今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

高浜に瓦を見に行く

2024年03月13日 | 名古屋周辺

愛知県高浜市といえば?…、

「三州瓦」と出てきたならご名答。

愛知県は全国有数の焼き物の産地で、例えば他県の有田や益子など県内の特定地域が産地ではなく、
愛知では県内に産地が分散して、それぞれ別種の焼き物製品を製造し、
しかも全国あるいは世界的に有名で、現代の産業にも結びついている。

前回の名古屋のリタケの次に訪れるのは、細い衣浦湾を挟んで尾張知多の半田と向かい合う西三河の高浜。

ここはブランド化している”三州瓦”、すなわち三河の瓦の産地で、今や瓦のシェアが全国一となっている。

すなわちここも”物作り愛知”の一角をなす地で、観光地としては有名でないが、
物作り(製造業)の里として訪問するに値すると思った。


名鉄で知立で碧南行きに乗り換え、高浜港(みなと)で降りる。

無人駅ながら駅舎の屋根も瓦で、観光用の「鬼みち」に沿って進む(案内パンフはすでにノリタケの森で入手していた)。
まずはニコニコ鬼広場で、巨大な鬼瓦の出迎えを受ける。

普通の屋根瓦(桟瓦)は、今は機械生産だが、鬼瓦は職人による手作業で、美術品の域に達しているという。
道沿いの民家も路面も瓦の材料を使っていて、それらを眺めながら、市のやきものの里かわら美術館に達する(無料)。
※:図書館を含んだ新しい建物で、地元の案内図にはこれとは別に市の郷土博物館が載っているが、そちらは閉館して、もぬけのカラだった。
ここで瓦のそのものの歴史と種類・製法を学ぶ。
そして三州瓦の芸術的な域に達した鬼瓦なども展示されている(写真)。

産業としての三州瓦が確立したのは江戸末期で、ここの土が瓦に適していたのと、衣浦港から瓦の一大消費地である江戸に船で大量に運べたのが、三州瓦が盛んになった理由という。

そもそも江戸では将軍吉宗が防火のために屋根を瓦葺きにすることを奨励していた。
そう、瓦は、それまで民家に使われていた植物製(木の皮や茅)の屋根と違って、
防水性と耐火性に優れていて、あっという間に江戸の町に普及した。
衣浦湾対岸の半田の酢(ミツカン)が江戸で”握り寿司”を誕生させたように、
ここも江戸と船でつながっていた。

私は、地震防災の見地から瓦屋根に批判的だったが(→記事)、
より頻度の高い災害である火災や豪雨に対して瓦が優れているのは認める。

また、今の瓦葺きは、銅線で瓦を結んでいるため、
地震や強風で瓦がバラバラとめくれたり、落ちたりはしないらしい。
ショップで購入した本『三州瓦と高浜いま・むかし』には、
「瓦葺き建物は地震で倒壊しやすいという誤解」と記されている
(これについて客観的なデータがないので論評しない)

美術館奥の公園は瓦素材のオブジェに満ちていて、
その奥の観音寺には、瓦素材の8mの観音像が立っている(写真)。
境内の特定地点に立つと、この観音様と目が合うというのだが、
その地点に立つと今では繁茂した木の枝が視線を遮っている(撮影位置はそこから少しずれている)

さらに「鬼みち」を進み、寺や民家の軒先にも瓦素材の人形などが置かれているのを楽しむ。
新しい住宅も、現代風のカラフルな瓦屋根になっている。

さらに北上して、地元鎮守の春日神社の境内に入る。
神社の奥の大山緑地に瓦素材の5mのタヌキ像があり、
また園内のあちこちに瓦素材が使われていて、市民が植えた植樹の札も桟瓦が使われている。

このように高浜では瓦に対する認識を新たにし、瓦(素材)の可能性を実感した。


三河高浜駅から、名鉄線に乗って、知立(ちりゅう)で下車して、
知立市歴史民俗資料館(無料)に立ち寄り
(旧東海道の宿場だったのでその展示が中心)、
さらに地元鎮守の知立神社に参拝。
神仏混交だった江戸時代には神社には神宮寺が併設されていて、
その神宮寺の立派な多宝塔が現存している(写真)。
党内の本尊は他の寺に預けたそうだ。

知立は大きな山車が出る祭りが有名なようで(国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産)、街中を歩くと、その山車の大きな倉庫に出くわす。


そういえば、愛知には旧東海道が走っていて、その宿場だった所も結構昔の雰囲気が残っている(知立はそれほどでもないが)。
それらを訪れるのもいい。