備忘録として

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飛鳥大仏

2010-09-25 10:05:06 | 古代
 飛鳥寺はもともと法興寺または元興寺と呼ばれていて、日本最古の仏教寺院である。
日本書紀と飛鳥大仏の光背銘によると、
崇峻天皇元年(588)百済から学者や技術者が来て法興寺を作り始める
591年 山に入り寺の木を切る
推古天皇元年(593) 仏堂と歩廊を起つ、塔を建てる。
596年 法興寺完成。高句麗から慧慈(えじ)、百済から慧聡(えそう)が来て寺に住まう。
605年 鞍作鳥が丈六の仏像(飛鳥大仏)を作る。このとき鞍作鳥は、すでにできていた金堂の戸を壊さずに仏像を入れることができ、賞賛されている。
608年 小野妹子といっしょに来日した隋の使節・裴世清(はいせいせい)が法興寺を訪れ仏像に参った。

飛鳥大仏は写真撮影がOKだった。
鞍作鳥(くらつくりのとり)は法隆寺金堂にある釈迦三尊像の作者でもあるが、飛鳥大仏と釈迦三尊像は口元をすこし上げたかすかな微笑とやや面長な相貌などよく似ていると思った。梅原猛は「聖徳太子3」で、”釈迦三尊像は聖徳太子等身像と言われているので、飛鳥大仏も聖徳太子をイメージした可能性が高い”という。顔は継ぎはぎだらけで、特に右ほほの横に入る筋が傷跡のようで痛々しかった。

飛鳥寺の外に入鹿の首塚が立っていた。
 

宿に帰って万葉の旅に上の首塚の写真を見つけ、もっと予習しとけばよかったと悔やんだ。ひどい写真を撮ってしまった。首塚のまわりは犬養の写真のように田畑が広がっていたがもっと人家が多いような気がする。写真中央遠方は聖徳太子が生まれたという橘寺である。今回の旅は駆け足だったので見逃しが多く後悔も多い。写真に添えて犬養孝は、飛鳥大仏のことを次のように記している。
”止利仏師作と伝える釈迦金銅座像は補修のひどいものではあるが、顔面などにはわずかに推古仏のおもかげが見られる。”

大化の改新で宮殿で中大兄皇子に殺害された入鹿は、斉明天皇と通じていたといわれる。

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