Irene Adlerがホームズにとって特別な女性だったことは、アーサー・コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞:A Scandal in Bohemia」の冒頭に描かれたとおりである。
- To Sherlock Holmes she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name. In his eyes she eclipses and predominates the whole of her sex. It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen, but as a lover he would have placed himself in a false position. He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. They were admirable things for the observer -- excellent for drawing the veil from men's motives and actions. But for the trained teasoner to admit such intrusions into his own delicate and finely adjusted temperament was to introduce a distracting factor which might throw a doubt upon all his mental results. Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. And yet there was but one woman to him, and that woman was the late Irene Adler, of dubious and questionable memory.
- シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも『かの女《おんな》』であった。他の呼称などつゆほども聞かない。彼女の前ではどんな女性も影を潜める、とでも考えているのであろう。だがアイリーン・アドラーに恋慕の情といったものを抱いているのではない。あらゆる情、とりわけ恋というものは、ホームズの精神にとっては、到底受け入れることができない。精神を冷徹で狂いなく、それでいて偏りがまったくないままに保たねばならないからだ。個人的な考えだが、推理と観察にかけて、ホームズは世界一の完全無欠な機械である。けれども恋愛向きではない。斜に構えねば、人の情については語れない。観察にはもってこいだ――情こそが人の動機や行動のヴェールをはぎ取る。だが、とぎすまされた推理の場合、ひとたびそのようなものが厳密に調整された心に入りこめば、乱す種となってしまう。そうすればどんな思考の結果も疑わしい。精密機器に砂が混入することよりも、所持する高性能の拡大鏡にひびが入ることよりも、ホームズのような心に強い情緒が芽生えることの方が、悩ましいことなのである。だがそんなホームズにも、ひとりだけ女性というものがあった。その女こそ、かつてのアイリーン・アドラー、まことしやかな噂の多い女だ。(大久保ゆう訳) 日本語訳は、late Irene Adlerを”かつての”とするが、lateは通常は故人に対して使う。
ホームズはボヘミア国王に依頼され、国王とアイリーン・アドラーの二人が写る写真を手に入れるために罠を仕掛けるが、アイリーン・アドラーに出し抜かれ写真の取得に失敗する。ホームズは、国王が探偵の報酬として差し出した大きなエメラルドの指輪を断り、代わりにアイリーン・アドラーの写真を所望する。左下の写真が、ホームズが報酬として手に入れたアイリーン・アドラーの写真である。そして小説の最後が以下である。
- And that was how a great scandal threatened to affect the kingdom of Bohemia, and how the best plans of Mr. Sherlock Holmes were beaten by a woman's wit. He used to make merry over the cleverness of women, but I have not heard him do it of late. And when he speaks of Irene Adler, or when he refers to her photograph, it is always under the honorable title of the woman.
- 以上がボヘミア王室を脅かした一大醜聞であり、ホームズの深謀が一女性の機知にうち砕かれた事件の顛末である。以前は女性の浅知恵と冷やかしていたホームズも、最近は一言もない。そしてアイリーン・アドラーに触れたり、写真を引き合いに出したりする際には、ホームズは常に『かの女』という敬称を使うのである。(大久保ゆう訳)
ワトソンが、ホームズの精神に恋を受け入れる余地はないと言っているにも関わらず、多くのシャーロッキアンは、『かの女』アイリーン・アドラーこそホームズが唯一愛した女性ではないかと考えている。ところが、ホームズは、アイリーン・アドラーの写真だけでなく別の二人の女性の写真(下の中央と右)も持っていたのである。下の写真はいずれもYouTubeからCaptureした。
左:Irene Adler、中:Mrs. Gavrielle Valladon、右:Mrs. Kelmot
ホームズを演じた中で最高の役者とされるJeremy Brett主演のイギリスGranada TVシリーズ第1話「ボヘミアの醜聞」では、Gayle Hunnicuttという女優がアイリーン・アドラーを演じた。左上のIrene Adlerの写真はそのGayle Hunnicuttである。BBC TVシリーズ「Sherlock」のシャーロックがIrene Adlerの写真を持っていた気配はない。中央の写真はビリー・ワイルダー監督の「The Private Life of Sherlock Holmes」でホームズの懐中時計に挟まれていたもので、彼女はイギリスの開発する潜水艦情報を手に入れるためにホームズに近づいてきたドイツの女スパイ(Genevieve Page)である。行方不明の夫を捜すGavrielle Valladon夫人としてホームズに近づく。夫を捜しにスコットランドへ向かうとき、ホームズと仮の夫婦 Mr. and Mrs. Ashdownを名乗る。この映画を45年ぶりにYouTubeで全編観ることができた。ホームズの兄マイクロフトをクリストファー・リー(LORの魔法使いサルマン)が演じている。右上のもう1枚の写真は、映画「Mr. Holmes」でホームズが救うことのできなかったMrs. Kelmot(Hattie Morahan)の写真である。ホームズは女性の写真の収集癖があったか、あるいはワトソン医師の分析とは相違し、結構惚れ易い精神を持っていたのかもしれない。しかも相手は人妻であり、二人とも非業の死を遂げている。(あとの映画2編は後世の人が適当に創作したホームズ像であることに注意)
ネットでシャーロック・ホームズやアイリーン・アドラーを検索していたら、「The Arthur Conan Doyle Encyclopedia」という掘り出し物サイトを見つけた。掲載した「A Scandal in Bohemia」の原文もそこからコピペした。このサイトでシャーロック・ホームズ関係の情報のほとんどが手に入る。ロストワールドの情報もある。
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14 Apr 2016追記
上の記事中、”シャーロックがIrene Adlerの写真を持っていた気配はない”と書いたが、『Sherlock The Abominable Bride 邦題:忌まわしき花嫁』でワトソンがシャーロックの懐中時計の中に写真を見つけたので、実は持っていたと訂正した。その写真(下)がネットで見つかった。これでシャーロック・ホームズの秘蔵写真は4枚になった。