今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

上座・下座の基準2種

2024年03月30日 | 作法

今週の『問わず語りの神田伯山』を聴いていたら、寄席の楽屋で偉い師匠が上座に座らないので同席者たちが困ったという話があった。
ちなみに、寄席の楽屋の上座は”柱の前”とのこと。
どう困るかというと、上座が空席になるので、末端の者の座る場所がなくなるのだという。

私が教えている「小笠原流礼法」では、これは困った事象にならない。

こんな現象は昔からあって、いうなれば、一番偉い人は、席を指定されること自体が不要で、好きな場所に座っていい。
そうなると、その場所が上座になるのだ。
「座の次第は御前にてさだまるなり」(万躾方之次第)ということ。
※:小笠原総領家に伝わる最も正式な礼書の1つ。

上座・下座(じょうざ・げざ)※すなわち座席の序列には、空間の基準と人の基準の2つがある。
※:これを「かみざ・しもざ」と発音する人が芸能界とりわけ古典芸能界に散見するが、彼らが演じる舞台の上手・下手(かみて・しもて)と一緒くたになった発想だろう。「かみざ」は”神座”に通じて神聖な座という余計なニュアンスを与えてしまう。ちなみに鎌倉時代は、座上・座下と言っていた。

そして小笠原流礼法では、両者の基準が不一致の場合、人の基準を優先する。

もちろん、次席は上座の隣で、そこから遠くなる程下座になる。
すなわち、上座・下座は相対的なのだ。
これを「上座・下座の相対性理論」と言っておこうか。

ところが世間では、空間の基準(絶対性理論)しか教えられていない。
空間の基準では、例えば和室では床の間が上座ポイントで、出入り口が下座ポイントである。
ただ上座ポイント(例えば床の間)がない部屋は普通にある。
その場合どうする?
問題ない。
どの部屋にも下座ポイントである出入り口は必ずあるので(ない部屋には入れない)、下座の対角線先が上座となる。
なので、どんな部屋でも(空間の)上座・下座は瞬時に判断できる。
ということで、まずは人がいなくても決まる空間の基準をデフォルトにしてよい。

ところが、ある部屋の上座ポイントは庭がよく見えないとか、エアコンの風が当たるとかで座としてベストでない場合が発生する。
となると、人が一番座りたいと思う場所を上座(最も尊敬される人の座)とした方がよい、というのが空間ではなくの作法を考えた小笠原流礼法である。
人を優先するとはこういう柔軟な対応をするという意味だ(作法は最適性の追求)。

「座の序列は人の基準を優先する」という論理を突き詰めると、同輩同士が座る空間には上座・下座は存在しないことになる。
実際「同輩の時などは高下有るべからず」(同上)と述べている(なんと論理一貫していることか)。
多分昔から、同輩同士が上座を勧め合い遠慮し合う、無駄な時間が多かったのだろう。
小笠原流の人は、そういう空虚な儀礼を馬鹿らしいと思ったのだ
(作法の第一の敵は無作法だが、第二の敵は作法を形骸化する形式主義)。
※:形式主義でない作法とは如何なるものかについては、このカテゴリーの他の記事、例えば「作法のタブーと本質」を参照。

話を最初に戻すと、既定の上座に座らなかった師匠は、伯山氏も述べているように「謙虚でやさしい」人と言える。
礼書でも「我が有るべき座よりもさがりて居べきと思う心持肝要なり」(同上)と教えているように礼に叶っている。
逆に「高座を心懸くるは田舎の人のわざなり」(同上)という。

というわけで、小笠原流礼法の論理では、上座を遠慮する上位者がいても、他の者たちは相対性理論を適用することで困らない。
ただし、神仏の面前など、人を超越した基準で空間の座が決まる場合はその限りではない
(楽屋の柱がそれに相当するかは知らない)。