備忘録として

タイトルのまま

You Can't Take It With You

2009-01-31 14:52:18 | 映画

”或る夜の出来事”の監督フランク・キャプラの”You Can't Take It With You”(邦題”我が家の楽園”)1938年を観た。”或る夜の出来事”から3年後の作品でアカデミー作品賞と監督賞を取っているのだけど、”或る夜---”には遠く及ばない。人生で大切なものは何かを主題とした映画で、最近見た”プロバンスの贈りもの”や”トスカーナの休日”を思い出した。以前見た”The Family Man”の二コラス・ケージや”The Bucket List”のジャック・ニコルソンにも通じる。そんなに儲けたって墓場まで-You Can't Take It With You-ということである。いずれの映画も主人公は人生でほんとうに大切なものは何かということに気づくという設定になっている。。アメリカ人はこの主題が好きなのかも。

”You Can't Take It With You”(邦題”我が家の楽園”)1938年 監督フランク・キャプラ 主演ジーン・アーサー、ジェームズ・スチュワート、エドワード・アーノルド、ライオネル・バリモア ★★★☆☆

”プロバンスの贈りもの”2006年 監督リドリー・スコット 主演ラッセル・クロウ、マリオン・コティヤール ★★★★☆
ロンドンのトレーダーで一日に巨額の金を動かすクロウが、死んだおじさんの所有するプロバンスの農園へ行き、幼いころのおじさんとの思い出とプロバンスの人々との接触の中で自身の人生について考え、最後はロンドンの生活を捨てプロバンスに住む決心をする。”ニューシネマパラダイス”のアルフレッドはトトの才能を見抜いて故郷を出るように仕向け、結局トトはローマで成功はするのだが決して幸せとは言えない。トトはキスシーンを繋いだ古いフィルムを見て自身の人生を考えるところで終わる。現在の生活を捨てて故郷に戻るのは簡単じゃないと思う。プロバンスではワインがキーワードになっていた。最近テレビで”神の雫”を見ていて、うそかほんとかワインの知識を仕入れているのでもう一度映画を見たら何か別の解釈ができるかもしれない。
エディット・ピアフ”に主演したマリオン・コティヤールが魅力的だった。おじさん役は昔好きだったアルバート・フィーニー(”クリスマス・キャロル”や”いつも二人で”)が演じていた。”ビッグ・フィッシュ”でも似たような役だった。”プロバンス---”は昨年の夏頃ツタヤで借りて観た。



”トスカーナの休日”2003年 監督オードリー・ウェルズ 出演ダイアン・レイン ★★★☆☆
夫と離婚して傷心旅行に出かけた作家が一軒家を衝動買いし、トスカーナに住むことになる。地元の人々との交流の中で自分の居場所を発見していくというコメディタッチの作品。話は特に感動的でなく、はらはらどきどきもなく、淡々としているがトスカーナという風土の所為か癒される。不動産屋のおじさんが癒しの代表である。”ロンサム・ダブ”を15年ほど前に見て以来、久しぶりにダイアン・レインの映画を観た。ダイアン・レインの若い頃は単にきれいだったが、年を取ってより魅力的になったように思う。この映画は昨年の夏頃にケーブルテレビで見た。
トスカーナは、イタリアのフィレンツェ、ピサやシエナのある地方で、10年ほど前にイタリア旅行をした時に行ったことがある。シエナは町の真ん中に祭りで競馬をする広場があり、広場に面したレストランで昼食にリゾットを食べた。ピノキオの専門店のような所にも行った記憶がある。

”The Family Man”(邦題”天使のくれた時間”)2000年 監督ブレット・ラトナー 主演ニコラス・ケージ ティア・レオーニ ★★★☆☆
ビジネスだけに生きてきた主人公が、過去に別の選択をしていたらこうだったというもう一つの人生を体験するファンタジー。初老に入った人間が別の人生を取り戻すことはほとんど不可能だと思うのだけど、この映画の主人公はもうひとつの人生を手にする決心をする。ティア・レオーニは、”ジュラシック・パーク3”で眼前の危険に無頓着で周りを危険にさらす行動をする女を演じていたが、こちらは良かった。


高松塚その2

2009-01-25 15:00:06 | 古代

本箱の隅っこに”倭から日本へ”1973年二月社というハードカバー本がほこりをかぶっていた。騎馬民族征服説で有名な江上波夫、日本の中の朝鮮文化を研究する金達寿(キムタルス)、広開土王碑が関東軍参謀によるでっち上げだという説で有名な李進煕(リジンヒ)に加え、上原和の高松塚古墳についての論文をまとめた本である。学生の頃(1973年入学)、江上波夫の騎馬民族征服説を信奉していたこと、上原和の”斑鳩の白き道のうえに”もその頃読んだので、この本は発刊(1973年)されてまもなくに買ったことは確かなのだが、本の存在を完全に忘れていた。
あれから35年が経過した今では、騎馬民族征服説も広開土王碑文の関東軍陰謀説も、ほとんど成り立たないことが通説になっている。

上原和が高松塚の壁画を剥がして保存するよう主張していたということは何度も紹介してきたが、高松塚古墳の築造年代に言及していたとは知らなかった。購入時に上原和の論文を読んだ記憶がないのだが、今回は再読ということにしておこう。

高松塚古墳は1972年3月26日に発見され、上原和の論文は1972年11月11日に行った講演を下敷きにしたものである。
上原和の年代考証は、専門分野である美術史を基本にした緻密なもので、埋葬品の透かし金具の花文、壁画人物図の服装様式、菱形文様、顔の描写法、四神図の唐草模様などを時代がほぼ確定している中国隋唐時代の遺物(例えば永泰公主の墓)、敦煌遺跡、高句麗や百済遺跡、ペルシャ、聖徳太子ゆかりの天寿国繍帳、玉虫の厨子、法隆寺金堂、橘夫人厨子などと比較する。また、古墳の構造形式と位置、出土した須恵器、さらには当時の政治外交も視野に入れる。
結論として、高松塚古墳の壁画を「7世紀前半の古き飛鳥文化と7世紀後半の新しき飛鳥文化の、およそ境い目に位置していただろう」と見ている。それは660年代の白村江の戦いと敗戦処理を境に、百済・高句麗風から唐・新羅風への変化が起こった時期である。

上原和の提唱する年代は、梅原猛が”黄泉の王-私見・高松塚”で論じた700年前後、690年以前には遡れず708年以降ではないという主張とは相容れないことになる。梅原の上限690年の根拠は、古墳の四神図が律令制度の四神の思想に制約されていることから大宝律令の制定年701年以降かそれを大きく遡らないはずであるという1点である。高松塚が藤原京から南にまっすぐ延びる天武・持統ラインにあることを傍証として、文武天皇の時代というのも上限690年の根拠になっている。壁画の解釈などから梅原猛は699年に死亡した弓削皇子を被葬者とする説を立てる。上原和は天武・持統ラインの問題についても言及しているが、「それとても推理の域をではなく、(中略)檜隈川や下つ道をはさんで東西に対峙する(中略)牽子塚古墳や岩屋山古墳などとの関係で墓域を考えることも必要なはず」として古墳構造を根拠に天武・持統ラインそのものに否定的である。

梅原猛は1973年4月に、上原和は半年後の1973年11月に築造年を推定している。2005年の発掘調査から築造年は694年~710年に確定したとWikiにあり、その根拠として2005年の奈良新聞記事を上げているが、2009年の奈良新聞(http://www.nara-np.co.jp/special/takamatu/vol_02c_02.html)では、高松塚とキトラ古墳の天文図が高句麗形式の集大成であることを根拠に680~700年説も紹介しており、年代が決着したとは言い難い。危うくWikiの確定説を信じそうになった。高松塚では、まだまだ謎を楽しむことができるということだ。


修羅

2009-01-24 12:58:26 | 賢治

 「金のためなら、なんでもするズラ!」今、ジョージ秋山の”銭ゲバ”が脚色されテレビ化されている。中学生の時に見たジョージ秋山の”アシュラ”は衝撃だった。乱れた髪を垂らし着物を引きずりながら餓鬼の世界を歩く主人公の姿は今も脳裏に焼きついている。

 阿修羅(アシュラ)は帝釈天と戦う仏教の守護者である。梅原猛の”地獄の思想”によると、仏教の発展に伴い地獄は細分化され隋の天台智(ちぎ)は世界を10分割し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの迷いの世界と声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏の四つの悟りの世界を併せて十界とした。その十の世界にはそれぞれ十の世界があり、この百の世界にそれぞれ十の様相があるとする。十かける十かける十の千の世界にはさらに三世界があり、これで併せて三千世界という。一念三千とは一瞬で世界を観ずることである。
”往生要集”において源信は十界を詳述する。最下層の地獄は単純に苦の世界であり、餓鬼は欲張りで嫉妬深い人間すなわち餓鬼が落ちる世界である。次の畜生は獣の世界であり、ここは愚かで暗い。次の阿修羅は怒りの世界であり、戦いの世界であるという。娘を奪われた阿修羅は世界の王である帝釈天に絶望的な戦いを挑みつづける。人間の世界は不浄であるという。その次は天の世界で感覚的な喜びに満ちている。しかし喜びが大きいほど苦も大きいという。

 梅原は、”地獄の思想”の中で、「ダンテの神曲と往生要集の地獄の違いは、西洋文明と東洋文明の根本的違いに関わるため自信を持って答えられない」と言いながら、「ダンテは地獄に落ちた人間をザマーみやがれと見ているが、往生要集の地獄の苦は我々と無関係ではない」とし、この地獄を見る客観性と主体性の違いが両者の違いであるとする。思うに、梅原は、キリスト教を信じる人々(西洋人)は、信じない人々(他宗教の人々)が地獄へ落ちるのを冷ややかに見ていると言っているような気がする。

 宮沢賢治の詩集”春と修羅”の修羅は阿修羅と同じである。天台智は当時(600年ごろ)の仏教経典を整理し、華厳、阿含、方等、般若、法華の五つに分類し、最後の法華経こそが釈迦の正説だと考えた。その後、最澄も日蓮もこれを踏襲した。賢治は18歳のとき法華経、特にその中の”寿量品”を読んで感涙したという。仏は今もなお存在し、永遠の命はくりかえしくりかえしこの世に現われてくる。賢治にとって、動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命を持つ一体の宇宙であり、逆にそれぞれの個体の中に一体である宇宙(仏心)が存在するのである。これは、「山川草木悉皆成仏」と同じであり、天台智の言う「一念三千」に通じる。賢治の作品は、いかにして人間が動物をはじめとした自然の生命と親愛関係を持つかが語られている-----らしい。
賢治の童話や詩は、子供の頃から絶えず身近にあったが、結局何もわからずに読んでいたように思う。注文の多い料理店、なめとこ山の熊、よだかの星。
 「あめゆじゅ とてちてけんじゃ」賢治はきょう死んでゆく妹の頼みを聞き雪の中へ飛び出してゆく。天に旅立つ妹を見つめる賢治の目は悲しみでいっぱいなのである。賢治は悲しみに満ちた修羅を歩いている。修羅を歩く賢治は、捨身飼虎図の薩捶王子のように自己犠牲によって人々を修羅の世界から救い出し仏の世界に送り出そうとするのだが、その道は遠い。グスコーブドリは、凶作から人々を救うために火山を爆発させて死に、カムパネルラは溺れるザネリを助けるために死ぬ。賢治は、「雨ニモマケズ-----」のとおりに生きて37歳で早世した。


Fra Mauro Map

2009-01-12 11:18:57 | 
写真(Wikiより)は、1459年にベネチアの修道士Fra Mauroが作った世界地図(南が上)である。ベネチアの航海士やアラビア世界の情報をもとに作成されていて、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見する以前では最も精巧な世界地図のひとつと言われている。
この地図で特筆されることは、
1.日本は、”Isola de Cimpagu”と記されているが、1411年作成でMarco Pauloの情報を参考にしたというDe Virga World Mapの”Cipangu”のミススペルだろうとされる。
2.中国のジャンク船は、ヨーロッパやアラブの帆船が1本マストであるのに対し、3~4本マストの極めて大型船に描かれている。鄭和(1434年没)の船は全長120mを超えるとされ、これに対しコロンブスのセント・マリア号はわずか18mだったのに符合する。
3.1434年没まで大航海を行った鄭和はアフリカの東海岸までしか行っていないとされるが、1459年のFra Mauro地図で中国ジャンク船は大西洋に侵入しているので鄭和の別動隊か彼の死後中国船がケープタウンを廻り大西洋まで足を延ばしたことになる。世界史の授業で1497年にバスコ・ダ・ガマが(全長27mのサンガブリエル号で)喜望峰を廻りインド航路を発見したと習ったが、これに先立つ40年前に中国船は喜望峰を逆に回っていたのである。我々がヨーロッパ中心の世界史を教わってきたかがわかる。

Fra Mauroは月の直径80kmのクレーターに命名され、1971年にアポロ14号が着陸した。Fra Mauro Cratorは本来アポロ13号が着陸する予定だったそうだが、13号は例の事故で予定が変更になったそうだ。

月のクレーターには哲学者や天文学者の名前が付けられている。アポロ1号、ソユーズ11号、スペースシャトル(チャレンジャー)の事故で亡くなった宇宙飛行士の名も冠せられている。コロンビアで事故死した宇宙飛行士は火星のクレーターに名前を残しているそうだ。ところで、Asadaという日本人の名前のクレーターがある。江戸時代の麻田剛立(1734~1799)という医者・天文学者で、ケプラー(1571~1630)の第3法則(惑星の公転周期の2乗は、軌道の半長径の3乗に比例する)を独自に発見したという。山片蟠桃(1748~1821)は彼の弟子で地動説を唱えている。

沙弥島

2009-01-11 22:21:12 | 万葉
柿本人麻呂が訪れ石の中に死人を見て歌を詠んだ沙弥島(さみねのしま、地元では”しゃみじま”)に年末徳島へ行く途中立ち寄った。上の写真は犬養孝の”万葉の旅 下巻”にある昭和37年撮影のもの

讃岐の狭岑(さみね)の島に、石の中の死人(みまかれるひと)を視て、柿本朝臣人麻呂の作る歌

◎ 玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ
  神(かむ)柄か ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月とともに
  満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中の水門(みなと)ゆ
  船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに
  沖見れば とゐ浪立ち 辺(へ)見れば 白浪さわく
  鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 楫(かじ)引き折りて
  をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の
  荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺を
  敷栲(しきたえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に 自伏(ころふ)す君が
  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを
  玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは(2-220)

反歌二首

妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや(2-221)
沖つ波来寄る荒礒(ありそ)を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも(2-222)

今の写真

万葉の旅と同じ場所から撮ろうと手前の小山(新地山)に登ったが、犬養の写真とは異なり笹や灌木が繁茂し視界が開ける場所が見当たらなかった。

犬養はこの”さみねの島”に破格の6ページを割き、島の美しさと歌の抒情を伝えようとする。
「いま、沙弥島は好風絶佳ののどかな島だ。一本松ノ鼻では潮騒高く、ナカンダの磯では海底の玉藻の揺れもすきとおって見える。”夢のかけ橋”の実現や、坂出からの埋立てによって、この美しい風土と千古にひびく人間抒情の埋れ去る日のないことを祈らないではいられない。」と危惧している。
島の北側のナカンダの浜は上の写真のように犬養の頃と大きくは変わっていないように見える。埋立てによって坂出と陸続きとなり車ですぐ島を訪れることができ、ナカンダの浜の目の前に見える瀬戸大橋は絶景であるが、残念ながら”千古にひびく人間抒情”をもって人麻呂の歌を偲ぶには橋は余計なものであり島は開けすぎたと思う。


万葉の旅 上は坂出沖に見える沙弥島、下は島の南側の西ノ浜---埋立てによっていずれの風景も今は見ることができない。


ナカンダの浜から見た瀬戸大橋


左の地図は”万葉の旅”より、右は今(Yahoo地図)

梅原猛は”水底の歌”で九州への航路から遠く離れたこの島になぜ人麻呂は訪れたのだろうかと考える。沙弥島にある古墳はほとんどが人麻呂の時代のものであること、側面から見た島の形が前方後円墳そっくりであること、人麻呂が石中死人に同情しすぎていること、中国の沙門島という流人の島が有名であったことなどから、沙弥島は流人の島であったと推測し、人麻呂は自身の運命に重ね合わせているとするのである。



白峯陵

2009-01-04 15:24:46 | 中世
年末30日に徳島へ帰省の途中、白峯寺へ行った。崇徳院の白峯陵を見るためである。

白洲正子はその著”西行”で白峯には「思いなしか、このあたりには陰鬱な空気が立ち込めており、木にも草にも、崇徳院の”御霊”が息づいているような気配がある」と述べていたので、その気配のようなものが感じられるか知りたかった。梅原猛なら崇徳院の”御霊”ではなく”怨霊”と書くはずで、これが白洲正子の数寄であり美学なのだろう。結論から言うと、御陵に隣接する白峯寺(81番札所)は大黒さんを始め七福神の石像が脈絡なく鎮座し、お大師様の由来がスピーカーから大音声で流れるなど商業化され、霊気を霧散させているように感じた。

保元の乱に敗れ讃岐に流された崇徳院は、
「其力(そのちから)を持って、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」(保元物語)梅原猛”百人一語”
という誓願を立て、生きながらに大魔王となった。
慈円は”愚管抄”で保元の乱後、源平の戦乱が続き武士の世となったと言ったのは、「皇を取て民となし、民を皇となさん」という崇徳院の呪いのせいかもしれない(梅原猛)。

上田秋成”雨月物語”の巻1”白峯”に崇徳院が出てくる。崇徳院の死後、白峯に行った西行は御陵が高い山の上の木立がわずかにすいた所に土を盛り上げ、石を三つ重ねただけの塚であった。西行が、
「松山の浪のけしきはかわらじを、かたなく君はなりまさりけり」
と詠んで夜更けまで供養していると、「円位、円位」と西行を呼びながら崇徳院があらわれ、
「松山の浪にながれてこし船の、やがてむなしくなりにけるかな」
という歌を返した。その姿は、「真っ赤な顔、膝にまで達する乱れた長い髪、吊り上った白い目、苦しげに熱い息を吐き、柿色のすすけた着物を着て、手足の爪は伸び、さながら魔王のよう」であった。
西行は、再び
「よしや君、昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん」
と詠んで、あなたが昔天皇であったとしても隠れたあとは皆同じです。どうか昔の夢や恨みは忘れて成仏してくださいというのである。
崇徳院の怨霊のすさまじいこと。

滝沢馬琴の”椿説弓張月”にも崇徳院が登場し、源為朝は白峯で生霊、死霊になった崇徳院に会う。

明治維新の時、明治天皇は有栖川宮を大将軍とする東征軍を発令したとき、朝廷は勅使を白峯宮に遣わし、崇徳院の怨霊が朝敵に味方しないように祈願している。さらに明治天皇は、京都に白峯神宮を立て崇徳院を祀った。天皇家は明治時代まで怨霊や祟りを信じていたということであり、12月31日に行われる宮中祭祀の大祓(おおはらえ)も悪霊祓いの儀式なので天皇家では今も怨霊を信じているかもしれない。

崇徳院の崇と祟り(たたり)の字が似ているのは単なる偶然か?