備忘録として

タイトルのまま

寺田寅彦

2011-12-29 18:17:44 | 近代史

今年もあと3日。テレビは今年を振り返る番組で連日、3.11の津波映像を流している。自然の脅威を思い知らされた年だった。ところが80年前の寺田寅彦は、津波被害に遭った人や地域でも時間が経つとその災厄を忘れてしまい、同じ被害が繰り返されることを警告している。以下は昭和8年3月の三陸津浪に際して寺田が書いた「津浪と人間」の抜粋である。

和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端からぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では
枉まげられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界きょうがいにある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄す鉢ばちの哲学も可能である。

日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。

青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html

寺田寅彦は、津浪は必ず繰り返されるので対策を怠らないようにすべきだが、被災者の記憶は年月とともに希薄になり政府も積極的な対策をしなくなるのは”人間界の自然の法則”なのだと警告する。だから学校での継続した津浪の予防教育が最も有効であると述べている。今年の3.11津波で犠牲が大きかった原因の一端にはこの人間界の自然の法則があり、子供たちが先頭に立って避難し子供犠牲者ゼロをもたらした”釜石の奇跡”(群馬大学防災センター)は予防教育の成果だったのである。80年前の寺田の警告と予防教育の重要性は実証されたのである。

寺田寅彦の言う津波被害後の人間の性向は、以下の随筆「日本人の自然観」(抜粋)に記された彼の自然に対する認識に立脚している。

吾々は通例便宜上自然と人間とを對立させ兩方別々の存在のやうに考へる。これが現代の科學的方法の長所であると同時に短所である。この兩者は實は合して一つの有機體を構成してゐるのであつて究極的には獨立に切離して考へることの出來ないものである。人類もあらゆる植物や動物と同樣に永い永い歳月の間に自然の懷にはぐゝまれてその環境に適應するやうに育て上げられて來たもの---。 

人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科學の發達を促がした。何故に東洋の文化國日本にどうしてそれと同じやうな科學が同じ歩調で進歩しなかつたかと云ふ問題は---- (日本は)自然の十分な恩惠を甘受すると同時に自然に對する反逆を斷念し、自然に順應する爲の經驗的知識を集輯し蓄積することをつとめて來た。

日本人は矢張日本人であり日本の自然は殆ど昔のまゝの日本の自然である。科學の力を以てしても、日本人の人種的特質を改造し、日本全體の風土を自由に支配することは不可能である。

http://www.geocities.jp/sybrma/393nihonjinnoshizenkan.html

要するに寺田寅彦は日本の自然はとりわけ過酷で、科学技術で自然を支配することは不可能であり、自然は畏怖すべきもの自然とは共生すべきものという思想が伝統的に育まれてきたと言うのである。これは同じ時代に生きた宮沢賢治の自然観と同じである。

寺田寅彦(1878-1935)物理学者、高知県出身、随筆家、俳人でもある。夏目漱石「三四郎」の野々宮宗八や「吾輩は猫である」の水島寒月のモデルと言われる。

寺田に言わせると、人間は総じて健忘症で、それは人間界の自然の法則であり、同じ失敗を繰り返す。失敗を防ぐには、1年の終わりは忘年ではなく、しっかりとその1年の自分を振り返る、すなわち寺田のいう予防教育を繰り返すことが大切なのである。なんてことを思うのだが、2,3日もすれば忘れてしまうことは目に見えているのだ。


韓非子

2011-12-24 22:48:16 | 中国

 今日はクリスマスイブ。キリスト教徒でもないのに神聖な気持ちになるとは、どこまで世間の風潮に流されてしまっているのだろうと自己嫌悪を覚えるのは、天(神)、神秘主義、奇蹟をまったく信じない現実主義者の冨谷至著「韓非子」を読んだばかりだからだ。韓非は人間の理性さえも信じていなかった。

 高校の漢文に出てくる「守株」や「待ちぼうけ」の歌で有名なアホな猟師がラッキー(奇蹟)がまた起こると信じて待ち続ける話は、一度起こったことがまた起こるという不確実なことに依拠する儒家の思想を韓非が批判するための比喩である。絶対に貫き通せない盾と絶対に突き通す矛を売る商人の話「矛盾」もまた、昔が無条件に良かったとする儒家の尚古主義を批判する韓非の比喩なのである。

 韓非は、人間本来の性である悪を訓練と礼によって理性的な行動がとれるようになるとする性悪説の荀子の弟子だったので、訓練と儀礼に代わる方法として法律や刑罰による政治を考えたと思っていた。ところが、韓非の思想は極めて合理的で現実主義的であり、国を治めるには人の教化ではなく法と刑罰という客観的な基準さえあればいいというものである。冨谷至によると、韓非にとっては人間が理性的だとか性善だとか性悪だとかは考慮の対象でさえないのである。だから、韓非の刑罰に、被害者感情に基づく「目には目を」(ハムラビ法典)といった応報刑の考え方はなく、刑罰の目的は犯罪の予防と社会秩序の安定にのみある。

韓非の徳

儒家の徳と韓非の徳は意味が違う。儒家の徳は、徳治、仁徳の徳であり、仁愛に基づく人倫道徳を意味する。ところが、韓非の徳は、損得の得(=徳)であり、君主が行う打算的功利的な恩賞を指す。本来の徳は、荘子天地編や管子心術上編にあるように、”天上に源泉する生命力”を意味するという。孔子も”天、徳を予になせり”(天は私に力を与えてくれた)と、仁徳とは違う意味で徳を使っている。もともと天から賦与された力を、愛の力と解釈するようになったのが儒家であり、利欲や金の力としたのが韓非だったのである。

韓非と黄老思想

仙人のような無為自然の黄老思想(道家)と現実主義の韓非子の間に繋がりがあるのか。史記は老子と韓非を同じ章で扱っていて、司馬遷は”その思想(韓非)の根本は黄老の学によるものである。”と述べている。津田左右吉はここでも顔を出していて、道家が韓非子と同じく反儒教だったから、法家が自分たちの宣伝のために道家を取り込んだのだという説を述べている。韓非が理想とする法は、君主は何もしなくても(無為)、機械的に運用され、自然に限りなく近づくというものである。ここにおいて、理想の法治主義と無為自然が共存するのである。

韓非とマキャベリ

君主論、権謀術数のマキャベリはよく韓非子と比較される。君主権を確立するという目的は同じであり、臣下を信じてはいけないなど共通する部分はあるが、それでもマキャベリは完全に臣下の忠誠心への信頼を否定はしていない。マキャベリは韓非と異なり基本的に人間を理性的な存在とするのである。

泣いて馬謖を斬る

三国志の諸葛孔明は韓非子の信賞必罰の法治主義に従い、命令に違反した馬謖を斬った。

十七条の憲法

聖徳太子の十七条の憲法は、韓非子の影響を受けているという説があるが、冨谷至は否定的である。また、十七条の憲法は仏教、儒教など多くの影響を受けていて聖徳太子に作れるはずがなく後世の偽作だという説があるが、梅原猛は仏教、儒教、法家、老荘思想の影響を受けているが太子自身の思想が表れていて冠位十二階や太子の生涯と矛盾しないとする。

 韓非は統治の対象である人間を凡庸な集団と考え、個性や個人の感情や能力を認めず無機的な刑罰を制定した。韓非は、皮肉なことに自分の作った法律を破り刑を受けて死んだ。法家思想を根本とした秦帝国は、あまりに刑罰が苛酷だったため、召集時間に遅れそうになった人たちが、遅れて行っても逃げても同じ死罪だからと反乱を起こしたことをきっかけに滅んでしまう。統治される側の人間には心があり、個人の人間性や感情を無視した統治はできないということだろう。秦のあとの漢帝国は法治主義に懲りて儒教で国家を運営したと思っていたが、実は官僚統治の基本には韓非子の法治主義があり、それによって400年の長きにわたり帝国を保持することができたのである。

 現代は法治社会だが、刑罰は機械的でなく、各事案固有の個人の事情や人権に配慮した運営が必要だと思う。荘子の言うように絶対不変の完璧な刑罰などはなく、一切は変化するのである。刑罰は、裁判員制度などで一般市民の視点を加えたりしながら、時代時代の価値観に適合したものに修正し続けなければならないと思う。秦は苛酷な刑罰のため2代で滅んだが、厳格な統治で3代目に入った国はこのまま存続できるのだろうか。そう言えば秦も末子相続だった。


The Pursuit of Happyness

2011-12-19 21:57:47 | 映画

 

「幸せのちから(The Pursuit of happyness--- 直訳すれば”幸の追求”)」2006 監督:ガブリエレ・ムッチーノ、出演:ウィル・スミス、ジェイデン・スミス、ダンディー・ニュートン、一人息子をあずける保育所の壁に書かれた”Happyness”の”y”は”i”の間違いだから直せと言うのだが、中国人の老人には通じない。そんな街に住んでる主人公クリス・ガードナー(Will Smith)は骨密度測定器のセールスをしているが売れない。現状を変えようと投資会社で6か月の無給研修を始める。投資や税法の勉強と実際に投資客から契約をとるという研修をしながら、骨密度測定器のセールスを続けるのだが相変わらず売れない。収入のない夫に愛想をつかした妻は家を出て行ってしまう。クリスは研修もセールスも子育ても一生懸命なのだがうまくいかず、妻の収入がなくなり家賃が払えずアパートを追い出され、ついに駅のトイレに泊まることになってしまう。トイレで新聞紙の上に寝る息子を抱きしめて涙を流す主人公に感情移入する。6か月の研修後、正社員になれるのは20人に1人の難関なのである。研修終了日、合格を告げられ主人公が涙をこらえて息子のところへ向かう場面では彼より先に涙がこぼれてしまった。一人息子をWill Smithの実の息子が好演していた。ジャッキー・チェンの「ベストキッズ」2010にも出ていた彼である。ルービックキューブは1981年当時流行ったが2面がやっとだった。一生懸命生きれば幸せになれることを信じて、★★★★☆

 「Larry Crowne」2011、監督:トム・ハンクス、出演:トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、サラ・マホニー、まだ邦題がついてない。勤めていたスーパーを解雇されたバツイチ中年の主人公ラリーは、再就職がままならずカレッジに入り自己啓発をやり直すことにする。若い同級生から刺激を受けたり、ジュリア・ロバーツの先生と仲良くなったりして、とにかく学園生活が楽しそうでうらやましい。同級生の女の子が腰に入れた刺青”醤油”を彼女がBraveの意味だと説明するのに対し、トム・ハンクスがそれはSoya Beanだというのは笑えた。主人公と先生が仲良くなるストーリーには無理があり、この映画のジュリア・ロバーツはいけてない。ので、★★☆☆☆

 「Yes Man」2008、監督:ペイトン・リード、出演:ジム・キャリー、ズーイー・デシャネル、何に対しても”Yes”と答えなければならないという教団?に入ったことから人生が変わっていくという楽しい映画である。すべてが”No”の超ネガティブ人間で友人の誘いもことわり家で一人DVDを観るようなひきこもりだった主人公が、”Yes”と言い始めてから、仕事は順調になり出世もし恋人もできる。ところが、自分と付き合うようになった理由が心からのものでなく、”Yes"という宗教のためと疑った恋人が自分から離れていくのに対し、すでに超ポジティブ人間に変貌した主人公は押しの一手で幸せを引き寄せようとする。あの大げさな演技が嫌いでジム・キャリーの映画は積極的には観ない。これまで観たのは、「マスク」、「バットマン」、「クリスマスキャロル」、「エターナル・サンシャイン」程度だが、この映画は役に嵌っていた。★★★☆☆

人生ポジティブにチャレンジしつづければ、”それなり”に幸せになれそうな気にさせてくれた3作だった。


隋の煬帝

2011-12-18 20:43:42 | 中国

宮崎市定の”隋の煬帝”を読んだ。

梅原猛が自著”聖徳太子”で、また上原和が同じく自著”世界史上の聖徳太子”で、煬帝という人間についてくわしく自説を述べているので宮崎がどのように煬帝を語るのか興味があった。

煬帝は、隋の創始者である文帝楊堅の次子であり、長男の皇太子を廃嫡に追い込み文帝の死後604年に即位した。即位後は、黄河と揚子江を結ぶ幅60m延長1500kmの大運河や長城の修復という大土木工事を行った。また、長安の建設や国外遠征を行い、国力を疲弊させた。特に3次におよぶ高句麗遠征はすべて失敗に帰し、国内各地で反乱がおこったため、たまらず都を洛陽から南の江都(揚州)に移し、618年そこで部下に暗殺される。煬帝の運河は後日遣唐使だった円仁も利用したし、現在でも中国経済の大動脈として活躍しているという。

聖徳太子の”日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。”で有名な国書を携えた遣隋使の小野妹子は、604年に煬帝に拝謁する。

宮崎市定の煬帝

文才におごり虚栄心が強く、臆病で猜疑心が強く、最後は信頼できる人間が周りにいなくなりノイローゼになり酒色におぼれる。煬帝と仏教との関係はほとんど述べられていない。

上原和「世界史上の聖徳太子」の煬帝

小野妹子が奏上した国書の”海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す”のとおり、煬帝は天台宗の開祖・智(ちぎ=538~597)より菩薩戒を受け、中国各地に寺院を創建した篤信の人である。煬帝は詩人であり、その詩には、感性の濃やかさと豊かさが感じられる。仏教への篤信と詩才は聖徳太子に通じる。煬帝は若き日に行軍元帥として南朝の陳を滅ぼした栄耀のため、自らの武略の才に溺れ自身を秦の始皇帝に擬し、結局、非業の最期を招いた。

梅原猛「聖徳太子」の煬帝

聖徳太子と煬帝は同時代ということだけでなく、多くの共通点を持つ。即位当時、若く英邁な煬帝は、一級の学者であり、一級の詩人であり、一級の文化人であったが、人格の根底にひどい矛盾あるいは不均衡をもっていた。壮大な理念と強い意志と冷静な計画で精力的に大土木工事を成し遂げたが、612年を境に、名君から暗君へと変貌する。高句麗との敗北という挫折以降、現実から逃避するようになる。

   煬帝のことを記す歴史書「隋書」は唐代に書かれたために煬帝をフェアーに評価していないとしている点では共通している。

上原和と梅原猛は、煬帝の仏教者としての篤信や文才を聖徳太子と同レベルだと高く評価するが、宮崎は基本的に煬帝をそれほど評価せず性格上の欠陥を述べるだけだった。即位初期は父帝が築き上げた富を背景に、煬帝の積極性が国力の拡大をもたらすが、高句麗遠征で挫折した後は運河建設などの大土木事業も負担となり坂道を転がり落ちるようにやることなすことがうまくいかなくなる。国の基礎が固まっていなくても国力の上昇期は、誰が皇帝であっても積極的な施策は華々しい成果を上げる。しかし、その時期に並行して財政、地方統治、官僚制度などを整備しておかなければ、持続的な国家運営はできない。それは短命だった秦の始皇帝が証明しているし、逆に漢帝国は、初頭6代景帝までは簫何や曽参らの経済に明るい宰相を重用し、地道に農業商業を奨励し財政的な基盤を築き長期政権を達成した。司馬遷は漢帝国初期に仁政を敷いた孝文帝を史記本紀で褒めちぎっているし、そのあとの武帝はその拡大政策によって国庫の疲弊を招くが、それでも基礎があったため漢帝国(前漢)は破たんせず200年、さらに後漢は200年続いた。

煬帝は若い時期の成功体験(南朝の陳を滅ぼす総司令官だった)というバイアスがかかったため、同じ失敗(高句麗遠征)を繰り返した。官僚制度が未整備であったため、彼の失政を周囲がカバーしきれない。積極性と慎重さを同じ人間に求めることは難しく、両方を兼ね備えた為政者としては徳川家康ぐらいしか思い出せない。家康は自分が武田信玄に敗れたときの自身の情けない姿を絵に描かせ身近に置き、慢心を諌めたというから、家康はバイアスの危険性を認識し、自分を客観視することの大切さを自覚していたのである。同様の君主として自分は臣下である張良、簫何、韓信には及ばないと自身の能力をはっきりと認識していた漢の高祖劉邦も加えていいかもしれない。

宮崎市定の「史記を語る」や「大唐帝国」は宮崎による人物評が面白いが、結構思い込みが激しく賛成しがたい部分も多々あった。「隋の煬帝」も同じだった。


墨子

2011-12-11 17:09:15 | 中国

数年前、「墨攻」という中国映画?を観たことがある。墨家の男が大国の侵略から小国を守る話で、日本の漫画が原作だった。小国を墨守した墨家の男に信頼があつまりそれを妬んだ国主やその側近に裏切られる話だったと記憶している。そのときは諸子百家を読み始める前だったので特に墨子あるいは墨家の思想に何の興味も覚えなかった。

墨家は戦国期には儒家と並ぶほどの大きな勢力を持ち、鉅子(きょし=統率者)に率いられた武装技術集団として守城を請け負っていたらしい。あるときは守城に失敗し責任をとって墨家180人が集団自決したこともあったという。

”孔、墨は大道を世に行わんとするも、而して成らず。”(呂氏春秋=雑家)とか、”儒、墨は皆、先王は天下を兼愛すれば、則ち民を得ること父母のごとしと称す。---仁の以て治の為すべからずや、また明らかなり”(韓非子=法家)のように、墨家は儒家と並べて他家より非難されている。また、荘子にとっては、”儒家や墨家などの既成の思想は、現実にとらわれた小ざかしいあがきにすぎない”ということになり、孟子は”墨子の兼愛は父を無視することで、父を無視し君主を無視することは鳥獣にほかならない。”などと述べ、墨家の博愛主義に抵抗し反撃するのが自分の使命だと公言している。また、荀子は、墨家の説を、”墨家の「非楽」が天下を混乱させ、墨子の「節用」が天下を貧窮させる。”と真っ向から否定している。このように同時代の思想家から批判されるということは、戦国後半200年の間、墨家は相当な勢力を持っていたということである。しかし、秦以降、その姿が歴史から消える。

道家の思想は形而上学的に深遠で面白いし、儒家は身近な問題を道徳面や精神面からとらえて興味深いのだが、どこか実用面で現実から乖離しているように感じていたので、行動する墨家ってそんなに悪くないのではとずっと思っていた。そこで、今回、浅野裕一の「墨子」を読んでみた。

墨子は、本名を墨翟(ぼくてき)といい紀元前450年から390年頃に活躍した。孔子と同じ魯の出身で下級武士だったのではないかと浅野は推論している。墨子の思想は、尚賢、尚同、兼愛、非攻、節用、節葬、天志、明鬼、非楽、非命の十論に、非儒、経上、経説、公孟、公輸、号令などを含む53編にまとめられている。

尚賢 

国家の為政者に賢者を登用しろと説くものである。賢者とは、統治者の価値基準に合致し努力するものすべてを指す。能力ではなく意志であり、国家の方針に従順な良民で実務をよくするもののことである。これに対し、同じく賢者を登用しろという儒家における賢者は、墨家の賢者とは異なる。孟子は、賢者であるべき統治者には統治者の仕事があり、直接的な生産活動から排除されるべき存在であるとし、荀子は、身分秩序を明瞭にし、賢者は文飾によって一般民と区別されるべきだと述べる。儒家の賢者の定義はあいまいで、賢者が国を治めればすべてうまくいくという抽象論に終始する。墨家の尚賢論は国家の強化策としてはより具体的なのだが、それでも法家からみれば個人的な賢智に頼って国家・社会を運営しようとする点において、まだ甘いのである。

尚同

各統治者階級にいる仁者である賢者は下位のものの手本であり、皆がそれに従えば国家は統治できるという考え方である。実行に際し賞罰が必要という立場では法治主義の法家に似ているが、仁を中心とする点では儒家の徳治主義と同じである。

兼愛

自他を公平に愛せよ。利己主義は争乱のもとであり、愛は世界を救うという思想である。しかし、墨家の愛は他者に惜しみなく与えるキリスト教の博愛のような積極的な愛ではなく、他者より利益を奪わないという程度の消極的な愛である。

非攻

他国を攻めない。”今の世の君子は、小規模な悪事はそれを犯罪とするが、他国に侵攻すればそれを悪事だとは認識して非難せず、これぞ正義だと吹聴している。ーーー世界中の君子たちが正義と不正義との識別について錯乱している。”と2000年以上も前に墨子は指摘している。しかし、この理論は本質性、普遍性、純粋性において優れてはいるが、当時の君主にとっては現実的な説得力を持たなかったのである。だから現在も同じことが繰り返され、好戦的な政治家は自分の行為を”正義と自由の戦いだ。聖戦だ。民主主義を守る。”などと正当化するのである。

節用

倹約し富国を目指す。自国内の経済だけでは絶対量が不足しているという墨家の認識に発するもので、節約しなければ他国を侵略して富を得るとという発想を恐れたのである。荀子は、実用一点張りの貧乏性、節約だけの消極主義と墨家の経済政策を激しく非難する。派手好みの孟子は節用をもっとも嫌っただろう。儒家による非難は、儒家が自身を文辞や儀礼によって美化・装飾する稼業であり、それがなければ儒者の存在意義が失われるという危機感に発している。

節葬

派手で長期の葬儀は生産を著しく低下させる。苦労して生産した富は死者のためではなく生きている人々のためにこそ用いるべきであるとする。3年のあいだ喪に服すという儒家の考えとは対極にあり、両者のあいだでは激しい論戦が繰り返された。

天志

絶対者(上帝)の意志は兼愛、非攻を地上の人間に実践するよう求めている。とする。

明鬼

上帝の意志に逆らうものは鬼神に懲らしめられる。お天道様がみてるぞという脅しである。荀子は”天人の分”を唱え、人と天は不可分の領域にいて、人は人事を尽くすのみであり天に祈っても何の効果もないとする。墨家は目的達成のためには手段を問わない現実主義者であり、非現実的ではあるが必要だから天志とセットで鬼神を持ち出したのである。

非楽

音楽に浮かれるのは亡国だと儒家を批判する。音楽で人の不幸は救えない。墨家は非楽の中で、自然は過酷であり人間は作為なくしてその中で生存できないと説く。これは荀子の天人の分の論理形成に影響している。

非命

絶対的信頼の天の意志(受命)は人為的努力によって果たされなければならない。墨家は受命は肯定するが、人為が及ばない宿命論は否定する。しかし、世の中には不条理なことが満ちているのである。

非儒

孔子は詐欺師であると孔子本人を人身攻撃する。儒家は功利的で権力にすりより時流に乗ろうとするご都合主義である。狭量と言われても自己の信条に忠実に行動する墨家としては、そのような儒家の態度が許せないのである。墨子は儒子の一人を論破する。

公輸

楚の公輸盤(こうしゅはん)は雲梯という攻城用の機械を製作し、隣国の斉を攻めると聞いた斉に雇われた墨子は、その使用を阻止しようと楚に行き公輸盤と楚王を説得する。墨子が優秀な弁論家および兵法家であることがわかる。この話を題材に、魯迅は「非攻」という作品を書いている。

号令

墨守。城を防衛戦での兵士や一般市民の軍律が示される。平時の社会治安維持と守城戦時の軍律維持の移行関係を墨家は強く念頭におき、法治国家の実現を目指した。戦争に直面する墨家は、儒家や道家の説く理想主義や観念主義とは、ここにおいて隔絶するのである。

墨子の文章はしつこい。ひとつの論をいろいろな状況を設定して解説するのだが、理屈ばっかりで面白味に欠けるのである。自分の書く文章のようだ。比喩や寓話や説話の多い儒家や老子や列子に比べると、面白くないのが際立つ。ただ1篇、魯迅が題材にした公輸だけは面白かった。墨子の思想は城を守る集団の存在意義や儒家との対比の面ではいいかもしれないが、君主を説得するには儒家と同じで理想論的すぎる。天志や明鬼は軍事集団を統率する思想としては幼稚すぎて、こんなもので組織が統率できたとは思えない。だから必然的に号令に示す軍律を前面に出した法家思想に向かうことになるのは自明だったと思う。


神田・神保町古書店街

2011-12-04 17:30:00 | 江戸

昨日は雨の中、久しぶりに神田の古本屋を渉猟した。目当ては、墨子関係の本を安く手に入れることだった。結局目当ての本は見つからず、老荘と道教関係の中古本を買い、墨子については三省堂本店で新品を買った。

神田・神保町の古本屋街にはよく行く。古本屋散策の楽しみは、思いがけない本や昔読んでまったく忘れていた本に出会えることである。円空仏の写真集やベアトの写真集も神田の古本屋をハシゴしているときに偶然見つけ衝動買いした。靖国通りに面した古本屋の中に講談社学術文庫がよく揃っているので必ず立ち寄る店がある。1年ほど前その店で学術文庫の「足利時代史」という本を見つけ、購入しようと支払いカウンターに持って行ったところ、”2600円です。”と言われ慌てて本棚に戻したことがある。本の定価が1000円足らずで古本屋だから当然それより安いはずと思い込み、値段を確認しなかった。あまりの高額に驚いたのだった。店員によると絶版だから高額だという説明だった。その後も、その本のことが気になって、店に行くたびに本があることを確認し、手に取って値段を見ては決心がつかずに棚に戻すことを何度か繰り返した。そもそも室町時代すべてに興味があるわけでなく、将軍の一人である足利義教だけが気になるのであり、将軍15代の中のただ一人の情報を得るためだけに2600円を出す決断ができないのである。別のことでは簡単に散財するのに、1冊の本のことでそんなに悩むくらいなら早く買えばいいのだが、一度臆病になると次の一歩が踏み出せない。生来の小心者なのである。

昨日は、見かねた妻に買いなさいと背中を押されて店に入り、いつものように件の本を探した。が、本棚のどこにも見当たらない。おそらく売れてしまったのだろう。そうなると逃がした魚は大きく、買わなかったことが悔やまれてしかたなくなる。傷心のまま同じ本棚にあった上原和著「聖徳太子」を何気なく手に取り値段をみると、なんと定価1000円に2000円の値札が付いていた。隣に並んでいた同じ上原和の「斑鳩の白き道に」も定価の倍ほどの値がつき値札には品切れと書いてあった。「斑鳩の白き道に」は古本屋に限らずいたるところで目にするので、品切れのはずがない。うちにも私が学生時代に買った単行本と娘が数年前に買った文庫本の2冊がある。そのあと行った路地裏の古本屋で同じ本が200円だったので娘にその話をすると、”たぶんそれは初版本だからだよ。”という返事が返ってきた。初版本と後発版で本の価値が変わるのか?古文書や希少本や浮世絵などに高い値段がつくのは知っていたが、現代本にも美術品と同じような投機の世界があり、本の内容とは無縁で売り買いされているかと思うと何か割り切れない思いがする。私は上原和自筆サイン入り「聖徳太子」を持っているが、どのくらい値段がつくのだろうかと思う。もちろんお宝を手放す気など全くない。

気に入った本があれば文庫本なら値段を確認せずに購入していたが、この「足利時代史」以降、値札を確認するようになった。その所為で、気に入った本を見つけても本を開いて中身を確認するより先に値段を見る癖がついてしまった。”純粋な知識欲や好奇心が資本主義に毒されていくような感覚”と言ったら、”どんな世間知らずだ”と失笑されることだろう。