備忘録として

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多賀城

2009-10-24 15:29:38 | 仙台
仙台の隣の多賀城は、大和朝廷が蝦夷を制圧するために建てたと習ったので、柵をめぐらした砦(砦といえば中学時代映画で見たアラモ砦のようなもの)という印象を持っていたが、資料を見ると南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mという広大な面積を持ち、西の太宰府に匹敵する寺や政庁を伴っていたようだ。多賀城には、城の場所と由来を記した8世紀の石碑が立っている。(写真 多賀城市観光協会HP http://tagakan.jp/rekishi/index-emishi.html)

多賀城 去京一千五百里 
    去蝦夷国界一百二十里 
    去常陸国界四百十二里   
    去下野国界二百七十四里 
    去靺鞨国界三千里

西  此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
   軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
   也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
   節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
   府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
             天平宝字六年十二月一日

前半は、この城からいろいろな国までの距離で、京から1500里、蝦夷との境界から120里、靺鞨国(まっかつ)から3000里とあり、靺鞨国は、沿海州にある渤海国のことである。後半は城の由来で、城は大野東人(あずまひと)が神亀元年(724)に建て、藤原朝獦(あさかり)が天平宝字6年(762)に修造したものと記す。

芭蕉は、「ここに至りて疑いなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり」と、奥の細道で涙を流して感動した石碑なのだが、実はこの石碑は芭蕉が疑いなきと思っている”壺の碑”ではないのである。

”壺の碑”とは、坂上田村麻呂が青森県上北郡天間林村に建てたと伝えられる石碑で、弓の筈で”日本中央”と書きつけてあったという。

西行がみちのくに旅する前に詠んだように、壺の碑は西行の時代(1150年頃)には歌枕になっていた。

陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる 壺の碑そとの浜風

白洲正子はその著「西行」のなかで、多賀城を訪れ壺の碑を見たと書いているが、これは芭蕉が勘違いした碑であり、西行の壺の碑ではないのだ。

多賀城の碑は、壺の碑ではないのだが、天平宝治6年に建てられたものでもないという偽物説がある。この碑は芭蕉以前の江戸時代に土の中から発見されたことや書体や碑文の彫り方など理由にもならない理由によるという。
梅原猛は「日本の深層」のなかで、天平宝治6年は藤原仲麻呂の息子である藤原朝獦とその兄弟が異例の昇進を遂げた年であり、2年後には一族すべてが失脚するという権力の危機の兆候があらわれたころであることから、”この碑文には当時の人間たちの大変微妙で複雑な感情があらわれーーーー、後世、こんな手の込んだにせものをつくるはずがない”とする。
一方、司馬遼太郎は、「街道をゆく仙台・石巻」で、靺鞨国界三千里に注目し、”偽作とすれば、江戸時代の人にこういう感覚があるだろうか”と述べ、梅原も司馬も本物派である。神亀4年に渤海(靺鞨国)使が初めて来日したことが続日本紀に書かれている。

「日本の深層」は、人類学的に日本人と同じモンゴロイドであるアイヌ(=蝦夷)は弥生時代以前、日本全域にいた縄文人であり、、アイヌ語と日本語、アイヌの宗教と日本の宗教は深く繋がっていることを、アイヌの風習が色濃く残る東北を旅しながら明らかにしようというものである。
その中で以下の新知識を得た。
1.中尊寺金色堂の藤原3代のミイラは、仏教にミイラを作る風習はないのでアイヌの風習ではないか。古墳時代の殯(もがり)もアイヌ(=蝦夷)の風習かもしれない。
2.高橋富雄説は、倭の国が日本の国を合わせて日本を名乗ったという旧唐書の記述は、蝦夷を征服した西の倭が蝦夷の国号である日本を名乗ったと解釈する。古田武彦説は、白村江(663年)で敗れ衰微した九州王朝(倭)を大和朝廷が700年頃に合わせて日本を名乗ったとする。

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