備忘録として

タイトルのまま

脳死は死であるか

2014-01-31 19:33:41 | 他本

 今日1月31日は中国正月でここシンガポールは休日である。この期間は市場が閉まり多くのスーパーマーケットや飲食店が閉店になるので、昨夕6時の閉店ぎりぎりにスーパーに飛び込み、4~5日分の食材を買い込んだ。中国系の人々は今日1日は家族で過ごし、2日に親戚や友人宅を訪問する。その2日にはトラックの荷台に乗ったライオンダンスチームがにぎやかな太鼓の音を響かせながら町中に繰り出す。裕福な家庭は個人的にライオンダンスを招き入れ、その年の福を願うのである。

正月早々、脳死の話題を取り上げるとは、風水や習わし(因習?)を大切にする中国人からすれば縁起でもないということになるのかもしれない。続けて梅原猛の1990年の表題の論文を読んだので仕方がない。ところでこの縁起でもないの「縁起」は仏教用語で、あらゆる物には因果関係があり悪いことをすれば悪いことが起こるということである。でも結局は縁起は空と同義で諸行無常なのだから気にすることはない。と、わけのわからない言い訳をしておく。

梅原は日本人は何千年もの間、心臓の停止を死としてきたのに、臓器移植が進まないことを理由にして死の定義を変えるのには反対であるという立場に立つ。臓器移植を否定しているのではなく、心臓の停止という死の定義は変えずに、個人や家族の意思によって脳の機能が停止したら臓器移植をしてもいいという契約はあってもいいというのである。要するに医者の都合や移植待ち患者の都合で死の定義を変えるなというのである。梅原はこのように自分の立場を明確にしたのち、反対の理由を哲学者の立場から説明を始める。

  1. デカルトの「我思う故に我あり」という言葉があるが、”我思う”脳の機能が停止した時点で自己は存在しないというデカルトの思想が西洋哲学の根底にあり、西洋で脳死が死とされるのは必然であろう。西洋哲学では”我思う”をしない人間の体はもはや単なる物質である。
  2. アメリカで生まれた哲学のプラグマティズムは、アメリカ人の常識を理論化したもので極めて合理的である。脳死が臓器移植にとって都合がいいならそれを受け入れることに寛容であるはずだ。
  3. 梅原はデカルトの哲学には断固反対する。思惟する人間は絶対的に優越するというデカルトの思想は、人間を思い上がらせ、科学技術によって自然を支配できるという思想を生んだ。人類は、核戦争の危機、環境破壊の危機、人間の内面破壊の危機の3つの危機に直面していると梅原は別の論文で言っている。
  4. 自然界に存在するものはすべてDNAの組み合わせで成り立つのであり、すべての生命はDNA構造をもつ。これは、思惟する人間が優位ということはなく「山川草木悉皆成仏」の考えに通じるものである。だから、自然支配ではなく謙虚に共存共生を目指すべきである。
  5. 脳死を認めることは、結局、思惟を持たない動植物の生命を認めないことと同じである。思惟しない生物にも人間の知らない生命の神秘が隠されているかもしれないのである。(例えばクオリアとか?)
  6. 臓器移植を否定するものではなく、臓器移植はむしろ菩薩行である利他(捨身飼虎)の精神に通ずる。しかし、利他は本人の強い菩薩行の意思でもって行われなければならないので、あらかじめ脳死での臓器移植の表明をしておくべきである。
  7. 脳死を死とせずに臓器移植を行うことは殺人に値するとして医者が臓器移植を回避するようになることに対しては、医者の行為を容認する法律を整備することで対応すべきで、死の定義を変えるべきではない。
  8. 移植医自身がドナーであることを率先しなければ臓器提供は進まないだろう。

さて、梅原の意見がよくわかったところで、自分の立場も表明しておく必要があるので一応今の考えを書いておく。

自分はどちらかと言えば梅原が否定するプラグマティズムに近い考えを持っていて、人間は死(脳死)ねば物質になるという考えに近い。脳死が不可逆的であるのなら、死の定義を変えてもいいと思っている。臓器移植で人が救われるなら功利的かもしれないが利他業の満足を覚えることができるし、それに自分の臓器が他人の体で生き続けることで遺族の喪失感を幾分か緩和できるような気がするのである。梅原の言う自然との共生には共感するが、それは別の問題としてとらえればいいと思うのである。

昨日、STAP細胞という画期的な万能細胞が発見されたというニュースが流れた。細胞の培養で再生医療が急速に進歩し、臓器移植が必要のない時代がくるのはそう遠くないと思われる。そうであるなら、梅原は臓器移植を前提とした死の定義の変更など必要ないだろうと言うに決まっている。でもそれは梅原が過信するなと警鐘を鳴らす科学技術の進歩がもたらす恩恵なのである。科学技術の進歩は人間が類人猿から進化した生物学的な進化過程と同じ延長線上にあると考えてもよいと思っている。科学技術の進化は人間中心主義を助長するのではなく、これも自然の法則の一部であり進化の必然であると思うのである。科学技術の進化と共に哲学や倫理などの人間の内面の進化も進み、試行錯誤をしながら人間は技術と精神と自然のバランスをとることができると信じている。科学技術や人間の智慧は万能ではないけれど梅原がいうほどひどいとは思えないのである。 


クローン人間についてのパンセ

2014-01-19 23:46:51 | 他本

久しぶりに梅原猛を読んだ。1998年に出版した「芸術と生命」という本の書下ろし論文である。パンセとは思考。クローン人間誕生が避けられないとすれば、その危険性について考えておかなければならないという論文である。クローン人間は人間の不老不死への願望を満たしてくれる技術だからカソリック教会や政府が禁止しても誰かがひそかに推進し法律では止められないだろうという。

梅原はクローン技術を論ずるに先立ち、人間の不死の願いをまず次のように分類する。

  1. 個体の不死としての不死 (物質的な不老不死)
  2. 再生としての不死 (キリストの復活や輪廻再生のこと)
  3. 遺伝子の継承としての不死

道教では個人が不老の体を持つことができる神仙思想があり、秦の始皇帝は徐福に命じて不老不死の薬を探させた。始皇帝は不老長寿の薬として道士により水銀を服用させられていた疑いもある。これが第1の物質的な不死である。第2の不死は霊魂の不死である。肉体が滅びても魂は不死であるとする宗教は死に対する恐怖や苦痛を克服するために発展した。キリストは復活し人々を救済する。浄土真宗では念仏を唱えることで極楽浄土に往生し再生する。ここに人間は不死と永遠を勝利することができるとする。第3の遺伝子の継承としての不死は王朝や家系の血縁継続願望である。同じ遺伝子を持つ子孫に自分の王朝、家、会社を継いでほしいと願うことである。

クローン人間は、上の3つの願いをすべて満たしてくれるというのだ。第1の願いは、カズオ・イシグロが「Never let me go」で描いたような臓器移植のために育てられるクローン人間が満たしてくれる。第2は死者の細胞が残っていればクローン人間を再生することができるというものである。マンモス再生プロジェクトが進行中である。第3は自分のDNAを100%有するクローン人間を永久的に作り出すことである。DNAは子の代で2分の1になり孫の代で4分の1になるように世代を重ねるにつれて薄くなるが、クローン人間だとDNAは100%受け継ぐことができる。芸術家や役者や技術者のクローン人間は、芸や技術を正確に伝承できる。

このようにクローン技術の発展は人間の不老不死に対する願望を満たし人間にとって有意義のように思えるが、梅原は負の側面を挙げ、”クローン技術は原子力と同じくらい危険な技術であり、人間は、科学が人間を幸福にするという幻想から目覚めなければならない”と警鐘する。

負の側面とは、たとえば孫悟空は自分の毛を抜いて息を吹きかけると分身が現れる術を持っていて、大勢の孫悟空の分身が化け物と戦ったように、クローン人間の軍隊をつくることや、子供のない人間が自分の細胞を保存しておいてクローン人間を作る技術ができた時点で財産をそのクローンに相続させるという遺言を残すことが可能になるがそれでいいのかという疑問である。

さらに、これまで道教やキリスト教や浄土教の宗教が不死や再生を扱ってきたが、クローン技術の発展により科学が不死や再生問題を扱うことで、宗教はさらに失墜してしまう。”近代世界は、人間というものは他をもって代え難い個性的な人格を所有していることをその存在の原則としている。ーーー近代法は人格をもつ個人の権利と義務をその法思想の根底においている。だから同じような人格を持つ人間が増えると、近代世界の秩序が崩壊することは必然だ”という。性的交渉なしで子孫をつくることができるようになれば、ますます非婚や晩婚や離婚が増え、家庭はもはや子供の生産と育成の場ではなくなり、家庭の崩壊が進む。このようにクローン技術は家庭崩壊を促進し、人間が生きていく根底を破壊するに違いないという。

思うに、流行りの形成外科で、クローン技術によっていくらでも体のパーツ交換ができるようになれば、髪型と同じように鼻や目を取り替えられるようになり、同じ顔や体型の人間ばかりになる。昨今、生物多様性を保全することが地球環境を守る最も重要なテーマと叫ばれているが、画一化の技術であるクローンはそれと逆行する技術であり、梅原の危惧する人間社会の秩序の崩壊だけでなく、地球環境の破壊の原因にもなりうるのではないかと思うのである。ということは以前クローンの巻で書いた。


Gravity

2014-01-12 16:37:51 | 映画

年末年始は機中映画を始めたくさん映画を観たが駄作続きだった。水天宮で引いたおみくじが中吉だったのでこんなものだろう。

「Gravity 邦題:ゼログラビティ」2013、監督:アルフォンソ・キュアロン、出演:サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、正月の3日にこの評判の3D映画を観た。今まで観た3D映画は動きが早すぎて目が回りそうになったのに比べ、無重力空間をゆっくりと漂う3D映像が心地よかった。主人公のライアン(サンドラ・ブロック)を助けるために同僚のコワルスキー(ジョージ・クルーニー)が命綱をはずし宇宙空間に放り出される場面は慣性の法則からはありえない。一度動きを止めた時点で慣性の法則によりコワルスキーの体はその場に留まり、宇宙空間にふわふわ浮くはずだからだ。最も重要な場面が物理の法則に従わず、Zero Gravityという映画のタイトルと矛盾してしまった。NASAの元宇宙飛行士がインタビューでこの場面を解説し、ドキュメンタリーじゃなくエンターテイメントなんだからいいんだと言っていた。それと、命綱を切って仲間を助けるシーンをこれまで何度見ただろうか。覚えているだけでも「Day After Tomorrow」や「Vertical Limit」がある。それと国際宇宙ステーションからロシアの衛星、次に中国の衛星と綱渡りさながらに都合よく移動し脱出する脚本は単純すぎて「2001年宇宙の旅」のような驚きもなかった。世間の評判ほどの評価はあげられないが、3Dの出来におまけして、★★★☆☆

「三銃士」2011、監督:ポール・アンダーソン、出演:ローガン・ラーマン、マシュー・マクファーディエン、ミラ・ジョコビッチ SFやジュール・ヴェルヌを愛読していたころ、フランス革命(1789年)前後の剣と銃の冒険物語を好んで観たり読んだりしていた。デュマの「三銃士」や「モンテクリスト伯」や「黒いチューリップ」、それにバルネス・オルツィの「紅はこべ」やアンソニー・ホープの「ゼンダ城のとりこ」やジョンストン・マッカレーの「怪傑ゾロ」である。それらを愛読していた頃、ちょうど封切られた映画「三銃士」1973と「四銃士」1974はまっさきに観に行った。チャールトン・ヘストンが悪役のリシュリュー枢機卿、フェイ・ダナウェイが妖女ミレディー、ダルタニアンはマイケル・ヨークで、アトスはその頃好きだったオリバー・リード、アラミスはリチャード・チェンバレンの豪華配役だった。制作者が映画を2作品に分割して売り出すことを俳優に言わなかったため訴訟になったことが話題になった。三銃士は何度も映画化されている。今回観た2011年版「三銃士」の筋は1974年版とほぼ同じだったが、アクションをやたら派手にしていただけだった。観るべきものがないから、オーランド・ブルームをチョイ役で出したり、ミレディー役ミラ・ジョコビッチに派手なアクションをさせて話題作りをしたB級映画である。★☆☆☆☆

2011年版「三銃士」を観てがっかりしたので、1974年版で口直ししようとYoutubeを探したが残念ながらUpされていなかった。そこで「The Scarlet Pimpernel 紅はこべ」を探したら、1938版、1982版、1999TV版が見つかったので「紅はこべ」をはしごした。1938年版は幸い英語の字幕付で昔読んだ内容を思い出しながら観た。残りの2作品も基本的なあらすじや劇中のエピソードはほぼ同じだった。フランス革命中のイギリスとフランスを舞台とし、正体不明の紅はこべ団がパリでギロチンを待つ貴族を救う話である。紅はこべは実はイギリスの若い貴族たちのグループで、変装の達人であるブレイクニー卿を首領とし、フランスの革命政府を欺き貴族たちを救いだしイギリスに逃がしている。ブレイクニー夫人は元フランスの演劇女優で、夫が有名な紅はこべの首領だということを知らない。夫人はパリ時代の友人貴族を革命政府に売り渡したと噂されていた。しかし、それは弟を助けるための不可抗力だったのだが、夫人は自尊心から夫に対して言い訳をせず、ブレイクニー卿は妻を思いやりながらも疑念は晴れず夫婦の仲はぎくしゃくしていた。はらはらどきどきのサスペンスに夫婦のロマンスが絡む剣と銃の冒険活劇である。映画の出来は甲乙つけがたく、ブレイクニー夫人マルグリート役の女優を基準に評点をつけることにする。1938年版マール・オベロンは白黒映画の所為かエキゾチックだったので★3、1982年版のジェイン・セイモアは好みでないので★2、1999年版はエリザベス・マクゲーバンはぽっちゃりしすぎて原作と違和感があり★2

「We are the Millers 邦題:なんちゃって家族」2013、監督:ローソン・マーシャル・サーバー、出演:ジェイソン・サデイキス、ジェニファー・アニストン、邦題からしてあきれるレベルである。メキシコから麻薬を運ぶ羽目になった主人公は通関の目をごまかすためにストリッパーのジェニファー・アニストンたち近所の変人と疑似家族を装うことを計画する。ハリウッド得意の下品なドタバタ喜劇で次の「The Family」よりは笑えた。★★☆☆☆

「The Family 邦題:マラヴィータ」2013、監督:ラク・ベソン、出演:ロバート・デ・ニーロ、ミシェール・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ、映画紹介は今一つだったが豪華出演者に惹かれて観たのが間違いだった。簡単に暴力と破壊と殺人の手段に出るめちゃくちゃなマフィアの暴力一家の実態をこれでもかと描く。おそらく映画のジャンルはコメディーなのだろうが、高校生の娘と息子もマフィアの両親と同じくらい過激で、ブラック・ジョーク過ぎて笑えなかった。年少者には見せられない映画だった。劇中、ロバート・デ・ニーロ主演の映画「Goodfellas」鑑賞会が開かれ、本人が映画は真実だと批評する場面は笑う場面なのだがそれさえ笑えなかった。★☆☆☆☆

「Runner Runner」2013、監督:ブラッド・フルマン、出演:ベン・アフレック、ジャスティン・ティンバーレイク、インターネットギャンブルを運営する会社に雇われた若者が、徐々に会社の非合法活動に誘い込まれ、最後はボスに切り捨てられるところを逆転する。逆転は痛快なのだけれど、逆転の方法が周囲に賄賂をばらまき味方につけただけで意外性がなく、がっかりした。★☆☆☆☆

「jOBS 邦題:スティーブ・ジョブズ」2013、監督:ジョシュア・マイケル・スターン、出演:アシュトン・カッチャー、スティーブ・ジョブズが大学を中退し、ITオタクのウォズニアックといっしょに自宅のガレージでPC製作を始め、Apple Computerを創設し、自分の創設した会社に解雇され、再び復帰しiTuneを売り出すまでを描く。その間、妊娠した恋人や創業期の仲間を切り捨て、社員を突然解雇し、自分が他社から引き抜き社長にした人物に業績不振の責任を問われ逆に解雇される。目的を達成するために障害となるもの、役に立たないものには容赦がないのである。ジョブズ成功の最大の功労者であるウォズニアクでさえ彼から去っていく。それでも消費者が望むものを見つけ出す能力は天才的で、その製品を提供するためには妥協しない。成功の軌跡はわかったが、効率や成功のためには恋人や友人でさえ切り捨てる自己中で頑固で依怙地な性格が際立ち、彼が成し遂げた業績に対する痛快感はなかった。★★☆☆☆

「Mystery Alaska」1999、監督:ジェイ・ローチ、出演:ラッセル・クロウ、バート・レイノルズ、ハンク・アザリア、マリー・マコーミック、アラスカの小さな田舎町のアマチュアアイスホッケーチームがプロのニューヨークレンジャーズと試合することになる。試合にいたるドタバタや人間模様を描く。アメリカンジョークやウイットが満載のはずがよくわからなかった。★★☆☆☆

写真はいずれもIMDbより


騎馬民族征服説

2014-01-11 21:35:51 | 古代

NHKの「ダーウィンが来た」でモウコノウマ(蒙古野馬 写真はNHKWeb-siteより)を観た後、大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングに空駆ける白い馬が出てきたことから、「スーホの白い馬」を思い出した。教科書にある感動のモンゴル民話である。

両親をなくした羊飼いの少年スーホは草原で弱っている白い仔馬を見つけ、連れ帰って世話をする。白い馬はスーホの世話で元気を取り戻し2人で草原を駆け回り兄弟のように成長する。数年後のある日、王様の競馬大会の勝者はお姫様を嫁にすることができるというお触れが届く。自分たちがどれだけ早いかを知りたくてスーホは競馬大会に参加する。競馬大会で優勝したスーホをみた王様はみすぼらしい少年に姫をやることはできないと、金貨3枚を与えてスーホを追い払い、白い馬をスーホから取り上げてしまう。王様の隙をみて逃げ出した白い馬は家来たちに追いかけられ体中に矢を受け、傷ついた体でスーホの家に戻ってくる。瀕死の白い馬は翌日スーホの腕の中で死んでしまう。夢の中に出てきた白い馬のお告げに従い、スーホは白い馬の体で琴を作る。こうしてできたのがモンゴルの馬頭琴である。

世界で唯一の野生馬だったモウコノウマは、1960年代に一度は絶滅したが、家畜だったモウコノウマを野生に戻すことで、現在はモンゴルの自然保護区に200頭程が生息しているという。下北半島に数十頭いるという寒立馬(かんだちめ)は、蒙古馬と日本馬を掛け合わせた混血馬で、掛け合わせのために蒙古馬が輸入されたのは、平安時代、15世紀、あるいは17世紀の南部藩の時代だともいわれる。魏志倭人伝には卑弥呼の時代、日本列島には馬はいなかったと書かれている。ところが、聖徳太子が法隆寺から飛鳥まで片道10㎞はあろうかという太子道を馬で通ったように6世紀から7世紀には騎乗の習慣があった。

5世紀以降、日本列島に馬が増えた理由として、大陸にいた騎馬民族が日本列島にわたり現住民族を征服し大和朝廷を建てたというのが、江上波夫の騎馬民族征服説である。40年前、学生のときに仙台の本屋で見かけた江上波夫の「騎馬民族征服説」を衝動買いしたことを思い出す。同じ頃、騎馬民族説をネタにした豊田有恒の小説「倭王の末裔」も読んだ。あらすじはあまり覚えていないが、神功皇后を補佐した武内宿禰が驚くほど長寿だったことと小説としてはあまり面白くなかったことだけを記憶している。江上波夫の騎馬民族征服説とは以下のようなものである。

  1. 3世紀の日本列島を描写する魏志倭人伝に「牛馬なし」とあるのに対し、4世紀後半から5世紀の古墳の副葬品に馬の埴輪や馬具など騎馬民族的特徴が顕著になる。
  2. 天孫降臨説話や神武天皇の東征は騎馬民族が日本列島を征服する過程である。
  3. 崇神天皇はその和風諡号であるハツクニシラシ・ミマキイリヒコから任那(ミマキ=辰韓)を根拠地として北九州に侵入し、初めて国を治めた(ハツクニシラシめた)。
  4. 応神天皇は近畿に進出し大和朝廷が成立した。
  5. 旧唐書の「日本は倭国の別種であり、元小国の日本が倭国を併合した」という記述は騎馬民族の征服を意味する。
  6. 広開土王の高句麗と戦ったのは神功皇后や応神天皇である。農耕民族がこのような遠征をするはずがない。
  7. 倭王武が中国の南朝宋に主張した倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東将軍の称号に弁韓が含まれていないのは、倭が任那とともに弁韓を支配していたからだ。
  8. 続日本紀に、渤海使に与えた返書に、かつての高麗が日本に対し兄弟と触れていることから、天皇家、新羅、百済などは同族である。
  9. 渡来人を多く受け入れる習慣は排他的な農耕民族にはみられない。
  10. 皇位継承が血統により、男子王が亡くなりつなぎとして女帝を立てることなどは騎馬民族の特徴である。

江上波夫の騎馬民族説は、4世紀と5世紀の間に考古学的な断続がなく強い連続性があること、中国の史書に騎馬民族征服を示唆する記述はなく1世紀から7世紀までずっと連続する倭国と記録されていること、3世紀から7世紀に築造された前方後円墳は近畿で発祥し大陸にはないこと、皇室行事に遊牧民的な伝統儀式がないこと、家畜を去勢する遊牧民特有の習慣がないこと、日本では騎馬民族の使う短弓ではなくずっと長弓を用いていること、神経質な馬を渡海させるのは困難であることなどを理由として、現在ではほとんど顧みられなくなっている。

近畿中心に考古学的な発見が相次いでいることから、近畿一元史観、大和一元史観に反論できないのである。邪馬台国もこのまままでは近畿ということになりそうな勢いである。古代史ファンとしては、騎馬民族説や九州王朝説に続く、”わくわくし、あっと驚くような”仮説が出てきてほしいものだ。


言霊

2014-01-04 12:35:53 | 万葉

 

昨年クリスマスの25日に先輩Kさんが73歳で亡くなった。癌だった。Kさんは、シンガポール、インドネシア、マレーシア、オーストラリアで海外駐在経験があり、会社を退職するまでに49か国を歴訪した海外業務のプロである。読書家で博識で話題が豊富だった。30年程前シンガポールで一緒に仕事をしていたころ、外回りで霊柩車に出会うとKさんは必ず、「今日はいいことがある」と声に出していたことを思い出す。そして日本には言霊(ことだま)の文化があるのだと話してくれた。言霊とは、言葉には霊魂があり、良い言葉を発すれば良いことが起こる、いわゆる言霊信仰である。

犬養孝によると言霊は万葉全体に通じ、万葉の中で言葉は生きていて言葉は命だという(犬養孝「万葉の人びと」)。犬養孝は例として舒明天皇の「大和には、群山あれどーーーーー、うまし国そ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は」という国見の歌をあげ、統治者である天皇が「うまし国そ (いい国だなあ~) 大和という国は!」と声に出して国をほめる言霊だという。万葉歌は声に出して初めて歌になり言霊になるのだ。

下は万葉集の編者である大伴家持が759年に赴任先の因幡で詠んだ万葉最後の歌である。

新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事   巻20-4516

あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと

家持が赴任先の因幡国庁で新年を迎え”降り積もる雪のように新しい年は良い事が続きますように”という願いを歌に詠んだものである。言霊信仰に従い、この歌を声に出して詠み、今年いいことが起こることを願った。”新しき”は”あたらしき”ではなく”あらたしき”でなければならないと犬養孝は書いている。当時の読み方で詠めというのだ。家持の言霊だけでは足りないので、2日に水天宮に初詣に行き”いや重け吉事”を重ねてお祈りした。水天宮の社殿は改築中で写真の仮宮でのお参りだった。一昨年の西新井大師ほどではなかったが長い行列をつくっての参詣になった。犬を連れた参詣客が大勢いた。

水天宮は地下鉄半蔵門線の水天宮駅近くにある。九州の久留米水天宮の分社で、祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、安徳天皇、その母の建礼門院(平徳子)、徳子の母の平時子である。8歳の安徳天皇は壇ノ浦で敗れた平家一門といっしょに入水し崩御した。水天宮はその怨霊を鎮めるための神社である。鎮魂慰霊の意味が込められた”徳”の字を抱く天皇たち、非業の死を遂げた安徳天皇、日本最大の怨霊とされる崇徳院、佐渡に流され崩御した順徳天皇、承久の乱に敗れ隠岐で崩御した後鳥羽上皇(顕徳院)らは神社に祀られている。梅原猛は有名な「隠された十字架」の中で、徳の字を持つ聖徳太子もその一人で法隆寺は怨霊封じの寺であるとする。「水底の歌」では柿本人麻呂も病死とする定説とは異なる流刑ののち死罪(水死刑)になったという仮説を立て、人麻呂の鎮魂のために全国に柿本人麻呂神社が建てられたとする。徳島の天神さん亀戸天神湯島天神など全国の天満宮に祀られる菅原道真は左遷された大宰府で死んだあと朝廷に祟ったことは誰もが知っている。祟りの強い怨霊ほど逆説的により大きな幸をもたらす福の神になるとされる。そのため庶民による信仰は篤く、天満宮と同じように水天宮も九州から北海道まで全国に分社がある。