備忘録として

タイトルのまま

殺生石

2007-03-27 20:48:44 | 中世
殺生石は白河の関に近い那須にある。
中国殷の妲己、周の褒姒にも化けていた狐(白面金毛九尾の狐)の化身である玉藻前は、鳥羽天皇に取り入り帝を殺そうとしたが見破られ那須に逃げた。8万の軍勢に追われた狐は射殺され、毒を持った石に姿を変えた。以降、この石に近づく生き物はことごとく死んだため殺生石と呼ばれるようになった。その後、室町時代の名僧玄翁により石は打ち砕かれた。砕かれた殺生石は全国の高田と呼ばれる地に飛散した。安芸高田、美作高田、越後高田、豊後高田などであり、史跡となっている。
鳥羽天皇は例の待賢門院璋子を中宮とし、后が生んだ子を“叔父子”と呼んだ平安末期の天皇だ。殺生石の近くには歌枕の白河の関や遊行柳の名所がある。
西行がみちのくへ旅した時に詠んだ歌“道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ”から遊行柳は歌枕となり、能や人形浄瑠璃の演目にもなった。
芭蕉は奥の細道紀行の途中、殺生石を見学した後、遊行柳を訪れ“田一枚植て立去る柳かな”と詠んだ。殺生石には泉光院も立ち寄っている。
学生時代、東北本線を使うたびに黒磯駅の駅弁“九尾の釜飯”を買って食べた。その頃(1973年~1978年)まだ新幹線は建設されておらず、東京-仙台は特急“ひばり”で4時間、急行で6時間かかった。今では2時間弱で黒磯には止まらず九尾の釜飯のことはすっかり忘れていたが、殺生石の由来を調べる中で思い出した。釜飯の容器は素焼きの陶器で、友人は1人前のご飯を炊く釜として使っていた。当時は食い気だけで九尾の由来にはまったく関心がなかった。

柴又帝釈天

2007-03-26 23:24:59 | 映画

24日(土)念願の柴又帝釈天へ行った。妻が広島から羽田に着いた後、京急、京成を乗り継いでくるので柴又駅のプラットフォームで待ち合わせた。参道を歩いたが同年輩の夫婦が目立つ。昼はとっくに過ぎていたので参道にある手打ちそば屋に入った。せいろを薦められたが雨が降っていて寒かったので鴨南蛮そばを注文した。手打ちそばは”こし”はあったが東京のそばはしょっぱい。帝釈天の正式名称は題教寺というらしい。お参りした後、明日25日(日)早稲田大学を卒業する娘がおみくじを引いたら凶だったのでお賽銭を増額して再度お参りをした。寅さん記念館へ行って”くるまや”セットに座ったりして楽しんだ。江戸川の土手を歩きながら矢切の渡しのはしけを遠くから見た。土手下にあるはずの博の家を捜したが分からなかった。記念館の近くではないのかもしれない。草団子は思ったほどではなかった。

家(広島)に帰りBS2から録画した”男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花”を見て行った場所を確認した。



足利義教

2007-03-23 08:27:07 | 中世
明石散人の”二人の天魔王”を読んだ。
信長の実像に関しては、筆者の文献の解釈から自説を展開する経緯の大半において傍証が少なく推理が多すぎるため、あまり納得できなかった。自説と通説の違いを鮮明にしようと意図して対話形式を採用しているが、劇場型になってしまい逆に説得力が希薄になってしまっているように感じた。明石散人の”東洲斎写楽はもういない”も同じ対話手法だったが、同じ結論を引き出すのにあれだけのページ数は必要なかったはずだ。”とはずがたり”文献に並べて逐一自説を展開する鈴木小太郎氏の批判方式に慣れてしまったからこのように感じるのだろうか。商業本として出版するためには劇場型にせざるをえないのだろうけど。
この本は信長の通説に懐疑の眼を向けるきっかけにはなったが、それ以上に足利義教(よしのり)の事跡に興味が湧いたのが収穫だった。彼のことはしっかりと調べなければいけない。

とはずがたり

2007-03-06 23:24:20 | 中世
”とはずがたり”は、鎌倉時代後期に後深草院二条という女房が書いた日記で、600年の後、宮内庁で発見され昭和15年に公表された。日記の前半は後深草院を始めとした複数の男性との関係を中心とした宮中の話、後半は出家した後の旅物語となっている。二条は、出家後西行ゆかりの地を尋ねたので女西行と呼ばれているようだ。白洲正子は”西行”の中で二条の歌が西行にはるかに及ばないことから、”西行”執筆の際に捨て去った資料の第一として上げ、西行を真似てどうなる人物ではないと言いきる。
後深草院に4歳から養育され14歳で院と関係を持つ二条の関係を多くの”とはずがたり”評者は”源氏物語”の光源氏と紫の上の関係になぞらえるが、史実である待賢門院璋子と白河法皇の関係にそっくりだと言ったほうがもっとリアルだと私は思うのだが、源氏物語のほうが有名だから仕方ないのだろう。
瀬戸内晴美(寂聴)は”私の好きな古典の女たち”の中で愛欲遍歴の後に出家した二条の生き方を自身の生き方と重ね合わせているのか二条を「愛さずにいられない」と結んでいる。余程気に入ったようで”中世炎上”という”とはずがたり”をもとにした小説も書いている。「この世で地獄を見たものだけが聖化される」、「良妻賢母のお手本のような人にすぐれた芸術作品など生まれるわけがない」、「相手の心をおもいやるやさしさがたっぷりある女心を多情淫乱と世間は批評する」、「嫉妬深かったり、もろかったり、男にだまされたり、情熱の制御の出来ない愚かさを持った女の方に、親愛感を抱くし、なつかしい感じがするのです」という言辞に見られるように結局、”私の好きな古典の女たち”の主題は寂聴自身の生き方を肯定することのようだ。ところで、瀬戸内寂聴は郷里の先輩で、実家の仏壇店は私の生家だった場所のすぐそばにある。徳島関連の本や資料には興味があるのだが、瀬戸内寂聴は”私の好きな古典の女たち”でもうたくさんだ。
”とはずがたり”の評論を調べていた時、ネットで鈴木小太郎氏のウェブサイト”後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-”と出会った。このサイトで”とはずがたり”は完結する。国文学者、歴史学者の評論のほとんどがレビューされ批判されている。中でも瀬戸内晴美に対する評価は辛辣だ。彼の資料に拠って司馬遼太郎の”街道をゆく・三浦半島記”を読み返した。白洲正子の”西行”でも”街道をゆく”は引用されており、司馬の博識に感心するとともに、どちらにも記憶のない私は「街道をゆくを読破した」などとおこがましいことだ。