苦節9年、やっと楽天ゴールデンイーグルスが日本一になった。思えば2005年8月、シンガポールから一時帰国し創設したばかりの楽天イーグルスの試合を仙台で観た。西武ライオンズとの試合は僅差で9回まで進み、さよなら逆転のチャンスに出てきた代打は1割バッターで案の定負けた。創設年の8月はたしか2勝15敗だったので勝試合に遭遇するのは宝くじにあたるようなものだった。その時、楽天ファンになるぞとエンジ色の野球帽を買った。学生時代は阪急ファンで、当時の阪急は名将西本監督のあとを継いだ上田監督のもとめっぽう強かった。仙台をサブフランチャイズにしていたロッテとの試合を宮城野球場で見たことがある。その時の阪急のピッチャーはサブマリン投法で一世を風靡した足立だった。ロッテファンの中でひとり阪急を応援したことを思い出す。
骨格構造的に上手投げは肩の関節に負担がかかる無理な投球法で、下手投げは自然で負担はかからないと聞いたことがある。その所為か北京オリンピックでソフトボールの上野が2日3試合で413球を連投したときも批判は起きなかった。田中マー君はこれからMLBに行くのにあんなに投げていいのかと心配した。日本からMLBへ行ったほとんどの投手は肩やひじを壊しているので、日本での肩の酷使が影響しているのだろうか。MLBではRed SoxがWorld Seriesを制した。上原と田沢の活躍は1試合ずつ丸ごとYoutubeにアップされていたのでたっぷり鑑賞した。1点差やピンチで投げる上原の制球力と精神力には感服した。
さて、楽天イーグルス優勝ということで仙台の話題をネットサーフィンしていたところ、魯迅の「藤野先生」という小説に遭遇した。藤野先生は魯迅が1904年9月から1906年3月までの1年半留学していた仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の当時の解剖学教授である。中国からの留学生である魯迅に目をかけ、講義ノートを熱心に添削してくれたことを後日「藤野先生」という短編に書いている。藤野先生は魯迅が2学年で医学校を中退し仙台を去るときに、自身の写真の裏に”惜別”ということばを添えて送る。
その写真は北京の住居の壁に張り付けてある。夜ごと疲れて怠けたくなる時に顔をあげて先生の黒い顔をみるたびに今にもあの抑揚のきつい口調で話しだすようで、忽ち私は良心を目覚めさせられ、そして勇気を奮い立たせられるのだ。
只有他的照相至今還挂在我北京寓居的東墻上、書棹対面。毎当夜間疲倦、正想偸懶時、仰面在灯光中瞥見他黒痩的面貌、似乎正要説出抑揚頓挫的話來、便使我忽又良心発現
魯迅が小説「吶喊」に書いた日露戦争時に日本軍に捉えられ公開処刑される中国人スパイを中国人の群集が無表情で見つめる幻燈を授業で見る話が短編「藤野先生」にも出てくる。幻燈を見て笑う日本人の同級生の中で青ざめて沈思する魯迅の姿が目に浮かぶ。この”幻燈事件”は、医学で体を治すより自国民の精神を直す方が大切だとして魯迅が文芸運動を起こすきっかけになったと言われる。
太宰治は、魯迅の「藤野先生」を題材に「惜別」という小説を書いている。青空文庫にあるので全編読むことができる。
魯迅の同級生である東北の田舎町出身の学生を語り手にして、仙台、塩釜、松島などの名所旧跡を舞台に、日露戦争を時代背景とし、中国人留学生の異国での孤独、自身の生き方への葛藤、周囲の日本人との交流が描かれる。主人公の東北人の方言に対する劣等感も描かれていて、これは津軽出身の太宰の屈折した感情の反映だと思う。藤野先生への感謝と期待に答えられなかったという申し訳なさを胸に、いつも自分を奮い立たせている魯迅の思いが、「惜別」という題から想像して当然抒情的に書かれていると期待していたのだが、この小説からは感じられなかった。太宰は、”幻燈事件”が医学を捨て文芸に入ったきっかけとなったとされていることに対し、魯迅はすでに文学に身を置こうと決めていて、それは小さなきっかけでしかなかったと長々と理屈っぽく述べている。魯迅のカンニングを糾弾する同級生も基本的に善人であり、異国民に対する差別はなかったかのように書かれている。
この小説は内閣情報局と文芸報国会の委嘱で書かれたものであると「惜別」の末尾に書いてある。文芸報国会は1942年に国策の施行実践に協力することを目的に設立された作家団体であることを考えると、中国人に親切な日本人と言う構図は、当時にあっては”国策の施行実践”に沿った内容のような気もする。太宰は、「惜別」は一作家の責任で書いたもので、(当局により)一字半句の訂正もなかったと書いている。太宰の思考がすでに体制派だったのか、日本人は善人だと無邪気に思っていたのか、太宰の当時の活動や作品を知らないので何とも言えない。
話は変わるが、中国の国家主席だった江沢民は1998年の日本訪問の際、仙台まで足を延ばし魯迅が授業を受けたという東北大学の医学教室や魯迅像を訪れている。訪日時は歴史認識で日本批判を繰り返した江沢民だったが魯迅の足跡を訪ねることで日中友好のバランスを取ろうとしたのかもしれない。