記者を目指すスキーター(エマ・ストーン)のひたむきさとグラマーなだけでおバカだと思っていた白人のシーリア(ジェシカ・チャスティン)が差別と無縁の天然で好感が持て話が重くならない。黒人差別の話は、小学校の課題図書で読んだ「アンクルトムの小屋」や映画「ミシシッピー・バーニング」など重いものしか念頭になかったので、気合を入れて見始めたがいい意味で裏切られた。白人の元主人ヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)にXX入りのチョコレートパイを食べさせた黒人メイドのミニー(オクタビア・スぺンサー)はアカデミー賞助演女優賞を受賞した。エマ・ストーンは今度、スパイダーマンのヒローインに抜擢された。前のキルスティン・ダンストよりも期待している。★★★★☆

「The Notebook(邦題:きみに読む物語)」2004 監督:ニック・カサベテス、出演:ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムス、ジェームズ・ガーナー、ジーナ・ローランズ、認知症の妻に物語を語って聞かせる老人を懐かしいジェームズ・ガーナ―(大脱走、夕陽に立つ保安官、地平線から来た男、マーヴェリック、スペース・カウボーイ)が演じる。物語は金持ちの娘と製材所で働く青年のひと夏の恋から始まる。夏が終わり当然のように二人は娘の両親によって引き裂かれる。時が流れ、娘は戦争中に知り合った実業家の男と婚約する。青年は戦争からもどり娘との思い出の場所に住みはじめる。偶然それを知った娘はけじめをつけるために青年のもとに行く。そこで、心の奥底に潜んでいた青年への愛情に気付いた娘は婚約を解消し青年のもとにとどまる。物語は老夫婦自身の話だったのである。ストーリーはシンプルで結末も予想どおりだった。若い時の激しい恋は人生の終盤に静かな慈しみに変わるのである。ジェームズ・ガーナ―は歳をとった。★★★☆☆

「The Artist」2011 監督:ミシェル・アザナヴィシウス 出演:ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ アカデミー賞作品賞を受賞した白黒無声映画である。サイレントのスターがトーキーへの移行に乗り遅れ落ちぶれていく。主人を救う飼い犬ジャック(アギー)の演技が素晴らしい。アギーはその演技でアカデミー賞ペット賞?をとる。映画草創期を描いた映画だが、同じ草創期を描いた「Hugo」よりも数段良かった。作品賞は個人的には「The Help」だ。これもいい映画だったけど女優が好みでないので、★★★☆☆

「Snow White & The Huntsman(邦題:スノウホワイト)」2012 監督:ルバート・サンダース 出演:クリステン・スチュワート、シャーリーズ・セロン、クリス・ヘムズワース、サム・クラフリン 童話白雪姫を強引に脚色しCGでアクション仕立てにした、シャーリーズ・セロンが出ていてもB級映画。魔法使いの継母、鏡よ鏡、7人の小人、毒りんごと王子様、すべて出てくるので白雪姫には違いない。おどろおどろしい継母を演じたシャーリーズ・セロンと白雪姫が生き返る場面だけ「ほぉ!」と思っただけの映画だった。白雪姫のクリステン・スチュワートもこれといった特徴も魅力も感じられなかったので、★☆☆☆☆


賢治の上方旅行

2012-07-01 22:42:59 | 賢治

 田口昭典著「宮沢賢治と法華経について」を読むと、宮沢賢治は大正10年家出し上京しているところを訪れた父・政次郎と二人、上方旅行に出かける。以下の順路で旅行している。

  1. 伊勢神宮
  2. 二見ケ浦
  3. 比叡山
  4. 法隆寺
  5. 奈良(興福寺、東大寺)

 宮沢家は古くより浄土真宗の檀徒で、賢治は幼いころから浄土真宗に触れて育った。賢治が法華経に出会うのは18歳大正3年ごろのことで、家が信仰する浄土真宗の他力的な教えに満足できず、日蓮宗に傾倒し国柱会に入会する。日蓮宗は信仰により国土を浄土に変えていくというもので、そのうち国柱会の思想は、宗門の改革だけでなく法華経の理想によって日本を統一し、さらに日本を中心に世界統一国家を築こうという壮大なものである。その後この思想は軍部に利用され八紘一宇のスローガンのもと満州事変の思想的根拠にされたため戦後は奮わなくなった。若い賢治はこの思想に深く影響され、大正7年頃には真宗信徒である父を日蓮宗に改宗させようとして折伏を始め、連日父と激しい口論を展開する。盛岡農林高等学校卒業後の自分の進路の行き詰まり、父親への反発、折伏の失敗により進退窮まり25歳の大正10年1月に家出し上京する。上京するとすぐ賢治は国柱会を尋ねる。印刷所で働くが収入はわずかで所持金も少なく生活は困窮するが実家からの仕送りを送り返し、一家が日蓮宗に改宗するまでは家には戻らないといった手紙を書き送っている。

 その年の4月、賢治を訪ねてきた父と上方旅行に出かける。父の目的が賢治との和解であったことは想像に難くない。賢治は旅枕で40首ほどの短歌を詠んでいる。

  • 父とふたり いそぎて伊勢に 詣るなり、雨と呼ばれし その前のよる

1.伊勢神宮

  • かがやきの 雨をいただき 大神の 父とふたり ぬかずかん
  • 雲翔くる み杉のむらを うちめぐり 五十鈴川かも はに(埴=粘土)をながしぬ

静寂の中、天照大神の社の前で父と並んでぬかずく光景と、”かがやきの”という表現から、二人が和解したことが察せられる。前日の雨があがり杉林のうえを雲は流れ、増水した五十鈴川は土砂をながす。情景がうかぶようだ。詩才があったとしても、人ごみの中の参詣(今年6月の伊勢参り)ではこんな歌は詠めない。

2.二見ケ浦

  • ありあけの 月はのこれど 松むらの そよぎ爽かに 日は出でんとす

夫婦岩に昇る朝日を詠んだものである。ここでも心が爽やかである。今年6月の旅で二見ケ浦を訪れたのは午後遅く、寒くて賢治のようなさわやかさは感じられなかったのは、詩才も風雅も持ち合わせていないからだろうか。

3.比叡山

  • ねがわくは 妙法如来 正経徧知 大師のみ旨 成らしめたまえ
  • うち寂む 大講堂の 薄明に さらぬ方して われいのるなり

 「ねがわくは ---」の歌碑が、根本中堂近くに建っているらしいが、昨年9月の旅では見逃した。賢治の信仰する日蓮も父の親鸞も二人とも比叡山で法華経を修行したのち自分の宗派を始める。あたりまえだが根は同じなのである。比叡山の荘厳な雰囲気の中で、最澄、円仁、法然、親鸞、日蓮、道元ら比叡山に関わった先賢の成し遂げた仕事に触れれば、二人の諍いや信仰の違いなどは卑小だと気付いたと思う。比叡山の杉木立の中を歩き、根本中堂の本堂に座れば、歴史の重みと仏教の深淵を感じることができる。歴史や仏教の深い知識は必要ない。そんな空気が比叡山には流れている。

4.法隆寺

  • 摂政と現じたまへば 十七の のりいかめしく 国そだてます
  • 法隆寺 はやとほざかり 雨ぐもは ゆふべとともに せまりきたりぬ

 聖徳太子の業績に触れてはいるものの、法隆寺では比叡山ほどの感慨はわかなかったようで、歌もあっさりしている。聖徳太子は法華経を講じ太子自筆の「法華義疏」も残っているので、そこにも触れて欲しかったと思うのは、単に私が聖徳太子ファンだからだろうか。

5.奈良

東大寺興福寺も春日大社も歌には詠まず、若草山のふもとで売るおもちゃの鹿の歌二首などを詠んでいる。田口昭典は賢治に詩集「春と修羅」があることから、興福寺で阿修羅像を見たに違いないと推測している。

 この父子旅行で和解できたのだろう、同年8月に妹トシの病気の連絡に応じて賢治は素直に花巻に戻る。田口は、この旅以降、賢治はほとんど歌を詠まず詩作に向かうとして、旅が転機になったように記すが、私はすぐ後に続くトシの病気と死が転機だったと思う。父との和解により賢治は日蓮宗の信仰を捨てたわけではなく、その後も法華経を唱え、浄土真宗の安浄寺で行われたトシの葬儀には出席せず分骨し自分の日蓮宗の仏壇に供えたという。山折哲雄は自著「デクノボーになりたい」で賢治の日蓮宗信仰はそれほど深いものではなかったとしているが、最愛の妹の葬式も宗旨が違うことを理由に参列していないことを考えると、賢治の日蓮宗への帰依は深く、田口昭典は本書の巻頭で以下の賢治の辞世に、”賢治は妙法蓮華教の精神を伝えるために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。”という言葉を添えている。

私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように              昭和8年9月21日 臨終の日に於て 宮澤賢治

 賢治は昭和8年9月死去し宮沢家の菩提寺である真宗大谷派の安浄寺に葬られた。賢治の死後、政次郎は日蓮宗に改宗し、宮沢家の菩提寺は安浄寺から日蓮宗の身照寺に移される。賢治が死ぬ間際に”南無妙法蓮華経を唱えてくれれば自分はいつでもでてきます”と言い残したからだという。先に逝った息子に対する父親の深い愛情が伝わってくる。