備忘録として

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高松塚その2

2009-01-25 15:00:06 | 古代

本箱の隅っこに”倭から日本へ”1973年二月社というハードカバー本がほこりをかぶっていた。騎馬民族征服説で有名な江上波夫、日本の中の朝鮮文化を研究する金達寿(キムタルス)、広開土王碑が関東軍参謀によるでっち上げだという説で有名な李進煕(リジンヒ)に加え、上原和の高松塚古墳についての論文をまとめた本である。学生の頃(1973年入学)、江上波夫の騎馬民族征服説を信奉していたこと、上原和の”斑鳩の白き道のうえに”もその頃読んだので、この本は発刊(1973年)されてまもなくに買ったことは確かなのだが、本の存在を完全に忘れていた。
あれから35年が経過した今では、騎馬民族征服説も広開土王碑文の関東軍陰謀説も、ほとんど成り立たないことが通説になっている。

上原和が高松塚の壁画を剥がして保存するよう主張していたということは何度も紹介してきたが、高松塚古墳の築造年代に言及していたとは知らなかった。購入時に上原和の論文を読んだ記憶がないのだが、今回は再読ということにしておこう。

高松塚古墳は1972年3月26日に発見され、上原和の論文は1972年11月11日に行った講演を下敷きにしたものである。
上原和の年代考証は、専門分野である美術史を基本にした緻密なもので、埋葬品の透かし金具の花文、壁画人物図の服装様式、菱形文様、顔の描写法、四神図の唐草模様などを時代がほぼ確定している中国隋唐時代の遺物(例えば永泰公主の墓)、敦煌遺跡、高句麗や百済遺跡、ペルシャ、聖徳太子ゆかりの天寿国繍帳、玉虫の厨子、法隆寺金堂、橘夫人厨子などと比較する。また、古墳の構造形式と位置、出土した須恵器、さらには当時の政治外交も視野に入れる。
結論として、高松塚古墳の壁画を「7世紀前半の古き飛鳥文化と7世紀後半の新しき飛鳥文化の、およそ境い目に位置していただろう」と見ている。それは660年代の白村江の戦いと敗戦処理を境に、百済・高句麗風から唐・新羅風への変化が起こった時期である。

上原和の提唱する年代は、梅原猛が”黄泉の王-私見・高松塚”で論じた700年前後、690年以前には遡れず708年以降ではないという主張とは相容れないことになる。梅原の上限690年の根拠は、古墳の四神図が律令制度の四神の思想に制約されていることから大宝律令の制定年701年以降かそれを大きく遡らないはずであるという1点である。高松塚が藤原京から南にまっすぐ延びる天武・持統ラインにあることを傍証として、文武天皇の時代というのも上限690年の根拠になっている。壁画の解釈などから梅原猛は699年に死亡した弓削皇子を被葬者とする説を立てる。上原和は天武・持統ラインの問題についても言及しているが、「それとても推理の域をではなく、(中略)檜隈川や下つ道をはさんで東西に対峙する(中略)牽子塚古墳や岩屋山古墳などとの関係で墓域を考えることも必要なはず」として古墳構造を根拠に天武・持統ラインそのものに否定的である。

梅原猛は1973年4月に、上原和は半年後の1973年11月に築造年を推定している。2005年の発掘調査から築造年は694年~710年に確定したとWikiにあり、その根拠として2005年の奈良新聞記事を上げているが、2009年の奈良新聞(http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02c_02.html)では、高松塚とキトラ古墳の天文図が高句麗形式の集大成であることを根拠に680~700年説も紹介しており、年代が決着したとは言い難い。危うくWikiの確定説を信じそうになった。高松塚では、まだまだ謎を楽しむことができるということだ。


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