備忘録として

タイトルのまま

江戸寛政期の人々

2007-02-25 13:19:42 | 江戸
江戸文化の爛熟期前期と言える寛政期、写楽の活動した1794年に焦点を当て当時の人物を拾い集めてみた。
1794年、厳しい倹約政策で寛政の改革を推し進めた松平定信は36歳であり、前年失脚し白河に戻っている。写楽周辺の人物では、写楽とされている斎藤十郎兵衛が33歳、北斎34歳、歌麿41歳、馬琴27歳、十辺舎一九29歳、山東京伝33歳、司馬江漢47歳と皆働き盛りである。これら天才たちを世に送り出した版元の蔦屋重三郎はこの年44歳で3年後の1797年に脚気で没している。この頃北斎と馬琴は重三郎の世話になってはいるものの、北斎は北斎と名乗っておらず、馬琴は八犬伝を書き始めていない。
その他の人物では、本居宣長64歳、円山応挙61歳、前野良沢71歳、杉田玄白61歳。伊能忠敬は49歳で醤油屋の主人を隠居し天文方で測量術の勉強を始めたばかりだ。古川古松軒は68歳、「発狂せるのみ」と言って高山彦九郎が46歳で自刃したのは前年である。菅江真澄は40歳ですでに故郷を出奔して10年が経ち、上杉鷹山は43歳で米沢藩の財政再建に邁進中である。大黒屋光太夫はこの年43歳で10年の抑留の後ロシアから帰ってきたのが前年のことであり、高田屋嘉兵衛は25歳と若く本格的に蝦夷地で廻船業を始めるのは翌年のことだ。泉光院38歳、良寛36歳、一茶31歳、近藤重蔵23歳、間宮林蔵19歳、平田篤胤18歳である。
松平定信失脚後も同様の倹約政策が続いたということだが、この時代が輩出した多彩な人物を並べるだけで時代の息吹が感じられる。これが文化文政期につながり幕末へと進むのだ。



江戸の旅

2007-02-18 13:18:56 | 江戸
泉光院以降、歌枕の西行と並行し江戸の旅関係の本を読んでいる。神崎宣武の”江戸の旅文化”は江戸時代に流行した伊勢参り、富士講、湯治などを紹介しており、ヘルベルト・プルチョウの”江戸の旅日記”は歌枕に関わる文学紀行ではない民俗学的な紀行文や日記を紹介したものだ。ところが両本で紹介している旅先の様子や旅の仕方がまったく異なるため、同じ江戸時代の話とは思えないほどだ。
”江戸の旅日記”にある江戸時代の伊勢参りの様子は現在の海外団体旅行に匹敵し、その規模と豪華さに驚く。富士講の仕組みは富士塚に興味を持ったときに調べたことがあったが、伊勢講、白山講、大峰講などの代参制度が庶民生活に根をはっていたことがわかる。18世紀の江戸時代には東海道中膝栗毛、東海道五十三次などの旅関係の本や浮世絵が数多く出版されていることからも、旅が庶民にとって身近なものであったことがよくわかる。
ところがプルチョウの”江戸の旅日記”は学者の目を通して各地の風俗を伝えたものであるせいか、陸奥の天保飢饉の話やアイヌの風俗、庶民の貧しい暮らしに焦点を当てており、旅が楽しいもの、庶民のものであったということはまったく感じられない。学校で習う歴史は政治的事件を中心にするため、文化史の面からの情報が少なく、江戸時代の旅に対する私の知識は、学者が記録したものに偏っていたと思われ、江戸時代が封建的で不自由な時代だったという印象を植えつけられていたのだろう。
”江戸の旅日記”の古川古松軒(1788年)と泉光院(1816年)の書く松平定信の白河領の様子がまったく異なる。泉光院は白河領では”托鉢ができない”し、日本全国に倹約を命じているのに領内には立派な旅籠に”何十人も飯盛り女(遊女)を抱えている”と批判しているのに対し、古松軒は施政が良いため天明飢饉のときでも”ひとりの餓死者も出さなかった”し、領民に”礼儀正しい態度風習が行き渡っている”とまで書き残している。古松軒の紀行文”東遊雑記”は公的文書だったので、時の為政者定信におもねっているのは明らかだ。
那須野ヶ原の殺生石には両人とも尋ねている。殺生石は”西行”で知った近衛天皇や後深草院も関わっている。今のところ民俗学より歌枕紀行のほうが面白い。

”立花登”青春手控え

2007-02-12 12:03:51 | 映画
藤沢周平の”獄医立花登手控えシリーズ”が10年以上前にテレビドラマ化されていたなんて知らなかった。今、時代劇専門チャンネルで放映されている。出てくる人間は毎回皆、業を背負っており話は暗く重いが、若い中井貴一の”登”と宮崎美子の”ちえ”が純粋・溌剌なのでバランスが取れている。獄医シリーズ、秘剣シリーズ、用心棒シリーズなどの軽めの藤沢作品は最初のシンガポール駐在中によく読んだ。30歳頃のことだ。40を過ぎてからは堅めの”漆の実のみのる国”と”一茶”を読んだのと、蝉時雨のテレビドラマ化とたそがれ清兵衛の映画化に触発されて読み返した。立花登シリーズは手元に見当たらないので、BookOffで探して読みたくなった。
”漆----”も”一茶”も江戸時代の人物を知りたいと言う中で読んだものだ。前にも書いたような気がするが北斎、馬琴、一茶の生き様は小説より面白い。北斎は改名、転居、借金、春画、作画パフォーマンスなど生き様は破天荒で、天才とはこういうものかと思えて面白い。馬琴は失明してから嫁に文字を覚えさせて口述筆記させていたことに細君が嫉妬したり北斎との喧嘩があり、一茶はたかり人生、兄夫婦からの資産横取り、50過ぎて若い嫁に耽溺などなど。政治家や思想家よりも文化人の生き方のほうが人間くさいのは当たり前か。今は白洲正子と西行に凝ってしまったので、引き続き”山家集”、”明恵上人”、”かくれ里”を購入した。西行で引用されている文献は西行の歌、西行の伝記をはじめ、最近の西行の評論や当時の歴史書、歌集などを含め60以上あるので大変だ。聖徳太子と法隆寺もまだまだ先がながい。

西行

2007-02-08 08:46:41 | 中世
白洲正子の”西行”を読んだ。
古典、和歌、能などの素養が浅いので難解な部分が多いが、それでもなお西行の生き様、折々の心情、自然や関わった人々への思いが読み取れる上、歌枕に対する紀行として読んでも面白い。白洲正子が歌枕を訪れた昭和末は、高度成長期の末期でもあり、悲しいほどのスピードで日本中から数奇が失われていった時代ではなかったかと思われ、このことに対する白洲の心情が”西行”にところどころ散りばめられているが、その批判は抑制が効いたもので、この辺は司馬遼太郎とは少し違う。司馬遼太郎は”街道をゆく”で自然破壊や無計画な開発に出会うたびに怒りを爆発させている。司馬の”街道をゆく”は数年前2年程をかけて読破したが、西行について語っていたところもあったと思うのだが、まったく憶えていない。”街道をゆく”を今一度紐解いて司馬の西行像を確認する必要がありそうだ。
ところで、白洲が西行ゆかりの地に立ち、その場の雰囲気、古歌、古人の生き様に思いを馳せることから、神秘、人間の業、怨霊やらを感じ取っていることに違和感を感じない自分は何なんだろうと思ったりする。例えば、崇徳院の非業を知る前と後で讃岐の院で感じる雰囲気はまったく違うだろうし、それが昼間と夕暮れであったとしたら、また自分自身の心の有り様によっても受ける感じが違うはずだ。修験者が大峰山で自然に同化し修行することで霊魂に関わる何かを体得することも不思議ではないように思う。このような時に響いてくる超自然的な感覚は、胡散臭いスピリチュアルと分けて考えてもいいかなと思う。のは、すでにスピリチュアルにハマり始めているということだろうか。