今日1月31日は中国正月でここシンガポールは休日である。この期間は市場が閉まり多くのスーパーマーケットや飲食店が閉店になるので、昨夕6時の閉店ぎりぎりにスーパーに飛び込み、4~5日分の食材を買い込んだ。中国系の人々は今日1日は家族で過ごし、2日に親戚や友人宅を訪問する。その2日にはトラックの荷台に乗ったライオンダンスチームがにぎやかな太鼓の音を響かせながら町中に繰り出す。裕福な家庭は個人的にライオンダンスを招き入れ、その年の福を願うのである。
正月早々、脳死の話題を取り上げるとは、風水や習わし(因習?)を大切にする中国人からすれば縁起でもないということになるのかもしれない。続けて梅原猛の1990年の表題の論文を読んだので仕方がない。ところでこの縁起でもないの「縁起」は仏教用語で、あらゆる物には因果関係があり悪いことをすれば悪いことが起こるということである。でも結局は縁起は空と同義で諸行無常なのだから気にすることはない。と、わけのわからない言い訳をしておく。
梅原は日本人は何千年もの間、心臓の停止を死としてきたのに、臓器移植が進まないことを理由にして死の定義を変えるのには反対であるという立場に立つ。臓器移植を否定しているのではなく、心臓の停止という死の定義は変えずに、個人や家族の意思によって脳の機能が停止したら臓器移植をしてもいいという契約はあってもいいというのである。要するに医者の都合や移植待ち患者の都合で死の定義を変えるなというのである。梅原はこのように自分の立場を明確にしたのち、反対の理由を哲学者の立場から説明を始める。
- デカルトの「我思う故に我あり」という言葉があるが、”我思う”脳の機能が停止した時点で自己は存在しないというデカルトの思想が西洋哲学の根底にあり、西洋で脳死が死とされるのは必然であろう。西洋哲学では”我思う”をしない人間の体はもはや単なる物質である。
- アメリカで生まれた哲学のプラグマティズムは、アメリカ人の常識を理論化したもので極めて合理的である。脳死が臓器移植にとって都合がいいならそれを受け入れることに寛容であるはずだ。
- 梅原はデカルトの哲学には断固反対する。思惟する人間は絶対的に優越するというデカルトの思想は、人間を思い上がらせ、科学技術によって自然を支配できるという思想を生んだ。人類は、核戦争の危機、環境破壊の危機、人間の内面破壊の危機の3つの危機に直面していると梅原は別の論文で言っている。
- 自然界に存在するものはすべてDNAの組み合わせで成り立つのであり、すべての生命はDNA構造をもつ。これは、思惟する人間が優位ということはなく「山川草木悉皆成仏」の考えに通じるものである。だから、自然支配ではなく謙虚に共存共生を目指すべきである。
- 脳死を認めることは、結局、思惟を持たない動植物の生命を認めないことと同じである。思惟しない生物にも人間の知らない生命の神秘が隠されているかもしれないのである。(例えばクオリアとか?)
- 臓器移植を否定するものではなく、臓器移植はむしろ菩薩行である利他(捨身飼虎)の精神に通ずる。しかし、利他は本人の強い菩薩行の意思でもって行われなければならないので、あらかじめ脳死での臓器移植の表明をしておくべきである。
- 脳死を死とせずに臓器移植を行うことは殺人に値するとして医者が臓器移植を回避するようになることに対しては、医者の行為を容認する法律を整備することで対応すべきで、死の定義を変えるべきではない。
- 移植医自身がドナーであることを率先しなければ臓器提供は進まないだろう。
さて、梅原の意見がよくわかったところで、自分の立場も表明しておく必要があるので一応今の考えを書いておく。
自分はどちらかと言えば梅原が否定するプラグマティズムに近い考えを持っていて、人間は死(脳死)ねば物質になるという考えに近い。脳死が不可逆的であるのなら、死の定義を変えてもいいと思っている。臓器移植で人が救われるなら功利的かもしれないが利他業の満足を覚えることができるし、それに自分の臓器が他人の体で生き続けることで遺族の喪失感を幾分か緩和できるような気がするのである。梅原の言う自然との共生には共感するが、それは別の問題としてとらえればいいと思うのである。
昨日、STAP細胞という画期的な万能細胞が発見されたというニュースが流れた。細胞の培養で再生医療が急速に進歩し、臓器移植が必要のない時代がくるのはそう遠くないと思われる。そうであるなら、梅原は臓器移植を前提とした死の定義の変更など必要ないだろうと言うに決まっている。でもそれは梅原が過信するなと警鐘を鳴らす科学技術の進歩がもたらす恩恵なのである。科学技術の進歩は人間が類人猿から進化した生物学的な進化過程と同じ延長線上にあると考えてもよいと思っている。科学技術の進化は人間中心主義を助長するのではなく、これも自然の法則の一部であり進化の必然であると思うのである。科学技術の進化と共に哲学や倫理などの人間の内面の進化も進み、試行錯誤をしながら人間は技術と精神と自然のバランスをとることができると信じている。科学技術や人間の智慧は万能ではないけれど梅原がいうほどひどいとは思えないのである。