備忘録として

タイトルのまま

渤海

2013-06-29 14:53:55 | 古代

 今年88歳米寿を祝った父は、20歳のとき満州で終戦を迎えた。農家の次男として生まれた父は満蒙開拓団に志願し16~17歳のときに満州に渡り鐡驪(てつれい)に入植した。終戦間際に徴兵され3年のシベリア抑留ののち昭和23年にナホトカから復員した。満州入植と抑留時の父のことで知っているのはこれだけである。

厚労省の資料によるとシベリア抑留者数は57万5千人、うち帰還した者は47万3千人、死亡と認められる者は5万5千人、病弱で満州や朝鮮に送り返された者4万7千人となっている。抑留者の約10%が亡くなったことになる。抑留時20歳前半で壮健だったために父は生還できたと母から聞いた。

6月初旬のウラジウォストクの旅では、100kmほど東に位置するナホトカにも日帰りで立ち寄った。ウラジウォストクから車で片道3時間の旅である。下の写真は市庁舎前の広場で撮ったレーニン像で、背後がナホトカ港である。ナホトカには抑留者を葬った日本人墓地もあるがそこに行く時間は取れなかった。ナホトカ港は1~3月は凍結するらしい。19~20世紀にかけて不凍港を求めて南への野心を強めるロシア帝国と中国大陸での権益を確保しようとする日本の間で日露戦争が起こったことは周知のことである。ウラジウォストクからナホトカへ向かう道沿いは田園地帯で民家が点在していたが、見るからに貧しそうでインドネシアやフィリピンの田舎と差がないように感じた。民家の軒先には冬の暖炉用だと思われる薪が高く積まれていた。

 

 ナホトカの地名を最初に知ったのは、父からではなく、1970年前後に読んだ五木寛之の「青年は荒野をめざす」だったはずだ。主人公が新潟から当時のソビエト連邦のナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道に乗ってモスクワ、さらにはヨーロッパへ渡る放浪の旅を続ける話だった。五木寛之は当時売出し中で級友の間でも話題の中心だった。その影響だったと思うが「青年は荒野をめざす」に続けて「にっぽん三銃士」や「青春の門」を読んだ。映画化された「青春の門 筑豊編」は仙台の映画館で観たと思う。オリエ役の大竹しのぶが初々しかった。

ナホトカやウラジウォストクのある沿海州と呼ばれる地と中国東北部満州には古代、渤海国があった。

手元にある上田雄「渤海国の謎」講談社現代新書をひもとき、渤海国の概要を以下にまとめる。

  • 713年 建国(唐の玄宗が国として認める)
  • 727年 聖武天皇のとき日本へ初遣使、以降32回の使節交換があった
  • 895年 菅原道真が渤海大使の裴頲(はいてい)を鴻臚館で歓待し漢詩を交換する
  • 920年 最後の渤海使節団来訪
  • 926年 契丹の耶律阿保機によって滅ぼされる
  • 高句麗(668年滅亡)の残党が靺鞨人を率いて建国したと言われる。
  • 渤海使は新羅をけん制するために日本と交渉を持つことを願った
  • 日本との交渉は、当初ウラジウォストクの西にあった東京龍原府を中心に行われていた。
  • 都は主に上京龍泉府(現在の中国黒竜江省寧安県牡丹江付近)にあった
  • 使節の目的は、当初の軍事的利益から交易や文化交流に変化していった
  • 渤海使は毛皮、日本からは繊維を交易した
  • 続日本紀758年に女楽を渤海に賜ったとあり、新唐書・渤海伝に766~779年の間に渤海が唐に日本の舞女11人を贈ったとあり、同じ舞女ではないかと推定される
  • 前期渤海使は9~11月の秋に日本へ向かい、春から夏にかけて南東の季節風で戻った
  • 後期渤海使は1、2月の冬に日本へ向かう北西季節風に乗って来朝した。
  • 使節の出立港は前期は、冬凍結する東京龍原府の豆満江河口付近であったが、後期の出立港の吐号浦は不凍港でもっと朝鮮寄りだったと考えられる
  • 日本側漂着地は前期は出羽付近が多いが、後期は能登から出雲が多い。決められた上陸地はなくとにかく日本海を渡りきるという航海だった。
  • 遣唐使より難破の確立は低く比較的安定していた
  • 藤原仲麻呂は新羅征討を計画し渤海に挟撃を促したが、太平の続く渤海は誘いにのらなかった。764年道鏡に対し乱を起こした仲麻呂は敗れ失脚する。
  • 菅原道真は渤海使の裴頲(はいてい)を2度接待し、二人の息子同志も親子2代で親交を持っている

渤海国の版図(同じ本より)

 762年建立の多賀城碑には靺鞨国界(渤海)からの距離が三千里と刻印されている。多賀城は都を去ること1500里、奈良と多賀城間の距離は620kmだから、1里は413mと計算できる。多賀城から靺鞨国界は3000里なので、3000x0.413=1239kmとなる。日本に最も近い渤海国界をナホトカ付近とすると、多賀城からの直線距離は約840kmであり、3000里(1239km)とは合わない。渤海国の首都である上京龍泉府から多賀城までは1170kmで2840里となり、こちらのほうが多賀城碑の記録に近い。 


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