備忘録として

タイトルのまま

惜別

2013-11-08 05:56:22 | 仙台

苦節9年、やっと楽天ゴールデンイーグルスが日本一になった。思えば2005年8月、シンガポールから一時帰国し創設したばかりの楽天イーグルスの試合を仙台で観た。西武ライオンズとの試合は僅差で9回まで進み、さよなら逆転のチャンスに出てきた代打は1割バッターで案の定負けた。創設年の8月はたしか2勝15敗だったので勝試合に遭遇するのは宝くじにあたるようなものだった。その時、楽天ファンになるぞとエンジ色の野球帽を買った。学生時代は阪急ファンで、当時の阪急は名将西本監督のあとを継いだ上田監督のもとめっぽう強かった。仙台をサブフランチャイズにしていたロッテとの試合を宮城野球場で見たことがある。その時の阪急のピッチャーはサブマリン投法で一世を風靡した足立だった。ロッテファンの中でひとり阪急を応援したことを思い出す。

骨格構造的に上手投げは肩の関節に負担がかかる無理な投球法で、下手投げは自然で負担はかからないと聞いたことがある。その所為か北京オリンピックでソフトボールの上野が2日3試合で413球を連投したときも批判は起きなかった。田中マー君はこれからMLBに行くのにあんなに投げていいのかと心配した。日本からMLBへ行ったほとんどの投手は肩やひじを壊しているので、日本での肩の酷使が影響しているのだろうか。MLBではRed SoxがWorld Seriesを制した。上原と田沢の活躍は1試合ずつ丸ごとYoutubeにアップされていたのでたっぷり鑑賞した。1点差やピンチで投げる上原の制球力と精神力には感服した。

さて、楽天イーグルス優勝ということで仙台の話題をネットサーフィンしていたところ、魯迅の「藤野先生」という小説に遭遇した。藤野先生は魯迅が1904年9月から1906年3月までの1年半留学していた仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の当時の解剖学教授である。中国からの留学生である魯迅に目をかけ、講義ノートを熱心に添削してくれたことを後日「藤野先生」という短編に書いている。藤野先生は魯迅が2学年で医学校を中退し仙台を去るときに、自身の写真の裏に”惜別”ということばを添えて送る。

その写真は北京の住居の壁に張り付けてある。夜ごと疲れて怠けたくなる時に顔をあげて先生の黒い顔をみるたびに今にもあの抑揚のきつい口調で話しだすようで、忽ち私は良心を目覚めさせられ、そして勇気を奮い立たせられるのだ。

只有他的照相至今還挂在我北京寓居的東墻上、書棹対面。毎当夜間疲倦、正想偸懶時、仰面在灯光中瞥見他黒痩的面貌、似乎正要説出抑揚頓挫的話來、便使我忽又良心発現

魯迅が小説「吶喊」に書いた日露戦争時に日本軍に捉えられ公開処刑される中国人スパイを中国人の群集が無表情で見つめる幻燈を授業で見る話が短編「藤野先生」にも出てくる。幻燈を見て笑う日本人の同級生の中で青ざめて沈思する魯迅の姿が目に浮かぶ。この”幻燈事件”は、医学で体を治すより自国民の精神を直す方が大切だとして魯迅が文芸運動を起こすきっかけになったと言われる。

太宰治は、魯迅の「藤野先生」を題材に「惜別」という小説を書いている。青空文庫にあるので全編読むことができる。

魯迅の同級生である東北の田舎町出身の学生を語り手にして、仙台、塩釜、松島などの名所旧跡を舞台に、日露戦争を時代背景とし、中国人留学生の異国での孤独、自身の生き方への葛藤、周囲の日本人との交流が描かれる。主人公の東北人の方言に対する劣等感も描かれていて、これは津軽出身の太宰の屈折した感情の反映だと思う。藤野先生への感謝と期待に答えられなかったという申し訳なさを胸に、いつも自分を奮い立たせている魯迅の思いが、「惜別」という題から想像して当然抒情的に書かれていると期待していたのだが、この小説からは感じられなかった。太宰は、”幻燈事件”が医学を捨て文芸に入ったきっかけとなったとされていることに対し、魯迅はすでに文学に身を置こうと決めていて、それは小さなきっかけでしかなかったと長々と理屈っぽく述べている。魯迅のカンニングを糾弾する同級生も基本的に善人であり、異国民に対する差別はなかったかのように書かれている。

この小説は内閣情報局と文芸報国会の委嘱で書かれたものであると「惜別」の末尾に書いてある。文芸報国会は1942年に国策の施行実践に協力することを目的に設立された作家団体であることを考えると、中国人に親切な日本人と言う構図は、当時にあっては”国策の施行実践”に沿った内容のような気もする。太宰は、「惜別」は一作家の責任で書いたもので、(当局により)一字半句の訂正もなかったと書いている。太宰の思考がすでに体制派だったのか、日本人は善人だと無邪気に思っていたのか、太宰の当時の活動や作品を知らないので何とも言えない。 

話は変わるが、中国の国家主席だった江沢民は1998年の日本訪問の際、仙台まで足を延ばし魯迅が授業を受けたという東北大学の医学教室や魯迅像を訪れている。訪日時は歴史認識で日本批判を繰り返した江沢民だったが魯迅の足跡を訪ねることで日中友好のバランスを取ろうとしたのかもしれない。


ニコライの見た幕末日本

2013-11-03 14:08:52 | 江戸

神田駿河台のニコライ堂のニコライは、幕末の1861年、函館のロシア総領事館付司祭として来日し、1869年までの間に函館にハリストス正教会を設立するなど布教に努めた。1869年に一時ロシアに戻りその時に著わしたのが「キリスト教宣教団の観点から見た日本」という論文で、その翻訳本が「ニコライの見た幕末日本」中村健之介訳である。

ニコライは論文で、当時の日本の統治体制、天皇制、神道、仏教、儒教を紹介したのち、キリスト教の伝来から幕末までの歴史を詳述し、さらに、明治政府の廃仏毀釈とキリスト教禁教令、内戦(討幕戦争)、明治政府、帝(ミカド)についても感想を述べている。

国内政治と国民

幕府は全国にスパイ網を張り巡らし300諸侯を制御する。商人は税が高い、農民は年貢が高いと文句を言い、誰も彼もが役人の悪口を言うが、彼らの生活は決して貧しくはない。また、日本の全階層の教育レベルは非常に高く、文字を習うに非常に熱心である。

ヨーロッパに対して門扉を開いてわずか15年、日本ではすさまじい勢いでイギリス式の議会制度を導入しようとしている。アメリカ式を導入したかったが時期尚早だという話も紹介するが、イギリスの制度導入が正しいかどうかわからないと疑問を呈する。日本は中国文明の影響をすみずみにまで受けていてすべてが模倣であると言える。しかし同時にこれは日本人が驚嘆すべきほどにしなやかな気質を備えていることの証明で、中国文明は今や不要になったとでもいうように西洋文明に飛びついている。

神道

イザナミ・イザナギに始まり、アマテラスとスサノオ、帝(ミカド)のはじまりであるジンムも神であり、今の帝(ミカド)を含めそれに続く子孫もすべて神である。応神や神功も出てくる。各家には神棚が祭られ、それぞれの家系に連なる神々がいるし、土着神がいる。秀吉も神になっている。また、崇徳院のように祟りをなす神も祭られる。これらの神々を信仰するのが神道で、文化程度の低い無知な民族が信仰する宗教である。

仏教

仏教が入ってきて神道は仏教に取り込まれた。シャカムニ(ブッダ)が説いた愛、平等、無欲などの単純な理念は中国を経て日本で大きく変容した。その変容は伝説、文献、戒律、礼拝、寺院、道場や、絵画、彫刻、建築などの芸術に見られる。日本人は仏教を自己流に発展させ多くの分派を生んだ。禅宗の座禅をニコライは形式主義だと一笑に付す。門徒宗(浄土真宗)の説教を聞くとまるでキリスト教の説教のような気がしてくるが、上からの佑助(ゆうじょ)すなわち他力による救済があるという高度な教えがあるのに、妻帯や物質的利益の追求など多くの悪を持ち込んだ。法華宗はばかばかしい話を書いた経典である法華経の名(南無妙法蓮華経)を唱えれば人間は救われるという。各派はそれぞれ膨大な仏典を持ちそれぞれが矛盾する教えを含みながら、すべてがブッダの教えを正統に受け継いでいるとする。各派が勝手にブッダ本来の教義を変更修正したと批判する。特に親鸞については妻帯、肉食に加え悪人正機説にも触れ手厳しい。

孔子

日本では儒学は宗教ではなく倫理的神学的な一学派のかたちをとる。孔子は世界と人間の初めについて、至高者について、人間の使命について何も教えてはくれない。孔子の鬼神を語らずという姿勢がニコライには理解できないようだ。絶対神がいないので孔子の学徒は、各人各様に思いのままに勝手に自分の原理を唱え、その批判精神によって仏教や神道を軽蔑していると、江戸時代の無神論・唯物論にも言及する。

ニコライは日本には多くの宗教が存在するが日本人の宗教心はあまり高くないとみていたようである。同じ時期に日本に来たシュリーマンも同様の感想を述べている。

キリスト教

16世紀のキリスト教伝来から始まり、ザビエル、信長の庇護、秀吉・家康の禁教、三浦按針やフェリペ号事件、島原の乱を詳しく記述する。秀吉の禁教令についてはイスパニアの世界戦略に問題があったとして秀吉を弁護している。1853年鎖国の日本にアメリカとロシアの艦船が来航したのち、カソリックやプロテスタントの宣教師が来日し布教を開始した。宣教師が長崎の浦上に教会を開いた時、住民が訪ねてきて迫害下でもずっとキリスト教を伝承し続けていたという告白をする。しかし、彼らは幕府の法律に従った長崎奉行によってすぐに逮捕される。禁教令を厳密に適用すれば本来死刑となるはずが、江戸からの指示で釈放される。これが明治元年1868年の1年前、1867年頃のキリスト教に対する江戸幕府の見て見ぬふりの対処法だった。

明治の廃仏毀釈

明治政府は神道復活を推進し、仏教を排すとともにキリスト教も禁教とする。これに抗議する諸外国の代表に対し、外務大臣の東久世は、”キリスト教を禁止するというのは誤解で、邪教(よこしまな宗教)を禁じたのだ”と言い訳をする。ニコライは西洋の科学や文化を必死で日本に持ち込もうとしている人々が、キリスト教に目をつぶることなどできるはずがないという。

明治維新

1868年佐幕派と討幕派の間で戦争(鳥羽伏見の戦い)が起きた。大方の予想に反して将軍はその敗北であっさり政権を投げ出したが、奥羽越列藩同盟は抵抗し内戦になる。列藩同盟は次々に敗れていき、さらに北海道に行った幕府の海軍大将の榎本武揚も敗れ大勢が決したように思える。しかし、ニコライは、できたての政府内で内輪もめが始まり前将軍(徳川慶喜)が再登場することが望まれているとともに、帝(ミカド)には国を率いる力はないとする。

ニコライの日本の各宗教に対する理解に大きな間違いはないように思うが、キリスト教信者の目を通して見ている所為で、キリスト教の教義や戒律に反するものや無神論への批判は辛辣である。帝(ミカド)の統治能力にも懐疑の目を向ける。

ニコライは1869年に2年間ロシアに帰国しこの論文を発表した後、1871年に再び函館に戻り、翌年東京へ行く。そこでニコライ堂を建設するなどロシア正教の布教につとめ、1912年東京で没する。ニコライは1904年の日露戦争中も日本にとどまり、日本人の正教徒には日本の勝利を祈り勝ったなら感謝の祈祷をしなさいと伝えたという。40年間日本に滞在したニコライが、初期の論文に書いた見解のいくつかに修正を加えたことは想像に難くない。

幕末から維新にかけての外国人の資料として外せないイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記「遠い崖」萩原延嘉と東北を巡ったイザベラ・バードの「日本奥地紀行」があるのだが、まだ手が出せない。